第3話 命の行方

 砕け散った命、連なっていく命。死んでしまうとどこに行くの? 死に逝くことが悲しいわけじゃない。ただ自分の存在がなかったことになってしまいそうで。いずれ無かったことになるのなら、今、生きてることの意味がわからなくなってしまいそうで。

 そう、いずれは無かったことと同じになる。だから何か残せた人は満ち足りた思いに包まれたまま旅立って逝く。私はどうだろう。どんな生き方も、どんな死に方も望まない。今この瞬間、私が私であれば。


 病院にはもともと死が満ち溢れていて、そんな中で生きている私にとって終わりは身近なものだった。だからといって別離に慣れたわけではない。二度とあえなくなるのは寂しいし、大切な人がいなくなるのは悲しい。ただ、そんな気持ちとは別に自分を哀れんでいるような気がして自己嫌悪に陥る。そう、いずれは私も。だから同情されない死を迎えたい。蔑まれない別れを。いつからだろうか。そんなことを考えるようになった。


「こんにちは」

 伸也が、妹の可奈と姪の双葉を連れてきてくれる。双葉は伸也の腕の中で幸せそうに眠っている。

「お父さんの抱っこが様になってきたね」

 伸也をからかうと、可奈は

「双葉のお気に入り」

 と答えて微笑む。幸せそうな家族で何より。幸せかどうかは知らないけれど。双葉に弟も生まれるそうだし、それなりに楽しんでいるのだろう。

「駐車場の脇に紫陽花が咲いてたよ」

 可奈が教えてくれる。今年ももうそんな季節か。

「青い花なら見たいな」

 家の周りに咲いてた鮮やかな花を思い出す。多分わが家の周りには今年も咲いてるんだろうな。

「鮮やかな青紫。一緒に見に行こ」

 可奈が誘ってくれる。梅雨と蝸牛と紫陽花。私の生まれた季節。


 久しぶりに相部屋になった。今回は調子がいいからというより、更に調子の悪い人が入るからというところみたいだ。同室の人はお婆さん。八十歳くらいに見える。ここでは疲れている人が多いから実際はどうかわからない。相田サトとかけられたプレートの横に自分のプレートが入っていた。相田さんはやわらかい感じの人で、

「はじめまして、よろしくお願いします」

 と頭を下げるとわざわざ体を起こして小さくお辞儀してくれた。


 その翌日のこと、病室を訪れてくれた父と話をしていると、伸也が双葉を連れてやってきた。起きている双葉を見るのは久しぶりだ。

「こんにちは」

 伸也が、と相田さんに頭を下げと、双葉もぺこりと頭を下げる。

「娘婿と、孫です」

 父が相田さんにおかしな紹介をする。伸也は何か言おうとしたけれど、結局黙っている。

「あらあら」

 相田さんはきっと、誤解している。それなのに父は

「ちょっといいかな?」

 と言って、伸也を連れて病室を出ていく。残された双葉が不安そうにしている。

「お父さんがいないと寂しい?」

 相田さんが双葉に声を掛ける。

「おとうさん?」

 双葉にいるのはパパとママだから、おとうさんが誰かわかっていないみたいだ。

「おじいちゃんとすぐ戻ってくるよ」

「すぐ?」

 双葉が小首をかしげる。

「そうだ、お母さんに抱っこしてもらったら?」

「だっこ」

 抱っこという言葉に双葉が目を輝かせる。そんな双葉を見て相田さんも目を細める。

「あの、この子は」

 ああ、私は久しぶりにうろたえている。

「大丈夫。いい子だね」

 相田さんが双葉に靴を脱ぐように言う。双葉は素直に靴を脱いでベッドに上がってくる。成り行きで体を起こして双葉を抱きしめる。誘拐犯の気分だ。

「お母さんの抱っこはいいでしょう?」

「おかあさんの、だっこ」

 オウム返しで腕の中の双葉が呟く。命はこうして関わっていくのかななんて考えたりする。

 父と伸也が病室に戻ってくるまでの間、双葉は私の顔を見上げて、ニコニコと笑っていた。


 伸也と双葉が帰った後で相田さんには双葉が姪であることを伝えた。父は言葉足らずの紹介をしたことを母に叱られ、可奈に叱られ、散々だったとこぼしていた。自業自得だと思う。

 双葉にはわたしが「おかあさん」ではないことを教えたが、お母さんと伯母さんの違いは理解できなかったようで、結局私は双葉の「おかあさん」になった。双葉のママは私を叱らなかった。「おとうさん」になった双葉のパパが叱られたのかどうかは知らない。


 昔話の相手をしながら日々をすごす。子供の頃のこと、戦争のこと、息子さんのこと。いくつかの辛いことも穏やかに、丁寧に話してくれた。毎日のように娘さんが顔を出してくれている。

 しばらくして、相田さんとの別れが訪れた。その翌日、娘さんが挨拶に来てくれた。

「もう一人、孫ができたみたいだったと言っていました」


 看護師の桃ちゃんが、仕事帰りに病室に寄ってくれる。今日の桃ちゃんは足音が元気。いいことあったみたいだ。

「告白されちゃった」

 何かあったの?と聞くと照れた様子で教えてくれる。桃ちゃんの彼は医療機器メーカの営業さん。前から一緒にご飯を食べに行ってた事や、細身で頼りなさそうに見えることなんか取り留めの無い話をしてくれる。

「じゃあお付き合いするの?」

 と聞くと、首を縦に振る。幸せそうな桃ちゃん。でも可愛いとか言ったら怒られるのだろう。


「私、結婚するんだ」

 桃ちゃんは満面に笑みを浮かべて教えてくれる。本当に幸せそう。無機質な部屋の中に暖かさがあふれる。よかったな。清々しい気持ちでおめでとうと言える。

「だから、美奈も式に来て欲しいんだけど」

「ありがと。でも最近体調がよくないからやめとく」

 そういうにぎやかなのは苦手なのでそう答える。そんなところへ着ていく服も無い。可奈の結婚式のときも着ていく服が無くて困った。結局体調を崩して出られなかったので気にするほどの事ではなかったのだけれど。

「そっか。じゃあ今度彼をつれてくるね」

 そのあたりのことをよく知ってるからか、桃ちゃんもあっさりと引き下がってくれる。

「楽しみにしてる」

 そう伝えると、桃ちゃんは更にうれしそうな顔になった。


「体調悪そうだね」

 伸也が双葉をつれて見舞いにきてくれる。伸也は「元気そうだね」みたいに適当なことを言わないからいい。

「おかあさん、げんきじゃないの?」

 双葉が私に尋ねる。お母さんじゃないって説明することはもう諦めた。この子が大きくなったときには忘れているだろうし、覚えていても大して問題ないだろう。だから双葉の質問に対しても

「あまり調子はよくないね」

 と素直に答える。

「げんきになったら、いっしょにくらせる?」

 小首をかしげての問に思わず笑みが零れる。そうか。普通の子はお母さんと暮らせることを知ってるんだ。伸也が苦笑いしている。

「そう。暮らそうね。そしたら」

 そんな風景を考えるだけで心は満ち足りる。きっとありえた、もうひとつの私の現在。多分望めば手に入った生活。私があえて望まなかった生活。後悔はしていない。今おかれている状況も気に入っているから。私のことをお母さんって呼んでくれる子がいる。その子の父親がこうして会いに来てくれる。そんなことを考えながら伸也のほうを向く。

「楽しそうだね」

 自然に微笑んでいたのだろう。安心した様子で伸也が微笑んでいる。「苦笑いと微笑みの間で忙しいね」と軽口が浮かんだけれど、口にはしなかった。


 桃ちゃんが約束の日に、彼を連れてきた。

 私は「ベテランの患者さん」という、おかしな肩書で紹介される。

「桃からよく話を聞いていますよ」

 営業職というだけあって、彼は、落ち着きのある雰囲気の話しやすい男性だった。

「幸せ、なんだね」

 桃ちゃんの手を握って、そう呟く。桃ちゃんは頷いてから、はにかんだ。

 これから桃ちゃんは結婚して、命を連ねていくのだろう。そんなことを思うと、幸せのお裾分けを貰ったような気分になった。


 私は命を連ねることは無かったけれど、妹に迷惑をかけつつ歪んだ幸せを手に入れた。命の連なりの中になくとも、疎外感を感じずにいられるのは皆の優しさのおかげだと思う。

 命の関わり。連ならなくとも、関わっている。関わった人たちに怒りや寂しさや切なさといった負の感情を与えてしまったかもしれないけれど、そういったことを含めて、私なのだろう。

 もしも、ひと時でも私がいたことでぬくもりや安らぎを感じてくれた人がいたならば。そのことを私が生きた意味にしようと思った。

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