第十話「ホウロク様を無下にしていい訳ないだろ」


 クロちゃんの話も聞かずにぼんやりと昔を思い出していたわたしは、気が付くと涙していましたです。


「うううううっ」

「か、カナちゃん、どうしたのッ!?」


 まだここは喫茶店の中です。狭い店内で声を上げて泣くわたしを、彼女が必死になってなだめてくれていました。


「ごめん、ごめんね。いっつも愚痴ばっかで嫌だったよね。カナちゃんが聞いてくれるからって、ワタシ、調子に乗って」

「ちが、違う、です。わた、わたし。こんな大事なこと、忘れてて、どうし、どうして今になって。お父さん、お母さん、ふえええええんっ」


 クロちゃんは全然悪くないのに、ずっと謝ってくれていました。様々な感情で頭の中がぐちゃぐちゃになったわたしは、彼女の所為じゃないと上手く伝えることができず、ただただ嗚咽を漏らすばかりでした。

 そうです。あれを飲まされてから、わたしはホウロクのことを盲目的に好きになったんです。それまで毛嫌いしていたあの中年のことが、白馬の王子様のように見えるようになって。


 どうしてか、なんて考える暇もないくらいに好意が溢れてきて。気持ち悪さにさえ、胸が高鳴って。

 わたしはあの時、変わってしまっていたんです。わたしは、元々、あんな中年オヤジを好きになるような人間なんかじゃ、なかったんです。


 頭を過ぎるのは飲まされたものに入っていた黒い粒と、いつかくしゃみで吐き出した赤いムカデのような生き物。

 あんなものが普通の人間の体内に入っている訳がありません。わたしが変わった原因は、火を見るよりも明らかです。


 やはりあれは、飲んじゃいけないものでした。

 お父さん、お母さん。忘れていて、ごめんなさい。お墓も参らなくて、ごめんなさい。


 わたしは、実兄は。


「っ!?」

「か、カナちゃん?」


 涙で腫れた瞳を見開いて、背筋を伸ばして。身体に電流が走ったかのように、わたしは立ち上がりましたです。

 クロちゃんがびっくりしていましたが、それどころではありません。


「実兄……」


 声にしたことで、頭の中でよりはっきりとイメージを固めることができました。

 飲んだのはわたしだけじゃない、実兄もです。


 つまり、実兄もあの時に変わってしまったのではないでしょうか。

 思えばあの日以降、実兄の口からも両親の話は出てきていません。


 おまけにホウロクに対して良くない感情を持っていた筈の実兄が、わたしとホウロクの結婚について、諸手を挙げて喜ぶようになったのです。

 これが変わってなくて、変えられてなくてなんだっていうのでしょうか。


「実兄、実兄っ!」


 慌ててわたしはスマホを取り出すと、チャットアプリから実兄に電話をかけました。


『もしもしカナカァ、お兄ちゃんだよー。カナカから電話してきてくれるなんて、お兄ちゃん感激ッ! もうこれだけで二日は生きていけそう』

「実兄、今すぐにこっちに来てください。話したいことがあるです」


 嬉しそうな実兄を遮って、わたしは要件を伝えました。


『行く行くッ! カナカァのお願いなら、お兄ちゃんはすぐにでも飛んでいくよッ! ……といきたいところなんだけど、ごめんねェ。この前のヤクザの件がさァ、また面倒なことになっててさァ。そうそうッ! それでさ、週末の祭りまでにケリをつけようとすると、迎えに行くのがちょっと厳しそうなんだよねェ。だから他の人に』

「迎えは要りません。後でいいです、深夜になってもいいです。とにかく、早く会いたいんです」

『ああん、カナカァからこんなお願いされちゃうなんて、お兄ちゃんイっちゃいそうッ! なんだけど。ホウロク様からも色々頼まれててさァ。流石に無下にはできないんだァ』


 分かるでしょ、と言わんばかりの実兄の調子でした。

 今までのわたしであれば引き下がっていたのかもしれませんが、そういう訳にはいきませんです。


「無下にしていいです、あんな中年なんか放っておいてくださいです。とにかく早く会いたいんですっ!」

『どうしたんだい、カナカァ。そんなこと言って』


 すると突然、実兄の声の調子が変わりましたです。先ほどまでの軽い調子が消え失せて、聞いたこともない低い声が返ってきます。


『ホウロク様を無下にしていい訳ないだろ』

「っ!?」


 実兄の言葉に、わたしは息を呑みました。怒っているということが、声だけで分かったからです。


『……まあ可愛い妹だし、聞かなかったことにしてあげるよ。ホウロク様もお忙しいし、変なこと言ってご機嫌を損ねたくないからねェ』

「じ、実兄。あの、その。一つだけ、聞かせてください、です」


 怒られるなんて初めてだったわたしは、恐る恐る、声をかけます。


「お父さんとお母さんのこと、覚えていますです、か?」

『何を言ってるんだい、カナカァ』


 声の調子を戻した実兄は、事もなげに言いました。


『死んだ両親のことなんか忘れろって、ホウロク様が言ってたじゃないかァ』

「っ!」


 実兄の言葉が鼓膜を震わせ、頭で理解した時。わたしはへなへなと力なく、椅子に座り込んでしまいました。


「そう、でした、ね。ホウロク……様が、そう、言って、ました、です」

『そうそう。ホウロク様の言いつけは、ちゃんと守ってないとねェ。カナカァも彼のお嫁さんになるんだから、その辺をきちんとしておかないと駄目だよォ?』

「そう、でした。わたし、彼の、お嫁さんに、なるんでし、た」

『実の兄としては、あんな素晴らしい方がカナカァをもらってくれるなんて、本当に光栄だよォ。二人の子どもは、絶対可愛いに決まってる。お兄ちゃんも育児から手伝うつもりだから、大船に乗ったつもりでいてねェ』

「あり、がとう、です。実兄」

『じゃ、仕事があるからそろそろ切るねェ。週末に会えるの、楽しみにしてるゥッ!』


 言い終えた後、実兄は電話を切りました。

 わたしは電話が終わった後も、ずっと、ずっとスマホを耳に当てたままでした。


「違う、違うです。実兄は、あんなんじゃ、なかった筈です。電話なんかじゃ、駄目です。ちゃんと会って、話さないと。このままじゃ、実兄が」


 実兄はわたしに残された最後の肉親です。ウザいけど、監視までされてたけど。いつもわたしのことを心配してくれていた、たった一人の兄なのです。

 彼が何かされていて、それを知っていて、黙っていることなんてわたしにはできません。


「か、カナちゃん、本当にどうしたの? 具合でも、悪いの? 病院とか、行く?」


 なんとかしなくちゃ。そう思ったわたしに、おずおずとクロちゃんが話しかけてきましたです。

 電話が終わるまで待っていてくれたんですね。心配までしてくれて、本当に良い友達です。わたしなんかには、もったいないかもしれません。


「っ! く、クロちゃんっ!」


 スマホをしまって大丈夫だよと返そうとした時に、私はもう一つの事実に気が付いてしまいましたです。今週末の、百葦祭(ももよしさい)。わたしはクロちゃんと部長を、地元に連れて行こうとしていたのではありませんか。

 人を洗脳か何かしている、得体の知れない故郷に、この二人を。


「今週末の合宿は、中止するですっ!」

「えっ、えええッ!?」


 そんなことはさせませんです。決意を新たにする為にも、わたしは声を張りました。クロちゃんの仰天の声と共にお店中に響き渡り、お客と店員が目を丸くしています。

 驚く一同を意に介さないまま、わたしは再びスマホを取り出して、急いで通販サイトで検索をかけました。


 頭の中にあったのは、前夜祭にパリピが乗り込んできたあの日のことでした。

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