第16話 過去の私 今の私
患者を亡くしたのはこれが初めてだ。
私はベッドに入り寝ようとしてもなかなか寝つけなかった。
旦那さんを失った奥さんの姿がどうにも母の姿と重なって頭から離れない。
きっと私が死んだ時もあんなふうに泣いたのだろう。もしかしたらそれ以上に。
母親が子供の死を見ることほどつらいことがあるだろうか。
母には本当に申し訳ないことをした。
生まれて物心ついた時から私の家は母一人子一人だった。
祖父母は隣の県に住んでいてたまに会うことがあった。祖父は私が小学生の時に亡くなり、祖母は私が死んだ時もまだ存命だった。
父がいないことは何となく母には聞けなかった。母も話題に出すことは一切なかった。
事故死や病死であれば昔話に語って聞かせてくれただろうから言えないような人間だったんだろう。思い出したくもないほど嫌な記憶だったのか、思い出すほどの価値もないしょうもない男だったのか。
母は頑張って働いてくれた。だから貧しいと思ったことはなかった。
だけど出来るだけ家計に負担をかけたくなくて頑張って勉強した。お金がかかるから塾にも行かず、受験対策は本屋で参考書や赤本を買って独力でやった。
頑張りは報われて、高校大学ともに特待で入学できた。
高校受験に受かった時、母は本当に喜んでくれて、でも『お金のことは気にしないで自分の行きたい学校に行ったらいいんだからね』と言った。私は『でもここに行くつもりで他は願書出してないでしょ』と言いながら笑った。
大学受験の時も母は同じようなことを言って、私もまた同じような返答をした。
しっかりしているけどちょっとボケたところもある母だった。
大学は経済を専攻した。母子家庭で何をするにもお金のことが頭の中心にある人生だったからお金というものを学びたいと思ったし、政治的社会的に多くの母子家庭には様々な問題があるとも感じていたから、そういうことも深く知りたいと思った。
他の同級生の多くはサークルに入って楽しそうにしていたけど私は入らなかった。
特待で入ったから成績を維持しないといけなかったのと、バイトをして自分にかかるお金は自分で稼ぎたかったから。
バイト先は時給の高さで自宅の隣駅にある学習塾を選んだ。もちろん夜の仕事のほうが時給は高いけど、母に話して心配されるようなことはしたくなかった。
塾では中学生を教えていたから子供が可愛いと思うことはあまりなかったけど、仕事はやりがいがあった。個別指導で担当していた生徒の成績が上がると嬉しかったし、集団指導では10人ちょっとの人の前で話す経験、教える経験はその後の糧にもなったと思う。
私はそこで同じくバイトで働いていた人と仲良くなり付き合うことになった。好きなものや考え方が似ていて気が合ったのだ。大学2年になる少し前のことだった。
彼は他大学の人で私は勉強とバイトでそれなりに忙しくしていたから会う時間は一般の大学生カップルよりは多くなかったと思う。それでも一人暮らしをしていた彼の部屋で私は勉強、彼は本を読んで一緒の時間を過ごしたり、気になる映画あれば観に行き、水族館や植物園みたいな普通のカップルのデートスポットにも行った。年に一回は近場の温泉街に旅行もした。
彼と過ごす時間が好きだった。彼のことが好きだった。笑った時の口の形が、優しい心根を表す言葉選びが。
大学を卒業して私は広告代理店の営業職に就いた。広告の仕事は面白そうだったのと、給与水準の高さが決め手だった。
仕事はなかなかハードだったけど、クライアントに広告内容のプレゼンをするときなどは塾での経験もちょっと活きていたかなと思う。
2人で会う頻度は学生の頃とそんなに変わらず、私たちは付き合いを続けていた。
しかし社会人4年目になった頃__
彼の家で彼はサブスクで映画を見ていて、私はそれを横目で見ながらSNSをしていた時だった。
「奈緒ちゃんっていつ頃結婚したいとかあるの?」
気づけば私たちはそんな年齢になっていた。大学の時から付き合っているカップルは卒業して2、3年くらいしたら結婚する人も多い。私の友達にも1人いた。
彼との付き合いも6年ちょっと。好きなのに、でも……
結婚は考えられなかった。
結婚にいいイメージがなかった。
父のことを口に出さない母。
結婚を機に仕事を辞めて旦那さんの転勤について行った知人。
子供ができてキャリアがなくなった友人。その友人は子供に障害があって苦労している。
それにSNSを開けば、夫のDV話やら義母の愚痴やらが溢れかえっている。
「……」
「そっか、奈緒ちゃん、結婚は考えてないんだ……」
これが決定打になったんだと思う。
私たちは次第に会う頻度が減り、最後は通信アプリでお別れを言って終わった。
好きだったから悲しくてつらくて。
でも好きだったのに結婚を考えることはできなかった。
それからは毎日仕事をして、休日はたまに友達とランチや飲みに行き、それなりに楽しく過ごしていた。
そして5年後、会社の健康診断で癌が判明した。
追憶から浮上した私はベッドに仰向けになり天井を見上げ片腕を伸ばした。
(この体の元の持ち主、『お嬢様』って何者なんだろう)
前に見た夢から考えるに『お嬢様』はどこかの貴族の令嬢か豪商の娘だろう。
そんな家の子がいなくなったのに失踪届が出ていないのは何かがおかしい。
(どんな可能性がある? 書き置きをして家出? それでも絶対探すはず。だったら探す必要がない状況……?)
分からない。
逆に考えてみよう。『お嬢様』はどんな事件に巻き込まれたのか。
(お金持ちの家の定番といったら身代金目的の誘拐?)
その取り引きがうまくいかなくて殺された?
でも誘拐犯が殺すにしたってあれほどの暴行を加える理由はないはず。
あの暴行には絶対恨みがあった。
じゃあ『お嬢様』が痛めつけたりクビにした使用人の誰かの犯行? 私が夢で見た4人の他にも被害者はいそうな気がする。だとしたら犯人を絞り込めない。
(でもちょっと待って。失踪届が出ていないのはおかしい。……家族が、もう死んでいると勘違いしているとしたら?)
例えば、私がこの体に入った時のほぼ死にかけていた姿を写真とかで見せられて死んだと思った、とか。
それはあり得る気がする。
だとしたら『お嬢様』を殺した犯人を警察は今も探しているのだろうか。
(もしくはもう一つ。家族があえて失踪届を出さなかった、とか)
何らかの理由で『お嬢様』の存在が不都合になり、家族の誰かが手を下したか、事件に巻き込まれたのをこれ幸いと放置しているか。
(この可能性はあまり考えたくないわね)
この世界で生まれ変わってしばらくは『暴行されていて身元もわからない』ことからまた誰かに襲われるんじゃないかと恐れていたが、未だに知り合いにも会わない。
それならそれでいい。
このまま何事もなく平和に暮らしたい。
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