白銀の彗星

「よーい、しょっと!」


 ツナギとゴーグルを着けたイクトがバールを振りかぶる。重さにまかせて振り下ろす――彼の顔面にヒビが入り、世界全体に波及した。


「よーしここは終わり」


 バールを下ろしたイクトが汗をふく。彼がいるのはトイレの洗面台前。いま割った鏡を含めるともう十八枚破壊している。男子トイレ一箇所につき鏡が三枚。それが各階に二箇所で、校舎は三階建て。合計で十八枚だ。


「そっち終わった?」


 同じ格好のレイカが入ってきた。こちらは男子トイレだが意に介していない。イクトが割ったばかりの鏡を見ると、やれやれと首を振りながら言った。


「だめだめ。一枚につき二箇所は割れって言われてたでしょ。念のために」

「そっか。そうだった」


 イクトがバールをかつぐ前に、レイカがその胸の前に手をかざして下がらせる。


「まかせて」


 金属バットを持ち上げるレイカ。バットを立てて頭の後ろで構え、ちょっと回す。そしてそのまま思いきり振り抜いた。おそらくトイレで響くはずのなかった甲高い音を立てて鏡が砕け散る。


「いちまーい」


 流れるように隣の鏡へ。


「にまーい」


 そして最後の鏡も破壊した。


「さんまい! どう? こんなもんで」


 笑顔でひたいをぬぐうレイカ。イクトはなんと答えていいものかわからず、とりあえず拍手した。貴重なレイカの笑顔を見られたのは良いのだが、男子トイレで鏡を割った直後となると喜んでいいものやら。

 レイカが手早く個室をチェックしていく。


「よし。鏡なし。これでトイレは終わったよね?」

「う、うん」

「じゃあ資材室の方を見てみようよ。鏡あるかも」

「そ、そうだね」

「よし! じゃあ行こ」


 うきうきと金属バットをかついで、レイカがトイレから出て行った。完全に破壊された鏡からカケラが落ちて洗面台で軽い音を立てた。


「おっかねえ」


 イクトはそうつぶやき、後を追った。



「はい。シズクです」

『どこまで進んだ?』


 スマホを手に取るシズク。手には金槌。話しながらも大きな鏡にこつこつ取り組んでいる。柔道場の壁に埋めこまれた横長の鏡だ。こういう場合は何カ所割れば壊したことになるものか、シズク自身にもよくわかっていない。


「もう少しで終わりそうですよ」

『了解』


 こぶしひとつぶんの間隔を空けて等間隔に鏡にヒビを入れている。背伸びして行っていた作業は中腰になり、いまではようやくひざの下まで来ていた。長かった苦行もようやく終わりを迎えたのだ。

 最後の打撃を加えようとして、彼女ははたと凍りついた。


 星空が見える。


 金槌は消えてしまった。床も消えてしまった。鏡も壁も天井もなにもかも、どこかへ行ってしまった。

 代わりにあるのは星空であり、眼下の惑星である。青い大気をまとった球体がゆっくりと回転している。シズクは愕然とした。そして同時に、この惑星には見覚えがあると思った。


 し、ず……。


 なにやらノイズが聞こえるが、構わずに背後を見る。


 シズクの両目が大きく開かれた。

 そこにあったのは銀色の物体だった。まるで彗星を凍らせたように見えるそれは、惑星の軌道上になんなく浮かんでいる。その優雅で滑らかな曲線にシズクは覚えがあった。


 いつの間にか手元に浮かんでいたスラスター制御棒を握りしめる。彼女は真空を蹴るように物体へと飛翔した。シズクを包む透明の環境バブルが加速度に揺れる。


「間に合え、間に合え」


 知らずのうちに彼女の口が動いていた。すさまじいGにさらされながら、視界の中で拡大する物体に向かっていく。

 あそこにはとてつもなく愚かな……宇宙一愚かで、しかもそれに気づかないばかりか、自身が天才であると信ずる愚者がいるはずだった。

 が。


「間に合え!」


 あまりに巨大な物体であるがゆえ、その距離の縮め方たるや微々たるものであった。ようやく表面の慣性制御エンジンや、レーザー排熱口が見分けられるようになってくる。

 もうすぐ、もうすぐ。

 熱に浮かされたようにバブルを操りながら、シズクは物体の出入り口の検討をつけた。


 物体から閃光が爆ぜた。


 それはシズクの視界を失わせるのに十分であり、さらにこの後の出来事を思い出せるのにも十分であった。

 光の洪水を浴びながら、シズクは周囲の宇宙全体が書き換えられていくのを感じた。足下の惑星が消えていく。その数十億の住民を巻き添えにして、

 それは星系全体、そして種族全体の歴史を抹消する行為だった。


 光が止むと、シズクは虚空に取り残された。


 スラスター制御棒の構造がきしみ、悲鳴が上がる。


『シズク!』


 シズクは自分が金槌を握っていることに気づいた。

 息が乱れている。


『おいシズク!』


 こわばった手を開いて金槌を離すと、手のひらが湿っていた。鏡を見る。ひたいや首筋にも汗が浮いていた。


『どうした、シズク。応答しろ』


 ふた呼吸ほど置いて、彼女は悟った。夢を見ていたのだ。いや、見させられていたのか。


「……魅入られていました。鏡に」

『なに? すぐ行く』

「いえ!」


 思ったより大きな声が出てしまった。声量に気をつけて言い直す。


「問題ありません。八的さんの呼びかけで戻って来られました」


 相手がなにかを察する間があった。気遣うような口調になって八的が言う。


『よく戻ってこれたな』

「鏡の特性を知っていて警戒していたのと、魅入られてすぐに呼びかけたのがよかったのでしょうね」

『何を見たのか、聞いてもいいか』


 少し逡巡して、シズクが答える。


「見たいものを。ずっと見たいと思い続けているものを」


 八的は何も言わない。

 シズクは金槌を持ち直した。大きく振りかぶって、鏡に致命的な一撃を見舞う。破片が飛散した。

 彼女は息を整えて、金槌を放り投げる。


「いま終わりました。そちらはどうでしょう」

『まだだ。状況に変化はない』

「わかりました。鏡の捜索を続けます」

 

 通話を切った。白衣の袖で目元をぬぐう。



 日はもうとっぷりと暮れていた。


 校舎で囲まれた四角い中庭がある。ここは生徒の憩いの場だ。芝生を小川のように走るレンガの歩道と点在する植木が印象的で、芝生と歩道の境目にはベンチがいくつか設置されている。

 だがいま動き回るのはふたつの人影のみ。イクトとレイカだ。


 スマホのライトで地面を照らしながら歩き回っている。芝生を見つめてなにかが光を反射していないか目をこらす。レイカが手近の芝生に向けて駆け寄ったので、イクトはそちらを期待のまなざしで見つめた。


 彼女がなにかを手にして……すぐに投げすてる。ハズレだったようだ。ふたりそろってため息をつく。


 よっこらせ、とイクトはベンチに座った。


「ちょっと、なに休んでるの? まだ終わってないんだけど」

「いや、見落としがないかと思ってさ」


 ツナギのポケットから折りたたんだ紙を取り出し、広げる。

 それは校舎の配置図であった。スマホのライトで照らして眺める。ベンチに振動を感じたイクトが横を見ると、思いがけず近くにレイカがいた。イクトの方に顔を寄せて配置図を見つめている。


 イクトの目はレイカの顔に吸い寄せられてしまった。目つきが鋭いといつも思っていたが、いまは優しい表情だ。なんだか鼓動の高鳴りを感じて落ち着かない。


「校舎は全部見たね」


 レイカの声がして、イクトは現実に引き戻された。あわてて地図に顔を戻す。


「そっ、そうなんだよ。教室は全部見たし、資材室も保健室も食堂もしらみつぶしに見てる。でも体育館の人たちはまだ治ってないらしい」

「機械室まで探したもんね……あとは……」


 考えこむレイカ。ぶつぶつと部屋の名前を羅列していく。

 しかしやがてあきらめると、ベンチに両手をついて背を逸らした。


「わかんなーい。あの子が見落としてるんじゃないの?」

「あの子?」

「堺くんの彼女さん」


 一瞬考える間があって、びっくりしたイクトが地図を取り落とした。両手を胸の前でぶんぶん振る。


「いやいや、あいつはそういうんじゃなくて」

「じゃあなに? 仲よさそうじゃん」


 心底不思議そうに聞かれて、イクトは口ごもった。なんと言えばいいものか。


「えーっと……相棒かな」


 首を傾げるレイカ。ひたいをかきながらイクトが続ける。


「シズクは、こういう事件のエキスパートなんだ。俺はその助手。いつも一緒に事件を解決してる」


 イクトを見つめるレイカの両目がきらめいた。ベンチのあたりを指差す。


「えっ、じゃあ、こういうことはよくあるの?」

「ベンチが?」

「ううん、こういう不思議なことは」

「あるよ。知られないようにしてるだけ。学校でも何回かあった。この前はテケテケと戦ったし」


 レイカが目をむいた。ついで疑わしげにイクトを見やる。その瞳のなんと澄んでいることか、とイクトは感嘆した。


「テケテケって、あの七不思議の?」

「そうそう。上半身だけで走ってくるやつ」


 レイカの脳裏に事実が染みこむまで、少し時間を要したようだ。やがて彼女は前を

向いて言う。


「そうなんだ。すごいんだね堺くんって。ただのぼっち高校生じゃないんだ」


 そんなふうに思われてたのか、と若干傷つきながらイクトが聞いた。


「信じるんだね」

「あたし、他人がウソをついてるかどうかはよくわかるの。そういうひとに囲まれてたから」

 

 レイカの顔が曇る。イクトはなんと声をかけたものかわからなかった。そういえば、彼女のことは何も知らない。それなのになにを言えばいいというのか。


「ええと……」

「忘れて」


 レイカは少し笑い、そう告げると立ちあがった。髪が彼女に付き従い、空気の中を滑らかに流れていく。


「鏡。探そ」


 スマホをまた光らせると、ベンチから去っていった。イクトはついに言葉をかけられずじまいだった。

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