第2話
今日はあいにくの雨。雨の日は皆の機嫌が些か悪いように見える。
だからこうして八つ当たりのようなに何かを頼まれる。いや、これは毎日か。
手にあるのは、柚木君の感想シート。
昨日氷川先生直々にお電話があったそうで、「朝練前に提出しろ」と言われたそうだ。だから彼がサッカー部かどうかを確認したのか、と話を聞きながら妙に納得すると何故か怒られた。「なるほどね、だからあの時」と口にしたのがいけなかったらしい。
彼の手には感想シート。あぁ、読めてきた。と思った瞬間、寝坊して忘れて、朝練後もそのことを忘れて、今の四時間目まで過ごしてしまったっと早口で俺に言い、感想シートを渡してどこかへ行ってしまった。
昨日からなんとなく読めていた展開の通りになってしまって苦笑して、俺は昼飯も食わずに職員室へ向かった。
という流れで、シートを手に職員室へ入ったのだが。・・・どうも、空気がおかしい。
お昼の職員室というのは、生徒が少なからずどこかにいて、まばらにいる先生たちもお互い何かを話している和気藹々な雰囲気を醸し出しているはず。だというのに、今日の職員室には生徒の姿はなく、まばらにいる先生たちは互いに話しているが、ひそひそと。空気も心なしかピリピリと。
あまりにもいづらくて早々に廊下側の奥の机にいる氷川先生の元へ急ぐ。その途中で、この職員室に自分以外の生徒を発見した。先生たちの身体でよく見えなかったみたいで、女子生徒のようだ。
俺はそれを横目で見ながら、氷川先生の横に立った。何か紙に書いている。大きな弁当はその横に置かれていた。
「お取込み中すいません。」
氷川先生がこちらを見て、身体を向けて――やはり赤いTシャツに、白い文字で獅子奮迅と書かれている――俺の感想シートを持つ手に視線を向けた。そしてまた俺に視線を戻す。
「なるほど。またか」
「すいません。柚木君はどうしても手が外せないと言っていて」
先生の言葉を聞かなかったことにして、シートを先生の前に出した。
先生の眉間に皺が余計に寄って、俺は心の中で身構える。これは先生の言葉通り、一回目ではない。柚木君ではないが、他の人のやつを持ってきたことがある。その時の氷川先生は、苗字の通りに氷のように凍えた川の如く、怒った。その時の職員室の気温が何度か下がって、他の先生たちにも被害があったことに俺は驚いた。
だが先生は俺の予想に反して、眉間に皺を寄せたまま目を閉じ黒い髪をガシガシと掻きながらシートを受け取った。
その様子に一瞬動きを止めた。
「まったく、一時的な恐怖を今日で済ませられるのに、分からない奴だ。すまんな、昨日といい、今日といい。」
そう言って謝る先生に動きを再開した俺は「いえいえ、別に何とも」と内心慌てながら言い返した。
先生は机に向き直りながら、「早く飯を食いに戻れ」と言った。そんな先生は横にある弁当には手を出さない。それを不思議に思って声を掛けた。
「先生は食べないんですか?お弁当」
「・・・あぁ。」
少し、間を置いて頷く先生がふと向けた視線を辿ると、窓側に沿った列に配分された机の前立つ女子生徒がいた。
女子生徒の前に座っている先生は、荒田先生だ。次の時間、俺のクラスを担当している歴史の先生だ。荒田先生のここからでも分かる嫌そうな横顔が見え、女子生徒の横顔は俯いていてよく分からない。薄水色の透き通るような長い髪が上過ぎず、下過ぎない中間のあたりで結ばれていて、前髪も同じ長さなのかそれが俯く彼女の横顔を見えなくしている要因だ。
「何か、したんですか?あの子」
視線を彼女に向けたまま問いかければ先生は苦々しそうに「いや」と言った。
「遅刻だ。」
「・・・俺は遅刻したことないんで知りませんでしたが、遅刻はしない方がいいですね」
遅刻するとあんな顔をされるのなら、絶対にしない。今日までしたことがないのだが。
先生はふっと小さく笑った。その声が聞こえて先生を見ると腕を組んで俺を見上げていた。
「そうだな、遅刻は基本良くないことだ。しない方が賢明だな。」
気のせいかもしれないが、眉間の皺が少し、緩んだように見えた。
「でも、あそこまで嫌そうな顔しなくても良いんじゃないですかね。あれは傷つく。見た感じ、あの子真面目そうなのに」
素直にそう言って、しまった、と先生の反応を伺った。
遅刻はいけないことだし、怒るのは仕方がないことだ。これは、怒られる。そう思っていると、先生はまたもや予想に反したことを言った。
「あぁ、あの子は真面目な子だ・・・」
先生は視線を女子生徒に向け、横目で俺を見た。
「緑川は、あの子を知らないのか」
「え、有名な子なんですか?」
俺の言葉に先生は「いや、・・・そうか」と顔を下に向ける。俺は再度彼女に視線を向けた。やっぱり顔は見えなかったけれど、申し訳なさそうに肩を窄めている。荒田先生は何か言っているけど、遠いからなのかよく聞き取れない。
そこまでにしてあげればいいのに、反省しているじゃないか。
心の中で色々荒田先生に言っていると、先生が顔を上げ「緑川」と呼んだ。それにどもりながら答えると、先生はいつもの顔に戻っていた。
「次、確か荒田先生だったな?今から声かけて次の授業の準備がないかを聞け。」
「は?なんで知って、ていうか、え、ちょっ、あんな雰囲気のところにですか!?」
「そうだ。これ以上この雰囲気のままでは全員困る。今、お前はこの職員室の救世主になるんだ――このままではうまい飯も味がしない」
絶対後半が本音だろう。けれど口にはせず、俺は「わかりました」と答えて、荒田先生の元へ向かった。まぁ、それであの女子生徒が助かれば良いのだが。
彼女の後姿を見ながら近寄る。とても小さくて、少し、震えている?確かか分からないけれど、泣きそうになっているのかもしれない。
彼女の後ろに辿りつく。荒田先生が俺に気付き顔を上げた。
「お取込み中すいません。あの、次の授業の準備はありますか?」
その言葉に、あぁと頷き机に置いてある積み重なったプリントを指さし「これを運んでほしい」と頼んだ。俺が「わかりました」と答えて彼女横を通り過ぎる。
「もういい、次からは遅刻するなよ真田」
「・・・はい、すみませんでした」
小さな声で謝罪を述べ、頭をぺこりと下げて早々に職員室を出て行った彼女を追うように、俺もプリントを手に持って首だけお辞儀して歩き出した。
職員室を出る際、氷川先生に視線を向けると、親指を立ててこちらを見ていた。少しだけ腹が立った。
廊下に出ると、とぼとぼ歩く彼女を見つけた。生徒が多い中、あの綺麗な髪が揺れているのが目立っている。俺は早歩きで彼女に近づいていると、転んだ。
誰が、彼女が。そりゃあもう豪快に。
他の生徒は「うわ」とか驚いてみているだけで助けようとしない。
まったく女の子には優しくしないと。と内心怒りつつ、さっきの動作を再開して彼女の側でしゃがみ込んだ。
「なあ、大丈夫?」
声を掛けると、埋めていた顔を少し上げる。でもやはり長い髪が邪魔でうまく顔が見えない。
「・・・!」
俺の存在に気付いたのか、すぐに起き上った。
そこで初めて俺は彼女の顔を見た。
死んでいるかと錯覚してしまう程の白い肌で、少し吊り上った潤んだ茶色の片目に前髪掛かっていた。しかし、頬だけは、少し朱に染まっている。転んだ羞恥からだろう。
正直、可愛い部類に入る少女だ。
「えぇと、大丈夫?」
もう一度問うと、彼女は勢いよく何度も頷いた。そこまで頷かなくてもいいのにな。
「す、すみません。あの、だ、大丈夫です」
そう言いながら慌てて立ち上がる彼女に「そう、良かった」と答えて俺も立ち上がる。
「ありがとうございます」
「いやいや、別に良いよ。ねぇ、それより、大丈夫だった?」
「え?」
「ほら職員室で」
「あ、あぁ!」
慌てながら驚いて、また頬を赤らめて「はい、大丈夫です」と呟いた。
「その」
「ん?」
「あ、ありがとうございました。」
頭を下げながら言うそのお礼に先ほどのことを思い浮かべながら「あれは別の先生の依頼さ」と言う。それに首を傾げる彼女に氷川先生のことを説明する。すると納得したのか、申し訳なさそうに縮こまり、「すみません」と謝ってきた。
「君が謝ることじゃないよ。君はあんなに反省の色を見せていたのに、あんな顔をする荒田先生が悪いんだ。いや、まぁ、遅刻はいけないことだけどね。それでもあそこまでする必要ないよね、先生も」
慌てて早口で言うと、彼女は困ったように眉を八の字にした。
「いえ、あれは私のせいです。本当にごめんなさい」
首を振ってまた頭を下げる彼女に俺は焦って「頭上げてー」と言う。何回目かのその言葉で彼女は頭を上げる。やはり、見える片目は潤んだままだ。
二人で廊下を歩き出す。彼女は一年で、俺は二年。教室は三階と四階。同じ道だから、一緒に歩いたって別に不思議ではない。
「あのさ、あれは君のせいじゃないよ。一年生だから、あそこまで厳しくなるのかもしれないし」
「・・・」
「まぁ、俺は遅刻したことがないから説得力もないけどさ」
「・・・私」
彼女が喋りだした。俺は喋るのを止めて彼女の声を拾おうと耳を傾ける。
「嫌われているんです、みんなから。だから、あんな雰囲気になってしまうんです」
階段に差し掛かったところだった。
「そ、そんなこと」
「分かるんです」
俺の言葉を遮って言う彼女は階段を昇り続けた。俺は止まりそうになった足を動かす。
「・・・」
俺も彼女も黙って階段を昇る。二階から三階に上がるだけだから、すぐに別れは来た。
彼女は俺にまた頭を下げた。
「ありがとうございました。」
そう言って、去ろうとする彼女を「ねぇ」と呼び止めた。彼女は律儀にこちらを向いてくれた。それが少し、嬉しかった。
「君は、みんなに嫌われているって言っていたけど、僕は好きだよ、君のこと。」
「へ?」
彼女の白い肌が一瞬で赤くなった。あ、やばい。言うことを間違えた。
「えっと、その、今こうして喋っていて嫌うようなところはどこにもないよって意味で。その、あの、気に病むことはないんだ。うん、そう、えっと、そうじゃなくて」
しどろもどろになって、考えていなかった言葉を捻り出そうと必死になっていれば、クスリと笑う声が聞こえた。
視線を向けると、彼女が初めて笑っている。その笑顔に、今の自分が余計に恥ずかしくなって顔に熱が集まる。
「――ありがとうございます。先輩。」
彼女の気遣いにまた恥ずかしくなる。けれど、嬉しそうに笑う彼女はとても、なんというか、うん、綺麗だった。
「それじゃあ」
そう言うもんだから。
「あぁ、またね。真田さん?」
と、返せば、彼女はまた笑って、
「はいっ、先輩」
と返してくれた。
階段を走るように昇る彼女、真田さんの後姿をなくなっても見つめ続けていると、後ろから重みが掛かり、プリントが落ちそうになり慌ててバランスを取る。重みの原因を知ろうと首を動かすと、すぐ近くに端正な顔に赤い目があった。心なしか、不機嫌のような気がしなくもない。震える口で、その人の名を呼んだ。
「・・・ディ、ディオナ、せ、先輩」
「私は知らなかったぞ。お前はお昼休みを使って女を口説いていたなんて。」
「え、いや、口説いてなんかっ」
否定の言葉を言う前に横に向いている顔をがっちり両手で捕まれさっきよりも顔を近づけられた。鼻と鼻が当たってしまうぐらいの近さに、自然と顔に熱が集中する。
「近くにこの私がいるにも関わらず、他の女を口説くとは、目が腐っているとしか思えない。そうだ、目を洗浄すれば、まだ間に合うかもしれないな」
「すいませんごめんなさい止めてください」
必死に赤い目を見て謝れば、「ふん」と言って顔を放してくれた。何が「ふん」なんですか?どうして怒られなくちゃいけないのだろうか。そしてどうして彼女は不機嫌なのだろうか。
先輩は腕を組み、真田さんが昇って行った階段を睨みつけるように見た。
「しかも、よりにもよってあの女か。――地に堕ちたな、美乃留!」
「どうしてそこまで言われなくちゃいけないんですか!」
そこで気付く。
「って、先輩も真田さんを知っているんですか?」
氷川先生も彼女を知っているような言い方をしていた。やはり、有名な子なのだろうか。
先輩は五㎝も身長が低いのに、俺を見下ろしたような威圧感を俺に向けた。
「ほう、知らない。さすが美乃留だ」
「なんで、さすが、なんですか」
「お人好しの耳には困ったやつの言葉しか聞こえていないのだろうな。その面倒な耳を少しでも学校の噂に傾けてみろ。」
先輩は困惑している俺の様子に、わざとらしく溜息を漏らした。
「そのお人好しな耳に刻み付けろよ。――あの女は嫌われ(、、、)者(、)だ」
真田さんの階段のところで聞いた言葉が俺の頭で繰り返される。彼女も、自分で言っていた。自分が嫌われ者だと。
「・・・なんで」
疑問を口にすると、先輩は答えてくれた。けれど、完全な答えではなく、曖昧とした答えだ。
「人は自分を正当化させる為に悪を作りたくなるものだ。この場合は、それがあの女に集中した、というわけだ」
「そんなことがあるはずないでしょう」
「だが、実際そうなんだ。お前、あの女が転んでいるのに、誰も声を掛けなかったのを見ただろう?それにその前の職員室の状態だって見たはずだ」
「なんでそんなこと知って・・」
そうだ。彼女が転んだ時、「うわ」と驚いているだけで。誰も、声なんて、掛けなかった。いや、ただの偶然に過ぎない。声を掛けられない人もいることを俺は知っている。けれど、じゃあ、職員室のあの空気は。いつもいるはずの生徒は皆、彼女を避けて出て行ったのか。先生たちがひそひそと話していたのは、彼女のこと?
「・・・」
「心当たりがあるだろ?」
氷川先生が彼女を見てあんな様子になったのは?荒田先生が、あんな嫌な顔をしたのが、遅刻だけが原因じゃないとしたら?
ここでようやく俺は真田さんが言った言葉の意味を知った。
「ふん、遅すぎだぞ。このお人好しが。」
先輩はそう言って俺の額にでこぴんをした。
痛かったが、両手が塞がっている為なにもできなかった。
「あいつとは関わりを持たない方がいいぞ。いいか、先輩のありがたい忠告だ。」
「――でも」
「でも、じゃないお人好し。お前のためだ。敵は作ることになるぞ」
そう言って先輩は、階段を下りて行った。
俺は、その場で、荒田先生に声を掛けられるまで立ち止っていた。
今日も今日とて、掃除と日誌を任せられて、やはり帰りは遅くなってしまった。別にそれが嫌と言うわけではないが、四日連続はさすがにやばいのではないだろうか。まぁ、日直が四日連続俺の友人だったから仕方がないといえば仕方がない。
黒い傘を差し、昇降口を出る。
ふと、昨日ディオナ先輩がいたベンチを何気なく見れば、そこには誰もいなくて、それに少し残念な気持ちが湧きあがる。
先輩は、優しい人だ。
こんなドが付くお人好しを構ってくれるのだから。
先輩との出会いは、どのようなものだったか。一年前の事なのに、ひどく曖昧にしか映像が浮かび上がってこないから、自分の記憶能力を疑ってしまう。
確か、同じ学校の先輩に絡まれたのを助けてもらったんだったっけ?
あの時、俺は確か理不尽な理由で殴られた。理由は今でも知らないが、そんな時、不良の先輩が急に倒れ込んで、代わりに立っていたのが冷たい赤い目を俺に向けたディオナ先輩だった。
あれ、結構覚えているものじゃないか。
少しだけ自分の記憶能力を褒めていると、視界に映ったものに気を取られた。
思い出すことをしていたら、いつの間にか学校の敷地内を出て、ずいぶんと通学路を進んでいた。
屋根も何もないそんな場所に学生服を着て鞄を抱え込むように蹲る少女。だが、多く歩く人々は誰も彼女に声を掛けない。水色の濡れた長い髪、細い肩、そしてこの光景。
俺は驚くほどのデジャヴに足が勝手に動いた。そして、しゃがんで声を掛ける。あの時と同じように。けれど今度はあの時よりも焦りながら。
「おい、大丈夫か!?なぁっ、真田さん!」
彼女の細い肩に触れれば、雨に濡れて当たり前だが冷たい。それはつまり、彼女の身体全てがそうであり、血の気が引くような気がした。
びくりと肩を揺らして恐る恐る埋めていた顔を上げる真田さんの顔色は白く、今度は頬に赤さがなかった。
「・・・せ、んぱい?」
そう震えた声で言う真田さんの姿に、胸が苦しくなって顔が険しくなってしまうのがよく分かった。
真田さんはそれが分かったのか、またびくりと肩を揺らした。
「あ、あの」
また震える声で何かを言おうとする真田さんの言葉を俺は遮った。
「どうして傘を差さずにいるんだ」
もっと言いたいことはあったけど、上手く言葉にできず、こんな事を聞いてしまった。具合が悪いのか、何かあったのか、いろんな言葉が頭で混ざり合う。しかし、そんな馬鹿みたいな俺の質問に彼女は茶色の片目を泳がせた。
「・・・あ、あの、なくしてしまって」
そんな嘘に、先輩の言葉が蘇る。
嫌われ者。
あぁ、どうして、彼女がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
彼女が何をしたんだ。こんな小さな体で雨に濡れて震える彼女が、一体。先輩の意味の分からない理由が頭の中で繰り返され、苛立ちが募った。
「す、すいません。あの、」
口ごもりながら真田さんは立ち上がった。しかし、ふらりと倒れそうになり俺は立ち上がり彼女を支えた。その時、濡れた彼女の身体に触れ、冷たさを感じ、顔が引きつる。
「あ、あ、あ。す、すいません!」
その事に気付いて泣きそうになりながら俺から離れようと動く彼女を支えた手で制した。上手く力が入らないのか、抵抗があまり感じられない。だが、彼女の口はせわしなく動く。しかし、声は出ず、ぱくぱくと白い空気を吐き出しているだけだ。たまに洩れる声は謝罪の言葉ばかり。
『お前の謝罪は聞き飽きた』
先輩の気持ちがよく分かりました。
そんなことを思い出しながら、ずぶ濡れの彼女を何とかしたくて、彼女の顔を覗き込んだ。
「真田さん、家は近く?」
彼女は首を小さく振る。
「そう」
俺は、頭に浮かぶ考えを消去しようとしたが、他に方法も見つからず、それを採用した。
「じゃあ、俺の家に来てよ。近くなんだ。このままじゃお互い風邪を引くから」
俺の採用した考えを口にした途端彼女は暴れ出した。もちろん、あまり俺には効かないが。
「だ、だめです!そんなご迷惑をお掛けするわけにいかないっ、ですっ」
震えた声で喋らないで欲しかった。胸が苦しくて痛い。顔が引きつっていく。あぁ、引きつってばっかだ。彼女を、怖がらしてばかりだ。
案の定、真田さんは肩を揺らして動きを止めた。
「あぁ、ごめんね。怖がらせたいわけじゃないんだ。ごめんね。でも、頼むよ。君をこのまま放って置くなんてできない。今日会ったばかりの男は信用できないと思うけど、何もしない。神に誓って、いや、違うな。君に誓って。絶対、しないから。――家には兄もいるんだ。いい人なんだ。明るくて、優しい。だからってわけじゃないけど・・。ねぇ、家に来てほしい。」
早口で言った言葉に真田さんは片目を細め、俺から視線を外した。けれど、俺に視線を戻し、ギュッと唇を噛みしめたのが見えた。そしてその小さな口を開く。
「・・・・・お、願い、します」
小さな声だが、俺には聞こえて。鞄を、傘を持つ手の方に移し、彼女を支えていた手を、彼女の鞄を持っていない方の手に触れて握った。
「じゃあ、少し走るよ」
そう言えば、小さく頷く真田さんに俺はようやく笑った。
★★
家に帰ると、翠兄さんが出迎えてくれた。走ったし、真田さんとの接触で濡れた俺を見て、目を大きく見開きながら驚き「な、何で!?」と近寄って来て、そして俺の後ろにいるずぶ濡れの真田さんを見つけて、今度は口を開き「はぁ!?」というリアクションを取ってくれた。我が兄ながら、良いリアクションを取ってくれる。
手短に事情を話すと、何故か呆れた顔をされ溜息も吐かれた。すぐさま、真田さんをお風呂に案内し、俺にタオルを手渡してくれた。
「お前は俺をヒヤヒヤさせる天才か?」
「ごめんって」
「しかも女の子連れ」
「嫌な言い方しないでよ」
「はぁ。お人好しにも程があるだろ、これはさすがに」
「・・・」
着替えを終了させて、髪を拭きながら部屋を出た途端に、こんな会話を交わし、自覚があるのだから、そこは突かないでほしいが本当の事なので何も言い返さなかった。
テーブルの椅子に座り込み「放って置けなかったんだよ」と呟けば、また溜息を吐かれた。
ぐつぐつという音が鍋から聞こえ、夕飯を作っていたのかと台所に立つ兄さんを見た。兄さんは流しに寄りかかりながらこちらを見ていて、少し伸びきった緑色の前髪を掻き上げる。
「まぁ、お前らしいっちゃらしいが。」
妙に納得された。
シャワーの音が聞こえる。その音を聞いて自然と音の聞こえる方に視線を向けた。
兄さんが俺を見ている。その視線に何の意味が込められているのか分からないけど、俺は敢えてその視線を無視した。翠兄さんは心配症だ。主に俺の性格に関して、心配している。自分でも自覚はしている。けれど、放って置けなかった。
震える彼女を見つけて、声を掛けずにはいられなかった。
先輩の忠告を、無視してしまったな。
「俺はさ」
兄さんの呟きに、俺は視線を戻した。夕飯の支度に戻った兄の後姿。
「その人の良さが、お前をいつか苦しませるんじゃないかと心配なんだ」
その言葉に意味がもし含まれていたのならば、きっと――。
俺は写真立てに視線を向けた。
相変わらず、対照的な二人の写真を見つめて、重い溜息を吐きざるおえなかった。
「あの」
その遠慮がちな声に兄さんと俺が視線を向けると、見慣れない女性ものの服を着た真田さんがおどおどした様子で立っていた。
「あの、お洋服を貸していただいて、あ、ありがとうございます。それにシャワーも」
「気にしないでくれ。でもよかった、サイズが合っていたようで。俺たちの家にはそれぐらいしか女性もの服がなかったから」
鎖骨がよく見える桃色の長そでに、濃い茶色と薄い茶色のチェックのロングスカート。首には細い紐のペンダントのようなものを掛けていた。それを着こんだ真田さんはとても恥ずかしそうで、しかも鎖骨の露出部分を気にしている。
露出をするような服を好まそうにないからな。
俺は満足そうに笑う兄さんに視線を向けぬまま思ったことを口にしてみた。
「翠兄さんの趣味?」
「バカを言うな!いや、買ったのは俺だけれどもっ」
どっちだよ、という突っ込みは心の中でして、おどおどその場を動かない真田さんに立ち上がって笑いかける。上手くできているだろうか。
真田さんが俺を見上げる。その目は、恐怖に染まっておらずほっと安堵する。
「ねぇ、良かったらご飯も食べてってよ。いいよね、兄さん」
「あ、あぁ。かまわない」
兄さんが慌てて頷くのを見て、真田さんを見る。真田さんはフルフルと首を振る。
「いいえ、もう、その、充分です。もう、これ以上ご迷惑をお掛けするわけには」
いかない。言外でそう言っている彼女を見て、その水色の髪を撫でた。自分より身長が低いから、やっぱり撫でやすかった。
彼女は驚いて顔を上げる。
「俺が、そうしたいんだ。――なぁ、俺のわがままに付き合ってくれないか?」
頭をフル回転させて出てきた言葉に、彼女は泣きそうな顔をした。それに慌てたのは俺だけじゃなく、兄さんも慌てていた。
それに真田さんは「ごめんなさい」と謝りながら顔を両手で覆った。肩を震わせて、何度も謝りながら嗚咽をも漏らしていた。
俺と兄さんはお互い顔を見合わせて、どうするべきか悩んだ。けれどすぐに俺は震える彼女の肩を両手で触れた。彼女は顔を上げない。屈んで彼女の目線に合わせる。
「謝らないで、頼むから」
「っ・・・、うっ」
「ねぇ、真田さん。一緒にご飯、食べよう。ね?」
「・・っ、う、うぅぅ。」
嗚咽を漏らしつつ、彼女は小さく頷く。それにもう一度頭を撫でた。
泣く理由なんて分からない。それが少し心残りだけれど、一緒にご飯を食べてくれることを承知してくれたことに嬉しく思った。
――ご飯を食べる事を両親に連絡を入れないと、と兄さんが言うと、真田さんは首を振って「大丈夫です」と答えた。
「一人暮らしなの?」
そう聞けば、彼女はまた首を振った。
「いいえ。両親は随分前に亡くなったんです」
視線を泳がせそう言う彼女に、俺も兄さんもその場で固まった。すぐに復活したのは翠兄さんだった。
「じゃあ、尚更一緒に食べないと。みんなで食べると楽しいし、料理もいっそう美味くなる。」
兄さんは笑いながらそう言い、夕飯の支度に移った。
俺は兄さんの言葉に動きだし、兄さんの背中を見つめる真田さんを見る。彼女は少し、意外だったのかもしれない。兄さんの反応が。
俺は真田さんの手を握る。驚いて俺を見る真田さんを無視して、写真立てのところまで連れて行く。
無表情の父、笑顔の母。その隣には花瓶に入った一輪の花。
彼女は首を傾げる。
「俺の両親。俺がちっさい頃に死んだんだ。」
そう言って、真田さんの手を放す。
「あんまり覚えてないけどね」
そう付け足し彼女を見た。じっと写真を見つめる彼女に俺は苦笑する。
別に同情させたいわけじゃない。仲間意識を持たせたいわけじゃない。ただ、一人じゃないってことを、知ってもらいたかった。悲しみを一人で抱え込まないで欲しかった。勝手に人の領内を荒らしまわすのは良くないって分かっているけど、それでも、やっぱり、彼女には分かってもらいたかった。
一人で、ああして泣かないで欲しかった。
「きっと、きっと良いご両親だったんですね」
そう言った彼女の言葉に、少しだけ顔が引きつった。
「・・・そうかな」
信じられないように俺は呟くと、彼女は薄く笑う。
「はい。どうしてでしょうか、そんな気がしてならないのです」
その言葉は妙に説得力があって、現実味があって、俺は一瞬、自分とこの写真に写る両親が並んだ姿が頭によぎった。
兄さんに何度も話を聞いても、どこか他人事で、この二人が生きていたら、なんて想像したこともなくて。けれど、真田さんが言った途端に、この二人が生きていたらなんて、考えてしまった。何の根拠もない言葉。ただの“そんな気”なのに。少し熱くなる目をごまかすように視線をずらした。
「そうだといいね」なんて、思ってもいない、しかし、どこかで思っていたのかもしれない答えを返した。
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