第13話 沙里亜さんとの出逢い
今の会社に入ってすぐの頃、俺のことを世話してくれていた先輩と一緒に、法務部を訪ねた。
会社が借りている土地の賃借期限が満了間近だったので、地主と交渉をして、契約を更改する必要があった。
そのための相談だったのだ。
沙里亜さんはその時から、才色兼備、いわゆるスーパーウーマンとして評判だった。
長い髪を靡かせてヒールを鳴らしながら颯爽と歩く、そんな姿にみんな憧れていた。
その沙里亜さんと初めて会った時のことは、よく覚えていない。
先輩が仕事の話をしてくれて、俺にはよく分らなくて、ただ聞いているフリをして、首を縦に振っていた。
必要なことをたんたんと話し、でも眩しい笑顔を絶やさない彼女の顔を、直視できなかった。
仕事が全然できない気まずさと、彼女の綺麗さを目の前にした恥ずかしさと両方で。
交渉が熟したころ、契約書の案が出来上がってきた。
全部沙里亜さんが用意してくれたものだ。
無茶苦茶分厚くて、作るのが大変だったろうなと思った。
相手の地主を訪問してハンコを貰う日の前日、俺はその契約書を、もう一度見返そうと思った。
チェックは沙里亜さんがやってくれているはずという安心感もあって、先輩も俺も、真剣に全部は見ていなかった。
けど、俺は何の役にも立っていなかったので、申し訳がなくて、せめてもと思ってそんな気持ちになったんだ。
自分の部屋でハイボールを啜りながら眺めていて、間違いがあることに気が付いた。
会社が支払う金額の元になる計算書類の数字が、交渉の中であったものと違っていたんだ。
このままだと、予定よりもかなり高額の支払いをしないといけないことになる。
もう遅い時間だった。
どうしようかと悩んだけれど、沙里亜さんの社用携帯の番号にコールをした。
「すみません、梅澤さん。こんな時間に」
「ううん、大丈夫。何かあったの?」
「実は、明日持って行く契約書の中で、間違っている場所があるんじゃないかって思いまして」
「……えっ!?」
そこから、お互いのパソコンを見ながら確認をすると、やっぱり間違っていて。
「ありがとう、長船君。このまま調印したら、大変なことになっていたわ。明日の朝一番までに直すから、それで契約をしてきてくれる?」
「はい、分りました」
「ごめんね、本当に感謝だわ。本当なら私が気づかないといけないのに」
「いいえ、梅澤さんにはほとんど全部、準備してもらいましたから。これくらいはさせてもらって当然です。それより、遅い時間に電話してしまってすみません」
「いいのよ、全然。長船君って、真面目で頼りになるのね」
そんなことがあってから、沙里亜さんとは、仕事で色々と話すようになった。
年一回の定時株主総会は、総務課が全体を仕切る。
その中で報告がされる内容や、株主に送る書面、株主からの質問に答えるためのQAとかは、事前に法務部と一緒に確認をする必要がある。
「沙里亜さん、12ページ目の数字、間違ってませんか?」
「えっと、ちょっと待ってね……あら、本当」
細かく見ると直すところがあって、それを見つけるたびに、会社の中や外で、沙里亜さんと話をした。
「だめだなあ全然。こんなの自分でも気づかないといけないのに」
「いいえ、お気になさらずに。梅澤さんは他にもいっぱい仕事をされてますから。むしろこっちが、それを支えないといけないんです」
確かに、スーパーウーマンとして名高い梅澤さんにしては、単純なミスが多かったように思う。
でも、他にもたくさんの仕事を抱えているはずなので、きっとそんなこともあるのだろう。
それに、完璧なだけよりも何だか人間味が感じられたし、こんな俺でもちょっとは役に立っているのかなと思えて、むしろ嬉しかった。
大仕事が終った日に、俺は沙里亜さんからお誘いを受けた。
お疲れ様会ってことだったけれど、彼女と二人きりで。
いやおうなく、心臓がトクトクと跳ねていた。
都会のオアシスのような、静かな空気が漂う和風居酒屋で向かいあって、グラスを重ね合わせた。
「長船君には、お世話になりっぱなしね。今日の件でも、あなたがいないとどうなったか分からないわ」
「い~え。俺なんかはたかが知れてます。梅澤さんが用意してくれたものを眺めて、好き勝手言ってるだけですから」
「本当はいけないって思うのよ。私が全部気づいておかないとって。そのためにいるのにね。でもね……」
あれ?
……なぜだろう、沙里亜さん、寂しげだ。
それとも、一仕事を終えて、疲れているんだろうか。
いずれにしても、彼女は精一杯、自分の責任を果そうといていたと思う。
作業が夜遅くになったり、突発の変更でてんやわんやになっても、文句の一つも言わずに。
噂にたがわず、本当に話しやすくて、優しくて、格好いい人だ。
「ちょっとくらい間違いはあっても、梅澤さんのすごさは変わりませんよ。自信を持って下さい。むしろそのくらいの方が、親しみやすいです」
「……私って、そんなに近寄りにくかったりする?」
「あ、いや、そういう意味じゃないです! いつも仕事ができて、綺麗で、だから……」
言い訳にもなっていない言葉を、あわてて返した。
彼女が素敵すぎて、みんな近寄れないだけなんだ。
「ねえ長船君、少し話していい?」
「ええ、何でもどうぞ」
「私……彼と別れたの」
それから沙里亜さんは、自分のことを話してくれた。
長く付き合っていた彼がいて、結婚も考えていたこと。
ある日街中で、その彼が別の女性と歩いているのを見てしまったこと。
心の中にしまっておくには重くて、彼に訊いてしまって、
「俺とお前じゃ釣り合わないから、ごめん」
そんなお別れの言葉をもらったようだった。
「どういうことなのかな、釣り合わないってさ?」
お酒が強いな沙里亜さん、そう思った。
もう一升瓶ほどの日本酒を、飲み干しているんじゃないか?
こっちも、ついていくのがやっとだ。
「だめだなあ、仕事とプライベートは別だって分かってはいるんだけど。でもどうしても思いだしちゃって。仕事のミスの言い訳にはならないわね」
そっか、そんなことがあって。
だから沙里亜さん、仕事でも色々と失敗もあったんだ。
けど、それで彼女のことを軽蔑したり、蔑んだりする気にはなれない。
むしろ身近に感じられるし、それがあったって彼女の仕事全体で見れば、補って余りある。
プライベートなことがあってミスをした自分が許せないのかもだけど、誰にだって、どうしようもなく心が痛む時はある。
そう、俺だって昔……
「あの、気にしなくていいと思います。完璧なサイボーグみたいな人よりも、たまに失敗する人の方が、親しみがありますよ」
「……そうかなあ?」
「はい。それに彼のことだって、きっとそれ、梅澤さんが素敵すぎるからですよ。仕事ができて、綺麗で、話も上手で。隣にいていいのかなって、思っちゃったんじゃないですかね。でも梅澤さんをフルなんて、勿体ないですね」
「……長船君も、そう思うの?」
「えと……まあ、そうですね」
「私、素敵でもなんでもない。普通だよ。家に帰ったらぐだぐでだらしないし。お休みの日にはなんにもしないでぼーっとして、お昼からお酒を飲んでることだってあるし」
「へえ、そうですか? 意外ですけど、それってありかなって思います。昼飲み、俺もよくやりますよ」
「そう。じゃあさ、一回一緒に、どこかへ行ってやってみない?」
「もちろん、ウェルカムです」
お酒のせいかな、頬を赤く染めて、蕩けた視線を送ってくる沙里亜さん。
きっと社交辞令だよな、そう思っていた。
けど、その後すぐに、彼女からまた連絡が入った。
日曜日に朝から会って、気ままにしゃべって歩いて飲んで、カラオケに行って美声を披露してもらった。
沙里亜さんとずっと二人きり、俺なんかが一緒でいいのかな……?
そうも思ったけれど、それを口にすると、また彼女を傷つけてしまうように思えて。
だから緊張を隠して接しているうちに、いつしか楽しんでいる自分がいた。
ほろ酔い気分の中、至福の一日が終ろうとしていた時に、彼女が耳元で囁いたんだ。
「……よかったら、私の部屋に来ない?」
その蜂蜜よりも甘い一言は、俺の小さな小さな心臓のど真ん中を打ち抜いた。
その夜は、何度彼女と愛し合い求め合ったのか、覚えていない。
それ程に、甘くて官能的で、濃密で熱い夜だった。
それから俺と沙里亜さんは、たまに二人で会う関係になったのだった。
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