霧の中の希望

高橋健一郎

第1章 霧の訪れ

「目に見えないから、大事なもの。」


第一章:霧の訪れ


冷たい風が街を抜け、灰色の霧がゆっくりと世界を覆い尽くしていく。ビルや街路樹、通りを急ぐ人々――その全てがぼんやりと霞んでいた。見慣れた景色はまるで膜をかけたように遠くなり、音も色も消えかかっている。


朝陽はかすかに輝いているはずだが、その光も霧に吸い込まれ、届かない。街全体が、ひとときの静寂に包まれていた。人々は足早に行き交い、顔を伏せて視線を交わすこともない。目的地だけを見据え、ただ歩き続けている。


そんな中、裕也はいつものベンチに座り、コートの襟を立てて寒さをしのいでいた。この霧の中で、彼は初めて息をつける気がした。仕事や人間関係に疲れ切った日々――何もかもがうまくいかないとき、彼はここで霧に包まれながら、自分が世界から消えてしまったかのような感覚に浸る。


「霧の中にいれば、誰にも急かされない。」


そう自分に言い聞かせながら、彼は視界の彼方へと目を凝らした。


霧の中の出会い


そんなとき、ふと人影が見えた。白くかすむ霧の中を、黒いコートを着た女性がこちらに向かって歩いてくる。その足取りは静かで、まるでこの世界に属していないように見えた。


裕也は彼女から目を離せなかった。顔ははっきり見えないが、不思議とその存在に引きつけられる。彼女は、まるで霧そのものが人の姿を借りたように、しっとりとした佇まいで近づいてきた。


「こんにちは。」


霧に溶け込むようなその声は、静かで澄んでいて、まるで直接胸の内に響くようだった。裕也は少し戸惑いながらも、小さく頷いて応えた。


「寒いですね。」裕也はつい口を開いたが、それ以上何を言えばよいのか分からなかった。


彼女は微笑むでもなく、ただベンチの隣に立ち止まった。二人の間には、一瞬の静寂が訪れた。遠くからかすかに車のクラクションが聞こえたが、その音も霧の中に吸い込まれていく。


「ここに座ってもいいですか?」


彼女の声に、裕也は少し身をずらし、隣のスペースを空けた。彼女は軽く頭を下げ、ベンチに腰を下ろした。


見えないものを探す旅


しばらくの間、二人は無言のまま霧の向こうを見つめていた。心地よい沈黙が二人の間を流れていく。やがて裕也が口を開いた。


「ここに来るのは初めてですか?」


彼女は首を小さく振った。「いいえ、何度か来たことがあります。でも、今日は少し特別です。」


「特別?」裕也は興味を引かれた。


「ええ。」彼女は小さく微笑んだ。「今日は、何かを見つけられる気がするんです。」


裕也はその言葉を噛みしめるように繰り返した。「何か、ですか。」


彼女は霧の向こうをじっと見つめながら、ぽつりと言った。


「霧の中には、いつも何かが隠れています。普段は見えなくても、ちゃんとそこにあるんです。」


「何が隠れているんですか?」裕也は思わず尋ねた。


彼女はゆっくりと顔を上げ、裕也の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は深く澄んでいて、どこか切なさを秘めていた。


「希望です。」彼女は静かに言った。「希望は、いつも見えにくい場所に隠れているんです。」


霧の中の灯火


彼女の言葉は、まるで心に小さな火を灯すようだった。裕也の胸の奥で、何かが少しずつ溶けていくような感覚が広がる。


「僕も見つけられるでしょうか?」裕也は自分でも驚くほど素直な声で尋ねた。


彼女は優しく頷いた。「ええ。探し続ける限り、きっと見つかります。」


そのとき、遠くで鐘の音が響いた。どこかで誰かが鳴らしたのだろうか。澄んだ音色が霧を揺らし、新しい世界の幕開けを告げるようだった。


彼女は立ち上がり、コートの襟を整えた。「もう行かないと。」


「また会えますか?」裕也は思わず問いかけた。


彼女は振り返り、微笑んだ。「ええ、また霧が出た日には。」


そう言い残し、彼女は霧の中へと溶けていった。その姿は、やがて完全に霞んで消えてしまった。


裕也はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて深く息を吸い込み、ゆっくりと歩き出した。彼の心には、小さな灯火が揺らめいていた。それはまだ弱く頼りないものだったが、確かに希望と呼べるものだった。

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霧の中の希望 高橋健一郎 @kenichiroh

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