第8話 記憶の行方
私自身は覚えていない、何か懐かしいこと。思い出せないのと思い出すの、どっちが幸せなんだろう。幸せな記憶と悲しい想い出。
お母さんが入院した。普段風邪一つひいたことがないのにと言うと弟の和樹も初めてじゃないかと答えた。お見舞いに行く車の中でお父さんに聞くと和樹を生んだとき以来だねと笑っている。お父さんと一緒にお母さんの好きな花を買い、病室へ向かう。何かが懐かしい。こんな事が昔あった。誰のお見舞いに来たんだろう。
お父さんが「ここだね」といって立ち止まる。二〇六号室。四人部屋のネームプレートにお母さんの名前がある。
病室の中に入るとお母さんは暇を持て余しているようで、体を起こして編物をしている。「お母さん」と呼びかけるとお母さんはようやく私たちに気づく。お母さんは後ろで束ねた長い髪を揺らして一言「ありがとう」といって微笑む。ああお母さんのお見舞いに来たことがあったんだ。こうやって「お母さん」って呼びかけて振り向いて。昔、同じことがあった。そんなことを思い出す。
お父さんは相部屋のお婆さんに頭を下げて椅子を借りる。私はその椅子に座らせてもらう。
「和樹は部活だって」お父さんが申し訳なさそうに伝える。
「照れてるんだよ」
と私が言うと、「そうかもね」とお父さんは相槌を打つ。
「男の子の気持ちってよくわからないな」お母さんは残念そうに溜息をつく。
「そんなものだろ。僕も女の子の気持ちなんてよくわからなかったよ」
困ったようにお父さんが笑う。お父さんは私の気持ちもよくわからないのかななんて思う。
「ねぇ。お母さんは何を作っているの」
少しやな気分になったので空々しく話題を変える。
「マフラーにしようかなと思っているんだけど」
お母さんは何がいいかなとはにかむ。
「私マフラーほしい」
「そう。それなら頑張って作るね」
お母さんが明るい声で答えてくれる。この調子ならお母さん、大丈夫かな。
しばらくお父さんを置き去りにして二人で話し込む。お父さんは静かに私たちの会話を聞いている。お母さんが話しつかれたのを見計らって、「そろそろお暇しよう」とお父さんが切り出す。私がうなずくと
「それじゃあ、またくるよ」
お父さんがお母さんに伝える。
「待ってる」
お母さんは小さく呟いてベッドの上から手を振る。以前見た風景のとおりの別れ。なぜか切ないような気がして涙が出てくる。二人には気づかれなかっただろうか。いつのことだったのだろう。何でこんな気分になるのだろう。懐かしさと寂しさ。そんなことを考えながら病室を後にした。
帰り道、「海を見に行かないか?」とお父さんが誘ってくれた。「まるでデートみたい」と笑うと「そうだね」とお父さんは頷いた。
お父さんとっておきの場所までは、車でも結構時間がかかった。海水浴場の近くの岩場で、もうすぐ十一月と言うこともあって誰もいない。ここも来たことがあるのかななんて考えてみる。お父さんは大きな岩の上で海のほうを向いて腰掛ける。
「和樹が生まれたときは私もお見舞いに行ったっけ」
岩の下からお父さんに聞いてみる。お父さんは小さく首を振り否定する。二歳になる前のことだから覚えているはずはないとも思う。
「誰かのお見舞いに行ったことがあると思うんだけど。気のせいかな」
続けて問う。
「そうだね。双葉をつれて二人でお見舞いに行ったことがあった」
お父さんは海のほうを向いたまま答える。声は穏やかなんだけど「誰の。」と聞きづらい雰囲気がある。
「お母さん、そんなに悪いの?」
思ったことをそのまま口にする。お父さんはびっくりしたように、
「いや、そんなことはないよ。どうしたの」
とたずねてくる。口元は笑っているから嘘はついていないと思う。
「だってお父さん深刻そうだから」
それに何か居心地が悪い。お父さんの座っている大きな岩に登って、隣に立って見る。海はとても澄んだ色。懐かしいような気もするし、はじめてみるような気もするし。よくわからない。
「深刻じゃないよ。ただ。感傷かな。双葉が泣いたみたいに」
気づかれていた。お父さんは涙が零れた理由までわかるのだろうか。私自身なぜ泣いたかわからないのに。
素直に聞いてみる。
「そうだね。誰のお見舞いに行ったのか思い出せたらプレゼントをあげよう」
お父さんは話を逸らす。わからないからお父さんに聞きたいのに。
「ヒント頂戴」
はじめから答えるのをあきらめる。
「双葉は小さいころからお父さんのことお父さんって呼んでたよね」
お父さんの問いに頷く。物心ついたときにはお父さんって呼んでた気がする。隣に立っているからお父さんからは見えないだろうけれど構わない。
「お母さんのことは?」
少し考える。小さいころはママ。お母さんと呼び出したのは中学生になってからだったと思う。釣合ってないと思ってお母さんと呼ぶようにした覚えがある。
「ママって呼んでた」
そう答えると、
「どうして?」
と聞かれる。私が聞きたいのに。これがヒントなのだろうか。ヒントになってないよと更にヒントを要求したけど、
「賞品は何がいいかな」
お父さんはおどけた調子で話を逸らす。もうヒントを出す気がなさそうだ。
プレゼントのためというわけではないけれど頑張って思い出そうとしてみる。何に見覚えあったかな。病院の廊下、紫陽花を持ったお父さん。ベッドの上の女性、長い髪、それから笑顔。「おかあさん」の呼びかけ。でもそのころお母さんのことお母さんって呼んでなかった。ということは。
「おかあさん。その人のことおかあさんって呼んでた。でもお母さんじゃない。お母さんはあんなに寂しそうに笑わない」
自分で何を言っているのかわからない。それでもお父さんは
「正解だよ」
と微笑んだ。本当に微笑んだのかわからない。お父さんはまるで泣いてるようだった。
「そのお母さんは双葉の伯母さんだよ」
お父さんは淡々と話す。
「三隅の伯母さんのこと?」
私の伯母と言えばお父さんの姉にあたる三隅の伯母さんしか知らない。でも三隅の伯母さんとは明らかに雰囲気が違う。お母さんと間違えるはずがない。
「いや、お母さんのお姉さん。もう亡くなってから十年以上経つ」
波音に消えそうな声。お父さんが苦笑する。今日のお父さん、苦笑いばっかり。
「ここからの夕陽はとても綺麗だね」
不意に思い出すフレーズ。ああ、やっぱり来たことがあったんだ。お父さんとお母さん。幸せな家族。でも。
お父さんが黙ってしまった。耳を澄ましても波の音しか聞こえない。だからじっと波の音を聞いてみる。風が冷たくなってきた。小さなくしゃみが出る。そっと肩に上着がかけられる。
「帰ろうか」
お父さんの声は暖かい。
「もう少し」
夕陽を見たい。なんでお母さんが二人いるんだろう。どちらが本当のお母さんなんだろう。お父さんは本当のことを教えてくれるだろうか。声をかけにくい。ききにくい。
「車に戻ろう」
今度は帰ろうと言わなかった。
「双葉」
肩を揺すられて目が覚める。少し寝てたみたいだ。
「ご覧」
夕陽が海におちていく。いつか見たのと同じように。ここにいたお母さんはどっちのお母さんだろう。混乱した記憶に振り回されている。お父さんはもう何も言わなかった。
「どう思う?」
そこまで話して和樹に聞く。和樹は笑って、
「好きなほうを母さんと思えばいいんだよ。そうじゃなければ父さんが教えてくれたはずだろ」
と答える。
「ただ、今まで育ててくれたのは母さんだよ」
和樹が笑う。それでいいのかもしれない。本当のことなんか。お父さんのくれた真珠の指輪とお母さんのくれた手編みのマフラー。真珠の指輪なんて、お父さんはどうして持っていたんだろう?
お父さんがいつもと違ったわけ、少しだけわかった気がした。
行方は知らず 冬部 圭 @kay_fuyube
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます