第1話

夕暮れ時、教室の窓から見る光景は良い。偶に日誌を書く手を止めて、夕日が下がっていく様を見る。こうしていると、この仕事をして良かったなんて幸せに浸れた。

 冬になり、太陽が落ちる速度は速まり、部活は早々に切り上げる。校庭には後片付けをしている生徒が見えた。

 俺も日誌に一日の感想に、今日も何事もなく平和な日々であった。と遠回しで書いた。昨日も一昨日もそのような感じで書いたので、同じような文章は避けるべきだ。

 パタンと日誌を閉じて、仕事を終了する。

 日誌と鞄と教室の鍵を持ち、教室を出る。鍵を掛けて、橙色が窓によって照らされた廊下を歩く。

 生徒が誰もいないのは、昨日も一昨日もそうだった。沈む時間帯が速くなるにつれ、生徒の数も減っていく。

 何気ないそんな光景を見ながら、二階の職員室へ入り、担任の机に日誌を置いた。

 「おい、緑川」

 すると、俺のクラスの国語を担当する氷川先生に呼ばれた。

 氷川先生は相変わらずよく分からんTシャツ――赤いTシャツに白い文字で“破壊光線”と書かれている。この文字は一日毎に変わる。昨日は“一撃必殺”、一昨日は、何だったか。

――に短パン。体つきも良いから一瞬体育の先生に見えるが、立派な国語の先生である。

 「はい、何でしょう」

 氷川先生は常に眉間に皺が寄っていて、今日もそんな顔をして俺の前に立つ。

 180㎝の身長は伊達じゃなく、見上げる形になる。

 「お前のクラスの柚木の感想シートがないんだが」

 感想シートを集めたのは俺だ。そういえば、柚木は後で出すからと言っていた。忘れてしまったのか。

 「すいません、確認ミスをしてしまったようです」

 「そうか。アイツは確かサッカー部だったな」

 「はい、確か」

 「そうか、分かった。すまんな」

 氷川先生はそう言って自分の席に戻っていく。

 俺は職員室を出た。

 昇降口で靴を履いて外へ出ると、薄暗くなっていた。

 ちらほら下校する生徒が見えて、俺もそれにならって歩き出す。

 「ようやくお帰りか、美乃留」

 視線を横へ向けると、不機嫌そうに端正な顔を歪めた女性、笹江ディオナ先輩が絹のような金色のポニーテールを揺らしてベンチに降ろしていた腰を上げていた。

 「先輩、何して」

 「お前の帰りを待っていたんだ。私を待たせるとは罪深いぞ」

 鞄を持った手の甲を肩に付けて俺に近寄る先輩はその容姿からは想像できない男のような振る舞いをする。

 だから、みんなして「もったいない」というのだ。

 「罪深いって、なんかすいません」

 「お前の謝罪は聞き飽きた。一体一日に何回謝罪をしている?なんでも誤れば済むとでも思っているのか?」

 「いや、条件反射、というか」

 「だから、バカな奴らに利用されるんだお前は。――お前、一昨日も昨日もこの時間帯だったろう」

 「よく御存じで」

 「ふん、私を誰だと思っている。で、何をやらされていた」

 五㎝ほど小さい先輩の赤い目が俺の目を覗き込む。

 その断言された台詞に苦笑した。

 「ただ掃除と日誌を任されただけですよ。」

 「人はそれを押しつけと言うのだ!このお人好しがっ」

 深くご立腹な様子の先輩に少し身を引く。

 先輩はあまり感情を出して怒る人じゃなかったのだが。先輩と出会った当初は、とても静かで高圧的な人だった。

 だが、たった一年という歳月が、先輩をこんなに変えるものなのか。高圧的なのはあまり変わらないが。

 「はぁ、自覚はしているつもりです。それで、先輩は俺に一体何の用でしょう」

 これ以上怒られるのを避ける為に、話を変える。先輩は、仕方がなさそうにそれに乗ってくれた。

 「一緒に帰る。」

 「え」

 「だから、お前と一緒に帰るんだ。それが用だ。それともなんだ?私と帰るのが嫌だとは言わないよな?」

 「いえ、まったく。ご一緒させて下さい」

 ギロリと赤い目で睨みつけられ、即答する。

 先輩は不機嫌な顔から、喜びの顔になった。

 赤い目を細め、金色のポニーテールを揺らし、後ろに向かいながら一度回った。薄暗い為か、金色の綺麗な髪がいっそう輝いて見える。

 「では、帰ろう」

 その笑顔で、何人の男子学生が落ちたか。きっと、先輩は分かっているのだろう。


★★


 苦しい、けれど走らなければ追いつかれるような気がして足を止められない。

 あの(、、)日(、)以来、私は普通の道を走らなければ気が済まなくなった。歩いていると、手を握られるような気がして。握られて殺されてしまうのではないかと錯覚してしまって。

 嫌われるような視線と言葉には小さな時から慣れていた。その頃から私は、両親だけの愛があるだけで充分だと知ったから。

 けれど、この嫌な感覚は、そんな視線でも言葉でもない。身体中が悲鳴を上げるように寒気が走り、冷や汗が流れる。心臓をぎちりと握られる緊張感と苦しさ。足も手も、震えて上手く動かせない。

 でも無理やり動かして、家の帰路を走る。家は、私を全てから守ってくれる、そんな気がするから。

 角を曲がって、見えた青い屋根の家。私を守ってくれる、両親が残してくれた大切な家。

 名もない表札を通り過ぎ、玄関のドアを開けすぐに閉める。鍵を掛けるのを忘れない。

 息を乱し、鍵が掛かったのを確認して、そこで崩れるようにお尻を付けた。息はまだ乱れている。少し苦しい。けれど、それよりも安心の方が勝っていて、私は目を閉じた。

 こんな日々が、いつまで続くのだろうか。

 私はいつまで、あの恐怖に追われ続けなければいけないのだろうか。

 だんだんと目が熱くなっていくのが分かる。

 「・・っ、ぅ・・」

 唇を噛みしめる。強く、強く。痛いけど、泣くよりマシだ。でも、涙は流れているかも

しれない。

 大丈夫。あの手に誓ったじゃないか。

 もうくじけないって。

 強くない心だけど、折れないようにしようって。

 服の中に隠れたペンダントを服越しから握る。

 大丈夫、大丈夫。

 そう心に言い聞かせ、私はフラフラと立ち上がった。

 

★★


 「最近太陽の沈みが速くなったな」

 「うん?うん、そうだね」

 夕飯時、兄――正確には兄代わり――の翠兄さんがぽつりそう言った。

 「本格的に冬って感じだよ」

 俺は魚をほぐしながら言うと、翠兄さんは白いご飯が入った茶碗を置いた。

 「不審者も多いそうだから、気をつけろよ」

 「兄さん、俺、もう高校生だからね。女の子に言うならまだしもさ」

 「そうは言っても、心配なんだよ。お前に何かあったら、美夜さんに合わす顔がない」

 兄さんはそう言いながら味噌汁の茶碗を持って口をつけた。

 ほぐした魚を一口食べながら横目で、テレビの横にある小さな棚の上に置かれた二つの写真立てとそれの横にある一輪入った花瓶を見る。

 一つは無愛想に視線を向けず横を向き、若いはずなのに髪が白く着物を着ることで少し老けて見える男性。もう一つは、男性と対照的で幼さが抜けない純粋な笑顔を向ける女性だった。彼女も着物を着ているが、髪は青黒く長い。

 明らかに歳の差があり、表情が対照的な二人の男女は俺の両親だった。

 兄さんが言った美夜というのは、幼さの抜けない容姿をした母親のことだ。俺はたまにこの人の息子は本当に自分なのかどうか疑ってしまう時がある。

 俺は、この人に似ていない。俺は、学校ではあまりしないように努めているが、素は無表情なのだ。先輩に話したら、ひどく驚かれた。そして素を見せたらもっと驚かれた。あの時少し落ち込んでしまったのは記憶に新しい。

 兄さんの話じゃ、明るい性格でよく笑っている人だったらしい。ほど遠いなぁって思う。どちらかと言えば、兄さんの方が似ている。明るいし、よく笑う。

 俺は、笑う母さんの横で無愛想にしている父親に似ているのかもしれないが、彼はとても優秀な人だったらしい。

 これまた僕とはほど遠い人だと思う。

 本当は兄さんが二人の息子で俺が養子なんじゃないかな。

 ご飯を食べながら、一か月に一回は考えてしまうことを考えた。

 幼少の頃一度、ぽつりと考えを漏らしてしまったことがあった。それを聞いた兄さんは呆れたように笑ったのだ。そしてこう言った。

 『おいおい、変なことを言うな。お前は確実にあの人たちの息子だ。お前のお父さんは、白髪になる前はお前と同じ茶髪だったんだぞ。それに表情もそっくりだ。まぁ、あの人はお前と違って常だったがな。どんな奴の前でもそうだった。美夜さんとお前は性格が似ているんだ。ほら、人が良すぎるところ。お前も自覚あんだろ?――それにな、俺が本当の息子っていうのはあり得ないぜ。俺はお前の父親ほど無表情なんてできないし、性格も似てない。そして、美夜さんみたいな性格には近づけてもなれやしない。俺の明るさは偽物。偽物は本物になれないんだ。あとは・・あぁ、あった。根本的だな。俺の髪、緑色だろ?』

 笑っていたけど、きっと内心怒っていたのかもしれない。当時も、今もそう思う。あの時の兄さんは怒っていた。俺は、このことは今後一切口にしないと誓った。

 兄さんが養子になった過程を俺は知らない。けれど、兄さんが俺の両親、特に母親を慕っているのは目に見えてわかる。母親が好きらしい花を毎日花屋に行っては一輪買って、写真立ての横の花瓶に入れている。

 ちゃんと血の繋がりがある俺が、あんな不安を漏らせば怒るに決まっている。昔は兄さんの怒りだけを感じ取れたが、そこまで考えられなかった。

 でも、仕方ないじゃないか。俺は、両親のことを写真でしか知らないのだ。俺が物心ついた時には、両親共々この世にいなかった。

 そこでふと思い出す。

 「そういえば、もうすぐだ」

 「・・・」

 俺が呟くと、兄さんのご飯を食べる動作が止まった。俺が兄さんを見る。兄さんは箸を白いご飯に置いて、じっとそこを見ていた。そして、茶碗と箸をテーブルに置いて写真立てを見る。

 もうすぐ、あの写真の中にいる両親の、命日だ。

 「あぁ、そうだな。もうすぐだ。」

 そう言った後、兄さんは小さく笑う。

 「だから、こんなに心配してしまうんだな。お前のこと」

 「?・・・兄さんが心配するのはいつものことでしょ?」

 首を傾げた俺に、今度は吹き出してから笑った。

 「ははははっ、あぁ、そうだった。そうだったな。俺はいつも心配しているんだった!」

 兄さんは俺に視線を向けて、楽しそうに口を開く。

 「お前が心配させるような性格だからなぁ。人が良いから、頼みごとも断れないし断らない。困った人がいれば放っておけない。人の良い顔をするから、不良に絡まれやすい。あぁ、なんでそこまで美夜さんに似るのかなぁ。いや、別に良いけど。なーんで、容姿だけ父親に似るのか。性格が少しだけでも似ればなぁ。いや、嫌だけど」

 「どっちなの」

 そう言えば、考え込む兄さん。

 そんな姿に俺は笑ってご飯を食べることを再開した。


★★


 「面倒だ、あぁ、面倒だ。」

 「・・・何が?」

 「この状態が」

 「・・・そうだね、はやく殺したいね」

 「そこまでは言ってないけどな」

 「そうなの?」

 「あんたはすぐにそういう方面に考えるよな」

 「?・・殺すでしょ?」

 「最終的にはな」

 「一緒だよ?」

 「違うね。」

 「???」

 「すぐに殺しちゃダメなんだよ。それに、――すぐに殺せる相手でもないさ」

 「・・・けむたい」

 「あんたさ、毎日言うよな、それ。慣れろよ、いい加減」

 「タバコ、よく分からない」

 「大人の味なんだよ」

 煙を吐き出せば、真下に広がる真夜に輝く街に広がった。それが面白いものだから、また煙草を吸って吐く。

 あぁ、まるで俺の中に溜まりこんだ感情が煙になって、この街を覆っていくようだ。

 それとも、これから起こる不幸が広がっているのか。

 煙草を咥え、俺は空を見上げながら笑う。

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