第五夜(Ⅰ)
翌朝。執務室に行くと、ユージンが先に来ていた。
「兄上。太陽がわかりましたよ」
「何、本当か」
「はい、これを見てください」
ユージンに差し出された本を見る。
――王こそ太陽なり。
古語で書かれた文言だ。ユージンが古語まで習得していたことに、トバイアスは驚いた。ユージンは生父の身分が低く、正直10を数えるころまでは使用人だと思っていた。教育を一緒に受けたこともなく、国王にさせるのも不安だったくらいだ。
「……太陽は王、か。ではあの暗号が意味するところは、女のいない部屋の女王……?」
「女王が何を意味しているのか、が問題ですね」
「そうだな。女の王がいる国は.......
ユージンは少し困った顔になる。
「……まだ時間はありますし、追々考えましょう。それよりも、早く出ないと間に合いませんよ」
急いでください、と急かされ、トバイアスは渋々席を立った。お忍び用の装束の上に、地味な上着を羽織る。ユージンも似た衣装だが、行き先は別だ。
「何でまたこんなことに……」
「商会との交渉担当は私ですから」
「それはそうなのだが……」
「兄上、往生際が悪いですよ」
商会に行くユージンは、すっかり支度を終えている。
「ジェレミーが孤児たちと会話できるとお思いで?」
今からトバイアスが向かうのは、ユリアーナが行っていた慈善事業の一環である、慰問であった。
ユリアーナは公務のない日に時々王宮を空けていた。ユリアーナがどこにいようとどうでもよかったので気にも留めていなかったのだが、今回資料を整理していたところ、慰問の記録が出てきたのである。慰問先で何か話しているかもしれない、ということで、たまたま今日訪問する予定だった孤児院に行くことになったのだが、ユージンは本人も侍従もユリアーナの死因に関する調べ物や諸外国への対応、引き継ぎで忙しく、行けず。ジェレミーは過度な選民主義であるため、自身は愚か、侍従さえも孤児院に向かわせることを拒んだ。更にはトバイアスの侍従はユリアーナの謎かけに関して図書館に籠りきりのため、やむなくトバイアス自身が出てくることになったのだ。
「面倒な……」
よく王宮を空けているとは思っていたが、そのほぼ全てが慰問に使われているとは思ってもみなかった。しかも、今回行く孤児院は、貧民街にあるという。行きたくないのは山々だが、マーガレットとの約束がある以上、行かなければならない。
何かしら手掛かりが有ればいいが、と馬車の窓から曇天色の空を見上げた。
馬車が孤児院に着くと、外で遊んでいた子供たちが動きを止めた。
「おじさん、おじさんがユーリさまのこと……」
「ラルフ!」
ユーリさま?
聞いたことのない名前にトバイアスの頭に疑問符が浮かぶ。それと同時に、孤児院から中年の司祭が出てきた。この辺りでは珍しい、浅黒い肌だ。西の出なのだろうか。
「申し訳ありません、お出迎えが遅くなりまして……」
「いや、構わない。ところで、ここは妻が慰問に訪れていたという孤児院であっているのだろうか」
「はい。あの瞳を違えることはないでしょう」
確かにそれはその通りだ。夜が明ける僅か前のような、菫の花に一滴青を垂らしたような、美しい色の瞳は、他にない色だった。
「では、ユーリさま、というのは誰のことだ? もしや内縁の夫でも連れてきていたのか?」
そう尋ねた瞬間、司祭と、会話が聞こえる範囲にいたのだろう子どもたちが驚いたように眼を瞠った。司祭は笑い、子どもたちはますます顔を険しくする。
訳が分からない。
「いいえ。基本的に妃殿下はおひとりでいらしゃいました。ユーリさま、というのは、子どもたちがあの方を呼ぶ名前です」
「……妃殿下、ではなく?」
「はい。何しろユーリさま御自身が、ユーリと呼んでほしい、と仰ったものですから」
聞き捨てならないことをさらりと言って、司祭は足元に寄ってきた子供の頭を撫でた。先程大声を上げた幼い子供は、じっとトバイアスを見上げていた。
「おじさん、ユーリさまのことどうおもってるの?」
「ラルフ、控えなさい」
年長の子供がまたしても幼子を連れてゆく。年長の子供は、軽蔑に似た一瞥をくれて孤児院内に入って行った。
……本当に何なのだろうか、この孤児院は。
「お前たちも、部屋に戻りなさい」
はい、という返事があって、子どもたちは一斉に孤児院に戻っていく。
「子供たちが非礼を致しましたこと、お詫び申し上げます」
「構わぬ」
「ありがたきお言葉。私は十年ほどこの地で司祭を務めております、ミック・ゾーラと申します」
「あぁ」
「敬称でお呼びしたいところですが、何があるか分かりませぬ。仮名でお呼びすることをお許しいただいても?」
「そうだな……ではトビアス、と」
「では、トビアスさま。ご案内いたします」
こちらへ、と司祭はトバイアスを誘った。
孤児院はあまり広くはなかったが、隅々まで清掃が行き届いていた。
「意外だな」
「何がでしょう」
「貧民街というから、もっと薄汚れたところを考えていたのだが、道中も大して見苦しいところはなかったし、ここも清掃が行き届いている。思いの外、貧民街はしっかりしているのだな」
「……そうですね」
先程まではしゃいでいた子供たちの声が、今はほとんど聞こえない。どうしたのかと尋ねれば、勉強の時間なのです、という答えが返ってきて耳を疑った。
「勉強!? 孤児がか!?」
「はい。2の鐘から5の鐘までは。孤児だけでなく、近隣の子供たちも集めてやっております」
「は!?」
貧民が何をそんなに勉強することがあるのだろう。使う場所もないだろうに。
「普段は私が皆に教えたり、年長の者が年少の者に教えるのですが、ユーリさまがお越しになる時は、ユーリさまが自ら教えてくださることもありました」
「は!?」
予想外過ぎて、思わず声が裏返った。だがすぐに落ち着く。どうせ小さな子供に文字を教えていた程度のことだろう。
「見て行かれますか?」
「あぁ……」
勉強部屋として物置を潰しました、と案内された部屋で、更にトバイアスは仰天した。年少の孤児が文字を習っている一方で、成年に近いと思しき青年が官吏登用試験やら何やら、難しい試験の勉強をしていたからだ。トバイアスは隣の司祭に視線を移した。
「司祭はすごいな。官吏登用試験まで履修しているのか」
「とんでもない。私が出来るのはせいぜい読み書きと一般教養までですよ。少し、商会の書記の仕事を手伝っていますが、その程度です」
「では誰が?」
「ユーリさまですよ。わざわざお手製の教本までお作りくださったのです」
トバイアスは白目を剥いた。つまりはユリアーナが官吏登用試験の内容を把握していたということだ。
「……そうだったのか」
「ええ。教え方も丁寧で分かりやすくて、ユーリさまの授業は好評でしたよ」
「……なるほど、そういうことか」
それでようやく合点がいった。ユリアーナはノアあたりに教本を書かせ、さも自分が書いたかのように振る舞っていたのだろう。考えそうなことだ。
侮蔑の響きを感じ取ったのか、司祭はトバイアスに目を向けた。
「トビアスさま。差し出がましいこととは存じますが、教本を他人に書かせて読んだとて、本質的な理解にはなりません。書いた本人でなければ教えることは不可能ですよ」
トバイアスは言葉に詰まった。当たり前のことだというのに、どうしてかユリアーナがそれを成したということを認め難かった。
「謎かけとか、物語とか、子どもたちが楽しみつつ学べるように色々考えてくださいましたからね」
「……楽しめる?」
「おや、お聞きになったことはありませんか。謎を解いた時に見せてくれる子どもたちの笑みがとても愛おしいと」
謎かけをして男を困らせていると、男を嘲笑っていると思っていた。
「……そう、か」
ートビー、と呼んでもいい?
結婚したばかりの頃はーそれこそ婚約中は、笑顔を見せることが多かった。いつから笑みを見せなくなったのだろうと考えて、それが思い出せないほど昔のことであることに愕然とした。
「……ユリアーナは」
続く言葉をトバイアスは飲み込んだ。
ーどうして、自ら命を絶ったのだろう。
お前の考えていることが、分からない。
――分からないことは一緒に考えればいいのよ。三人寄れば文殊の知恵、と言うでしょう?
笑みを含んだ声が甦り、トバイアスは固く目を瞑った。
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