第38話 仕事と家庭料理と

 5月に入ると、この会社の総務は忙しくなってくる。

 6月に開かれる定時株主総会の準備が、佳境を迎えてくるためだ。

 当日のスケジュールを決めるために色んな部門と調整をしたり、各部門に議案書を作ってもらって担当する役員の了解をもらったり、会場や設備の準備をしたり、株主に送る書類の手配をしたり、ネット上とかでも告知したり。

 俺は入社以来ずっと担当していることもあって、麗奈と一緒にこの仕事を任されている。


 会社法でやることが細かく決められているので、法務の協力も欠かせない。

 だから、沙里亜さんとのやり取りも自然と多くなっている。


 そんな中、上司である村正課長から、麗奈と共に呼び出しを受けた。


「大阪本社に行って、会場の下見と、向こうのメンバーとのすり合わせをやってきてくれるか?」


 この会社の株主総会は、東京と大阪の二元中継だ。

 なので、東と西とで、綿密に話をしておく必要がある。


「分かりました。去年は村正さんと私で行ったと思うんですけど、今年はどうされますか?」


「俺は直前で最終チェックに行くから、それまでは君らでやってくれ。長船君はこれで三年目だからもう大丈夫だろう。月乃下さんもいてくれているしな」


「はい、頑張ります!」


 麗奈が元気よく返事をすると、村正さんの岩のような顔が一気に緩む。

 まるで年を取った男の人が、初孫の顔を始めて見た時のように。


 俺に任せたというよりも、麗奈が一緒だから大丈夫だとでも思われているのだろう。

 ここに入社して一月余りが過ぎたけれど、言われた仕事は全部そつなくこなして、他のメンバーの手伝いまでしている。

 みんなの受けも良くて、まるでもっと昔からいるみたいだと、噂が立つほどだ。

 それでいてあまり残業もしていなくて、ほぼ毎日のように俺の部屋にやってくるのだ。


 デスクに戻った麗奈は、周りに人がいないことを確認してから、


「ねえ兼成君、大阪ね」


「ああ、そうみたいだな」


「もしかして、泊りかなあ?」


「いや、日帰りで大丈夫だろう。去年は泊まりだったけど、向こうの会議が長引いたからだったからな」


「そっか。つまんないなあ。どうせなら一泊して、京都の方とかも見てみたかったのになあ」


「お前、遊びに行くんじゃないんだからな。そういうのは、休みの日に自分で行け」


「いいよ。兼成君が付き合ってくれるのなら、いつでも」


「言ってろ。さ、仕事だ」


 その仕事のことについては、大阪の方のメンバーとも連絡を取らないといけない。

 そこは麗奈に頼んで、俺は別の仕事に集中する。


 するとしばらくして、すぐ横に座る麗奈が、緩く話をしてくる。


「あのお、長船さあん?」


「ん、どした?」


「大阪の方と連絡したんですけどね」


「おお、早いな。それで?」


「その日の夜、懇親会をしないかって言われているんです」


「ああ、なるほどな。まあ八時過ぎくらいの新幹線に乗ればなんとかなるから、それまではいけるな」


「それで村正さんにも相談してみたんですけど、どうせなら泊りで行ってくれば、ゆっくりできるんじゃないかって言ってもらったんです」


 ―― なに?


「村正さんが、そう言ったのか……?」


「はい。次の日は仕事でも有給休暇でも、どっちでもいいぞって」


 村正さん、どこまで麗奈には甘いんだ。

 麗奈がどんなふうに相談したのか知らないけれど、なんだかハメられたような気がしてしまう。


 けど、その方がゆっくりとできるのは、確かなんだよな。

 そこまで外堀を埋められてしまったのなら、仕方がない。


「分かった。じゃあ宿泊でいいよ」


「次の日は?」


「仕事だ。ただでさえ立て込んできてるからな。向こうのオフィスで場所を借りられないか、訊いてみてくれ」


「はーい」


 麗奈はちょっと落ち込んだように返事をして、また自分のパソコンに向き合った。

 それからあれこれと雑務をこなしていると、頭の上から声が聞こえた。


「お~い、飯行かないか?」


「ああ、もうそんな時間か」


 あの合コンのような懇親会があった後から、菊一は昼の時間になるたびに、顔を見せるようになった。


「よかったら、月乃下さんも一緒に」


「はい、是非!」


 そして決まって、麗奈にも声を掛ける。

 後輩に対して細かく心配りができるところは、さすがだ。


 三人で社食に向かい、いつもの通り空いている場所に腰を降ろして、今日はトンカツ定食の前で合掌する。

 すると、いつものように少年のような風貌を失わない正宗も現れて、同じ場所に座った。

 最近では珍しくない光景だ。


「そうなんだ。大阪に行くんだ」


「はい、初出張でしかも泊りなんで、楽しみです! 」


 喜色満面で話す麗奈に、正宗がうどんを啜りながら笑みを向ける。


「いいなあ。僕はあっちの方出身だけど、最近帰れてないなあ」


「へえ、正宗さんて、関西出身ですか?」


「うん。僕は京都出身なんだ。大学からこっちに出て来て、あまり帰れてないけどね」


「京都、いいですね。久々行って見たいです」


「大阪からだと一時間くらいだけど、仕事が終わってからだとちょっと厳しいね」


「そうなんですよね~。次の日がお休みだったらよかったんですけれどもね~」


 そんなじっとりした目を向けてくるのは止めてくれ。

 まるでこっちが悪者みたいじゃないか。


「休みたかったら休んでもいいぞ。俺は大阪支社で仕事をしてるから、一人で行ってくれば」


「いいです~、別に!」


 ふてくされたように頬を膨らませてから、唐揚げを口に運ぶ麗奈。


「まあでも、入社一月でそんな仕事を任されるなんて、すごいね」


 菊一の言う通りだ。

 俺が初めて出張に連れて行ってもらったのもこの仕事だたけれど、ほぼ上司の鞄持ち状態で、何もできなかった。

 今回はむしろ、彼女がいるから俺に任せて大丈夫だろうといった空気さえある。


「いえいえ、これも長船先輩のご指導のお陰です!」


「いい後輩を持ったな、長船」


 そう思うんだったら、替わってやったっていいんだけどな。

 俺としては、仕事は一人でやっている方が気楽なんだ。


 出張の段取りはさくっとその日の内に終わって、今日も一日仕事は終わった。

 部屋に帰って少しすると、今日もインターホンが鳴って、麗奈が部屋の空気を賑やかにする。


「子持ちカレイのいいのがあったから、煮つけにするね」


「煮つけか、いいな。いつも悪いな」


「ううん。兼成君、好きだって言ってたでしょ? ほら、こんなぷりっぷりのやつがあったの!」


 お腹からオレンジ色の卵がはみ出したカレイの切り身をこっちに向けて、にまっと微笑む。

 こいつが作ってくれるんだから、今日も期待大だ。


「そう言えば、真理ちゃんから、写真って来てるの?」


 醤油の匂いが香立つ鍋の前でお玉を手にしながら、麗奈が不意に訊いてきた。


 朱宮さんからは、相変わらず、コスプレの写真が送られて来ている。

 そのどれもが、SNSに挙げると人気が沸騰しそうな、綺麗でお色気が噴き出すものばかりなんだけど。

 『ONLY FOR YOU』などといったメッセージ付きとかで送って来られると、大人げなくも照れてしまう。


「ああ、相変わらずだな」


「そっか」


「今度遊びに来るけどな。コスの写真を撮影して欲しいって」


「……ええっ!?」


 手に持っていたお玉を落としかけた麗奈は、じっとこっちを見つめて、口元をあわあわとさせていた。



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