第5話 友達の手前からで

「大栄電気工業の、総務……?」


「ああ、そうだよ。月乃下さんは、何をやってるんだ?」


 ……なんか彼女の様子がおかしいな。

 肩が震えて、口をあわあわとさせている。

 俺、なんか変なこと言ったっけ?


「あの、私、この前に大学を卒業して、この4月から就職するの」


「そうか。大学院にでも行ってたのか?」


「ううん。ちょっと留学をしていて、大学は休学してたの。だから、就職が遅くなっちゃって……」


「ああ、なるほどね」


 俺と彼女とは、ほぼ同い年のはずだ。

 それで二年遅れの就職ってことだと、普通は留年か、大学院に通っていたからだって思うだろう。

 けど、それとはちょっと違っていたようで。

 ……まあ、別に興味はないけど。


「その会社は、大栄電気工業……」


「……なるほど、大栄……なに?」


 え? 聞き違いか? いや、確かに大栄電気って……

 嫌な感じがするなにかが、さっと胸の中に拡散する。


「配属先は、人事総務部の総務課って聞いたけど……」


「……なんだって!?」


 え~と……ちょっと待てって。

 頭の中がカオスだし、心臓が不規則に暴れまわり出している。

 まあ、ちょっと落ち着け俺。


「大栄電気の、人事総務部? 総務課!?!?!?」


「うん」


 上司の村正さんは、俺がお世話する新人が入ってくるって言ってたよな。

 綺麗どころだから手は出すなよって。

 それって……うちの課に入る新入社員って……村正さん、そういうことなのか?

 あまりの出来事に、頭の中が白くなる。


 明日、丁重にお断りしようか。

 今さら聞いてくれるかどうか……いや、無理かなあ……

 何でだって訊かれても、まともな説明ができる気がしない。

 昔ウソ告をされた女の子だから、勘弁してください。

 もしそう正直に話すと、多分彼は面白がって、涙を流しながら笑うだろう。


『じゃあこれを機会に仲直りして、口説いてみたらどうだ? ただし、コンプライアンスには気を付けてな』


 恐らく、そんなコメント付きで。

 コンプライアンス、つまりは法令順守。

 時にそれと色恋沙汰とは、線引きが物凄く難しい。

 変な迫り方をすると、たちまちそれが会社に報告されて、首が飛ぶような時制だ。

 しかもうちの課は、それを取り締まるようなお役目があるんだ。


「ねえ兼成君……どしたの? もしかしして、そこって変な会社なの……?」


 ……なんだこれ、悪夢かよ……今日は厄日かよ……?

 へなへなと、体中から力が抜けていく。


「ねえねえ、兼成君!?」


「いや、そうじゃない。実は俺も、その会社に勤めているんだ」


「…………え? そ、そうなの……?」


 なんだよ、その驚き嬉しそうな顔は?

 満開の桜のような華やかな笑顔が、彼女の顔いっぱいに広がっていく。


「……きゃあああああ~!!!!!!」


「うわわわわわ!!!!!」


 何だよお前、いきなり抱き着いてくるんじゃないよ!!!


「お、おい、なにすんだよ!?」


「だって、これって運命じゃない!? こうやって隣同士になってさ、しかも会社も同じだなんてさ!」


「おい、待てって……!」


 月乃下さんが飛びついてきて、両手で俺を抱きしめる。

 意表を突かれてしまって、彼女の重さに耐えられなくて、床に背中を付けてしまった。

 ふわあっと甘い香りが鼻腔をくすぐってきて。

 彼女の頬が俺のそれのすぐ近くにあって、ふわりと触れたり離れたり。

 それに、なんか豊満で柔らかいものが、こっちの胸に当たってるんですけど。


 ……ダメだ、頭が混乱して、このままだと意識が飛びそうだ。


「ちょ、ちょっと落ち着けって、な!?」


「あ……ごめんなさい、つい……」


 身を起こしてさっと離れて、顔を赤く染める月乃下さん。


「まあ……こんな偶然ってあるんだな。じゃあこれからは、隣人兼会社の同僚ってことになるのかな」


「同僚っていうより、先輩になるんでしょ? 長船先輩?」


「まあ、そうなるのかな……」


 しかも、同じ部署で働いて、多分俺がそのお世話だなんて。

 今は言えない、絶対に。

 言ってしまうと、これ以上どうなるのか、分かったものじゃない。


 にこにこと、本当に嬉しそうに微笑む月乃下さん。


 ……大人になったな。

 とっても綺麗になった。

 でも、笑った顔は、ずっと前と同じだな。

 昔に、遠くから眺めていたそれと。

 高校の三年間、誰にも言わないままで。

 キモいと思われるかもしれないけど、それしかできなかった。

 青臭かったころの時間が頭に蘇ってきて、ドキドキと胸の鼓動が高まっている。

 

 なんだよ、これ……

 まるで昔を懐かしんでいるみたいじゃないか、俺?


「ねえ兼成君、やり直せないかな、私たち……」


 ……またそれを言うのか。

 だから、一体どこから……?


「やり直して、これからどうするってんだよ?」


「それは……どうしたい? 兼成君?」


 なんだよ、その下から見上げる、甘くて誘ってくるような視線は?

 反則級だぞ、それ。

 サッカーのバックチャージ、将棋の二歩、テストのカンニング、そんなもの以上に。

 勝手に、俺の頭の中に手をつっこんで、くすぐってくるようだ」。


「どうしたいって……月乃下さんはどうなんだよ?」


「そうね。とりあえず、麗奈って呼んで欲しいな」


 ……下の名前呼び、かあ。

 こんな歳になっても、戸惑ってしまうな。

 ラノベに出てくる高校生でもあるまいに。


 いやいや待てって!

 なんで今さら、しかも同じ職場で働くことになる相手に、そんな……

 でも、まあいいか。

 それだけで彼女の気が済んで、帰ってくれるのなら。


「……麗奈」


「なに、兼成君?」


 なんなんだよお、そのとろけそうな笑顔は?

 ……駄目だ、このままだと、どうにかなってしまいそうだ。


 彼女の言ってることを、全部信じる訳じゃない。

 けど、今目の前にいる彼女は、なぜだか俺の心をくすぐってくるんだ。

 多分それは、遠い昔の思い出が、俺の背中を押してくれているからなのだろうけど。

 でもだからといって、今の俺が昔の俺に戻るわけじゃない。


「……まあ、普通にやっていこう。お互いに、もう大人なんだしな」


「そうだね……あれから、随分と時間が経ったもんね。兼成君はさ、彼女とかいるの?」


 えらく直球の質問だな。

 えっと……それ、ちょっと答えにくいんだけどな。

 いるとも、いないとも……


「ノーコメントだ」


「ええっ!? それって、いるって言ってるようなものじゃない!?」


「いや、そういうことでもないんだけどな。麗奈の方はどうなんだよ?」


 麗奈の表情が、驚いたり静まったりで、ころころと忙しい。


「私は……今はいないよ」


「そうか。でもまあ、友達以前のマイナスからやり直すんだったら、お互いに関係ないよな?」


「そっか……そうだね。私たち、まだ友達ですらないんだね?」


「……まあ、そういうことかな……」


 綺麗に整った素顔に影を落としてからも、麗奈はぱっと頭を上げた。


「じゃあ、まずは友達にならなきゃね。飲もう、兼成君!」


「は? お前、まだ飲むのかよ……?」


「うん。まだ全然いけるよ! なんなら私の部屋からも持ってこようか!? 良かったらおつまみも作るよ!?」


 おい、いつの間に、昔からの飲み友達みたいになってるんだよ?


「いや、別にいらないけどさ……たしかスルメがあったかな。よかったら食うか?」


「うん、ありがとう!」


 別に、彼女とどうなりたいとか、そんなものはない。

 ただ、職場の後輩にまでなるかもしれない相手を、そうぞんざいに扱うことはできないだろう。

 そんな感じで、キッチンからイカの干したものやポテチ持ち出した。


 結局その夜は、麗奈が自分の部屋に戻ったのは、日付が変ってからだった。





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