第2話 はじめからがよかった!

 まどろみの中からゆっくりと意識が浮上する。まぶたを持ち上げると、視界には白い天井が飛び込んできた。


 「痛っ……」


 覚醒するにつれて手足の痛みを感じ取った。意識を失う前のような命の危機を感じるようなものではなく、痛み止めを使わなくても耐えられそうなレベルだ。

 首だけを動かして周りを見ると、両隣にはベッドが置かれ、体には至るところに包帯が巻かれ治療を受けた形跡があった。


 (病院? でも誰もいない……どうしよう)


 とにかくここはどこで自分はどうなったのか尋ねたいが、人影も気配も感じられない。痛みは動けないほどではないが、下手に動いて悪化させてもまずい。首を限界まで動かしてナースコールを探すが、それはおろか枕元にはモニターやコンセントなど、自分が入院していた病室にあったような設備もなかった。

 いつの間に転院したのだろう? 私は仕方がなく大声を出して人を呼ぶことにした。


 「すみませんー! 誰かいませんかー?」


 声を出して驚愕した。


 「アーアー……これってどういう……私の声じゃない……!」


 発された声色は32年間慣れ親しんだ自分のものではなかった。

 激しく動揺する私のところに、声を聞きつけた白衣の男性がやってきてベッド脇に立った。


 「気がつきましたか」


 眼鏡をかけた50代くらいの男性は、あの激痛の中で見た人のうちの一人だと思い出す。その人の容貌は西洋的で、日本語が上手だなと感心した。


 「あの、ここは病院で合ってますか?」

 「えぇ。私はこのハリス魔法診療所の医師でキャメロン・ハリスです。あなたはヴェーテ川のほとりで倒れているのを発見され、ここに運ばれてきたのです。一体何があったのです?」


 聞かれても全く心当たりがない。なにせ自分はもう病院のベッドから動くこともできなくなっていたのだから、川になどいるはずがない。


 「分かり、ません……」

 「そうですか。ショックで記憶が混濁しているのでしょうね。ともかくあなたは全身に怪我を負っていて非常に危険な状態でした。それで命に関わる部分の治療してあります。ただ腕や肋骨、足の骨折は魔法で痛みを軽減しているだけなので動かないように」

 「はい」


 先程から何度か使われる『魔法』というワード。どういう比喩表現なのか気になるがハリスの話はまだ続いていた。


 「診察したところ、あなたは誰かに暴行され負傷したようです。それも思い出せませんか?」


 暴行された!? どこで誰に!? 分からないことばかりで頭がぐらんぐらんしてきたような気がする。


 「何も分かりません……。あの、べーて川ってどこにある川ですか?」

 「帝国南部の街、ロドス州ハールズデンですよ。分かりますか?」

 「いえ……」


 私の返答に彼は顔色を変えた。


 「あなた、自分の名前は分かりますか?」

 「菊池奈緒です」

 「キクチナオ……あなたの容姿は純粋なジルタニア帝国人に見えますが、出身はどこなのです?」


 『ロドス州』に『ジルタニア帝国』またしても知らない単語が増えた。

 私が戸惑い二の句が告げないでいると、彼が気遣って話題を変えてくれた。


 「相当混乱しているようだ。落ち着くまで話を聞くのはやめておきましょう。それで私の方から体の状態を説明しておくと、怪我は頭蓋骨骨折と脳挫傷、肝臓にもダメージを負っていて治療魔法をかけました」


 (また出た『治療魔法』。一体なんなの?)


 「骨折は肋骨と右腕と左脚で肋骨の治療はしてあります。暴行による打撲傷は全身にありますが、女性ですし見た目は気になるでしょうから顔の治療はしておきました。綺麗になっていますよ。鏡で確認しますか?」


 なぜ治療された部分とされていない部分があるのかも気になるけどとりあえず置いといて、そこまで酷い怪我だったのが本当に治っているのか気になり頷いた。

 彼は別の部屋から手鏡を持ってきて私に手渡してくれた。

 なんだか嫌な予感がする。とんでもないことになっているような。

 私は恐る恐る手鏡を覗き込んで、そこに映った顔を見て全身を貫くような衝撃に襲われた。

 その姿は私(菊池奈緒)とは似ても似つかぬ、黒く長い髪は毛先でコテで綺麗に巻いたようにカールを作り、その造形は西洋人形のように整っていた。ただ欠点があるとすれば、吊り目がちな眦(まなじり)と赤い瞳からキツい印象を受ける。日本人の感覚的に外国人の年齢を推定するのは難しいが、20歳前後くらいだろうか。

 私は現実なのかと確かめるように顔を触ってみる。触覚は柔らかくスベスベとした感覚をしっかりと拾った。

 ふとその指に注目すると、私(奈緒)よりもほっそりとしており、鏡から実像に視線を移して両腕を見ると、アザのない肌の部分は顔と同じように白く、そして華奢だった。それに腕にあったほくろもない。

 聞き馴染みのない国名に地名。鏡を見れば映るのは別人の顔。この状況を考えるに、知らない世界の別人の体に私(奈緒)の意識が入り込んだとしか思えなかった。




 鏡を見つめて呆然とする私を訝しんだのだろう。ハリスから声がかかった。


 「綺麗に治っていると思いますが、どうしました?」

 「い、いえ、何でもありません。本当に傷一つないので驚いただけです」


 どうしよう……ここはどこ、私は誰!?

 とっさに取り繕ったが、脳内は大パニックだ。

 現時点で分かっていることはないに等しい。知ったかぶりを決め込むにも情報がなさすぎて無理だろう。


 (このハリスさんと名乗ったこの先生が良い人なのに賭けて正直に言うしかない……)


 「何も分からないんです。ここがどこなのかも自分のことも……」


 さすがに魂が別人の体に入ってしまったようだ、とまでは言えなかったが、それでも私の言葉に先生は顔色を変えた。


 「落ち着いて。頭を酷く損傷していましたから、一時的に記憶が混乱することはままあることです。しばらくしたら思い出せるようになりますよ」


 先生はそう言うが、これは単なる記憶喪失ではない。時間が経てばそのうちこの体の持ち主の記憶が蘇るなんてことはあるのだろうか……?


 (でも脳にはその記憶があるんじゃ……? だから言葉が分かるのよ。でも他の記憶は怪我のせいで一時的に思い出せないだけ? それとも魂が別人だと言葉以外の脳にある記憶は引き出せない?)


 そういえばテレビで見たことがある。二重人格の人の場合、主人格は副人格の記憶も共有するが、副人格はそれが表に出ている間の記憶しか持たない、という話。

 今の私の状態も似たような感じで、この体にあるはずの記憶が引き出せないのは、私が本来の人格じゃないから、とは考えられないだろうか。

 それでも言葉が分かるのは不思議だけど、それも二重人格の人と同じだと考えると妙に納得できた。


 (って考えてもどうしようもないことを考えるのは今はやめよう。それよりも、これからのことを考えないと)


 と気持ちを切り替えてはみたものの、ゲームで言うなら他人のセーブデータを途中から始めるような状態で、しかも多分無一文。どうやって生きていけというのか。


 (前世は病死。生まれ変わったと思ったら誰かの人生の途中からって……。神様! 私あなたに何か悪いことしましたか!?)

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