第7話 世界の行方
僕の世界は酷く歪で、酷く狭くて、酷く脆くて。何でこんな世界なんだろうと恨む気持ちもあったけれど、そんな世界の中にあるだけで、僕は満たされていた。
世界の終わりがあることを僕は知っていた。だけどそのことはあまり考えないようにしていた。気付かないふりをしていたら世界が長く続くような気がしたから。気付かなければ世界が暖かいままのような気がしていたから。
大学への進学が決まったから、しばらく会えないから、話をしたいって言うと、美奈さんは屋上へ行こうって言った。
重い空気の病室を出て、屋上の良く晴れた太陽の下なら、きっと僕の話もうまくいく。そう思おうとした。だけど、話をうまく切り出せず、もたもたしているうちに、話の主導権を握られてしまった。
「一番好きな人と結婚したら、幸せになれると思う?」
美奈さんが笑顔でそう尋ねてきた。答えを間違えるとすべてを失う。そんな刃の前に立たされたような気持になった。すでに僕は蜘蛛の糸に絡めとられていた。こんなことだったら、ひとつ前の「お願い」を聞くという約束は反故にしたい。何を考えても無駄かもしれない。僕の答えは美奈さんの満足する答えではないかもしれない。でも仕方がない。そんな諦めの気持ちから、ひとつ前の、
「正直に答えて」
というお願いに向き合って、僕は馬鹿正直に答えることにした。
「人によりけり。幸せになる人もいれば、幸せにならない人もいる」
答えを知っている詰将棋のように、追い詰められている気がした。
「伸也はどっち?」
間髪入れずに質問が続いた。
「幸せだと思う」
傍目からだとどう見えるかは知らないけれど。否、多分、不幸だと言われるのだろう。そんなことは判っていた。それでも僕は僅かな抵抗をした。どんな終わりを迎えるか理解していても、幸せだと思いたい。そう考えていた。
「それは、主観的に?」
僕の答えは、詰将棋でいうところの無駄合だった。
「主観的に」
もっとうまく立ち回れていたら、未来は変わっていたのだろうか。今でも時折自問自答する。もとから得られるものなんかなかったのかもしれない。そんな後々まで続く僕の逡巡には興味なさそうに、美奈さんが話題を変えた。
「私が知ってる中で一番鈍い人は、一番好きな人と結婚したら客観的にも幸せになれると思う」
美奈さんが言う一番鈍い人は、可奈の事だろうとすぐに判った。僕が知っている中でも一番鈍い人だから。事実だとは思うが、実の妹に対して随分ひどい言いようだった。
「きっと、お互いを知りあう中で一番大切な人と思えるようになるから」
美奈さんは少しだけ間をおいた。
「幸せにしてあげて」
僕の決意は、美奈さんの決意に比べてちっぽけで、貧弱で、情けないものだったのだろう。
「少し、考えさせて」
僕はそう答えるのがやっとだった。
僕の世界に拒まれても、そこに在り続けるべきだったのだろうか。そのことを諦めたから僕は人並みの幸せを手に入れた。いくつかのあり得た可能性の中で、そこそこの充足感がある現在が得られたのだと思う。だけど、最良の選択の結果だったのだろうかという自問は時折ふっと心に浮かぶ。常に最良の選択ができる人生なんてありえないことは判っている。僕は今、幸せだ。だけど、僕を拒んだ僕の世界は幸せなのだろうか?
もう、何日も持たないだろうと聞いて、可奈が最後になるかもしれない見舞いに行きたいという。子どもたちを連れて大移動だ。
病室では義母が出迎えてくれる。義母はだいぶ疲れた顔をしている。可奈は下の子を抱いて椅子に座る。僕は椅子が足りないのでベッドの脇に立つ。義母の話ではここ何日かはほとんど眠ったままだそうだ。可奈と義母の話が続いている。
僕は何もできず、ただ、美奈さんの顔を見ている。ふっと美奈さんの意識が戻ったような気がした。「おはよう」とか「気が付いた?」とか声を掛けようとしたけれど、気の利いた言葉が出ない。意識が戻ったのは、気のせいではなかったようで、目を閉じたまま、美奈さんが問いかけてくる。
「いるの?」
誰のことを聞いているのか判らなかったけれど、
「うん、みんないるよ」
と、可奈が答える。
「よかった」
何が?とは誰も聞かなかった。
その翌日、僕の世界は終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます