*沖する【2024/11/19】

 天へ沖する白煙を見て尚、わたくしの心は、あの方が亡くなった事を信じようとしませんでした。


 病魔に侵されたこの身を引き摺って、廻縁まわりえんから静かに神楽を見ておりました。確かに、棺の中で眠るのはわたくしの大切な夫でした。刺し貫かれた傷と猩猩緋を、信じられぬ思いで見ておりました。数刻ぶりに再会した夫には、魂が残されておりませんでした。わたくしに残されていた時間より、僅かに早くあの人が逝ってしまった事を、わたくしは信じる事が出来ませんでした。


 ですから、皆様の前でも少しだけ、冷静で居る事が出来ました。どうか泣かないで欲しいと、娘のような姫君に微笑みかける事が出来ました。誰の所為でもありません。これがあの人の天命だったのでしょう。そう言って笑う事が出来ました。


 出来ていました。わたくしの愛息子が、立ち上がるまでは。


 愛息子は顔を上げておりました。顔を上げて言いました。俯いている場合では無いと、次は己が里を守る番なのだと。血の繋がりは無いはずなのに、あの人そっくりの凛々しい表情をしながら、わたくしの名と同じ色を纏う愛息子は立ち上がりました。愛息子は、もう一人の愛息子の顔も上げさせて、二人一緒に駆けて行きました。己らに、下を向いている時間は無いと、言い聞かせながら。


 それから、目を真っ赤にして泣き腫らした姫君も、勇敢に立ち上がりました。己にしか出来ない事があるからと、愛息子たちの言葉に触発されて、美しい姫君も駆けて行きました。


 後に残されたのは、あの人の友人の孫娘たち。震えていたように見えた少女たちでしたが、彼女たちはしかと手を繋いで、まっすぐとわたくしを見据えて大丈夫だと言いました。迷っている暇は無いと、その瞳が勇猛に語っておりました。


 そうしてやっと、わたくしは理解してしまったのでした。あの人は、もうこの世にはおりません。ただあの人の意志を継いだ若者たちが、立ち上がっているのでありました。あの人の声を聞く事はもう叶いません。愛しい人は、もうこの世にはおりません。


 わたくしの毅然は、ここまででした。

 襖が閉まる前にもう、全てがぼやけて崩れていくのでした。

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