第五夜『それぞれの選択』
***
秋の匂いと気配が近づく森の中。
朽ちた本殿の階段に腰掛け、咲夜は一人沈黙したまま曇った空を見上げていた。やがて静かに目を閉じると、懐かしい二人の少年との記憶を脳裏に思い浮かべる––––––。
––––––夕刻に、制服姿の兄弟が廃神社を訪れた。
本殿の階段に咲夜と兄の正一が並んで腰掛け、弟の浩二は柱に背中を預けるように立っている。
今日は正一の卒業式だった。卒業後は県外の大学に進学するため、実家を出て一人暮らしをするという報告を受ける。
「そうか。卒業おめでとう、正一」
「ありがとうございます、姫様」
正一はにこりと微笑む。優しい風が正一の少し長めの黒髪をふわりと揺らした。
百八十センチの長身はすらっとした体型で、制服を着ていると学生に見えるが、正一は年齢よりも外見と中身が大人びている。雰囲気はのちに浩二の息子として生まれてくる心矢に似ていた。
「兄さん結局パティシエ目指すんだもんな〜。せめて甘いもの以外だったら、俺も兄さんが作ったもの食べられるのに。激辛ケーキとか流行らせてよ」
二歳年下の浩二が、頭の後ろで両手を組んで残念そうに言った。
浩二は短い黒髪を明るい茶髪に染めている。身長は百七十五センチほどで、やや童顔だ。剣道部で鍛えた体は無駄な肉がなく程よい筋肉がついている。浩二の雰囲気は界斗に似ていた。
「激辛って…。罰ゲームケーキだろそれ」
正一は隣に立つ浩二を見上げて苦笑する。
咲夜は兄弟の会話を聞いてくすりと笑った。
「そうか、パティシエか。正一は甘いものが好きだったな」
「はい。甘い食べ物で人を幸せにしたいって言う、よくある理由なんですけどね」
正一は咲夜の方を見てやや照れて笑った。
咲夜は思わずその顔をじっと見つめる。無言で見つめすぎたせいか正一は不思議そうに「姫様?」と呟き小首を傾げた。
咲夜は緊張して慌てて目を逸らす。
「そ、そうか。夢があるのはいいことだな。だが正一が遠い場所に行ってしまうのはやっぱり寂しいな」
「今まで通り浩二と一緒に会いにきますよ」
「そうか。ありがとう、嬉しいよ」
咲夜はちらっと正一を見ると、わずかに頬を赤く染めて微笑んだ。
すると二人の様子を黙って見ていた浩二が急にとんでもないことを言い出した。
「やっぱりさぁ、姫って兄さんのこと好きだろ」
「え?」
「え!?」
言われた二人は揃って浩二の顔を見上げた。正一は軽く驚いた顔をしているだけだが、咲夜は目を白黒させ、顔はみるみる真っ赤になっていく。その反応は誰が見ても明白だ。
浩二は悪戯心が芽生えた子供のようにニヤァと笑うと、正一と目を合わせて言った。
「兄さん聞いてくれ。姫さ、前にこっそり俺に、正一には恋人がいるのかって聞いてきて––– 痛ってぇ!」
「ぅわぁああ! ばかばかばか!」
瞬時に立ち上がった咲夜が浩二の前に移動すると、頭をボカスカと殴ってきた。
浩二は頭を両手で庇いながら咲夜から逃げて距離をあけると、キッと睨みつけて叫ぶ。
「何すんだよ姫!」
「この大バカめ! 秘密にすると約束しただろ!」
「秘密はバラすまでが秘密なんだぜ。これ常識な」
「嘘つくな!」
そのままバチバチと睨み合う二人の耳に、正一の呑気な笑い声が届いた。ハッとした咲夜は正一の方に体を向けて焦って口を開く。
「正一その、本当に深い意味はないんだ、気にしないでくれ」
「はは、わかってます」
困った顔で微笑む正一を見て、咲夜は胸がずきっと痛むのを感じた。なんとも言えない感情を訴える胸元にそっと手を当て、きゅっと握りしめる。
その後は雑談をしてあっという間に時間は過ぎた。辺りが薄暗くなり始める。
「夕飯の時間なので、そろそろ帰ります」
正一はそう言って腰を上げた。
隣に座っていた咲夜も立ち上がる。
「–––…そうか。正一、浩二、今日もありがとう。楽しかったよ」
「じゃーなー、姫」
気を利かせたのか、浩二はあっさりした挨拶を残して先にその場を離れて行く。
残された二人は向き合った。
「正一。その……」
咲夜は正一の名前を呼んだが言葉に詰まり俯いた。正一は穏やかな顔つきのまま黙っている。
正一、私はお前のことが–––……。
「–––…またな」
顔を上げて微笑みを浮かべながら、心とは違う言葉を伝えた。
正一は穏やかな目をして笑う。
「はい。引っ越す前にまた来ます」
「ああ。また元気な顔を見せに来てくれ」
そう言葉を交わし、咲夜は正一の後ろ姿を見送った。
––––––遠ざかっていた意識を現実に戻す。
目をそっと開いた咲夜は俯き、重い気分をため息と一緒に吐き出した。そして頭の中で最近の出来事を思い返す。
“本気で殺すつもりはなかったんだ。けれど結果的に二人は死んでしまった”
そう自分は界斗に告げた。あの言葉は半分本当のことで、半分は嘘だった。
他の誰かに奪われるくらいなら、いっそ殺してしまおうと考えたことは何度もあった。その感情が鬱積して、あの事故を引き起こしてしまったのだ。
「私はすっかり穢れてしまったな……」
感情を消した声が寂れた空間に響いた。
***
昼下がりの学校の屋上。
曇り空の下、心矢は一人で授業をサボって硬いコンクリートの上に仰向けで寝転んでいる。
微睡みの中で思い出すのは––––小学校低学年の出来事だ。
学校で飼育していたうさぎが夜中、小屋を壊して侵入した野犬に全て食い殺されるという出来事が起こった。
教室で行われる朝の会で、心矢のクラスの女性担任が生徒にそのことを伝えると、女子は全員声を上げて泣き始め、男子も涙を我慢している様子で皆が悲しそうな顔をしていた。
……なにがそんなに悲しいんだろ。
心矢は気だるそうに机に頬杖をついて内心そう思っていた。どうして泣くのか、どうして悲しむのか、それがとても不思議だった。しんみりした教室内に響く女子の泣き声が耳障りで、だんだんとイライラしてくる。
「……あーうるせぇ」
思わず呟くと、隣の席の気の強い女子がそれを聞いて涙で濡れた目で睨んできた。
「心矢くんひどい! うさぎがみんな死んじゃったんだよ、悲しくないの? もういっしょに遊べないんだよ?」
心矢はムッとして女子を睨み返した。
「俺、うさぎと遊んだことねぇし、世話したこともねぇから。だからいなくなってもなんとも思わねーよ」
「なにそれおかしいよ! 心矢くんって冷たいんだね!」
心矢を非難する女子の声を聞いて教室中の嫌な視線が心矢に突き刺さった。すると教卓の方から注意を引くようにパンパンと手を叩く音が鳴る。
「みんな気持ちを切り替えてね。一時間目の国語の授業を始めるから教科書の三十五ページを開いて下さい」
担任の指示が飛び皆が教科書を開き始める。
そんな中、心矢は机の上の閉じられた教科書に視線を落とし、なんとも言えない気持ちを抑え込むように表紙をきつく睨みつけた。
放課後。
心矢はいつものように界斗と一緒に下校していた。学校を出てから田舎道を並んで歩く二人の間に会話はない。心矢は俯いたまま心ここにあらずで、足元の同じ石を何度も軽く蹴り続けている。
「シン」
すると真横から界斗が顔を覗き込んできた。
「どうした? 今日なんか元気ないな。テストの点が悪くてもそんなに落ち込まないくせに」
意地悪なことを言いつつ、その顔は心配そうに心矢を見つめる。
心矢はちらっと界斗を見て、また俯き、石蹴りを続けながらぽつりと口を開いた。
「カイ。うさぎが死んだって話聞いたか?」
「あ、うん、朝の会で聞いた」
「悲しかったか?」
「え? …まぁふつうに悲しかったけど」
“悲しかった”
それを聞いて足を止める心矢。
界斗も遅れて少し前で足を止めた。
……カイもみんなと同じ気持ちだった。
俺だけが違う。
誰かが死ぬことは悲しい。
その気持ちは人間なら当たり前にあるんだろう。
けど俺にはそれがない。
悲しいという気持ちがわからない。
どうしてなんだろう–––?
「シン、さっきからどうしたんだよ」
前方から界斗のじれた声がした。
心矢は一度考えることをやめてから静かに呟く。
「なぁ、カイ」
ようやく心矢は顔を上げた。
不思議そうにこちらを見つめる界斗をじっと見つめ返す。
誰かが死ぬことは悲しい。
けれど俺は悲しいと思わない。
どうしてだろう?
もう一度考える。
どうして悲しくないのか–––………ああ、分かった。
死ぬことが悪いことだとは思っていないからだ。
だってみんないつか死ぬ。
人間も動物も生き物はみんな必ず死ぬんだ。
みんなそのうち同じように死ぬのだから、泣く必要も悲しむ必要もない。
けれどみんな泣いて悲しむ。
まるで死ぬことが“悪いこと”のように。
泣かない俺を悪い子のように責めるんだ。
「なぁカイ。死はそんなに悪いものなのか?」
「え? なんだよ急に…」
界斗は驚いたように目を見開いてから、少し悩むように口を結んだ。
そしてしばし沈黙したあと暗いトーンの声で言った。
「死ぬことは悲しいことだけど、悪いものなのかって考えたことないから……ごめん、俺にはわからないよ」
「……」
「シンは、どうしてそんなことを聞くんだ?」
どこか不安そうに訊いてきた界斗に向かって、心矢は無邪気に笑って見せた。
「へへっ、なんとなく気になっただけ〜!」
いつもの調子で明るく笑って石を思いっきり蹴った。
怪訝な顔をしている界斗の足元を追い越して遠くまで転がって行く石を、界斗の横を走り抜けて追いかける。
心矢はこれ以上考えることをやめた。
「–––…………、ふぁ」
屋上に寝転がっている心矢は微睡みから目覚めてあくびを漏らした。
なぜあの過去を思い出したのか考えてみると……つい最近、あの時と同じセリフを界斗に問いかけたせいだと気づく。
思いついて口にしたセリフが、子供の頃に口にしたセリフと同じだった。界斗は覚えていただろうか。
ふぁ、と再びあくびをした。
そのあくびを一区切りにして、また別のことをぼんやりと考え始める。
–––今後に待ち受ける灯影との戦いについてだ。
心矢は考える。灯影を殺せば、己の中で渦巻く“人を殺したい”という欲求は果たして満たされるのだろうか。
そして灯影を殺した後の人生がどうなるのか。
タガが外れたように殺人を重ねる人生という、最悪な方向に進むかもしれない。そうなった時、己を止められるのは誰か。
己自身で止めるのなら、その方法は間違いなく–––……
「生き地獄にだけは、なりたくねぇしな……」
そう軽く呟いて笑った。
***
その日の放課後。
界斗と渉は学校の裏庭に設置してあるベンチに並んで腰掛け、話をしていた。
「え、ってことは残り三体の『残余霊』を封印できれば、全て終わるんですね!」
ベンチに座ってすぐ界斗からそう聞かされた渉は、嬉しそうに顔を輝かせた。
界斗は穏やかな表情を渉に向けたが、次には真面目な顔をして口を開く。
「いや、正確には二体を封印して、残り一体は始末しなければならないんだ」
始末、と聞いて渉の表情が僅かに曇った。
「それって、灯影っていう『残余霊』のことですよね」
「ああ。そういえば、灯影については前に少し話したことがあったか」
はい、と渉は頷く。数ヶ月前、界斗に廃神社まで案内される道中に、灯影の容姿や能力についてちらっと説明を受けた記憶があった。
界斗は無表情になり前方を見つめる。
「灯影を始末するのは心矢の役目だ。奴のことは心矢に任せる」
渉は少し気が重くなりつつも明るい声で言った。
「じゃあ俺たちは残り二体の封印ですね。よし! 俺も最後まで気を抜かず頑張ります!」
渉のやる気を嬉しく思いながら界斗は口元を緩ませたが、すぐに笑みを消して口を開く。
「いや……ここから先はかなり危険な場所に足を踏み入れることになる。残り三体の『残余霊』も今までとは違って一筋縄ではいかないんだ。だから、残りは俺と心矢で方を付けようと思っている」
「え? ––––ぁ……そ、そうなんですね。わかりました」
渉は少し寂しそうに小さく笑う。
界斗はそんな渉を真っ直ぐ見つめて微笑んだ。
「白坂。俺たちに協力してくれてありがとう。白坂がいなかったら、こんなに早くここまで来ることは出来なかった。本当に感謝してもしきれない」
「そんな、お役にたててよかったです。できれば最後まで協力したかったですけど…。でも、界斗先輩と心矢先輩が協力すればあっという間に終わらせられますよ。頑張ってください!」
渉はニコッと笑顔を浮かべた。
ふと、界斗は思い出して口を開く。
「そうだ、白坂の誕生日は今週の休日だったな。今までのお礼も含めてプレゼントを送らせてほしい。何か欲しいものはあるか?」
「え? えぇと、特に欲しいものは––––…あ」
思い出したように渉は言った。
「それじゃあ、一緒に映画を見に行ってくれませんか」
「映画?」
「はい! 海外でシリーズ化してる俺の大好きなアクション映画なんです。父さんと行くのに二枚チケットを購入してたんですけど、父さんが休日出勤になってしまって、一枚余るからどうしようか困ってたんです。妹も興味ない映画だし…だから界斗先輩と行けたらなって」
「俺は全然構わないが、白坂は俺で…というか、そんなのでいいのか?」
「もちろんですよ! 映画を見終わったあとに語り合いたいです。現実に敵と戦ってる界斗先輩から見た映画の感想とか、なんかめちゃくちゃ気になるんですよね」
渉は目を輝かせて、やや興奮気味に身を乗り出す。界斗はにっこり笑って返事をした。
「わかった。見終わった後はどこかでご飯を食べながら語らおうか」
「ありがとうございます! 楽しみだなぁ」
渉は嬉しそうに笑った。
***
そして休日。
約束の時間に界斗と渉は待ち合わせ場所で会い、映画を見て、ファミレスで遅めの昼食をとりながら見終わった映画について語り合った。
帰り道。
外は早くも薄暗くなり始め、二人は並んで公園の敷地内を近道して歩いている。片側に不気味な墓地が隣接しているせいか、敷地内は人通りも少なく閑散としていた。
「はー、あんなに語り合ったのにまだまだ興奮がおさまらないなぁ」
渉は笑顔で言った。
界斗はこちらは穏やかな笑みを浮かべて口を開く。
「ちょっと遅くなってしまったけど大丈夫か? 誕生日だと、夜は家族でご馳走を食べたりして祝うだろ」
「あ、それなら心配ないです。父さんの仕事が遅くなるからご馳走やケーキは明日の夜に変更になったので」
気がつくと薄暗い敷地内は二人だけになっていた。
「改めて。誕生日おめでとう、白坂」
「へへ、ありがとうございます! なんというか界斗先輩に言われるとテレますね。界斗先輩って、彼女ができたら記念日とか忘れずに祝ってくれるような優しい彼氏になりそうです」
「いや…そんなことはないぞ」
界斗は苦笑する。渉の中での界斗のイメージは疑いもなく“優しい男”のままだ。
「白坂の方がそういうのを大切にするだろ。性格もいいし、白坂が女子だったら俺は惚れてたかもな」
「あははっ、それを言うなら“俺が女子だったら惚れてたかも”ですよ。俺が女子だったら、確実に界斗先輩に惚れてましたね」
「へえ、その惚れた瞬間はいつだ?」
渉はにこにこして言った。
「それはもちろん、夜の学校で俺が『残余霊』に襲われているところを界斗先輩が助けてくれた時です! あれ? てことは、一目惚れってことになりますね!」
界斗は思わず声に出して笑ってしまった。軽く笑ったあと、前方をぼんやりと見つめて界斗は陰のある表情で黙り込む。
––––––勝てるのか?
界斗はそう内心で思い、自分が怯えていることに気づく。
灯影に勝って全てを無事に終わらせることができるのか–––……ずっと不安があった。心矢と上手く協力できる自信もない。
––––––俺は、俺たちは、灯影に勝てるのか?
「……本当は、灯影に勝てるのか不安なんだ」
胸の内の弱音をぼそりと声にしてしまったことに気づき、界斗はハッとする。
「すまない、今のは–––」
「大丈夫ですよ」
忘れてくれ、と言う言葉を呑み込んだ界斗は思わず立ち止まり、目をしばたたかせて渉を見た。
「あっ、その、すみません! 簡単に大丈夫とか言ってしまって……」
界斗に合わせて立ち止まった渉は、焦りながらも言葉を紡ぐ。
「けど俺は、界斗先輩と心矢先輩ならきっと大丈夫だって信じてます。灯影だって二人がかりなら絶対に倒せますよ!」
「白坂…」
渉の満面の笑顔を見つめる界斗の顔に、やがて安堵の笑みが浮かぶ。
そして無意識のうちに界斗は渉の肩に額を押し付けていた。「えっ、えっ?」と焦った渉の声がすぐ耳元から聞こえる。
界斗は目を閉じ、ほっとする。先ほどまであった怯えが消えて精神的に楽になっていた。
「うん…そうだな…ありがとう、白坂」
微笑みを滲ませた声で囁くと、肩から額を離して渉の顔を正面から見た。二人は無言のままお互いを見つめて、どこか照れ臭そうに笑い合う。
ザワッ
暗闇が蠢くような気配を感じた。
「……!」
「界斗先輩?」
急に顔が強張った界斗を見て渉は困惑する。界斗は無言のまま渉を自身の背後に隠すと、前方の暗闇を睨みつける。
やがて暗闇の先から、薄気味悪い笑みを浮かべた黒スーツ姿の男––––灯影が姿を現した。
「灯影…」
界斗は低い声で呟いた。
灯影が静かに切り出す。
「停戦は終わりだ霊符使いの小僧。取り引きの返事を聞く必要はなかったな。こちらの取り引きに応じる気はないんだろう?」
界斗は眉を顰めた。
先ほどの会話を聞かれていたのだろう。この展開は恐ろしく最悪だ。少しでも灯影の気配に気づけなかった自分を殴りつけたい気持ちになる。
「だが本音をいうと、はなから期待はしていない駄目元の取り引きだった。今も昔も俺たちは殺し合う宿命にある。今度こそは中途半端な決着はやめにしようじゃないか」
灯影は喉の奥でくつくつと嗤うと、軽く辺りを見回した。
「さて…ひと暴れするにはいい場所だな」
こちらに向かってゆっくり歩を進める灯影を睨みつけ、界斗は歯軋りした。
白坂だけでも逃さなければと、界斗は冷静に欠けた頭で考える。けれど今、自分のそばから離れさせるのは危険な判断かもしれない。
なら、どうする–––。
界斗のこめかみに汗が伝う。
「か、界斗先輩…」
背後から渉が震え声で名前を呼ぶのが聞こえた。界斗は一瞬、意識を渉へと向ける。
次の瞬間、二人の頭上に黒い塊が躍り出た。
上から降って来る巨体の獣–––零鬼に気づいた界斗は、反射的に渉の体を思い切り突き飛ばし、あわせて自身も後方へ飛ぶように避ける。
ゴゥッッ–––
零鬼が地面に着地した勢いで起こった強風によって、二人の体は吹き飛ばされた。
「痛っ、…」
界斗は地面にうつ伏せになって上体を僅かに起こし、頭をおさえた。
目が回ってグラグラと揺れる視界に眉を歪め、前にも同じような攻撃をくらったことを思い出す。
「–––うわっ!?」
遠くから渉の悲鳴が聞こえてきた。
界斗はハッとして顔を上げ、声が聞こえた方向に視線を向ける。地面に腰をつけたまま動けないでいる渉の目の前に零鬼がいる。
「っ、…白坂…!」
界斗は急いで立ち上がり渉を助けに行こうとするが、灯影が目の前に立ち塞がった。
「どこへ行く。お前の相手は俺だぞ」
「……!」
界斗は怒りを込めた目で灯影を睨みつけ、それを見返す灯影はニヤリと嗤う。
渉は恐怖でその場から動くことができず、目の前の巨体を見上げていた。
「……っ」
渉が所持している、攻撃から身を守ってくれる『防残余護身符』は十枚。この十枚が尽きる前に、なんとかして逃げなければ……。
そんな渉の思考を切断するかのように、零鬼は太い腕を上げて一気に振り下ろした。
バチィッ!
凄まじい音が空気を震わせた。
霊符の力によって弾かれた腕の勢いにつられて、巨体がよろよろと後方へ後ずさる。
「……っ」
渉はその隙に立ち上がり、形振り構わず駆け出した。逃げる渉を追いかけ、零鬼は地面を蹴って飛び上がり、猿が吠えるような叫び声を上げる。
やばい、やばいやばいッ!
恐怖と焦りが渉の頭を支配する。
飛来した零鬼が渉に触れる直前に、再び霊符の力によって弾き飛ばされた。
零鬼は離れた地面を転がった後すぐさま起き上がり、怯むことなく再び渉に襲いかかる。
所持している霊符が、どんどん減っていく–––……。
界斗は何とかして渉を助けに行こうとするが、目の前の灯影から次々と攻撃を仕掛けられるせいで、それが叶わないでいた。
「くっ」
灯影は白坂を殺そうとしている。
界斗はその恐怖に追われながら、次々と飛んでくる拳や足蹴りを霊符を使って弾き飛ばす。
一瞬も攻撃を休めない灯影は、全く息を乱していない。このまま時間稼ぎをされたら渉が所持している霊符が尽き、零鬼に怪我を負わされてしまう。
傷を治す『治癒疼痛符』があっても、傷を治す前に心肺停止にでもなれば助けられなくなる–––……。
渉は必死に走って逃げるが、もう体力も霊符も尽きかけていた。
再び後ろから零鬼が飛びかかって来るが、それを最後の霊符が弾き飛ばす。
「はぁっ、はっ、–––ぅわっ!」
目の前に黒い巨体が現れた。
方向転換をしようと慌てて立ち止まるが、もう間に合わない。視界に腕を大きく振りかぶった零鬼の姿が映る。
もう駄目だ–––絶望して諦めかけたその時、どこからか口笛が聞こえてきた。
すると振り下ろされようとした腕の動きがぴたりと止まり、次に零鬼は後方へ飛躍したかと思うと、敷地内にある木々の闇へと消えていった。
その場に呆然と立ち尽くす渉は少し遅れて、助かった…とホッとする。
しかし、その僅かな時間に次の敵がすぐ背後に移動して来ていた。
「–––ぅぐッ」
背後から首に腕が回り、強く締め上げられる–––……。
目の前にいた灯影がニヤリと笑い、短く口笛を吹いたかと思うと一瞬にして姿を消した。
「なっ……!」
界斗は灯影の姿をさがす。
辺りをぐるりと見渡すと、離れた場所に立つ渉の姿が目に映った。
「白坂…!」
界斗は目を見開く。
渉を人質にとった灯影がその背後に立ち、首に腕を回している。もう片方の腕は胸元に回され、心臓辺りを手のひらが押さえつけていた。
「動くな」
鋭い一声が飛んだ。
走り出していた界斗は立ち止まる。
灯影は愉快そうに口の端をつり上げた。
「霊符使いの小僧。お前には俺の指示に従ってもらおう。少しでも妙な真似をすれば、この小僧の心臓を抉り出して握りつぶす。体内から失った臓器を再生させることは流石に出来ないだろう」
灯影はくつくつと嗤う。
界斗は顔を歪ませ歯軋りした。
渉の顔は青ざめ体は小刻みに震えている。その様子を見た界斗は自身の気持ちを無理矢理落ち着かせながら、灯影を睨みつけて口を開く。
「……わかった。お前の言う通りにする。だから彼には傷ひとつ付けるな」
灯影はニヤリと笑みを浮かべ、指示を出す。
「今所持している霊符を全て捨てろ」
「……」
界斗は指示に従い、霊符が入ったボディバッグを離れた地面へ向かって投げた。
「…あの中に入っているので全部だ」
すると灯影は笑いながら渉の体を真横へと突き飛ばし、渉が地面に倒れ込むよりも先に界斗の目の前に移動した。
驚愕する顔面を片手で鷲掴みにし、押し倒すように後頭部を地面に叩きつける。
「かッ–––」
短い悲鳴を漏らした界斗は、そのまま意識を失った。
「界斗先輩……!」
地面から上体を起こした渉は声を上げる。
気絶した界斗を軽々と肩に担ぎ上げた灯影は、スーツの内ポケットから取り出したメモ用紙を渉に向かって投げて寄こした。
「刀使いの小僧に伝えろ。その紙に書いてある場所まで一人で来いとな」
地面に落ちた半分に折られたメモ用紙に視線を落とした渉の耳に、灯影の笑みを含んだ声が響く。
「そこで最終決戦だ––––」
顔を上げた時には、その場には渉しか残されていなかった。
–––界斗先輩が連れ去られた…。
どうすればいいのか分からず、しばらく渉は強張った顔のまま動けずにいた。
やがてハッとした渉は無意識に呟く。
「…知らせなきゃ…心矢先輩に…っ」
急いで立ち上がった渉はメモ用紙と界斗のバッグを拾い上げ、次にスマートフォンを取り出して連絡先をタップする。以前、界斗と連絡先を交換した時に、もしもの時の為にと心矢の連絡先も教えてもらっていた。
急いで心矢に電話をするが………出ない。
一分近く鳴り続ける呼出音に焦りながら、こうなったら家まで行くしかないと考えるが、渉は心矢の家を知らなかった。
「ぁああもうっ! どうすればいいんだ–––……あ、そうだ!」
ある方法を思いついた渉は、次に妹の鈴華に電話をかけた。
『もしもし? どうしたのお兄ちゃん』
「あっ、鈴華、ごめん急ぎの頼みがあるんだ。愛美ちゃんに連絡して、心矢先輩の家の住所を知っていたら教えて欲しいって頼んでくれないか?」
『? うん、わかった。ちょっと待っててね』
鈴華との通話を一度切ってしばらく待つ。五分も経たずに折り返しの電話が鳴った。
愛美から聞いた住所を伝えてくれた鈴華にお礼を言って通話を切ると、渉は走り出した。
***
渉はスマートフォンのナビ機能を使って目的地へと必死に走る。
静まり返った住宅街にある心矢の家を目前としたその時、玄関の門扉がキィィと鳴り響いて、そこから心矢が出て来た。
心矢はすぐに渉に気づき、やや伏せていた顔を上げて薄い笑みを浮かべる。
「よお。必死な顔してどーしたよ。変質者にでも追われてんのか?」
渉は心矢の目の前で立ち止まると、両膝に手をついて乱れた息を軽く整える。家から呼び出す手間が省けたと喜びつつ、渉は顔を上げて口を開いた。
「ちょうどよかった、緊急事態なんです! 界斗先輩が灯影に、」
「あ〜やっぱりな」
「っ、え?」
「なぁんか胸騒ぎを覚えてよぉ……イライラすっから夜の散歩にでも行こうかと思ってたとこ。ハッ、俺らしくねぇよな」
いつもの調子で喋りながらも、心矢はずっと浮かない顔をしていた。
「これ…灯影が。この場所に心矢先輩一人で来いって…」
渉はメモ用紙を心矢に差し出す。
「……」
メモ用紙の中を確認した心矢は無言でそれをズボンのポケットに仕舞うと、中途半端に閉じていた門扉を開けて家の中に戻って行ってしまった。
「あ、あの、心矢先輩…?」
家から出て来た心矢はそのままガレージの方に移動した。何かを動かしている物音が聞こえてくる。
しばらくして、竹刀袋を背負った心矢がバイクを押して出て来た。
「そんじゃまあ、ラスボス倒しに行ってくるわ」
呑気な口調で言ってバイクにまたがる心矢を、渉は湧き起こる不安とともに見つめる。
「心矢先輩、これ界斗先輩のバッグです。中に霊符が入ってますから…」
「え、あいつ丸腰かよ。そりゃあやべえな、はははウケる」
心配しているのかそうじゃないのかよく分からないことを言って、心矢は渉から受け取ったボディバッグを体の前に掛けた。
「あのっ、心矢先輩」
「あ?」
「えっと…」
……ここから先は力になれない。自分はただ、二人が無事に帰って来ることを祈ることしかできない。
そう思いながら、不安を顔いっぱいに浮かべて渉は言う。
「–––…絶対に、絶対に二人で無事に帰って来てください」
祈りに似た言葉を聞いた心矢はへらりと笑ってヘルメットを被る。
渉に何か言うこともなくエンジンをかけると、心矢はバイクを走らせた。
***
心矢が向かった先はメモ用紙にかかれた場所ではなく、鳥辺山だった。
廃神社へと続く入り口付近でバイクを降り、ヘルメットを脱ぐ。スマートフォンのライトをつけると行き慣れた山道を進んだ。
月が明るい夜だった。
木々の隙間から淡い月の光に照らされた境内を進みながら、心矢は咲夜の名前を呼んだ。
するとすぐ目の前に咲夜が姿を現した。
「–––心矢。どうしたんだ、こんな時間に」
「姫。カイが灯影に連れて行かれた」
「何?」
咲夜の顔が険しくなる。
心矢の紅い瞳が咲夜を射抜く。
「俺は力が欲しい。灯影を殺せるほどの強い力が欲しいんだ。テメェはそれをくれるんだろ」
「…ああ、それは可能だ。だが…」
「んだよ、言いたいことがあるならさっさと言え。こっちは手短に終わらせて次に行きてぇんだ」
心矢はイライラして言った。
すると咲夜は朽ちた本殿の方へ歩いて行くと、本殿の短い階段に腰掛けた。その目の前に立った心矢を見上げて、咲夜はようやく口を開く。
「–––今以上の霊力を得たいなら、私の血を飲んでもらう必要がある。だがそれをすると、お前が人ではない“何か”に変わってしまうことになる」
「“何か”ってなんだよ」
「私のような存在になる–––…ということだ。人でなくなれば、今まで通りの生活は全て失われる。永遠とも言える年月を私のように、孤独に存在し続けることになるだろう」
心矢は顔を顰めて頭をがしがしと掻く。
「なるほど参った。そうなると俺は死ぬことが出来なくなるじゃねーか」
心矢は視線を落とし、ゆっくり考え始めた。
咲夜は大きな選択を迫られている心矢を黙って見守っていたが、ふいに視線を上げた心矢から予期せぬ言葉を投げかけられる。
「なぁ姫。ちょいと話が変わるけどよ。ひとつ、テメェと取り引きがしてぇ」
「取り引き?」
少し困惑する咲夜から返事を聞かずに、心矢は言葉を紡ぐ。
「姫。俺はな、『残余霊』はこの世に必要ねぇ存在だと思ってんだよ。封印なんて無意味なことせずに、灯影と同じようにこの世から消しちまえばいい。そうすりゃこんな無駄な戦いは二度と起きねえだろ」
咲夜の顔つきが曇る。
心矢は構わず、軽い笑いを浮かべたまま淡々と続ける。
「俺が思うに、テメェは『残余霊』をオモチャにしてんだよ。必要ない時に箱に仕舞っておいて、寂しくなったら箱から全部ぶちまけて、他人を巻き込んで遊んでんだよ。散らかったオモチャをテメェでは片付けずに、他人に片付けてもらいながらな」
心矢は笑みを消すと、鋭い目に強い光を宿らせた。
「なぁ、そろそろオモチャで遊ぶのは卒業しねぇか。いらなくなったオモチャは『箱』ごと全て処分しちまおうぜ」
「–––……」
咲夜は僅かに目を伏せ、小さく震える唇を開く。
「だったら……だったら私は、この寂しさを何で紛らわせればいい?みんな私を忘れてしまうんだ。私と一緒に戦ってくれた元宮家の兄弟たちも、正一と浩二も、みんな私を忘れてしまった。界斗もお前も私のことを……」
辛そうに言葉を紡いだ咲夜に対して、心矢は呆れ顔で言葉を返す。
「テメェさっき言ったよな。テメェの血を飲んだら俺は人じゃなくなっちまうってよ」
心矢は一呼吸置いたあと、毅然と言い放った。
「どうせ人じゃなくなっちまうなら、俺がテメェのそばに居てやるよ」
「! ……ほん…とうか?」
「ああ。その代わり、封印した『残余霊』は『箱』ごと全て処分する。それが取り引きだ」
咲夜は薄く唇を開いたまま驚いた顔で固まっていた。しばらくしてその顔が脱力するように緩む。
「私は、お前がそばに居てくれるのならすごく嬉しい。……だが心矢。お前は本当にそれでいいのか? 死にたくても死ぬことができなくなるんだぞ」
「俺が自分で選んだ道だ。覚悟はできてる」
心矢の表情には微塵も迷いがなかった。それを見て咲夜は微かに微笑む。
「–––……そうか、わかった。『残余霊』は『箱』ごと全てこの世から消し去ると約束する」
「取り引き成立だな」
心矢はにっと口角を上げた。
「そんじゃあテメェの血を飲ませてもらうぜ–––…っつか、どうやって飲めばいいんだ? 吸血鬼みたいに首筋に噛みつくか? 出来ればしたくねぇな…。よし、刀で軽くちょちょいと斬っちまうか」
「全く…相変わらずよく喋る。とりあえず隣に座ってくれないか」
咲夜は自身の横をとんとんと叩いた。眉を顰めた心矢だが黙って隣に座る。
すると咲夜は無言のまま自らの手首に深く噛み付いた。皮膚が破れ、血が溢れ出す。傷口から溢れる血を口に含んだ咲夜は、心矢の胸元に手をつき上体を押し倒した。
「おい…、っ–––」
心矢の唇は上から近づいてきた咲夜の濡れた唇によって塞がれ、間髪を入れず口内に生暖かい血が流れ込む。
ごく、と心矢の喉が何度か上下した。
「–––…まだだ。まだ、足りないだろう?」
「………」
唇を離して目と鼻の先で妖艶な笑みを浮かべる咲夜を、心矢は無表情のまま見つめる。
少し体を起こした咲夜が手首を持ち上げ、再び傷口の血を啜る前に、心矢はその手首を掴んで止めた。
目を見開いた咲夜を、身体を起こした心矢が押し倒す。
「面倒くせぇ。俺が直接飲む」
心矢は掴んだままの手首に目をやり、傷口に唇を押し付け目を閉じた。
咲夜は自身の手首に唇を押し当てている心矢に、正一の面影を重ねていた。濡れた瞳で正一を見つめて、無意識のままその背中に両腕を回す。
「…正一、すまなかった…私はお前を愛していたんだ……」
ぽつりぽつりと呟かれた言葉を、心矢は聞かなかったことにした。
***
薄暗く狭い部屋に縄がギシギシ擦れる音が響いている。この部屋で目を覚ました界斗は、かれこれ三十分以上、後ろ手に縛られている縄と格闘していた。
「……く、っそ……」
手首の擦れた皮膚が、打ちつけた後頭部と一緒にズキズキと痛む。だが確実に縄は緩んできていた。
意識が浮上した時、界斗はこの誰もいない部屋の硬い床に手足を縛られて転がされていた。
床から頭を上げると後頭部に鋭い痛みが走る。意識を失う寸前のことを思い出すと、自分は気絶させられ灯影に連れ去られたのだろう。
霊符は全て手放した。紙とペンがあれば霊符を作れるが、暗闇に慣れてきた目で見回した部屋は家具も何もない、空っぽだ。
「……、よし…」
ようやく縄が緩み両手を自由にすることができた。身体を起こして足首の縄も解く。
スマホは霊符と一緒にバッグの中だ。連絡手段はない。灯影に見つからないように一人で脱出するしかない。
ドアに近づき、そっと開ける。見えた景色はコンクリの廊下だった。どこかの建物の一室から出た界斗は、人気のない長い廊下を出口を探して歩く。
「–––…っ…」
歩き始めて一分もしないうちに足元がふらつき始めた。冷たい壁に手をついて角を曲がると、突き当たりにはエレベーターがある。
両膝をついた。そのまま真横の壁にぐったりと身体を預ける。
頭が割れるように痛い…。
その時、エレベーターが音を鳴らしてこの階で止まった。
界斗は息を呑む。身を隠す時間はなかった。
エレベーターが開くとスーツを着た三人の成人男性が降りてきた。界斗に気づいた瞬間、両脇の男二人は顔に緊張を走らせるが、真ん中の男は少し驚いたように目を大きくするだけだった。
「おいこのガキ…どっから侵入した!?」
「ボス、下がってください!」
両脇の二人が前に出てあろうことか銃を突きつけてきた。この男達が表社会の人間ではないことは明らかだ。
「おい、お前ら下がれ」
真ん中の男が音もなくスッと前に出た。三十代前後の清潔な見た目。明るめに染めた短い髪をオールバックにし、青シャツでコーデしたスーツ姿の男は一流ビジネスマンを思わせる。
「綺麗だ…」
男は好奇心に溢れる目で界斗を見つめてそう呟いた。界斗は意味がわからず困惑する。
男は近づいてくると、目の前で片膝をついて前髪を鷲掴みにして引っ張ってきた。後頭部の傷がズキンっと痛む。
「ぃッ!」
「この髪色は地毛か?」
すぐに答えられないでいると右頬に衝撃が走った。口の中を切ったのか、舌の上に血の味が広がる。
「質問にはすぐに答えろ、クソ餓鬼」
ドスの効いた声が耳に響いた。界斗は黙って頷く。
「ほぅ地毛か。いい色だ。気に入った」
急にご機嫌になった男は前髪から手を離して言った。
「お前、名前は?」
「……元宮、界斗…」
「元宮? まさかお前…」
何か確認するように男は真顔で界斗の顔をじっと見つめる。界斗は無言のまま大人しくしていた。品定めを終えたのか男はふっと笑って言った。
「俺は黒木静波。お前が侵入している
黒木静波–––…その名前を灯影の口から聞いたことを思い出す。
この男が犯罪組織『黒波』のボス…。
界斗の背に嫌な汗が流れる。
「……侵入したんじゃない。灯影という男に連れてこられたんだ」
「灯影にか? 何考えてんだアイツ。まぁいい。とりあえずお前の髪の毛、血で固まっちまって台無しだから風呂に入れるぞ。詳しい話はその後に聞かせてくれ」
え、と困惑する界斗に向かって黒木はにっこりと笑うと、背後に控えている男達に命令をした。
「おい。こいつを俺の自室に連れて行け」
「え? あ、はい…!」
男達も困惑しているが、すぐに言われた通りに動いた。界斗は現状の理解が追いつかないまま、部下に引っ張られるように連れて行かれた。
***
黒木の自室は建物の最上階にあった。
デスク、ソファ、テレビ、奥の部屋にはベッドと、必要最低限の家具しかない殺風景な部屋だ。
黒木は部屋の外に一人だけ部下を見張りに立たせ、界斗と二人きりとなった。黒木は窓際の近くのデスクに立ったまま寄りかかると、ドアの前から動こうとしない界斗に声をかける。
「おいおい、取って食いはしないからそう警戒するな」
黒木は笑いながら「風呂はあっちだ」と部屋の隅にあるドアを指差し、内ポケットから取り出したタバコを吸い始めた。
界斗は一旦、この男から逃げるための心算を諦めて、平静を装い淡々と口を開く。
「その前に、紙とペンを貸してもらえませんか?」
傷口が痛む後頭部をそのまま洗うのは御免だった。すると黒木は急に胡乱な目で界斗を見て口を開く。
「一応聞くが、何に使うんだ?」
「……」
ペンで刺されるとでも思っているのだろうかと思いながら、界斗は正直に言う。
「霊符を作るのに使用します。俺の霊符には、傷を治す力があるんです」
「ほう」
馬鹿にされるかと思ったが、意外にも黒木は口元をほころばせた。
「やっぱりな。お前、元宮浩二の息子だろ」
「…!」
界斗は驚いて目を見開いた。
黒木は煙を吐いて言う。
「で、どうなんだ?」
「…俺は、元宮正一の息子です」
「そうか、正一さんの息子か。けどあまり似ていないな。どちらかと言うと浩二さん似だ」
「…父さん達のことを知っているんですね」
「『残余霊』という化け物から助けてもらった過去がある。その時に一度だけだが、封印作業を手伝ったな」
黒木は言いながらデスクの上の灰皿に灰を落とす。
「詳しく話を聞きたいなら聞かせてやる。風呂から上がった後でな」
黒木はデスクの上のメモ帳とペンを手に取ると、いろいろと聞きたそうな目をしている界斗へ差し出し、笑みを浮かべた。
メモ帳に書いた霊符で後頭部と頬の傷を治した界斗は、風呂場に向かった。
シャワーで髪と体を洗い終えて脱衣スペースに出たところで、部屋の方から黒木の声がする。
「界斗。壁に掛けてあるバスローブを着て出て来い」
仕方なく言われた通りに下着だけ身につけて紺色のバスローブを羽織る。
風呂場から出ると、ドライヤーを持ってソファに腰掛けていた黒木に、隣に背を向けて座るよう指示された。
界斗は黙ったまま指示に従うが、体の筋肉は緊張したままだった。界斗の予想通り、黒木はドライヤーのスイッチを入れて髪を乾かし始める。
……何だこの気持ち悪い状況……。
この状況に思い切り引いている界斗をよそに、背後からは子供のようにご機嫌な黒木が「やっぱり綺麗な髪色だな。俺の好きな青色だ」と呟いている。
「正一さんに出会ったのは俺が小学生の時だ」
乾かし始めてすぐ黒木は語り出した。
「あの日は夜遅くまで遊んでいてな。人気のない道を一人で帰宅していたところを『残余霊』に襲われたんだ」
––––当時、黒木は小学校高学年。正一と浩二は高校生だ。
正一と浩二が気配を追っていた『残余霊』が黒木に襲いかかっていたところを、正一が霊符を使って弾き返した。逃げた『残余霊』を浩二が先に追いかけて行った後、黒木を心配して声をかけてきた正一に、恐怖よりも好奇心が上回っていた黒木は、先ほどの化け物が何なのかを興奮気味に聞いた。
すると正一は何を思ったのか、小学生の黒木に『残余霊』のことだけでなく、『デッドスペース』や『封印空間』のことまで教えてくれたという。
「俺はそれを聞いて正一さんにお願いしたんだ。さっきの『残余霊』の封印を手伝わせて欲しいとな。子供ながらに危険を体感したかったんだよ。ガキの頃は、危険な遊びにワクワクしただろ」
黒木は思い出し笑いを浮かべる。
「自分が囮となって『デッドスペース』まで誘導したあの時のスリルは、堪らなかったなぁ」
黒木はそう言ってある程度乾いた耳のあたりの髪をひと撫でし、ドライヤーを弱風に切り替えた。
界斗はその指先を不快に感じながら、父親の正一が小学生を巻き込んでいたことに呆れていた。とは言っても自分も渉を巻き込んでいるため、あまり責める気にはなれないが…。
界斗は上体を後ろに捻ると、黒木を見て言った。
「……黒木さん。貴方がドラッグの原料にしている『残余霊』を、俺は封印しなければならないんです」
黒木の手が止まった。
「やれやれ、灯影の奴から聞いたのか。人の秘密をベラベラ喋りやがって」
真剣な面もちの界斗を見つめて、黒木はため息をつく。
「奴は欠かせない原料だ。界斗の頼みでもそう簡単には手放せないな」
黒木はドライヤーのスイッチを切って無造作にテーブルに置く。足を組み、その場で煙草を吸い始めた。
界斗は黙ってその端正な横顔を睨みつけたまま思考を巡らせる。
夏祭りの夜に接触して来た灯影は、黒木の組織はアジトの地下に『残余霊』を監禁していると言っていた。
この建物の地下に『残余霊』がいる–––……そう分かっていても、この男の前では下手な真似は出来ない。
すると不意に黒木が問いかけてきた。
「界斗。お前、うちの商品を実際に目にしたことはあるか?」
「…はい」
界斗は頷く。
「ガキの頃の俺は子供ながらに思ったんだよ。化け物の血を人間が飲むとどうなるのかってな。その消えない好奇心を大人になってから試してみた。『残余霊』を捕らえて人体実験をしてな。その結果を見て、このビジネスを思いついたんだ」
黒木は淡々とした口調で語りながら、テーブルの上の灰皿に灰を落とす。
「『Blue・Cicada』っつー薬の名前はな、まぁ名前の通り蝉から考えたんだよ。羽化した直後の蝉は青いって知ってるか? ガキの頃、蝉が羽化する瞬間を観察したことがある。あの美しい青い体と神秘的な光景は一度見ると忘れられなくなるぞ」
黒木は楽しそうに語る。
「『Blue・Cicada』を飲んだ人間は化け物に生まれ変わる。まるで羽化する蝉のように、人間の皮を脱いで新しい姿となるんだ」
黒木の横顔は、美しいものを愛でるようにうっとりとしていた。
界斗は黙ったまま黒木の顔を見つめ続けていたが、不意に黒木の鋭い目が向けられ息を呑む。
「なぁ界斗。お前、俺の組で働く気はないか?」
「…、は?」
驚いて固まった界斗を見て、黒木はハハハッと笑い出した。
「冗談だ。いや、半分は本気だけどな。俺は正一さんと同じくらいお前のことを気に入っている」
「……」
黒木は笑顔のまま再び前を向いて煙を吐く。
「以前、灯影が始末したい子供がいると言っていた。それを聞いた時に、正一さんと浩二さんのように『残余霊』を封印しているガキがいることを知ったんだ。それが二人の息子だったとは驚きだ」
「……黒木さん、もしかして灯影の正体を知っているんですか?」
「あいつも『残余霊』だろ。正一さんから厄介な化け物がいるって灯影の名前や容姿を聞かされていた。灯影は俺を騙せていると思ってるみてぇだがな」
黒木はくくっと喉奥で笑いながら長い足を組み直した。そして界斗を見て言う。
「さて、長話はこの辺にするか。髪も綺麗に乾いたことだしな。『残余霊』を封印したいんだろ? 地下まで案内しよう」
「! なぜ急に…」
界斗は顔を曇らせるが、黒木は何でもないことのように答える。
「ちょいと内輪揉めがあってな。遅かれ早かれ、今のビジネスは終わりにする予定だったんだよ。丁度いい。
「……」
訝しげな顔で黙っている界斗を見て、首を傾げる黒木。
「どうした、お前の望み通りだ。嬉しくないのか?」
「いえ……。ただ、まだ貴方には会ったばかりなので、正直なところ信用できないんです」
「なるほど、賢明だな」
敵か味方かよく分からない男はご機嫌な顔で笑った。
その時ドアが軽くノックされ、部下が黒木の名前を呼ぶ声が聞こえた。黒木が「入れ」と短く返すとドアが開き、見張りをしていた男が入って来る。
男は持っていたスーツ一式と靴をテーブルの上、床の上に置き、黒木に向かって一礼すると速やかに出て行った。
「それに着替えろ。地下への案内はそれからだ。俺の側を歩くならそれなりの格好をして貰わないとな」
そう言って、黒木は短くなった煙草を揉み消した。
界斗は大人しく指示に従い、未使用らしい黒スーツに身を包んだ。内ポケットに借りたメモ帳とペンを入れたところで、黒木から声がかかる。
「準備できたか?」
「はい」
「お、いいな。似合うぞ界斗」
新しい煙草を吸いながら嬉しそうに笑う黒木に、界斗は気恥ずかしくなる。父親が居たらこんな感じなんだろうか…と、そんなことを考えてしまった。
部屋を出た黒木と界斗は、見張りをしていた部下を引き連れてエレベーターへと向かう。
歩き始めてすぐ、黒木のスマートフォンが鳴った。黒木は特に顔色を変えることなく電話に出る。
「よお、どうした灯影。……あぁ、界斗も一緒だ。……ふうん。ま、いいぞ。こっちは忙しいから手短に頼むな」
通話を終えた黒木は、界斗へ顔を向けてにこりと笑う。
「灯影からの要望だ。一階のロビーで話があるってよ」
黒木は次に部下へ顔を向けると一つ指示を出した。界斗は横で二人の会話を聞きながら、無言のまま眉を寄せる–––…。
***
一階で止まったエレベーターから降り立った界斗は、静まり返った辺りを警戒する。見渡せる範囲に人はいない。出口となる玄関の外は真っ暗だった。
黒木を真ん中にして奥のロビーへと向かう。灯影の気配を感じている界斗の顔は険しいが、黒木はどこか涼しい顔だ。
ロビー中央に黒スーツ姿の灯影がこちらに背を向けて立っていた。こちらが止まると灯影は静かに振り返り、冷ややかな視線を黒木に送る。
黒木はのんびりした口調で言った。
「よお灯影。仕事以外でうちのアジトを好き勝手に使われちゃあ困るんだがな」
灯影は黒木からその真横に立つ界斗に視線を移し、鼻で笑う。
「黒木に命乞いでもしたか小僧。見返りに何を要求された」
「俺のお気に入りだ。さっき風呂に入れたばかりだからもう汚すなよ」
二人の会話を聞いて界斗は無言のまま苦い顔をする。すると灯影が不穏な笑みを浮かべて言った。
「そうか、それは無駄な時間を与えてしまったな。この後にお前たちは血に塗れることになる」
それに対して黒木は軽く息を吐いて笑った。
「お前が『残余霊』だってことは、出会った時から知っていたよ」
灯影の顔から笑みが消えた。
「最初から騙されていたのはお前だ。俺を甘く見たのは失敗だったな、灯影」
「いいや…。『残余霊』を甘く見ているのは貴様の方だ。貴様がこの場に集めた部下に気づいていないとでも?」
灯影がにやりと笑って見せる。
「黒木。貴様には此処で、そこのお気に入りのガキと共に死んでもらおう」
黒木は軽く肩をすくめると、隣にいる部下に合図を送った。部下が懐から取り出した銃を灯影に突きつける。
灯影に向けられた銃口はその一つだけではなく、ロビーの物陰から現れた部下と、吹き抜けの二階廊下からも、複数人の銃口が灯影を狙っていた。
「–––零鬼!」
灯影がその名を叫んだ瞬間、ロビーの一箇所の壁が大きく破壊された。
そこから姿を現した零鬼に部下たちが動揺を見せる。零鬼は一番近くにいた部下の一人を腕の一振りで吹っ飛ばした。部下の体は柱に背中から激突すると、後頭部から流れた血の線を引きながら床に倒れ動かなくなる。
「化け物だ!」
「撃て!」
叫び声を上げた部下たちが零鬼に向かって一斉に銃を乱射する。銃弾を体に浴びた零鬼は雄叫びを上げながら、四つん這いになって部下たちに飛びかかった。
界斗は灯影が動いたのを見た。
灯影は懐から銃を抜くと、零鬼に気を取られた黒木へ向けてトリガーを引く。
「黒木さん!」
思わず界斗は叫んだ。
黒木を背にして庇った部下の胸部に銃弾が命中する。部下は呻きよろけたが、灯影に向けて二発銃弾を放った。一発は外れたが、二発目が灯影の手から銃を弾き飛ばす。
界斗は事前にメモ帳に書いておいた霊符を取り出し、膝をついた部下の傷を素早く治した。その行動を視界の端で見た黒木は感心しつつ、懐から銃を取り出して自ら灯影に向かって走って行く。
「駄目だ黒木さん!」
それを見た界斗は黒木を止めようとした。灯影相手に、ただの人間である黒木が対等に戦える訳がない。
灯影がニヤリと笑って、自ら近づいて来る黒木の背後を取ろうとした––––まさにその瞬間だった。
破壊された壁穴から一台のバイクが現れ、スピードを緩めることなく灯影の体に真横から衝突した。吹っ飛ばされた灯影の体は壊れた人形のように壁に激突する。
バイクはそのまま転倒し、乗っていた人物は素早く体勢を整えると、立ち上がりながらヘルメットを脱いだ。
「!? シン…!」
「よおカイ、加勢に来たぜ」
目を丸くする界斗を見て、心矢は爽快ともいえる笑みを浮かべる。
界斗は心矢の異変に気づいていた。見た目は何も変わってはいないのだが、内側から人ではない何かに変わっているような–––…そんな恐怖を感じていた。
「おいおいアホ面で呆けてる暇はねぇぞ。つか何だよそのスーツ、テメェ組員にでもなったのかよ。まぁどうでもいいや。ほらよ、渉からのお届け物だ」
心矢は相変わらずの無駄口を叩きながらボディバッグを界斗へ放り投げた。そして竹刀袋から取り出した『残余刀』を肩に担ぐように持つ。
「さあて、ちゃちゃっと片付けるか」
心矢の鋭い眼差しは、ひび割れた壁から体を起こす灯影を射抜く。
ゆらりと立ち上がった灯影は額から血を流し、片腕を負傷していた。心矢を睨みつける灯影の目は殺意にぎらついている。
界斗は灯影を見て、すぐに心矢へと視線を戻した。心矢に向かって界斗が何か言おうと口を開いたその時、横から近づいて来た黒木が界斗に言った。
「界斗、今のうちに地下へ。『残余霊』を封印しに行くぞ」
「っ、けど…」
「行けよ、カイ。ここは俺が片付けておくからよ」
界斗から心配する眼差しを向けられた心矢はそう言葉を吐き出した。界斗は今度は真剣な眼差しを心矢に送る。
「シン。…無茶はするなよ」
「ふん…テメェもな」
心矢は微かに笑みを浮かべて、界斗に背を向けた。
界斗は黒木と共にエレベーターに向かって走って行く。心矢は己の敵を睨みつけたままロビーに声を響かせた。
「命が惜しい奴はさっさと逃げろよ。今の俺は敵味方関係なく、殺っちまう可能性があるからよ––––」
***
界斗と黒木を乗せたエレベーターは、地下二階へと降りていく。
「さっきのバイク少年は、浩二さんの息子か?」
隣に立つ黒木が訊いてきた。
「はい。……それより黒木さん、さっきのような無謀な行動はやめて下さい。心矢が現れなかったら殺られていたかもしれません」
「部下の傷を当たり前のように治したお前なら、俺の為に援護してくれるだろうと思ったんだよ」
そう言って笑う黒木はどうも緊張感が足りない。界斗は内心でため息をついた。
地下に降り立った二人は薄暗い廊下を歩く。
突当たりのドアを黒木が開け実験室のような室内に入って行くと、白衣を着た中年男性が気づいて近寄って来た。
「黒木さん。指示通り、持ち出す物は全て、脱出用の車の中へ移動しました」
「そうか、ご苦労」
「それにしても、急に奴を手放してしまうなんて勿体無い。私はもっとあの化け物についての研究を–––…おや? そちらの部下はかなり若いですね。新顔ですか」
「まぁな。脱出の準備が整ったなら先に行け。化け物の始末はこっちでする。新しいアジトに到着したら連絡をくれ」
「分かりました」
白衣の男は部屋の奥にある別のエレベーターに乗り込んで去って行った。
その一連の流れの中。界斗は無言で険しい顔をしたまま部屋の中央を見つめていた。
そこに、囚われている『残余霊』はいた。その姿は黒い獅子に似ている。鉄のテーブルの上に寝かされ、その側には複雑な機械が置かれている。頑丈なベルトで固定された黒い体のあちこちには、血を摂取する為の太い管が突き刺さっていた。
「界斗、この部屋に使えそうな『デッドスペース』はあるか?」
黒木は煙草に火をつけ界斗に言った。
界斗はごちゃごちゃした実験室を見回して、奥の一角にある柱と壁の隙間に生じた『デッドスペース』を確認し、指をさす。
「あそこが使えそうです」
「よし。じゃあさっさと終わらせるか。化け物の拘束を解くぞ」
そう言って、黒木は『残余霊』の側にある機械の前まで歩いて行く。界斗は黒木の隣に並ぶと、ボディバッグから取り出した霊符を差し出して言った。
「黒木さん。攻撃から身を守ってくれる霊符です。一応持っていて下さい」
「その心配はないかもな。見ての通り化け物は衰弱している。さっきの猿みたいに暴れ回る気力は残っていないだろ」
黒木はそう言って受け取らず、目の前の機械を軽く操作して、ベルトを外し、管を抜いた。
体の拘束が解かれても衰弱した獅子の『残余霊』は動かない。
界斗は警戒しながら獅子の顔の前まで移動した。目が合う。獅子の黒く濁った瞳が界斗をじっと見つめる。界斗はダメ元で話しかけてみた。
「今からお前を封印する。この長い苦しみから解放されるんだ」
獅子はゆっくりと瞬きをした。まるで返事をしたように。やがてゆっくりと、横たえていた体を起こし、テーブルから床に崩れ落ちるように降りた。
界斗が歩き出すと、獅子はゆっくりと体を起こして後をついて来る。まるで猛獣を手懐けたような不思議な気分で、あっけなく『デッドスペース』の前まで誘導できた。
「界斗。あとは頼んだぞ」
黒木は相変わらず緊張感のない笑みを浮かべている。
界斗は頷くと、獅子とともに『デッドスペース』へと吸い込まれて行った。
暗闇の世界に無数の白い煙が漂っている。
界斗は足を止めて振り返った。
大人しい獅子はその場に力なく伏せると、まるで『早く楽にしてくれ』とでも言うように頭を垂れた。僅かな同情が芽生えた界斗は、霊符を取り出して優しく声をかける。
「すぐ楽にするからな」
獅子は黙って目を閉じた。
界斗は霊符を両手の間に挟むと、胸の前で合掌をし、
獅子を封印し終わった界斗は、その場に1人突っ立ったまま安堵の息を吐く。
終わった……。いや、まだだ。
あと一体。零鬼を封印すれば己の役目は終わる。まだ気は抜けない。
『界斗』
唐突に、咲夜の声が響いた。
『ようやく終わったな。今までよくやってくれた』
咲夜の柔らかな声が響く。
界斗は顔を曇らせながら口を開いた。
「…いや、まだです。まだ零鬼が残っている。心矢が一人で灯影も相手にして戦っているんです」
『そうか…。だったらもう、零鬼を封印する必要はないな』
「…? どういうことですか」
『灯影と零鬼は心矢が始末するだろう。そして『箱』に封印した『残余霊』は、私がこの場で『箱』ごと始末する』
界斗は気づいた。自分が捕まっていた間に、二人の間で何かあったんだと。
「…俺がいない間に心矢と何があった?」
『全ての『残余霊』を消し去る代わりに、心矢は私の側にいてくれると言った。そして更なる力を得る為に私の血を飲んだんだ。…… 心矢は人としてこの世で生きることを捨てた。心矢はじきに、人ではなくなる』
界斗は驚愕し、震える唇を開く。
「それはシンが……心矢が、望んでそうしたのか?」
『そうだ。これはお互いに納得して交わした取り引きだ』
「……!」
界斗は目を見開き、そのまま視線を足元に落とした。
–––心矢は人として生きることを捨てた。じきに人ではなくなる。それは、つまり–––……
『界斗。お前とはここでお別れだ』
すでに手遅れとなった現状を受け入れられないでいる界斗を無視して、咲夜は淡々と話を進めていく。
『お前は父親の命を奪い、更に心矢を奪う私のことをずっと憎むんだろうな。……けれど私はそれでいいと思っている。人は、憎む相手のことは一生忘れないからな。……お前に出会えてよかった。ありがとう。さようなら』
待て–––!
界斗は叫ぼうとするが、咲夜の最後の言葉が止んだ瞬間、空間が消失し始める。
まるで暗闇のトンネルの先に眩い光が差すかのように、視界が一瞬で真っ白になった––––––
「界斗!」
黒木に名前を呼ばれた界斗はハッと目を覚ました。天井を背景にした黒木の顔が、視界を遮るように目の前にある。
「封印は上手くいったのか?」
「……はい…」
界斗は上体を起こし、すぐ真横の壁を見る。
先ほどまで視覚化されていた『デッドスペース』はなく、界斗の目にはただの壁が映っている。それは役目を終えた『封印空間』が消失したことを意味していた。
「……シン…!」
ハッと思い出したように声を上げた界斗は、急に立ち上がったことで立ちくらみを起こした。その体を慌てて立ち上がった黒木が支える。
「おい、無理をするな」
「っ…早く、戻らないと」
界斗は自分の足で立つと、心配する黒木を無視してエレベーターへ向かって走って行く。その後を、やれやれと黒木は追いかけた。
***
界斗と黒木が地下へと向かった後––––––。
「命が惜しい奴はさっさと逃げろよ。今の俺は敵味方関係なく、殺っちまう可能性があるからよ」
心矢の言葉に部下たちの間に動揺が広がる。心矢は灯影の方へ向かって歩き始めた。
「零鬼! このガキを殺せ!」
怒りをあらわにした灯影が叫んだ。
灯影の命令を聞いた零鬼が、狙いを心矢に定めて襲いかかってくる。
心矢は視界の端で零鬼の姿をとらえると–––零鬼の背後に移動した。
零鬼は目の前から急に消えた心矢に困惑し、首を左右にキョロキョロする。その間に心矢は零鬼の背中を登り、肩に手をかけた。気づいた零鬼は背中に右腕を回して心矢を捕まえようとするが–––
「邪魔」
ザシュッ
その腕を『残余刀』の刃が切り飛ばす。銃弾も貫通しなかった硬い皮膚を裂き、肉と骨を綺麗に切断した。
零鬼は悲鳴を上げながら大きくのけぞった。
心矢は背中から飛び降りると、苦しむ零鬼の背後から声をかける。
「なぁ猿。人を喰いまくって体ばっか強化したって、戦いに於いては不利だぜ。空っぽの脳みその方まで強化しねぇとな。小学生の喧嘩じゃねぇんだからよ。おっと悪りぃ、こんな話も小学生以下の脳みそじゃあ理解出来ねぇか」
零鬼は振り返ると左腕を振り上げた。心矢の頭を叩き割る勢いで振り降ろされた腕を避け、その腕を踏み台にして零鬼の顔の前まで躍りかかった心矢は、刃を一直線に零鬼の額へと突き刺した。
零鬼の体は硬直する。切っ先は硬い額にずぶりと深く沈み込み、その先にある脳の機能を破壊しながら後頭部へと突き抜けた。
ビクンッと、零鬼の巨体が跳ね上がった。零鬼は口を半開きにし、そこから酷く掠れた呼吸音を漏らす。
「ハハっ…!」
心矢は目を剥いて嗤った。
そして一気に裂く。
串刺しにしていた刃が頭頂部の肉を裂き、勢いよく外へ飛び出した。間髪を入れず真っ二つに裂けた頭から血が勢いよく噴き出す。心矢は血の雨を全身に浴びた。
零鬼は絶命した。
仰向けに倒れた零鬼の死骸を見下ろして、心矢は忍び笑う。
一連の流れを見ていた部下たちは、皆が青い顔をして言葉を失っていた。
「––––ッ、?」
その時、心矢は視界外からの攻撃を受けた。
灯影の腕が背中から突き刺さり、内臓を傷つける。心矢は激痛に顔を顰めるが、次には口元に歪んだ笑みを浮かべ、首を捻って灯影を見た。
「ハハッ、二度も同じ攻撃をくらっちまったなぁ」
「……!」
灯影は寒気を感じた。急いで腕を引き抜き飛び退って距離を取ると、険しい顔で心矢を睨む。
「……人であることを捨てたか、小僧」
「ああ。 俺にはこっちでの時間があまり残されてねぇんだよ。だからって特に心残りはねぇけどな。今からテメェを殺すことで、“人を殺したい”欲求も満たされるかもしれねぇし」
そう言って笑う心矢を、灯影はこめかみに汗を流して睨みつける。
灯影にとって心矢が新しく手に入れた力は想定外だった。心矢の体の変化はもはや人では持ち得ないものだ。
「あ、やべ…カイの霊符持ってねぇや。まぁいいか。何か平気みたいだし」
心矢はピンピンした様子で刀の切っ先を灯影に向かって突きつけ、凶悪な笑みとともに言い放つ。
「つーわけで、俺の“人を殺したい”欲求を満たすまでは簡単に死ぬなよ。この世に未練は残したくねぇからよ」
血、血、血、血………
床一面が、赤い血に染まっている。
圧倒的で、絶対的な強さだった。
仰向けで倒れている灯影の上に跨っている心矢は手元の作業を止めると、額に滲んだ汗を真っ赤な手の甲で拭った。そしてゆっくりと立ち上がり、灯影の体を跨いだままじっと見下ろす。
灯影は四肢を切断され、腹を大きく裂かれていた。心矢は裂いた腹から覗くほとんど人間と変わらない内臓を冷めた目で眺める。
「ハハッ! すげぇ。こんだけされてもまだ生きてんのかよ」
地獄のような光景の中で、心矢の笑い声が響く。
「ハハハハははははっ––––は、––––………あー……もういっか。満足したわ。首を切り落とせばさすがに死ぬよな」
残酷な言葉をさらっと口にした心矢は再びしゃがみ込むと、灯影の髪を掴んで頭を持ち上げた。
呼吸をするだけで精一杯な灯影は、濁った目で心矢を見つめる。
「さよならだ、灯影。楽しかったぜ」
心矢はニッコリと笑うと、無防備にさらされた首筋に刃を押し当てる。
灯影は口元を笑うように歪ませ、かすれ声で呟いた。
「……化け物、め……」
震えた喉は勢いよく引き裂かれた。
切断した首を、心矢はポイっと放り投げる。首が血の水溜りに顔面から浸かるのを眺めたあと、死骸の上から立ち上がった。
「っ、」
その時、嫌な衝動に襲われた。
心矢は持っていた刀を床に落とし、両手で頭を抱えて背中を曲げると、己の中で暴れる衝動に心の中で叫んだ。
もう満足しただろ! 俺の欲求はこれで満たされたんだ。もう誰も殺さない、殺す必要はない! 静まれ…静まれ、静まれ静まれ静まれ静まれ静まれ静まれ静ま、–––あ、ぁああ、ああああああああああああああ
「–––シン!」
狂い始めた心矢の耳に、界斗の声が響いた。
戻って来た界斗は、血に染まったロビーの惨状を見て足が竦んだ。鉄臭い空気に包まれたロビーの中央、そこに、全身を血に染めた心矢が立ってこちらを見ている。
「…カイ……」
心矢はその場を離れて界斗の方へと歩いた。けれどすぐに足がよろけ、体が前へ倒れそうになる。
「シン…!」
界斗は急いで走り寄ると、心矢の両肩を真正面から掴みその体を受け止めた。
「大丈夫か?」
「……」
声をかけて覗き込むと、僅かに顔を上げた心矢と目が合う。その目に狂気の片鱗を見た界斗は息を呑んだ。
「シン、 っ!」
いきなり強い力で押し倒された。
背中に受けた衝撃と痛みに顔を顰めた界斗は、上に乗っかって両肩を押さえつけてくる心矢を見上げ、恐怖する。
「…カイ、お前、ガキの頃からぜんぜん変わってねぇんだな。……テメェがそうやって無防備に近づいて来るから…俺は……!」
「…シン…」
「っ、おれは………すげぇくるしい……」
界斗の頬が上から落ちてきた涙に濡れる。
心矢は泣いていた。
言葉通り苦しそうに顔を歪めて。
瞬間、界斗の脳裏がフラッシュバックを起こす。小学校に通わなくなり、部屋に引きこもる心矢。そんな心矢を心配して、部屋まで入って来た界斗。ベッドの上で何かに怯えながら涙を流す心矢に、その時界斗は言った。
“ 苦しいんだったら、我慢なんかしなくていい”
“ なんでも俺に言って。俺がシンを助けるから”
そう言った直後、心矢は狂ったように笑い出して、そして界斗を押し倒すと首を絞めた。
界斗はその時の光景を…自分が心矢に言った言葉を、ハッキリと思い出した。
………あの時も、心矢は今のように泣いて苦しんでいた。そんな心矢に俺は無責任な言葉をかけて……結局はシンに、何もしてあげられなかったじゃないか………。
「…シン、ごめん……俺の言葉がずっと……お前を苦しめていたんだよな……」
界斗は静かに言葉を紡いだ。すると心矢に変化が起こる。
心矢の見開いた目が落ち着きを取り戻し、暴れていた衝動は急速に引いていった。
心矢は肩から力を抜き、静かに揺れる瞳で界斗を見下ろすと、弱々しい声で口を開く。
「……カイ、俺…ずっとお前に–––」
バンッ
刹那、銃声が鳴り響いた。
側頭部を撃ち抜かれた心矢の体が真横へ倒れ、その光景を目にした界斗に戦慄が走る。
「シン!!」
界斗は起き上がり、目を閉じて動かない心矢の頭を確認する。側頭部には銃弾が貫通した穴があいていた。
コツ、コツ、と足音が鳴る。
界斗がその方向を見ると、険しい顔をした黒木が銃口を倒れている心矢に向けたまま近づいて来ていた。
「やめろ! 撃つなッ!」
界斗は怒りを露わにして叫びながら、心矢を背後に庇って黒木を睨みつける。黒木は眉を潜めて立ち止まったが銃は下ろさなかった。
界斗は黒木に背を向けると、手をボディバッグの中に入れながら心矢に向かって必死に叫ぶ。
「シン! 待ってろ、すぐに治し–––……」
言葉を詰まらせた界斗は心矢の頭を凝視した。
側頭部にあいていた穴が––––塞がっている。
傷口はどこにも見当たらない。何故……。界斗はその理由に気づき、絶望感に襲われた。
心矢はもう、人間じゃない……。
「………カイ……」
目を閉じていた心矢が、薄く目を開けた。
「シン…!」
界斗のすがるような目を見て、心矢は言う。
「……カイ…俺、ずっとお前に……許されたかったんだ……」
心矢は顔に柔らかい笑みを浮かべて、先ほど言いかけた言葉の続きを口にした。
「灯影も零鬼も殺った……。姫が『残余霊』をこの世から全て消してくれる……。あとは俺が…、テメェの前から居なくなればすべて終わる……。なぁ、カイ……これで俺を、許してくれるだろ……?」
「……っ」
界斗は泣き出す寸前のような顔をして声を絞り出す。
「ばか……、馬鹿だろお前ッ!」
いろんな感情が胸を圧迫して苦しくなり、それ以上何も言えなかった。
心矢は笑ったまま目を閉じて、そのまま気を失ってしまう。
「シン…っ」
「界斗」
黒木が界斗のすぐ近くで立ち止まっていた。銃は下ろしているが、依然として心矢を警戒している。
「界斗、そのガキは危ない。今すぐ離れろ」
低い口調で黒木は言った。
界斗は黒木を睨むように見上げて口を開く。
「…黒木さん。俺はこのままシンと一緒に帰ります」
「おいおい…ここが何処だかわかってるのか? 最寄りの駅まで二時間以上は山道を歩くことになるぞ。そいつをおぶって歩くなら朝になっちまうかもな」
「構いません」
「……」
界斗の力強い一言を聞いて、黒木は深く嘆息した。そして全身血塗れの心矢と、その血に汚れてしまった界斗を見て眉間に深く皺を寄せる。
「そんな姿で人前に出たら騒ぎになるぞ。風呂に入りなおせ。明るくなったら駅まで車を出してやる」
「いいんですか…?」
「ああ」
黒木は困った顔に笑みを浮かべた。
「ここでお前ら息子を放ったらかしにしたら、正一さんと浩二さんに怒られてしまうからな」
***
次に目を覚ました時、界斗はベッドの上に横たわっていた。血生臭かった体は今は香水のような大人の香りに包まれている。
視界に映る黒木の寝室が朝の日差しで明るくなっていた。黒木のベッドはキングサイズでシーツは高級感のあるシルクだ。界斗は横になってすぐ睡魔に襲われて、そのまま朝までぐっすり眠ってしまっていた。
界斗は、まだぼんやりする頭で寝返りをうつ。すると隣で寝ていた心矢の背中が視界に映った。心矢の体はすっかり綺麗になっている。今は界斗と同じネイビーのガウンを着ていた。
界斗は心矢の背中を眺めながら、寝てしまう前の記憶を思い出す。あの後すぐ黒木は部下たちにロビーの掃除と、二つの死骸の処理をするよう命令し、界斗には風呂に入るように言った。心矢は誰が風呂に入れるんだ…え、俺か? と界斗が思っていると、幸いにも目を覚ました心矢が自分で入ってくれた。
意外にも心矢はいつも通りで、ただ眠気を我慢しているのか口数は少なく、先に風呂に入って血を洗い流すと、入れ替わりで入った界斗が出て来た時には、勝手に黒木のベッドで呑気にぐーすか寝ていた。
黒木から朝まで部屋を使っていいと言われていたので、界斗も遠慮なく上質なベッドに横たわると、背中に心矢の存在を感じながら眠りについたのだ。
目を覚まして、隣に心矢の存在があることにホッとする。その背中にじっと視線を注いでいると、一瞬その背中が色を失うように透けて見えた。
「! っ……」
驚いて上体を起こした界斗は心矢の肩を強く掴んだ。触れられることに安心しつつ、恐る恐る心矢の顔を覗き込む。すると急に目を覚ました心矢と至近距離で視線がぶつかった。
「…近ぇ……」
界斗は慌てて身を引く。
「なっ、なななな何もしてないからな!?」
「…あ''ー、うるせぇ……頭に響く……」
心矢は眉間に皺を寄せ、寝起きの不機嫌な声で呟きながら仰向けになった。そのまま目を閉じてまた寝ようとする心矢に、界斗は声をかける。
「シン…。おいシン」
「うるせぇなぁ……なんだよ?」
心矢は目を開けて鬱陶しそうに界斗を睨んだ。
界斗は曇った顔で心矢を見下ろす。
「お前……俺にずっと、許されたいと思っていたのか?」
「……」
心矢は何も言わない。
界斗は口調を強めて続ける。
「勝手なことして、お前一人が犠牲になれば俺に許されると思ったか? 許すわけないだろ」
界斗から非難の目を向けられ、心矢はあからさまにムッとした。
「わかったわかった。許さなくていい。テメェは一生死ぬまで、俺のことを嫌ってろよ」
そう言って、心矢は不貞腐れた子供のように背中を向けてしまう。
界斗は暗い顔でその背中をじっと見つめながら、ずっと不安に思っていたことを口にした。
「……シン。お前、これからどうするんだ」
「……」
「……本当に…俺の前から居なくなるのか?」
「なぁカイ」
心矢は界斗に背中を向けたまま言った。
「今夜、親父たちの実家に泊まらねぇか」
「え?」
界斗は驚いて、心矢の背中をまじまじと見た。
「急だな。別に今夜じゃなくても…」
「いや、今夜だ。今夜じゃなきゃ駄目だ」
「なんでだよ」
「なんでも」
頑なな子供を相手にする親のような気持ちになりつつ、界斗はやれやれと返事をする。
「…わかった」
「うっし。そんじゃあ二度寝するから起こすなよ。おやすみ〜」
「おい、もう朝だぞ、いつまでも此処には居られないんだからな。 …おいこら、寝るな」
静かになった心矢を叩き起こそうとした界斗は、漂ってきた煙草の匂いに気付いてドアの方を見る。いつからそこに居たのか、開いているドアの壁横にもたれ掛かって煙草を吸っていた黒木が、目が合うとニッコリと笑った。
「おはよう界斗。よく眠れたか?」
黒木は片手に大きな紙袋を持ったままベッドに近づく。界斗は小さく笑みを浮かべた。
「はい、おかげさまで」
「服を用意したから着替えろ。準備が整ったら出るぞ」
黒木は紙袋をベッドの上に置いた。
「ありがとうございます。…あの、黒木さん」
「ん?」
「…灯影と零鬼の死骸はどうしましたか?」
黒木は界斗の複雑な心境があらわれた瞳を見返して言った。
「ちゃんと跡形も無く処分したぞ。これで『残余霊』はこの世から全て消えたってことだな。正一さんが望んだ通りになって、俺も嬉しいよ」
「父さんが…望んだ?」
ああ、と呟いて煙を吐いた黒木は遠い目をして言った。
「こんな犠牲と戦いが二度と起きないように『残余霊』をこの世から消してしまいたい–––……そう、正一さんは言っていたな」
「……」
「まぁとにかく、お前はよくやったよ、界斗」
黒木は界斗を褒めたが、界斗は顔を顰めて下を向く。
「……俺は大したことはしていません。自分を犠牲にして、全てを終わらせてくれたのは心矢だ」
界斗は無意識に力を入れた手でシーツにシワを作り、ちらっと心矢の方を見た。寝てしまったのか心矢は背中を向けたまま身動きひとつしない。
黒木は平然と煙草の煙を吐き出すと、心配そうに心矢を見つめる界斗と、呑気に寝ている心矢の背中を見て、己の過去の記憶の中にいる兄弟を思い出す。
–––––後先考えずに化け物に突っ込んで行く浩二と、そんな浩二を常に心配しながら援護していた正一。
「何というか…。さすが、正一さんと浩二さんの息子だな」
黒木は小さく呟いて困ったように笑ってみせた。
***
黒木と別れて部下が出した車で駅まで送ってもらった二人は、ホームで次の電車を待つ。その間に界斗は父方の実家に電話をした。
今夜心矢と泊まりに行くことを伝えると、電話に出た祖父は驚いていたが、すぐに了承を得ることができた。
次に界斗は母親に電話をした。
電話に出た母親は連絡もなしに帰ってこなかった事を心配して怒っていたが、心矢と一緒に友達の家に泊まっていたことを伝えると、呆れながらも許してくれた。
「はぁ…」
通話を切った界斗はため息をつくと、後ろのベンチに座っている心矢を見て言った。
「シン、お前も母親に電話しておけ。心配してるだろ」
「あ? あー、別に平気だろ。日頃から放任されてっからよ」
そう言って心矢は呑気にあくびをする。
界斗は次に渉に電話をしようとしたが、ホームに電車が到着するアナウンスが流れた為、トークルームを開き、心矢と共に無事であることをメッセージにして送ってスマートフォンを仕舞った。
***
それから数時間後。
界斗は自室で、渉と電話をしていた。
『え、そんな…じゃあもう心矢先輩は……』
界斗は渉に昨夜の出来事を全て話した。最初こそ喜んでいた渉の声が心矢のことを伝えると、急速に暗いトーンに変わってしまった。
「ああ…。もう、人間じゃないことは確かだ」
『心矢先輩…これからどうなってしまうんでしょうか…』
渉から心配と不安の声が聞こえてくる。
界斗は暗い表情のまま、いつも通りの口調を意識して言った。
「白坂。一つお願いがあるんだ」
『はい、何ですか?』
「今夜、父方の実家に心矢と泊まりに行くんだが……白坂も一緒に泊まってくれないか?」
『えっ、俺も?』
驚いた声の後に、困った声が聞こえる。
『泊まるのはぜんぜん大丈夫ですけど。でも俺他人ですし、邪魔になりませんか?』
「いや、むしろ居てくれると助かるんだ、俺が」
『心矢先輩と二人きりになるのが怖いんですか?』
ズバリと言い当てられ、界斗は黙ったまま苦笑する。するとすぐに渉の慌てた声が聞こえた。
『あ、す、すみません!』
「いや、謝らなくていい。当たってるから」
界斗は軽く笑ったあと、その笑みを引っ込めてベッドに腰掛けたまま項垂れる。
……俺は、心矢が居なくなることが怖いんだ。ずっと早く死んでくれって思っていたのに……。
『あの』
気が沈む界斗の耳に、渉の明るい声が響く。
『俺が界斗先輩の支えになれるなら、一緒に泊まらせてください』
「–––…ありがとう、白坂」
界斗は安堵の笑みを浮かべた。
***
夕方に界斗と渉は駅で待ち合わせをして電車に乗り、降りた駅舎の待合室にあるベンチに座って後から来る心矢を待っていた。
しばらくして改札を通り出て来た心矢は、もう必要がなくなった『残余刀』を入れた竹刀袋を背負って現れた。
界斗の隣に座っている渉に気づくとニヤリと笑う。
「よお、渉。相変わらずひ弱っちぃクソみてぇな面してんなぁ」
「なんかそのセリフ、前にも言われたような…」
渉は苦笑いするが、いつも通りの心矢に安心する。話もそこそこに三人は駅舎から出て歩き出した。
***
元宮家の立派な日本家屋が見えて来ると、その庭の外で待っていた祖父母が三人を出迎えてくれた。
張り切ってご馳走を用意したと言う祖母の言葉通り、テーブルの上には品数多い手料理が並べられていた。
界斗と渉は料理を食べながら祖父母との会話を楽しんだ。けれど心矢は料理に全く手をつけなかった。
早々に団欒から抜けた心矢は一人縁側に座って、遠くに見える鳥辺山をぼんやりと眺めている。そんな心矢を心配して構おうとする祖母を、祖父がやんわりと止めた。祖父は心矢の変化に気づいているようだった。
広い寝室には、三人分の布団がすでに用意されていた。
田舎は夜が早い。祖父母はすでに就寝。界斗と渉もいつもより早い時間帯に布団に入ったが、すぐ眠りにはつけなかった。けれど界斗の隣では心矢がすでに眠っている。
「心矢先輩、眠っちゃいましたね」
渉は界斗の背を見て小声で言った。界斗は渉の方に体を向けると、笑みを浮かべて口を開く。
「白坂。今日は一緒にいてくれてありがとな」
「いえ、俺も凄く楽しかったです。心矢先輩とも一緒に過ごすことが出来たから……。できれば、また今度三人で銭湯に行きたいです」
渉はどこか寂しそうな顔をしてにこりと笑った。
「そうだな…」
界斗も、渉と同じような顔をして小さく笑う。
………ふと、界斗は目を覚ました。
視線の先には渉が静かに寝息を立てている。界斗はぼんやりとしたまま無意識に寝返りを打った。
「……っ」
背後の布団の中に心矢の姿がないことに気づいて、弾かれたように体を起こす。
壁に立てかけていた竹刀袋もない。界斗は心矢の布団に触れた。まだ体温が残っている。界斗は急いで外へ出た。
星空の下の田舎道を必死になって走る。すると竹刀袋を背負って歩く心矢の姿を見つけた。界斗はその背に向かって「シン!」と夜空に声を響かせる。
心矢が立ち止まって振り返った。
界斗は心矢のすぐ目の前で立ち止まると、肩で息をしながら低く呟く。
「…どこへ行くんだ、シン」
「バッカだなぁ、お前。なんで追いかけて来てんだよ」
心矢は困った顔をして笑った。
「姫があの山で待ってっからよ。もう行かねぇと」
「シン、行くな」
「……」
「頼む…行かないでくれ」
縋りつく思いでそう口にした界斗に、心矢は無感動な視線を送る。その冷たい視線に界斗は気圧され息を呑んだ。
「姫は俺との約束を守ったんだ。俺が破れるわけねぇだろ。つーかもう俺は人間じゃねぇからこの世界では生きられねぇよ。テメェも分かってんだろ、カイ」
「……もう二度と…会えなくなるのか…」
「さあ、どうなんだろな」
どこか他人事のような返答に界斗は黙って俯くと唇を噛んだ。
もう何を言っても全てが手遅れだ。心矢を引き留めることはできない…。
「あ、渡し忘れるとこだったな。カイ、手ぇ出せよ」
「……?」
心矢がズボンのポケットに手を入れて何かを取り出すのを見ながら、界斗は言われた通りに手を出した。広げた手のひらの上に、心矢が小さなものを落とす。
それは、一枚の桜貝だった。
「この桜貝って、まさか…」
界斗は驚いて心矢を見つめる。
「おう。昔集めてた貝殻は全部捨てちまったけど、ガキの頃の俺はそれだけは捨てずに持ってたんだよ」
心矢は笑いながら言葉を紡ぐ。
「それやるよ。たしか拾ったものは汚ねぇんだっけ。貰っても嬉しくねぇプレゼントだな」
にしし、と子供っぽい笑い方をする心矢。
界斗は手のひらの上の桜貝に視線を落として、大切にそっと握りしめた。
「カイ。その桜貝は俺の生きた証だ」
「証…」
界斗が顔を上げると、心矢は穏やかに満ちた笑みを浮かべていた。
界斗はハッとする。自身の背後に誰かの気配を感じて界斗が振り返ると、そこには泣きたそうな顔をした渉がいた。
「––––じゃあな。カイ、渉」
心矢の最後の言葉を聞いた界斗が視線を戻した時には、もう心矢の姿はどこにもなかった。
界斗は握りしめていた手を開いて桜貝を見つめる。
「界斗先輩…」
後ろから渉の涙声が聞こえた。
界斗は振り返ると、静かに泣いている渉に向かって、何も言わずに、ただ優しく微笑んだ––––……。
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