第十七話「……おにいちゃん」
わたしは実兄の横を通り過ぎて部屋の扉を開け、外を見まわしました。隣はクロちゃんの部屋で、角部屋なので逆側は外です。
ちょうどクロちゃんもお手洗いに行ったのか、部屋から出て行ったところでした。廊下には他に誰もいません。
ヨシッ、です。
「どうしたんだい、カナカァ。そんな真剣な顔してェ」
確認を終えた後に、わたしはドアを閉めて鍵をかけました。客間は和室でしたが、客室は洋室なので鍵がついています。都合がいい、です。
「実兄、大事な話があります」
「な、なんだいカナカァ。ま、まさかお兄ちゃんとの禁断の愛に目覚めたとでも言うのかいッ!? だ、駄目だよカナカァ、君にはホウロク様がいるし、何よりも兄と妹なんて背徳的な」
全く見当違いの妄言を垂れ流している実兄に対して、わたしはリュックから取り出した瓶を突き付けてやりました。
「何も言わずにこれを飲め、です」
「こ、これは。日本酒?」
わたしが取り出したのは、以前あのパリピと飲んだ日本酒『氷雨』でした。
あのパリピはそんなことないと言っていましたが、わたしがこれを飲んで正気を取り戻したのは間違いありません。それ以外に原因が思い浮かばないからです。
「い、いやァ。カナカァのお酌は嬉しいんだけど、まだこれからも仕事あるし」
「うるせえ、飲め、です」
「むぐぐッ!?」
わたしは瓶を空けると、ごたごた言う実兄の口に突っ込みました。
無理やり飲ませるの、ダメ、絶対。これはわたしが実兄に対して行うからこそ許される行為です。良い子はマネしないように。
「どうですか、何か思い出しましたか?」
「ップハーッ!」
中身を半分ほど飲ませたところで、わたしは瓶を引っこ抜きました。
「お、思い出したって、何を? カナカァ、このお酒ものすごく美味しいんだけど、せめてゆっくり」
「た、足りなかったみたいですね。もう一度」
「んぐぐッ!?」
額に汗がにじむのを感じましたです。以前のわたしの際には、これくらい飲んだ段階で症状が出たのに。まさか、失敗したの、ですか。
いや、まだこれからの筈です。わたしだって飲んですぐではなく、少ししてからくしゃみしたんじゃないですか。わたしは一切の容赦を捨て、瓶の中身が全てなくなるまで彼に飲ませましたが。
「うぃ~、さ、流石に一気にのみゅと、まわりゅ~」
「そ、そんな、です」
実兄が軽く酔い始めただけで、何も変わりませんでしたです。
実兄も以前のわたしと同様にお酒には強い方でしたが、飲むペースが尋常じゃなかった為か、顔を赤くしていました。
「な、なにが足りなかったのですか? そうだくしゃみ、くしゃみしてください実兄っ!」
「フガッ!?」
心当たりを必死に手繰り寄せ、わたしは取り出したポケットティッシュを細くねじってこよりを作ると、実兄の鼻にぶっさします。
「はへ、はへ、ハーックションッ!」
突き刺したこよりを高速でシェイクしてやると、程なくして実兄は大きなくしゃみを放ちました。わたしは急いで、そのくしゃみの先を目で追います。
「な、ない。ない。ないないないないっ」
焦ったわたしは湿った床に座り込むと、必死になってその姿を探しました。以前わたしから飛び出したような、あの真っ赤なムカデの塊を。
「ちーん。カナカァ、本当にどうしたんだい? いきなり飲ませてきたと思ったら、今度はこよりなんてェ」
鼻をかんだ実兄が、訝し気な表情を浮かべています。床に女の子座りをしていたわたしは遂に限界を迎え、涙をこぼしました。
「じ、実兄」
「か、カナカァッ!?」
泣くだけではなく、立ち上がったわたしは実兄の胸に飛び込みましたです。彼は戸惑いながらも肩に手を置いて、受け止めてくれました。
「お、お願い、です。元に戻って、くださいです。実兄は、そんな人じゃ、なかったじゃないですか。お父さんとお母さんのこと、忘れる訳ないじゃないですか。お墓の場所だって、知らないのに」
「で、でもそれはホウロク様が」
「あんな中年にわたしを嫁がせていいんですかっ!?」
身体を離したわたしは声を張り上げましたです。実兄が目を丸くしました。
「わたしは嫌です、絶対に嫌です。だってわたし、まだ本当に誰かを好きになったことだって、ないんです。お願いです、思い出してくださいです。わたし達はあの夏の日に、変えられてしまったんです」
「か、カナカァ。何を言って」
「本当は実兄、覚えてるんじゃないんですか? だってホウロクがわたしに手出ししないようにって、あれこれ言ってたんですよね?」
思い返されるのは、結婚を伝えてきたホウロクの言葉です。奴はずっと実兄が邪魔だったと、言っていたじゃないですか。
本当に心酔しているのであれば、喜んでわたしを差し出していた筈です。
心の何処かには、変わっていない実兄がいる筈なんです。
「そ、それ、は」
「実兄、実兄。お父さんとお母さんの声を、覚えてないんですか? みんなで一緒に、ご飯食べたじゃないですか。一緒に笑ったじゃないですか。他にもほら、覚えて、ないですか?」
頭の中に思い出される光景を、必死になって実兄に伝えようとします。彼の頭の中に、わたしと同じ景色が映るように。何度も、何度も。
「うっ」
不意に、実兄が声を詰まらせました。わたしの肩に置いていた手を頭へと持っていき、目をギュッとつむっています。
「な、なんだ、これェ? お、お兄ちゃんはァ……ぼく、は。ホウロク様の、為に。い、いや。お父さんと、お母さん? ぼくは、二人を、カナカを助け、ようと」
「っ!」
来た。ひょっとしたら飲ませたお酒が、効いてきたのかもしれません。ここが正念場です、今は押すべきです。
声を上げる実兄を、わたしは抱きしめました。
「お願いです。元に戻ってください。わたしの、わたしだけの家族であってください」
わたしはもう一度、彼に抱き着きました。彼を殺す、最大の文句を放って。
「……おにいちゃん」
「ッ! あ、ああああああああああああああッ!」
懐かしいその呼び方を伝えると、彼は頭を抱えながら絶叫しました。上手くいったのかどうか、わたしには分かりません。わたしはただただ彼の身体を抱きしめて、祈っていました。
わたしのおにいちゃんが、帰ってきてくれることを。
「…………」
今までの絶叫が嘘であったかのような静寂が舞い降ります。外で風が吹いている音以外は、抱きしめているおにいちゃんの心臓の音しか聞こえませんです。
この鼓動が、彼が生きている証です。わたしのたった一人の、家族が。
「……カナカ」
少しして、実兄はゆっくりと口を開きました。
「頭がガンガン痛いし、ホウロク様を思う気持ちが、どんどん溢れてくる、けど。心の何処かでずっと、そうじゃない、って叫んでる声が聞こえるんだ。そう、だよ。僕は、カナカを、守るって、ずっと」
「そ、それって」
身体を離すと、実兄は顔を歪めていましたです。眉間にしわを寄せて、口元を引きつらせ、歯を食いしばっていて。痛みが治まらない、苦しみがずっと続いている様子が、手に取るように分かるくらいでした。
それでも彼は、笑おうとしていました。
「ありがとう、カナカ」
実兄が、わたしの頭を撫でてくれます。
「やっと、戻れた、気がする。僕が、守る筈、だったのに。守られ、ちゃったね」
やった、やったっ。実兄が、おにいちゃんが戻ってきてくれたですっ。
「そんなことないです。実兄はずっと、わたしを守ってくれてたじゃないですか」
「は、はははッ。おにいちゃんって、呼んで、くれないのかい?」
「ちゃんと戻るまで、お預けです。ちゃんと戻ってくれたら、たくさん甘えてあげるですから」
「ちゃっかり、してるなあ、カナカは。はははッ。カナカが、甘えてくれる、なら。がんばら、ないとなあ」
未だに顔を歪めっぱなしで、言葉も途切れ途切れの実兄に対して、わたしは今日の深夜に実兄の車で逃げる作戦を伝えました。
「わかった、車の鍵は、渡しておくよ。飲んだ僕は、運転できない、から、部長さんに、頼むしかない、ね」
実兄はわたしに鍵を渡してくれると、フラフラと部屋を出て行こうとしました。
「じ、実兄。もう少し、休んだ方が」
「うん。自分の部屋で、休むよ。あんまり、長居して、怪しく、思われたく、ないからね」
「わッ」
「ぬおッ!?」
彼が扉を開けた時、向こう側から声がしました。目をやってみると、部屋の前にクロちゃんと部長の姿があります。
「あっ、いや、その。大きい声が、聞こえたから、何かあったのかって、思って」
「わ、我々は叫び声を聞きつけて緊急事態かと思い、咄嗟の行動に出たまでだ。断じて野次馬根性で覗き見していた訳ではないぞッ!?」
クロちゃん、部長の順に言い訳を並べておりますが、わたしからしたら好都合です。聞かれていたのであれば、説明の手間が省けるですから。
「クロちゃん、部長。今夜、この村から逃げるです」
改めて、わたしはみんなに自分が置かれていた状況と、脱出作戦を説明しましたです。
クロちゃんと部長は信じられないといった表情でしたが、実兄が口添えしてくれたこと。そしてわたしがホウロクよりも彼女の推しであるミナト君の方がイケメンだと言い切ると、彼らは目を丸くした後にようやく信じてくれました。
これで全ての準備は整ったです。後は夕飯の乗り切った後で、すたこらさっさと逃げるだけです。
その間も、実兄はずっと、顔をしかめていました。
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