断章「惜別のセージティー、あるいは」
カフェ・メモリアには常連客というものが存在することはまずない。
そもそもここには時間も空間もない。大切な記憶を欠落させた人が、記憶に呼ばれて迷い込む場所だからだ。
欠落といっても、記憶喪失などはまた別だ。ここに来る記憶は忘れ去られたもの、つまり経年によって記憶から摩耗していった記憶のみである。
つまり、常連客というのは「呼ばれるほど強い記憶がいくつも摩耗している」ということになる。本来そんな人間はありえない。
そう、本来は。
「こんにちは……あれ?またここ?」
その女の子は、その「呼ばれるほど強い記憶」が2つも摩耗している、珍しい人だった。中性的な服装にニヒルな笑みが特徴の。若者らしい若者。
一度目はいつだったか、あのときは「レモングラスと享楽の緑茶」を出したはずだ。
記憶は、かつて音楽活動をしていたときの記憶だったはず。
しかし、あの記憶もなかなか鮮烈な記憶だったというのに、さらにもう一つ大きな摩耗を抱えているとは……
時代物のラジカセから店主の声が響く。
「なんと、ここに二度もお客様がいらっしゃるとは」
「え、カフェなのに?こういうの詳しくは知らないんですけど、こういうのってリピーターが重要なんじゃあ」
「それは通常のカフェではそうかもしれません。ですがここはカフェ・メモリア、忘却がなければここにたどり着くことができませんから」
「ほんと不思議なお店ですねここ。内装も前と全然違うし」
「ここの内装は人に忘れられた思い出の品々を飾っておりますが、やはり多いですからね」
「みんなの思い出グッズですか。いいですね」
「ここにないのが一番ではありますよ。さて、今日のお茶にいたしましょうか」
「やった!前回のレモングラスティーすごく懐かしくて美味しかったんですよね」
「しかし本当に……ここを二度も訪れる方はとても珍しいんですよ。とくにお嬢さんのようなお若い方はさらに」
「…………いやあ、仕方ないんですよ。私、物覚えが悪いので」
「ただ物覚えが悪いだけではここに呼ばれることはまずありませんよ。忘れ去られた記憶が、あなたを切に求めているのです」
「記憶が?私を?」
「さらに言えば、記憶喪失などのお客様はいらしたことがございません。おそらく、記憶喪失ではなく忘却でしかここには呼ばれません」
「はっ……私こんな薄情なのにね」
女の子は自分自身を鼻で嗤う。
「はて、記憶のほうはそうは思っていらっしゃるようには思えませんがね」
「そういえば、今日のお茶はなんの記憶?」
「そうですね、『惜別のセージティー』ですね。セージという香草を使ったハーブティーです」
「セージ?聞いたことはあるけどどんなのか知らないですね」
「爽やかな独特の風味が特徴です。先日のレモングラスのような柑橘の香りというよりはミントやヨモギのような……」
「ああ……よもぎ、ですか」
「よもぎに心当たりが?」
「まだわからないですけど」
「ではいまご用意いたしますね。どうぞ」
女の子のテーブルには、薄い緑のハーブティーが置かれている。
「前もそうでしたけど、手品みたいですねこれ。ふと気づいたら置かれてる」
「細かいことはいいじゃないですか。せっかくの熱いお茶ですよ」
さっきまで何もなかったテーブルには湯気が漂うティーポットとカップが置かれている。
セージの独特な、それこそよもぎのような深い香り。そして、忘れ去られた記憶。
「ちょっとーお話ええかな?」
警察官らしき人が声をかける。もう夜は遅いし、家出かなにかだと思われたんだろう。
「ちょうどよかった。すいません、ここどこですか?」
「ああ、寝過ごしか……ええとねえここやね」
警察官はスマホの地図アプリから現在地を出してくれる。
「え。関西?」
「なんやお嬢さんどこから来たんや」
「ここですけど」
同じく地図アプリから自宅を示す。
「え、待って待って。東京?寝過ごしじゃなくて?」
「あー…………私、たまにあるんですよね」
自分がなにしてたか、全部忘れるときが。
学校に行っていたときもそうだった。気づいたら海岸だったり、なぜか深夜の学校に潜り込んでたり。
それでも大事に至らなかったのは、もう一度学校に行ったときに何をしようとしていたかをみんなが補佐してくれていたからに過ぎない。
高校を出て大学に入り、就活を始めるときに異変が発覚した。
「……あれ?高校名なんだっけ」
「おいおい高校のこと嫌いか!?」と周りが茶化すが、
「……」
「…………え、マジ?…………だ、大丈夫それ?」
忘却は、年単位で起こることもあれば数日の忘却も度々あった。
日記をつけようとしたことはあるようで、新品で数日ぶんだけ日記が書かれた手帳が家に何冊もある。結局それらを忘れてしまっては意味がないということだ。
親は忙しいのもあって、呆れるばかりであんまり取り合ってはくれなかった。
それでも。
「ああ……そういう思い出せなくなるみたいなやつってことやね?」
警察官はつらそうな顔でオーバーにうなずく。辛いわけではないんだけど。
「そうです、だから明日なんとかして家に……」
「仕方ない、あんまこういうことするべきじゃないんやけどな……」
そういって警察官はおぼつかない手つきでポチポチとスマホを操作すると
「ついてき」
といってパトカーを出してくれた。
「か、かつ丼ってことですか」
「あっはっは、いまどきそんなベタなことはせんて。いやそうじゃなくてな」
すぐに車は目的地に着いた。ここ、新幹線の駅だ。
「え?あ、新幹線?でも私」
「出血大サービスってやつや。東京まで新幹線予約しておいたから」
「へっ!?そんな悪いですよ!!」
「あのなあ、
こういうのは助け合いや。ええねんええねん、どうせ忘れるなら遠慮せんでいいんよ」
「すみません……なにも返せず本当申し訳ないです……ありがとうございます!!」
「ほれ新幹線の時間あるから!じゃあねー!」
女の子は、こうやって支えられてきた。
ほかにも詳らかには思い出せないが、この香りは一つだけの善意ではない。
誰かたくさんの人たちが一期一会の自分を助けてくれたのだろう。
彼らはみんな、忘れ去られることを承知の上だった。
そして、こうやって忘れ去られていた。
この香りに、出会うまで。
……
「わたし生きてるだけで迷惑かけてるとは思ってた。けど、思い出せないからどんな迷惑かけてたのかも知らなかったから……」
「不思議なものですね、健忘の範囲を著しく超えている。それでもこうやって生きていけるほどに、あなたは支えられて生きてきたのですね」
「支えられてとはいいますけど、それだけ迷惑をかけてるってことじゃないですか」
「みんなそれでもよかったのでしょう。つけこんで金品をせしめる人間も、あなたを害そうとする人間にも出会わなかった……とは思えませんが、それでも沢山の善意があなたにはかけられていた」
「……これが、私の記憶」
口を付けるたびに別の記憶がよみがえる。
奥地に取り残されたとき、一緒に路上ライブをやってそのお金で交通費を出してくれた少女。
忘れるたびに連絡をとって呼び戻してくれていた同僚。彼が倒れたことを機にその職場はやめた。
就活のときに心配してくれていた友達。彼ら彼女らはどこかに散り散りになってしまったが、みんな最後まで仲良くしてくれた。
みんな良くしてくれて、そして別れていった。なるほど、これは確かに惜別の香りなのだろう。
彼ら彼女らにも人生があり、ずっと支えられっぱなしというわけにはいかなかった……今にして思えば、それも自分の思い込みかもしれないが。
「そういう体質なのであれば、また記憶があなたのことを呼ぶかもしれませんね。この店初めての常連さんかもしれない」
思い切り泣き、嗚咽も止まったころ。店主さんはそう言ってくれた。
「というか、なんだか変な予感がするんです。ここには私の記憶が眠ってて、みんな私を呼んでるって」
「またのお越しをお待ちしております」
「ただ、少しだけ……なんか、こうやってお茶を飲むだけなのは……支えられっぱなしなのは、やっぱり嫌かも」
「良いではないですか、それは記憶が呼んでいるだけですから」
逡巡のあと、女の子はラジカセをきっと見つめ、切り出した。
「……ね、店主さん」
「はい?」
「私を雇って?手品見たいにお茶を出すんじゃあ、メルヘンというよりホラーでしょう」
ラジカセはぴくりともせず、ただ声だけがひたすらに慌てている。
「い、いや確かに不可能ではないですが……この店はだいぶ特殊ですよ?」
「忘れ続ける世間よりは思い出すカフェのほうが適切な職場な気がしますけど」
「それもそうか……じゃなくて、えー、うーん」
「ダメでした?」
店主は、ついに根負けした。
「…………仕方ないですね。あなたの記憶があなたをお呼びする限りですよ?そうでないとこの店には来れませんから」
「もちろんそれでいいですよ」
「あと一応給与とかはこんな感じですか?」
「店主さんそれはさすがに多すぎると思う。その半分ぐらいで、いやそれでも多いかも」
「なにぶんみんなお金も忘れ去るものですから……ではこの程度にいたしましょう」
「それでもまあまあ多いけど……じゃあ、また来ます。次は店員として」
「あ、では最後にお名前をお聞きしなければ。お客様ではなくなりますからね」
「私?私は、シジマユウ。志島夢雨」
「では夢雨さん、また」
カフェ・メモリアは時間も空間もない場所。来客に合わせて現れる異界のようなもので、本来そこには変化というものはない。
ただこの時より、一つの変化があった。
カランと鈴を鳴らして扉が開く。今まで案内するものはいなかったが、今は違う。
「いらっしゃいませ!カフェ・メモリアへようこそ」
短編「カフェ・メモリア」 とーらん @TOLLANG
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