第十六話「これが生の中年の威力ですか」


 屋敷の中に入ったわたしが奥の客間に向かうと、畳張りの部屋の中に二人がいましたです。


「あっ、カナちゃん」

「日佐クン、無事だったかッ!」


 座布団の上に正座しているクロちゃんと、胡坐をかいている部長が声をかけてくれました。


「クロちゃん、部長。この度はご迷惑をおかけしまして、申し訳なかったです」


 二人の無事を確認した後、わたしは胸をなでおろしつつ頭を下げました。


「いいよカナちゃん、それくらい」

「そうだそうだ。そもそもサプライズとはいえ、いきなり式はないだろう。気が動転しても、おかしくないってことなんだよね」

「本当にありがとうございました。ところであの、田ノ上さんは一緒じゃないんですか? あと、実兄は見なかったですか?」


 十畳程度の和室の中には彼らしかいません。目を向けても掛け軸や違い棚に置かれた漆塗りの花器、部屋を覆っている障子くらいです。

 ただ何か、変な臭いがしていました。汗臭いというか腐り切った納豆の臭いというか、あまり嗅いでいたくないタイプのものです。


「迎えに来てくれたおじさんなら、準備があるからってすぐに行っちゃったよ」

「それ以降は特に誰も来なくてな。君のお兄さんの姿も見ていないよ。我々も今後どうしようかと」

「いや~、ごめんごめん。遅くなっちゃったねぇ」


 ねっとりとしたまとわりつくような声が耳に届いたその瞬間、わたしの身体が勝手にビクッと震えましたです。

 続けざまに後ろの障子が開かれる音がします。壊れたブリキの玩具のようにぎこちなく振り返ると、そこには一人のデブの中年が立っていました。


 てっぺんは地肌が見えている黒く薄い頭髪。膨れ上がる脂肪は顔と腹を内側から盛り上げており、肌は汗ばんでいます。吹き出物が出来た顔は友好的なのを示すためなのか、ニタニタといやらしい笑みを浮かべています。

 右手を挙げた時、右の肘から汗が滴り落ちました。中年特有の汗と体臭が入り混じった臭いが、鼻孔を突き刺します。先ほどから部屋に漂っていた臭いに間違いありません。


「ひ、久しぶり、です。ホウロク……様」


 顔が引きつるのを我慢できないまま、わたしは頑張って笑いかけましたです。引きつって右側しか動かなかった口元は、折れた釘の如くひん曲がっていることでしょう。


「久しぶりだねぇ、カナカちゃん。あ~、もう、いい女の子になっちゃってぇ。女子大生のいい匂いに、興奮してきちゃうよぉ。儂とただいまのハグ、しちゃう?」

「い、いえ。みんなの前ですし、やめておく、です」

「あっ、そうかそうか。そう言えば部活の子が来てくれてたんだっけ?」


 わたししか見ていなかったのか、ホウロクは心底今気が付いた様子で、後ろにいる二人に向かって笑いかけました。


「こんにちはぁ。儂がこの村の村長、稲部いなべホウロクだ。お祭りの客人ということで、精一杯もてなさせてもらうよぉ。よろしくねぇ」

「し、白木クロコです。よろしくお願いし……」

「お、岡田キスケ。よ、よろしくなん、だよね」


 写真で見て知っていた筈なのに、二人とも酷く腰が引けている様子です。これが生の中年の威力ですか。

 部長が声を詰まらせており、クロちゃんなんか声にデクレッシェンドがかかっていて、後半は何を言っているのかよく聞こえなかったです。


「うんうん、若いねぇ。クロコちゃんも可愛いじゃないか。村にはカナカちゃんしか若い子がいなかったから、若いエキスは新鮮だよぉ。良かったら君も、儂と結婚するぅ?」


 後ろ手に障子を閉めて部屋の中に入ってきたホウロクが、クロちゃんの方へと歩み寄っていきました。彼の通った道に汗が滴り、軌跡となって畳にしみこんでいきます。


「い、い、いえその。わ、ワタシには心に決めた人がいますので」

「そんなこと言わないでさぁ、君実は、結構いい身体つきしてるんじゃない? 儂の目のおっぱいスカウターで見たところ、Fと見たッ!」

「ひいッ」

「そ、それはセクハラってやつなんだよねッ!」


 ホウロクがクロちゃんの肩に手を回そうとしたところで、部長が止めに入りました。


「スキンシップはコミュニケーションにおいて、重要なコンテンツである。しかしそれは、互いに触れても構わないと思える、信頼関係の上にこそ成り立っているものなんだよね。初対面でのそれは、人によっては嫌悪感を持ってしまう危険性が高いってこと。もう少し考えてみるのはいかがだろうか?」


 あの部長が正論を言うところなんて、初めて見たかもしれないです。


「セクハラなんて大げさな。ちょっとしたジョークだよジョーク。まったく最近の若い子は、ちょっと触った程度で痴漢だセクハラだって大騒ぎしてさぁ」


 対してホウロクは、舌打ちをしそうな勢いで不満げな顔をしていましたです。

 わたしは唖然としました。こんな男を白馬の王子様として見ていた自分が、本当に信じられなくて。思い返してみれば、村にいた頃のわたしに対してもずっとこんな態度だった気がします。


「まあ君たちはお客様だしね。この辺にしておこうかなぁ、本番は明日なんだし。あっ、そうそう。君たちは今晩、この家に泊まっていってね。村にはホテルもないし、不便でしょ? ウチなら大浴場もあるよぉ」


 再びニタニタと笑い出し、名案だと言わんばかりに手をポンっと叩いているホウロクに、反省している様子が微塵も感じられませんです。

 目を丸くした二人を見て、わたしが慌てて割って入りました。


「だ、大丈夫ですっ! 二人は今日、ウチに泊まるですからっ!」

「……えっ、なんで? 客人は前夜祭もするから、儂の家に泊まらせるって決まりじゃん」


 ホウロクが笑みを消しましたです。


「そ、そうでした、けど。き、今日はわたしの独身最後の日なのです。い、いち女子としては独身お別れ会を」

「カナカちゃん」


 焦りながら声を紡ぐわたしに対して、ホウロクは一度目を閉じました。再び目を開いた時、彼はひどく低い声で語りかけてきます。


「儂の言うことが聞けないのかなぁ?」

「っ」


 真顔で言われた雰囲気もそうでしたが、何よりもホウロクの身体から何かが発せられたかのような気がしましたです。

 鼻にまとわりついてくるのはずっと漂っていた彼の体臭ではなく、酷く甘ったるい香りでした。コロンの液体を直に塗りたくられたかのような不快感を覚え、吐き気さえこみ上げてきそうなくらいです。


「え、えっと、その」

「……まさか、効いてない? これは」

「カナカァ、お兄ちゃんだよーォッ!」


 何も言えずに口ごもっていると、威勢のいい声と共に勢いよく障子が開かれましたです。


「じ、実兄っ!」


 わたしの顔が一気に輝きました。急いで振り返ると、駆け足で彼の元へと寄っていきます。


「どうして電話に出なかったんですか、何度電話したと思ってるんですか?」

「ああ~、ごめんねェ、カナカァ。お兄ちゃん実はさァ、スマホをどっかに落としちゃってさァ」

「そうですかそうですか、しかしわたしの連絡を無視したことは万死に値しますです。今から実家で取り調べするです」


 何とか実兄への話へと持っていき、このまま自然に屋敷を出ようとします。

 そのまま彼を引っ張って連れて行こうとしていたわたしでしたが、ホウロクに回り込まれてしまいました。


「待って待ってカナカちゃん。取り調べなら儂の家でしようよぉ、どうせ今日は泊まっていくんだからさぁ」

「そうだよカナカァ。お兄ちゃんも泊まっていくんだから、心配しないで」

「うっ」


 逃げられませんでした。もし今ここで多数決をとったのであれば、三対二でわたしの実家行きが勝つです。

 しかしそれは、公平な場であるという前提があればの話です。ホウロクとかいう絶対権力者がこの場で反対を出す以上、拒否権を行使された国連決議のように棄却されてしまうことでしょう。


「さあさあ皆さん、お茶の用意ができましたよ」


 さらには向こう側であるキヨおばさんが、人数分のお茶を持ってきたではありませんか。その後ろには菓子折りを持った田ノ上さんの姿もあります。ついには多数決ですら、勝てなくなってしまいました。


「まあ何もないところだけどさ、ウチでゆっくりしてってよぉ。今日は前夜祭もするからねぇ」


 ホウロクのその一言が、決定打となりましたです。部長とクロちゃんを含め、わたしはこの家から出られなくなってしまいました。

 いえ、意地でも出てやるです。お茶とお菓子で開催されてしまった談笑をなんとか乗り切った後、割り当てられたそれぞれの部屋に荷物を置きに行くことになりました。


「実兄、話があるです」


 キヨおばさんによってそれぞれの客室に案内される最中、わたしは自分の部屋に来た時に彼の服の袖を引っ張ります。

 今こそ、切り札を切る時、です。

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