腹腔鏡下膵頭十二指腸切除術

 神羽記念病院の一室。神羽佑介は真剣な表情で目の前の鉗子をつかんでいた。右手と左手にそれぞれ一つずつ、一見マジックハンドのようなに見えるその細長い棒を使って、体に開けられた小さな穴を通じて手術する。腹を切らないで行われるいわゆる腹腔鏡手術だ。


 医師は患者を見ない。目の前に映し出されたモニターに集中し、限られた視野で臓器を扱い、時には焼灼し、腫瘍を切り取る。


 神羽は切除の際、出血した血管を縫い付け、狙った腫瘍を切り取り、手術を終えた。そのタイミングで、横のスイッチを押す。


 モニターが切り替わり、いくつかの数値が表示された。そして最後に出てきた数字を見た。


 48点。


 神羽は目を瞑り、大きなため息をつくと、持っていた鉗子を投げつけた。


「くそっ!」


 脱力し、近くにあった椅子に、どっぷりと座り込んだ、額から垂れる汗をぬぐい、目の前の「シミュレーション装置」を睨みつけた。


 病院独自で開発された、手術を再現するシミュレーション機器で、その出来具合いが数値化される。シミュレーションとはいえ、かなり本番に近い状況を再現できるようになっており、安全に手術を終えるためには、60点を超える必要がある言われていた。

 

 客観的ななデータがはじきだした数字だからこそ現実味があった。神羽は「とてもお前一人ではこの手術はできない」と通告されたのだ。


(もう……どうすりゃいいんだよ)


 曲がりなりにも医師免許は持っている。手術をやるといえば、副院長の立場を利用して手術をさせてもらうことはできるだろう。しかしこのままでは明らかに患者を死なせることになる。

 そうわかっているなら、辞退すべきだ。

 しかしそれは院長の座を諦めることになる。

 一度自分が諦めれば、神羽記念病院ガイアの遺伝子は自分で途絶えてしまう。そんな不名誉な結果になるなら、死んだ方がましだ、神羽は本気で考えていた。


 トントン、と戸を叩く音が聞こえた。


「佑介先生、今大丈夫ですか」


 高い声が、冷たくそして孤独な部屋に届いた。


「はい、どうぞ」


 神羽は誰かわかっていた。神羽をそう呼ぶのは肥後しかいなかったからだ。申し訳なさそうに入ってきた肥後は、神羽がシミュレーションを前にうな垂れている姿を見て、全てを悟った。そして何を考えているかも大体見当がついていた。


 肥後は神羽がまだ子どもの頃から神羽記念病院に勤めていて、ある意味お世話役もしていた。受験生だった神羽の塾の送り迎えや、忘れ物を届けにさえいくこともあった。神羽佑介にとって肥後はある意味親代わりの側面もあった。


 そこまでして神羽親子に忠誠を誓ってきたおかげか、現在は副院長に次ぐ第3のポジションである統括診療部長まで登りつめたのだった。


「佑介先生、元気だしてください。なんとかなりますよ」


 そう言って肩に手を置こうとした肥後の手を、神羽は乱暴に振り払った。


「どうすりゃなんとかなるんだよ。この状況で!」


 突然大声を出された肥後は、恐れおののいた。地べたに座り込んだ肥後に、神羽は鬼の形相で詰め寄った。


「肥後先生、じゃああなたがやってくださいよ。それで成功させてくれればいいのに」

「そんな……私は泌尿器科医ですから、膵頭十二指腸切除術PDはできません。お力になれずに申し訳ないです」


 神羽はしばらく歯を食いしばってから、脱力した。


「ごめん、当たってしまって」


 肥後は表情を緩ませると立ち上がり、乱れた白衣を整えた。


「不安になるのもわかります、大事な時ですからね。今回私は佑介先生に良い情報を持って来たんです」


 神羽が肥後を見た、先ほどの鬼の形相は解かれ、少年のような目をしていた。


「先日依頼があった件です。宗方葬儀屋の……」


 神羽の目が輝いた。


「何か進展があったか?」

「ええ、どうやらやはり手練れた医師がいたようです」


 神羽は唾をごくりと飲み込んで、言葉の先を待った。


「名前は三城淳一。以前地方の中核病院で働いていたようです、手術件数もそこそこあり、経験も豊富でもちろん膵頭十二指腸切除術PDの経験もあります。ですが、とある裁判に巻き込まれ、ドロップアウトしてしまったようです」


 神羽の表情に笑みが浮かんだ。


「それで、スカウトはできたのか?」


 肥後がにやりと笑みを浮かべた。


「今度の金曜、高砂グランドホテルに招待しました。宗方氏の招待という名目で。宗方社長と三城医師、もう一人えーと、追加でどなたか社員が一人ついてくるようです。そこでスカウトしてみましょう」


 神羽は思いっきりガッツポーズをした。


「よし! ありがとう」


 まだまだ諦める訳にはいかない、なんとしてでも手術を成功させて、院長になってやる、神羽の目が再びぎらりと光り始めていた。

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