襲撃事件・表(Ⅱ)
「――トバイアス」
「フェリックス! マーガレットは」
先程までマーガレットの側にいたフェリックスは、安心してくれ、と朗らかに笑った。
「ショックで破水してしまったが、早産ではないから、無事に生まれてきそうだ」
「そうか......よかった」
深々と息を吐いて、トバイアスは椅子に座り込む。
「すまない。王家主催の宴でこのようなことになるなど......」
「構わないよ。マーガレット本人に怪我はなかったしね」
「そう言ってもらえると助かる」
大使らに被害は出ていないのが幸いだ。
「ところで、ここにいていいのかい? 妃殿下は怪我を負ったと聞いたけど」
「大したことあるまいよ」
「そうかい? ならいいんだけど」
トバイアスは、薄らとフェリックスが浮かべた笑みに気づかなかった。
「それだったら、お願いしてもいいかな? マーガレットが医師が少ないと不安がっているんだ。問題ないのなら、妃殿下を見ている王医か
「構わない。従者に遣いをさせよう」
ところが、従者は、それは難しい、という返答を携えて帰ってきた。
「あちらは随分と切羽詰まっているようで......」
「たかが矢だろう」
「毒矢だそうです」
「だとしてもどうせ耐性はあるだろう。医師のひとりも寄越さんとは.....底意地の悪い」
はあ、とトバイアスは深々と溜息を吐く。
「それと、お時間があれば、貴賓の対応に回っていただけないか、と」
「は? ユージンはまだそれすら出来ていないのか」
「そのようです」
トバイアスは深々と溜息を吐く。肝心なところで無能な弟だ。
「......私はマーガレットの側を離れられない。ひとりでそんなこともできんのか、と伝えろ」
「は、はい」
従者が慌てて出ていく。それを見て、トバイアスはもう一度溜息を吐いた。マーガレットの呻き声はまだ続いている。夜は、長い。
破水から半日も経たぬ朝、王宮の一角で産声が上がった。
「生まれました! 男児です! 母子ともにご無事です!」
歓声が辺りを満たす。司祭の寿ぎを受けた赤子は、マーガレットの腕に抱かれていた。髪はまだ薄いが、瞳は鮮やかな翡翠だ。
「ありがとう、ありがとうマーガレット」
「もう、フェリックスったら泣かないで」
「う、嬉しいんだ。僕と君の子だ......想像よりもずっとずっと可愛い」
「そうかしら? ふふ」
「名前はどうしようか」
「そうねえ、エーミールなんてどうかしら」
「エーミールか。良い名前だ」
フェリックスは心底嬉しそうにその名前を繰り返し呼んだ。
「――君とエーミールが無事に生まれてくれて、これほど嬉しいことはないよ」
室内は祝福の空気に包まれた。トバイアスも、思わずもらい泣きしてしまった。喜びを噛みしめながら、その日は眠りについた。
翌日――襲撃から二日経ってようやく、トバイアスは執務室に足を運んだ。しかし、ユージンはいない。ジェレミーもマーガレットの出産後から姿が見えなかった。首を傾げつつ、ユージンの居室に向かう。
ユージンは書類を裁いていた。しかし、あまり多くはない。この程度ならひとりで回せただろう、と安堵する一方で、この量でまだ終わらない弟の要領の悪さが悩ましかった。
「すまない、ユージン。色々と任せてしまって」
「問題ありません。貴賓への対応くらいしか、やることはありませんでしたし」
「だが、書類が随分溜まっている。
「いえ、問題ありません。兄上は戻っていてください」
「……分かった」
出ていこうとしたトバイアスは、直前で足を止めて振り返った。ユージンは完全に視線を書類に落としている。
「そうだ、ユリアーナに王医と
「はい」
「もう
「
酷く冷めた声だった。
「私とウィンザー医師長が、要不要を判断しました。問題がありますか」
「い、いや。そこまで言うなら、仕方ない」
「ご理解くださり感謝します」
「それとだな」
まだ何か、と問う口調はいつになく棘がある。マーガレットの側にいられなかったから、腹が立っているのだろうか。
「姫が随分勝手をしたそうだな? 貴賓の対応を女ごときがするなど……国の品位が疑われてしまうだりう。私がもう一度」
「結構です。姫の対応は素晴らしかったと各国の大使も仰っておりました。陛下はグリーンハルシュ嬢の側にいてください」
「そ、そうか。ではそうさせてもらう」
ユリアーナの容体を聞くのを忘れたな、と部屋を出たトバイアスは思った。まあ、大したことはないだろうが。
「執務に戻るか......」
ユージンがあの体たらくでは、通常業務に遅れが生じてしまうだろう。私が頑張らなければ、とトバイアスは気合を入れる。
「――ジェレミー?」
「兄さん。遅かったな」
「どうしたんだ。どこに行っているのかと思ったぞ」
「こんな時こそ執務を滞らせたら困るだろう? 後処理も少しは終わったぞ」
末弟の言葉に、トバイアスは恥じ入った。マーガレットの出産で浮かれていたのが丸わかりだ。
「すまないな、ジェレミー」
「いや、大丈夫だ。兄さんはこっちの書類を捌いてもらえるか? こっちはもうすぐ終わるんだ」
「分かった」
黙々と書類を片付けて、終わらなかった分は翌朝に回す。恐らく重要なものはジェレミーがやってくれたのだろう、重要な書類は少なかった。
「はぁ.......二日ぶりでしかないのに、随分久しぶりに感じるな」
「大変なことがあったから、仕方ないさ。じゃ、また明日」
「あぁ」
部屋の前でジェレミーと別れる。そのまま寝ようと思ったが、なんだか寝付けない。気分転換目的でトバイアスは部屋を出た。あてどなく王宮を歩いていると、見晴らしの良いバルコニーに出た。
「――ふう」
トバイアスは手摺に凭れ、夜空を見上げる。新たな生命を誕生するかのように、美しく月が輝いていた。
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