第8話 大人の男
「今日は誰もいないね。D君たちも帰っちゃったしなぁ……」
「え、なに、もう彼らに会いたくなっちゃったの? よっぽどよかったんだね」
「いや、そうじゃなくて――。お料理だよ。キッチン」
「わかってる。冗談だよ」
今朝から生活リズムが狂い気味の二人。21時近い時間帯の夕食準備。これから後片付けの時間を迎えるぐらいの時間帯だ、他の宿泊客がいないのも当然だ。
亮介は皿とお椀を乗せた長手盆を持ち、綾乃がドアを開く。今朝からの雨で気温が低く、廊下がヒヤッとする。
「昨日と同じようなラッキーなんてなかなか無いと思うよ。今日は部屋でゆっくりかな」
「そうだね。でも明日帰るのやだな……。もっとここに居たい」
「本当だね。次来る時はもっと長めに予約しようか」
「うん!」
夫婦水入らずの時間。そこに睡眠不足と酒が加わるとゴールは一つだ。寝息を立て始めた亮介に綾乃は毛布を掛け、後片付けをしに台所へ向かう。
(ほんとすごい体験しちゃったな。亮介もすごく求めてくれて、最高の一日だった……)
洗い終えた皿を拭きながら窓の外の雲間に月明かりを見る。
「あ、雨、
◆
綾乃一人のスリッパの音がパツ、パツと響く深夜1時の廊下。すれ違う人もいず、この調子なら風呂も貸切か。引き戸を開ける。男性が一人だけ、頭にタオルを乗せて湯に浸かっているのが見えた。一瞬綾乃は固まったが、中に入り、戸を閉めた。
(こっちを見ている感じでもないし、大丈夫かも)
混浴温泉では、長時間居座る男性客がいる。中には大きなペットボトルを持ち込む
そこから来る安心感で、綾乃は昼来た時よりも気軽な気持ちで入湯できた。
近からず、遠からず。過剰な警戒心で男性に失礼な思いをさせない程度に。
(私たちよりちょっと上ぐらいかな。大人しそうだし、変なこととかされないと思う)
強くはないが吹くと冷たい風。気温の低さと相まって、湯温も心地よい。川のせせらぎが更に涼やかさを増してくれる。
(あ、そういえば川ってどんなだろう。ちょっと見てみたいな)
川があるのは棚を背にした綾乃の正面方向だ。男性は左前方にいるが、幅があるのでこのまま湯の中を進んでも邪魔にはならずに済むはずだ。綾乃は立ち上がり胸から下をタオルで覆うと、一歩、二歩、と歩み出した。ザバ……ザバ……という音に反応して、男性も音のする方を見る。その時だった。
「きゃ!」
フラットと思い込んでいた底面が坂になっている。気づかずに踏み外した綾乃は姿勢を崩した。
「大丈夫ですか!?」
顔の半分まで入ってしまったが、所詮は水面は浅い。
「びっくりした〜、ごめんなさい! あ!」
慌ててタオルを拾って身につける。一連の自分の動作のコミカルさに可笑しくなってしまって、綾乃はゲラゲラと笑い始める。
「もう、恥ずかしい、あたし、ふふ、すみませんなんかおかしくなってしまって、もう、なんなんだろ」
「いえ、いいんですよ。怪我とかしてませんか?」
「はい、どこも痛いところないみたいなので大丈夫そうです」
ニッコリした綾乃に、心配して険しい表情をしていた男性も
「よかった。お一人で泊まっているんですか?」
「あ、夫もいますよ。爆睡してますが」「横、いいですか?」
「もちろんです、どうぞ」
川のことなど忘れて世間話を始める綾乃。混浴が初めてだということや自炊旅館体験の感想など、さっきのハプニングで緊張感どころか羞恥心まで吹っ飛んでしまったようにリラックスしている。
「お一人なんですか? あ、お名前聞いてなかったですね」
「失礼しました。私はWと申します。社員旅行で来ています。同室の人のいびきがすごくて目が覚めてしまって」
寡黙でもなく、
(大人の男性って、また独特の良さがあるのよね……)
「そっか、そういうことなんだ。でも、その人が静かになるまで眠れなさそうですね……」
「そういうことになりますね。だから、温泉が夜中でも入れるので助かりました」
「あの、私たちの部屋に来てみます?」
「……ぇ、……え?」
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