第四夜『灯影の魔の手』

***


 激しい雨が降り続く深夜–––。

 とある工業地帯の一角にある廃工場に、一台の車が入って来た。

 車は建物の前に横付けで止まると、運転席と助手席の扉が同時に開く。車から降りたのは中年の男二人–––体格のいい男と、細身の金髪の男だ。二人は雨が凌げる屋根の下へと素早く移動した。

 積まれたコンテナの陰から、少し遅れてスーツを着た一人の男が姿を現した。彼は黒い傘をさし、もう片手に小型のアタッシュケースを持ったまま、男たちの方へと歩いて行く。

 屋根の下で、男たちは顔を突き合わせた。


「時間通りだな」


 傘を閉じたスーツの男が無表情のまま言った。相手側の二人のうち、体格のいい男が素っ気なく返す。


「生憎の雨だ。さっさと済ませよう」


「商品はこの中にある。確認するか?」


「もちろんだ」


 スーツの男は無駄がない動きで、男たちに中身が見えるようにアタッシュケースを片手に持ち、もう片方の手で蓋を開けた。

 中には、衝撃防止用のクッションに包まれた透明な瓶が一つ。瓶の中には、青いグラデーションがかったカプセル型の薬が詰まっていた。


「あんたら『黒波こくは』が製造する新規ドラッグ、『Blue・Cicadaブルー・シケイダ』。いつ見ても魅力的な色をした薬だな」


 前に出て中身を覗き込んだ体格のいい男は、美味しそうな料理を目の前にしたように舌なめずりをして、青い薬をじっと見つめる。

『黒波』は、日本で生まれた新しい犯罪組織の名だ。

 この組織で製造する新規ドラッグ『Blue・Cicada』 略して『B・C』が、裏社会を相手に商売を始め、日本から世界的に流通し始めて約二年。『B・C』の効果は高い評価を得て高値で売買がされている。


「確認できたか? では金をいただこうか」


 スーツの男がアタッシュケースの蓋を閉じた。瞬間。

 体格のいい男の側頭部に穴が空き血飛沫が舞った。男の頭を撃ち抜いたのはコンテナの上に身を伏せて攻撃の合図を待っていた『黒波』の狙撃手だ。男の体はそのまま地面に崩れ落ちた。


「っ!?  てめぇ!」


 後ろで控えていた金髪の男が懐から銃を抜く前に、スーツの男が男の額に向けて銃口を突きつけトリガーを引いた。

 額を撃ち抜かれた金髪の男は、膝から崩れ落ちていく–––。


 この現場から少し離れた場所に位置する道路脇に、黒塗りの高級車が一台、停車していた。

 運転席と助手席には『黒波』の部下が二人。後部座席にも男が二人。全員スーツを着用している。

 後部座席で優雅に手足を組んでいる男は、『黒波』の頭である黒木静波くろきせいはだ。

 黒木は一見人当たりが良さそうな穏やかで綺麗な顔つきをした男だ。長身痩軀。年齢は三十代前半。明るめに染めた短い髪をオールバックにし、青シャツでコーデしたスーツ姿は見た目も爽やかで良い印象を与える。


「–––…人が死ぬ瞬間を見るのはどうしても出来ない。撃ち抜かれた瞬間に飛び散るあの赤色を見るだけで反吐が出るんだよ。俺はガキの頃から赤色が大嫌いなんだ」


 激しい雨が打ちつける窓の外を眺めながら、黒木は誰に言うともなく呟いた。


「なぁ灯影とうえい。お前は何色が好きなんだ?」


 ふと思いついたように、黒木は隣に座る男に視線を送って訊ねた。

 静かにその身を隣に置く男–––灯影は、焦茶色の長い髪の毛を後ろで縛り黒いスーツを着用している。黒木とさほど年齢差を感じさせないが、爽やかな印象がある黒木とは違い隠すことのできない危険な雰囲気を纏っている。

 問われた灯影は黒木に冷たい視線を向け、低い地声で言う。


「俺は色に好き嫌いを感じたことはない」


「ハハハ、っぽいな」


 灯影の素気ない一言に黒木は軽く笑いながら返した。それが癇に障ったのか、灯影は僅かに眉を顰める。


「俺は青色が好きだ。世界的に見ても青は特に好まれる色としてあげられる。自然を連想させる美しさ。信頼、安全、安心感を与えることができる色だ。魅力的だと思わないか?」


「……」


 灯影は黙ったまま前を向いた。

 その横顔は無表情で何を考えているのか読めない。

 灯影は現在、黒木のような犯罪組織を相手に商売をする掃除屋–––“死体処理”を生業なりわいとしていた。

 黒木から仕事を依頼されるのは、今回で三度目となるが、黒木は灯影が『残余霊』という化け物であることを知らない。

 先ほど殺された二人の男は兄弟で、体格のいい男が兄、金髪の男が弟だ。

 二人は夜の街で働く人間をターゲットにして、『黒波』から購入した額を上回る額で『B・C』を売り利益を得ていた。

 黒木の商売を妨害したため始末されたのだ。

 灯影はその兄弟の死体を処理する依頼を受け、今ここで待機をしている。


「お前さ、何か欲しいものはないのか?」


 黒木が投げかけてきた言葉に反応を示した灯影は、再び黒木の顔を見る。黒木は窓側に頬杖をつき「暇つぶしトークだ、付き合えよ」と言って不敵な笑みを浮かべる。


「欲しいものじゃなくてもいい。何かしたいことはないのか?」


「……」


 灯影は無表情のまま僅かに思考する。

 欲しいものは–––ある。

 だが、灯影はそれを口にはしなかった。


「始末したい子供が二人いる」


 代わりとばかりに、そう答えた。

 黒木が軽い口笛を吹く。


「お前が適当な女に孕ませちまったガキか?」


 黒木は灯影に向かって冷笑を浴びせた。

 灯影は微塵も表情を変えることなく、無言のまま再び前を向く。犯罪組織のボス相手に恐れを知らない態度だ。

 だが黒木は特に気分を害することはない。むしろ、この得体の知れない男を面白く感じていた。


「お前ならガキの一人や二人、簡単に始末できるだろうに」


「ただの子供じゃない。“人とは違う生き物”だ」


「? ……へえ」


 黒木にはその言葉の意味がわからなかった。

 からかってんのか…? そう思い軽い殺意を覚えたが、灯影の無表情だった仮面が僅かに崩れたのを見て、その殺意は消える。

 灯影の瞳に一瞬宿ったどす黒い感情を見た黒木は、この男の恨みを買う二人の子供に少しばかり興味が湧いた。


『ボス。任務完了しました』


 耳に取り付けたイヤホンマイクを通じて、対応に行かせていた部下から黒木に報告が入った。

 黒木は少し陽気な声で「りょーかい」と返すと、そのままの調子で灯影に言う。


「さて。ここからはお前の仕事だ。巧みな後始末を頼んだぞ」


 黒木の顔を見た灯影は顎を引いて頷き、口を開く。


「黒木。何度も言うようだが、」


「死体を処理する現場は見るな、近づくな。だろ? 心配するな。お前を降ろしたら早々に去るよ。だがまぁ正直に言うと、気にはなってるんだぜ。一体どんな魔法を使って死体を消しているのかってな」


 そう言って黒木は鋭い視線で灯影を見る。


「だがまぁ、人間誰しも、決して他人に知られたくない秘密はあるさ。うちがドラッグの製造法を知られたくないのと同じくらい、お前は死体の処理法を誰にも知られる訳にはいかない。だろ?」


「そうだな」


「お前の仕事には大満足しているんだ。近々また依頼をするよ。宜しく頼む」


「ああ」


「今回も送っていかなくていいのか? この辺はタクシーも通らないし、宿泊できるホテルも何もないぞ」


「心配はいらない」


 全て一言で終わらせた灯影は車を降りて、黒い傘をさした。

 するとご機嫌な様子で黒木が口を開く。


「そうだ灯影。今度飯でもゆっくり食いながら話をしよう。俺の次のビジネスについて聞いて欲しいんだよ。お前の不利益にはならない話だと思うぜ。その時に、お前がいう始末したいガキの話も聞かせてくれ」


 黒木は笑顔でひらひら手を振った。灯影は無表情のまま、自動で扉が閉まるのを待つ。

 黒木を乗せた黒塗りの高級車が発進する。その後ろに、先ほどの部下と狙撃手が乗った車が続いた。

 二台の車が走り去ったあと、灯影は廃工場の建物の方へ歩き出した。

 灯影は、建物の屋根の下に横たわる兄弟の死体を見下ろすと、強い一言を発する。


零鬼れき


 建物の屋根の上から重い音が鳴り響いた。

 猿に似た顔が下を覗き込み、そして地面に着地する。体長二メートル以上の半獣。零鬼という名の『残余霊』だ。


「始末しろ」


 灯影の短い命令に従い、零鬼は死体に手を伸ばす。体格のいい男の頭を片手で鷲掴みにしてぶらりと持ち上げると、零鬼は上を向き、口を開けた。

 蟹の身を食べるように男は足から齧られ、あっという間に零鬼の腹の中へ消えていった。

 もう一人の男を同じように喰っていく零鬼を横目に、灯影は無感情のまま地面に視線を落とし、流れ出た血が雨によって掃除されていくのを、ただ静かに眺めた–––……。



***


 八月の夏休み某日。

 愛美は朝早くから街へ遊びに出かけていた。

 駅で待ち合わせをしていた三人の友達は皆、年頃の女の子らしく、スカートやワンピースという可愛い格好だった。

 そんな中、愛美は好きなスポーツブランドで服もサンダルもキャップも統一している。黒のショートパンツに白Tシャツというボーイッシュな格好に加え、金髪の髪の毛も染め直すついでに暑いからと前より毛先を短くした。

 可愛い女の子らしさはないが、これが愛美の変わらないスタイルで、本人も気に入っている。

 友達と屋内プールで遊び、外でランチをした後は街中をウロウロして過ごし、夕方の十八時には帰宅した。


「ただいま〜。あっつ」


 玄関を開けると、リビングの方から涼しい風が吹いてきた。

 両親はまだ仕事から帰って来ていないが、玄関には界斗の靴がある。朝出かける時に見た位置から変わっていない為、一日中家にいたようだ。

 親の再婚が決まり、正式に界斗と愛美は兄妹となった。今は家族四人、一軒家で暮らしている。

 汗ばんだTシャツの胸元をパタパタさせながら、愛美はリビングを覗いた。テレビは消えているが、その真正面に設置しているソファに、界斗の青みがかった頭が見えた。


「兄さん、ただいま〜。…って、寝てる」


 愛美が近づいて見ると、界斗は仰向けで横になって寝ていた。

 肘掛けにクッションを置いてその上に頭を乗せ、胸元には開いたまま伏せらている文庫本があり、読みながら寝てしまったようだ。

 界斗はよく夜に外出して遅くに帰って来ることが多い。

 気になって界斗の母親にこっそり聞いてみると、それは高一の頃から続いている習慣で、本人が言うには大学受験に向けた勉強を友達の家でしているからだという。

 相手は男友達と聞いたが、愛美は少し疑っていた。もしかしたら彼女がいて、親にも内緒で付き合ってるんじゃないかと。夜に彼女の家まで会いに行っているのだとしたら、やることは勉強だけじゃないことくらい想像できる。


「……」


 愛美は無言のまま、カーペットの上に両膝をついてしゃがみ込んだ。

 愛美の視線は、界斗のシャツの胸元から覗く鎖骨や、日に焼けていない首筋の肌をたどる。そして無防備に晒された寝顔を、ここぞとばかりに眺めた。


「やっぱり……好きだなぁ」


 無意識に呟いた愛美は、脳裏でしてはいけないことを想像してしまう。それは実行され、それを止める者は誰もいなかった。

 真上から界斗の顔を見下ろすと、ゆっくり顔を近づけ、界斗の唇に軽く唇を押し付ける。


「–––……っ」


 すぐに頭を上げて身を引いた。が、勢いが良すぎて後ろに尻餅をついてしまう。口元を両手でおさえて固まった愛美は、顔を真っ赤にした。

 やばい……キス、しちゃった…!

 ファーストキスだった。そのことが余計に、愛美のテンションを上げていく。しばらくその場から動かずに黙って界斗の方を見つめるが、眠りから覚める気配はない。

 ……もう一回…いいかな……。

 欲が出た。一線を越えてしまうと、もう気持ちは止められない。

 静かに近づいて寝顔を見下ろし、息を殺してゆっくりと唇を近づける。吐息が界斗の唇にそっと触れる距離まで迫った瞬間、界斗の瞼が震え、うっすらと開いた。


「……愛美…?」


「……っ、!」


 至近距離で目が合い、名前を呼ばれた。

 愛美は急いで上体を起こす。背中に嫌な汗が噴き出した。

 界斗が目を見開いて、呆然と呟く。


「–––……愛美、何して、」


「ちっ、違うよ! なんにもしてないから!」


 愛美は慌てて立ち上がって後ずさると、気まずそうに顔を逸らした。

 界斗は上体を起こすと、自身の唇に指先で触れた。唇からほのかに甘い香りがする。愛美がよくつけている香り付きのリップクリームを思い出した界斗は、寝ている間に愛美にキスをされたのだと気づいた。


「あ…あ〜そうだ! 確かアイスあったよね、食べよっと!」


 ぎこちない笑顔を浮かべた愛美は背中を向け、冷蔵庫があるキッチンの方へ行こうとした。

 界斗は小さく息を吐き、愛美の背を見て低い声で呼び止める。


「愛美」


「あ、兄さんもアイス食べる?私は二本食べちゃおっかな〜」


「愛美、もう一度聞く。さっき俺に何をした?」


「……」


 愛美はリビングとキッチンの間で立ち止まると、俯いて沈黙した。界斗はソファに座り、こちらも黙ったまま愛美の背中を見つめる。

 背中から界斗の視線を感じながら、愛美は振り向かずに、力無い声を出す。


「……キス、したんだよ」


 界斗がひとつ嘆息した。愛美の肩が小さく跳ねる。界斗は文庫本を持って、ソファから腰を上げながら口を開く。


「アイス、食べすぎないようにな。昨日みたいに、また夕飯が食べられなくなるぞ」


 界斗は何もなかったようにそう言った。愛美は振り返って、困惑顔で界斗を見る。


「ちょ、ちょっと待ってよ。私、寝てる兄さんにキスしたんだよ。他に何か言うことないの?」


「ほんの出来心だったんだろう。俺は忘れるから、愛美も忘れ、」


「何それ! 忘れろって…忘れられるわけないじゃん!」


 二人の目が合う。


「…兄さん。私、私ね、兄さんのことが、」


「愛美」


 強い口調で名前を呼ばれて言葉が詰まる。愛美を見つめる界斗は静かに怒っていた。


「聞いてよ、兄さん」


 愛美は気後れを感じながらも、強気な視線を界斗に向ける。


「私、兄さんのことが好きなんだよ。家族としてじゃなく、異性として好きなの」


 愛美の目には涙が滲んでいた。声を震わせて続ける。


「本音をいうとね、ずっと親の再婚には反対だったんだ。だって再婚しなかったら、私は兄さんのこと好きになっても許されるでしょ」


「愛美。お前は俺の妹だ。そうであって欲しいと俺は思ってる」


「っ、けど私は、」


「もし家族じゃなくなったとして、それで俺たちの関係がお前の望むものになることは…絶対にない」


 愛美は目を見開いた。

 その顔がくしゃりと歪む。


「…私って、兄さんの好みの女の子じゃない…?」


「そういうことじゃなくて…」


 界斗は言葉を濁し愛美から目を逸らした。

 愛美は震える唇をきゅっと引き結ぶとリビングを飛び出して二階に上がり、自室のベッドに倒れ込むと、枕に顔を埋めて泣いた。

 界斗に好きになってもらえるなら何でも出来る思いだった。

 この髪色も界斗が好きな色に染めなおすし、長い髪が好きなら頑張って伸ばす。服装だって女の子らしくする。性格でもなんでも全部変えられる。そんな思いだった。

 初めての恋だったのに、あんなカタチで失恋するなんて思わなかった…。



***


 数日後。

 お昼時を過ぎた『喫茶キムラ』に、界斗は一人で来ていた。

 忙しい時間帯が過ぎた店内。界斗以外の客は、常連客の年配の男性が一人だけ。男性は出入口近くのテーブルで静かにコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。界斗は一番奥のボックス席に座り、アイスコーヒーをひと口飲んだ後は、ストローでくるくる中身を回しながらぼんやりしていた。

 ここ数日の愛美のことを思い出す。

 寝ている隙にキスをされたあの日から、二人は会話らしい会話をしておらず、愛美は界斗を避けていた。

 お互いの親からは喧嘩したのかと心配され、早く仲直りしなさいと言われたが、そんな甘い問題ではない。


「…はぁ…」


 口から重いため息が出た。

 夏バテで体調があまり良くないが、夜は『残余霊』を封印する為に無理してでも体力を削っている。

 界斗は疲れていた。これ以上、余計な問題が増えないようにと切実に願うが、厄介ごとはそんな界斗の願いを無視してやって来る。

 来客を知らせるドアベルが鳴り響いた。

 カウンターの中で食器洗いをしていた木村凪が顔を上げ、嬉しそうににっこりと笑う。


「いらっしゃい心矢君。界斗君、奥にいるわよ」


 凪の声を聞いた界斗は、深く深くため息を吐いた。


「よおカイ。一人寂しくお茶会してんのかよ、ウケる」


「視界に入るな。コーヒーが不味くなる」


「はあ? コーヒーは元から不味いだろうが。何でもかんでも俺のせいにすんじゃねぇよ」


 界斗は眉を顰めて心矢を睨んだ。心矢は相変わらず癇に障るニヤニヤした笑みを浮かべて目の前に座る。勝手に相席をする心矢に、界斗は冷めた言葉をかける。


「お前も似合わないお茶会をしに来たのか」


「ちげー。何の用か知らねぇけど、凪さんに呼ばれたんだよ。タダで甘いもん食わせてくれるって。テメェもか?」


「俺はプライベートだ」


 界斗は素っ気なく言ってグラスを持ちストローに口をつける。すると二人が座るテーブルの前に凪が笑顔で現れた。


「ちょうどいいタイミングで界斗君が来てくれて嬉しいなぁ。二人で心矢君の誕生日、お祝いしましょ」


 凪は持っていたトレイの上からアイスココアのグラスと苺のミニホールケーキを、心矢の目の前に並べて置いた。

 今日は八月二十日。心矢の誕生日だ。

 界斗はすっかり忘れていた。

 だが目の前の本人ですら、すっかり忘れていたという顔をしている。

 界斗はテーブルの上に視線を落とす。ふと渉の誕生日がいつなのか気になった。今度聞いてみようと思いながらぼんやりと呟く。


「そうか……おめでとう」


 無意識にお祝いの言葉を口にしていた。

 ハッとした界斗が顔を上げると、頬杖をついてどこか嬉しそうにニヤニヤしている心矢と目が合う。


「歌えよカイ。バースデーソング」


「調子に乗るな」


「私が歌ってあげようか?」


 凪がニコニコした笑顔で心矢に言ったが、心矢は凪に視線を向けることなく「いらねぇ」と素っ気ない一言を返して界斗に言う。


「つーかカイ、俺の誕生日忘れてただろ。いやでも俺もすっかり忘れてたわ自分の誕生日。テメェの誕生日も忘れてるけどな。六月ってことは覚えてるぜ。俺より先に産まれたっつー腹立たしさがあるからな」


「私はちゃんと界斗君の誕生日お祝いしたよ」


 心矢に素っ気ない態度をとられても、凪は気にせずニコニコ笑顔だ。

 界斗の誕生日は六月二十五日。その時も凪に喫茶店に呼ばれて、今みたいに凪の手作りケーキ…ではなく、凪の得意料理のオムライスで祝ってもらった。凪は昔から、二人の誕生日を手作りの料理で祝っている。凪にとって二人は、どこか危なっかしくてほっとけない、可愛い弟のような存在だ。


「凪さんに毎年誕生日を祝ってもらえるのが嬉しいです。ありがとうございます」


 界斗は凪を見上げ、にこりと微笑んで言った。凪も界斗に笑顔を向ける。


「どういたしまして。界斗君は毎年すごく喜んでくれるから、やりがいがあって私も嬉しくなっちゃう」


 心矢がムッとし、背もたれに深くもたれかかりながら、界斗をじろりと睨む。


「またテメェはそうやっていい子ちゃんぶりやがって。もはや病気だな。薬飲んでも治らねぇよ」


「お前のその捻くれた性格に効く薬は、どこを探しても無いだろうな」


「こらこらダメだよ二人とも!めでたい日に喧嘩はしちゃダメ!」


 腰に両手を当てて、怒った顔で二人を叱る凪。

 その時、レジの方から常連客の男性が凪を呼ぶ声がした。凪は「あ、はーい今行きます」と返事をして、会計対応の為にその場を離れた。

 心矢はさっそくケーキを食べ始める。中央に乗った大きな苺から、ではなく、周りのスポンジとクリームを削っていくように口に運んでいく。幸せそうな笑顔で、甘ったるいケーキを口の中に押し込んでいく心矢を見ているだけで胸焼けがした界斗は、早々に顔を逸らして斜め横に視線を向ける。

 店内に一台ある壁掛けのテレビは、天気予報を流していた。


 凪は仕事に戻り、客は界斗と心矢だけとなった。二人の間に会話はなく、店内にはテレビの音だけが響いている。

 界斗はぼんやりとテレビの画面を眺めた。天気予報が終わりCMを挟んだ後に、報道特集が始まる。

 日本で流通する『Blue・Cicada』という名の新規ドラッグについての特集だ。

 SNS上では若者を中心に“死の薬” “自殺の薬”と呼ばれて話題になっているそのドラッグは、一錠摂取しただけでも短期間で死に至らしめる、危険なドラッグだという。


「青い蝉…か」


 界斗は無意識に呟いた。


「その名前にどういう意味があるのか、気になるのかよ」


 心矢が言った。

 界斗はちらりと心矢を見る。

 心矢は行儀悪く頬杖をついたままフォークに乗せたケーキを口に入れると、目を合わせ怪しげな笑みを浮かべた。中央の苺は皿の上に避けられケーキは半分以上食べ終わっている。


「お前は気になるのか?」


「名前より、効果の方が気になるぜ」


「飲んだら死ぬ薬なんだろ」


「馬鹿かテメェ。『B・C』は日本の犯罪組織が製造して、海外でも高値で売買されてるって話だぜ。ただ飲んだだけで死ぬっつー効果しかないドラッグが裏社会で流行るかよ」


「……詳しいんだな」


「俺と長ぇ付き合いのくせに知らねぇの? 俺は甘い物の次に犯罪に関わることが好きなんだよ」


 心矢は紅い目を細めてにやりと笑い、残りのケーキを口に入れていく作業に戻った。

 界斗は黙ってテーブルの上に置いたグラスに視線を落とす。心矢がずっと、死ぬことを考えていることは知っている。高校卒業後の進路について、界斗は大学への進学を決めているが、心矢は何も考えていないのだろう。

 暫し黙っていた界斗は、顔を上げることなく口を開く。


「シン。お前はこの先どう生きるのか、きちんと考えているのか?」


 気がつけば、真面目な話をするには向かない心矢相手に、そんな言葉を投げかけていた。

 案の定、心矢からはハハッと乾いた笑いが返ってくる。


「なんだなんだどうした? 暑さで頭がバグってんのか? 何考えてんのか知らねぇけどよ、分かってることをいちいち確認してくんなよ、うぜぇな」


 突き放すような物言いの心矢に、界斗は眉を顰める。


「お前は俺を殺したいんだろ。だったら俺を殺すまでは死ねないな–––……」


 一瞬自分が何を言ったのか分からなかった。ハッとした界斗は、無意識に己の口から出た台詞を思い返して困惑する。


「クッソつまんねぇな」


 心矢が深いため息をつき心底がっかりした口調で言う。


「テメェは早く俺に死んで欲しいんだろ?いつからそんなヌルい考えになっちまったんだよ。渉の影響か? そういやあいつ、俺が死ぬのは嫌だ、死んだら悲しいとかほざいてやがったな。テメェとはまた違ったタイプのいい子ちゃんだぜ」


「……」


 界斗は口を閉じ一人思考する。

 早く死んで欲しい–––……界斗の中でその気持ちは今でも変わってはいない。

 今抱えている問題が全て終わった後、自分たちは普通の生活に戻る。その時に心矢の人生が幸せであるかを考えると、きっとそうではないだろう。心矢が最悪な人生の方向に進むことは目に見えている。

 だから早く死んで欲しい。

 そう思っているのにどうして、ついさっき、自分はあんな台詞を言ってしまったのだろうか。

 まさか自分は心矢に生きて欲しいと思っているのか……?

 界斗は己の気持ちに困惑したまま静かに顔を上げた。


「––––っ」


 それは一瞬の動きだった。

 界斗の目先に、苺が刺さったフォークが突きつけられる。

 界斗は息を呑んだ。

 心矢は笑っているが界斗を睨みつける目は笑ってはいない。


「テメェはアホみたいに隙だらけだ。俺が本気出してりゃ、テメェはとっくの昔に死んでんだからな。今の一瞬で、このフォークにテメェの目ん玉を突き刺すことは簡単なんだよ」


「–––……」


 界斗は何も言い返せなかった。

 心矢が言うように本当に自分は隙だらけだと、身をもって感じているからだ。

 愛美にキスをされたのも己に隙があったから。愛美に好意をもたれていることは随分前から知っていたのに、リビングで無防備に眠ってしまい、事を容易にしたのは自分だ。

 ずしりと気分が重くなる。弱った体と精神がダメージを受けた。すぐ目の前にある真っ赤な苺が、心矢が軽く手首を振るのに合わせて視界で揺れる。


「俺のクソな将来を心配してる暇があるならテメェの心配でもしとけ。体調管理すらできねぇで弱ってちゃあ、寝首掻かれても文句言えねぇぜ」


 イラッときた。

 界斗は心矢の手首を掴むと口を開き、フォークに刺さっている苺を一口で食べた。


「あーっ俺の苺! カイてめぇ!」


 ショックと怒りを露わにする心矢を無視して立ち上がる。久しぶりに感じた甘い味に、うえ、と顔を顰めた界斗は、伝票を手にすると席を離れてカウンターの奥にいる凪を呼んだ。

 会計を済ませて界斗が出て行った後のドアベルが鳴り響く店内で、心矢は一人フォークの先を見つめて舌打ちする。


「チッ…らしくねぇことしやがって」



***


 同時刻 ファミリーレストラン内



「–––ちゃん、…愛美ちゃん?」


 鈴華に名前を呼ばれた愛美はハッとして顔を上げた。

 テーブルに向かい合わせで座っている鈴華が桃のパフェを食べる手を止めて、心配そうに愛美を見ている。

 兄の渉と同じ栗色の長い髪と、ぱっちりした大きな瞳。涼しげな水色のワンピースから覗く華奢で色白な腕。見た目の雰囲気もゆるふわな鈴華は愛美とはタイプが真逆の少女だ。


「え、あ、ごめん! ちょっとぼーっとしてた。えぇと…どこまで話したっけ?」


「待ち合わせ場所どこにしようかってところからだよ。鳥辺野駅だとお祭りの会場近くで人が多いだろうし、合流しづらいよねって」


「あ、そっか! そうだったね、あははっ」


 愛美はぎこちない笑顔を浮かべて、食べかけのマンゴーパフェから生クリームをすくって口に入れた。

 来週の土曜日に、鳥辺野市で開催される『とりべの夏祭り』がある。二人はその祭りに一緒に行くため、待ち合わせ場所と時間についてを話し合っている途中だった。


「愛美ちゃん、大丈夫? なんだか元気なさそうだね…。もし悩み事があるなら、私でよければ話を聞くよ」


 鈴華が優しい言葉をかけてくれる。

 愛美は視線を落とし、半分まで減ったパフェをスプーンで軽く弄りながら口を開いた。


「実は兄さんと喧嘩…というか、今ちょっと気まずいんだよね。早く仲直りしたいんだけど難しくって…」


 あんなことがあった後でも、界斗は態度を変えることなく接してくる。だが、愛美はそれが嫌で界斗を避けていた。

 自身の告白を界斗が忘れようとしているようで嫌だった。仲直りはしたい。けれど何事もなかったことにはして欲しくなかった。

 愛美はふと思いついて、視線を上げて鈴華に訊く。


「あ、そうだ。鈴華ちゃんはお兄さんと喧嘩した時って、どうやって仲直りするの?」


 鈴華は少し思い出すように沈黙をしたあと、ぽつりと呟く。


「そういえば、お兄ちゃんと喧嘩したこと一度もないかも」


「え、すご! やっぱり仲良いんだ。いいなぁ」


 愛美は羨ましそうな表情を浮かべた後に、しょんぼりとしてグラスの中身からマンゴーをすくって口に入れた。

 鈴華は眉を下げたまま小さく笑みを浮かべる。


「界斗さんと、早く仲直りできるといいね」


「う〜ん…ただの喧嘩なら謝ればいいだけなんだけど、そうじゃないから難しいんだよねぇ…」


「…?」


 よくわからず鈴華は小首を傾げた。

 二人の間に沈黙が降りる。

 愛美は気分が落ち込んでしまっているのか、いつものように積極的に話してこない。鈴華は内心で、ここは私がどうにかして愛美ちゃんを元気にしてあげなきゃ、と思った。


「愛美ちゃん、浴衣って持ってる?」


 鈴華は明るい声で話しかける。


「もし持ってるなら一緒に着てお祭りに行こうよ」


「あーごめんね、私持ってないんだ。小学生の頃は浴衣着て祭りに行ってたんだけど、流石にもう着れないし。着せてくれてたお母さんも今はいないしね…」


 顔を上げた愛美は笑みを見せたが、すぐにまた暗い表情になってしまった。鈴華は若干焦り気味になって口を開く。


「あ、えっとね、実は私、まだ一度も着れてない浴衣を二着持ってるの。あの、それでね、もしよかったら愛美ちゃん、一緒に着てくれないかな?」


「え、いいの? でも新品なんだよね、なんか悪いよ」


「そんなのぜんぜん気にしなくていいよ! 友達と一緒に浴衣着てお祭りに行けるの、凄く嬉しいから」


「–––…ありがとう。じゃあ借りるね」


「うん。着付けはお母さんがしてくれるから、当日、私の家まで来てもらってもいいかな。お母さんもお祭りを見に行くって言ってたから、会場まで車を出してもらえるよ」


 そう言って鈴華は愛美に微笑みかけた。愛美は嬉しそうににっこり笑う。


「やった! ありがとう鈴華ちゃん。いやー楽しみだね!」


 気分が上がりようやく笑顔が戻ってきた愛美に、鈴華はホッとした。

 愛美は久しぶりに着れる浴衣に浮かれながら、ふと思った。

 –––浴衣姿を界斗に見せたい。

 いつもと違う自分、しかも女の子っぽく演出してくれる浴衣姿を、好きな人に見せれるまたとないチャンスだ。


「ねぇ鈴華ちゃん。渉さんもさ、祭りに行くの?」


 パフェを食べる手を止めた鈴華は、少し考えるように視線を宙に向ける。


「うーん、どうなんだろう。聞いてないけど、お兄ちゃんもお祭り好きだから、多分学校の友達と行くと思うよ」


「実はおふたりに、ご相談がありまして」


 急にかしこまった言い方をする愛美に、鈴華は目をぱちくりさせる。


「渉さんと兄さんも入れて、四人で祭りに行きたいの。祭りで一緒に遊べば、私も兄さんと自然に仲直りできるかなって思って…。だから、渉さんから兄さんを祭りに誘ってもらうことってできないかな? あ、もちろん私が居るってことは内緒にして! せっかく浴衣を着るから、兄さんをびっくりさせたいの!」


 愛美は真剣な眼差しを鈴華に向けた。鈴華はにっこりと笑ってこくりと頷く。


「うん、わかった。お兄ちゃんに協力してもらえるようにお願いするね」


「ありがと〜!」


 愛美は今日一番の笑顔を見せた。



***


 その日の夜も、界斗と渉は『残余霊』の封印を行うために外出していた。

 ここ最近は『残余霊』の出没する夜が急激に減っていた。つまり残りの数が少ないという嬉しい知らせなんだろう。

 界斗は『残余霊』の気配を探しながら渉と一緒に学校からスタートとして、今は外を歩き回っていたが、休憩を挟むために小さな公園内のベンチに並んで座った。


「はー、生き返りますね」


 コンビニで買ったバニラ味の棒アイスを齧った渉は、その冷たさに言葉通り生き返る思いだ。

 日中に比べれば外は涼しいが、それでも夏。歩き回ると嫌な汗をかく蒸し暑さがある。


「白坂、毎日のランニングはこの時季でも続けているのか?」


 隣から界斗が尋ねてきた。片手には氷の入ったアイスコーヒーのカップを持っている。


「あ、はい。早朝の涼しい時間帯に走ってますよ」


「流石だな。俺には無理だ…」


 界斗はそう言って足元を見ると、小さく肩を落とすのに合わせて息を吐いた。最近の界斗はひどく疲れている。そのことに渉は気づいていて心配だった。


「界斗先輩。もしかして、体調があまり良くないんじゃないですか?」


 界斗はぎくりとした。心矢だけでなく渉にもバレてしまうくらい弱っているとは…。

 顔を上げた界斗は渉の方を見て笑いかける。


「少しな…。暑さのせいでいつもより深く眠れていないのが原因なんだ。これだから夏は苦手だ」


 界斗は眉尻を下げて、はは、と軽く笑った。

 渉はそれを聞いて、いつ切り出そうか悩んでいた話を界斗にすることに躊躇いをもつ。

 今日の夕飯の席で鈴華から界斗を夏祭りに誘って欲しいとお願いされていた。界斗と愛美が喧嘩をしているらしく、二人を仲直りさせるために四人で祭りに行きたいらしい。けれど愛美が来ることは界斗には秘密にして欲しいと言われている。

 うっそりした表情でストローを咥えている界斗の横顔を見て、渉は重々しげに口を開く。


「あの、界斗先輩」


「ん?」


 呼びかけに、界斗はちらっと渉を見る。


「来週の土曜日に『とりべの夏祭り』があるじゃないですか。界斗先輩は、誰かと行く予定ありますか?」


「いや、ない」


 界斗はアイスコーヒーをズッと飲み、ストローから口を離して言葉を続ける。


「夏祭りか…。小学生の頃までは行ってたけど、中学から興味がなくなってからは一度も行っていないな。暑いし…人混みも苦手だしな……」


 そう言いながら、界斗はぼんやり宙を見つめた。

 その隣で渉は焦る。

 興味がない。暑い。人混みが苦手。ここまで言われてしまうとものすごく誘いづらい。けれど鈴華と愛美の為だと自分に言い聞かせる。


「界斗先輩。俺と一緒に、夏祭りに行ってくれませんか!」


「え?」


 目を丸くした界斗にじっと見つめられ、渉は焦る。


「あ、いや、その、もちろん無理にとは、」


「いいよ。一緒に行こう」


 界斗はにっこり笑った。

 渉は目をぱちぱちさせると、次に顔が嬉しさのあまり、ぱああっと輝く。


「ありがとうございます! あっ、あとその……妹と友達が一人、一緒に回りたいそうなんですけど、大丈夫ですか?」


「ああ、いいよ」


 またあっさりした返答だった。

 渉の喜びは一瞬にして不安に変わる。界斗は笑っているが、内心はもしかしたら嫌だと思っているかも知れない。

 渉はそう感じてしまい、少し探るような目で界斗のことを見てしまう。すると界斗が不思議そうな顔をして渉を見る。


「ん、どうした?」


「あ、その…」


 渉は申し訳なさそうに言う。


「体調が悪いのに、誘ってしまってすみません…」


「ああ、別に気にしなくていい。白坂から誘ってもらえるのは本当に嬉しいんだ」


 界斗は微笑んだ。

 その言葉と表情に嘘はないと思った渉は、心の底からホッとして笑みを浮かべた。



***


 夏祭り当日。

 鈴華と愛美は家で浴衣を着てから来るため、渉は先に待ち合わせ場所の百貨店へ一人で向かった。

 会場から少し離れた位置に佇む百貨店の前には、まだ界斗の姿はない。渉はショーウインドウを背にして立つと、祭り会場の方向を眺めながら待った。屋台がずらりと並ぶ会場の方へと人の流れは絶えず続き、その中には浴衣を着た女性や男性の姿もある。


「白坂」


 すぐ近くから名前を呼ばれた。

 声が聞こえた方を見ると、いつの間にか界斗が立っていた。


「先に着いてたのか、早いな」


「さっき到着したばかりですよ。あ、妹たちも、もうすぐ着くってさっき連絡ありました」


 界斗と渉が合流してすぐ、浴衣姿の二人の少女が小走りで近づいて来た。


「お兄ちゃん」

「兄さんやっほー」


 鈴華と愛美だ。

 渉は事前に知っていたため驚かないが、界斗は愛美を見て少し驚いた顔をしていた。

 愛美は、白地に椿模様が描かれた浴衣に赤紫色の帯を合わせ、頭のサイドを一重椿の髪飾りで彩っている。

 鈴華は、白地に青色と水色の紫陽花模様が描かれた浴衣に黄色の帯。長い髪の毛は三つ編みにして後ろでアップスタイルにしてあった。二人とも華やかで可愛らしく着飾っている。


「どうどう兄さん。きれい? 可愛い?」


 愛美はテンション高くその場で一回転すると、界斗を見つめドキドキして感想を待つ。


「似合ってる。可愛いよ」


 界斗は笑みを浮かべて褒めた。

 愛美は頬をほんのり赤らめ照れ笑いを浮かべる。

 見守っていた渉と鈴華はホッとしたが、まだ二人にはやることがある。渉と鈴華はお互いを見ると、真剣な顔をして無言で頷き合った。

 四人は祭り会場へと歩き出した。

 会場に近づくと人が増え賑わいが増してくる。愛美は界斗と並び、その後ろを渉と鈴華が並んで歩いた。

 界斗は後ろから聞こえてくる渉と鈴華の楽しそうな会話をぼんやり聞いていた。二人とも、あれが食べたいあれがしたいと祭りを楽しんでいる。


「ねぇ、兄さんは何食べたい?」


 その声に界斗は意識を愛美へ戻した。


「ああ、何でもいいぞ。愛美が食べたいもので」


「えー。じゃあ焼きそばと、たこ焼きと、あとデザートはカステラと、りんご飴かな。いっぱい買い込んで、どっか座れる場所に移動して食べようよ」


「ああ」


 界斗が笑顔で頷くと、愛美は嬉しそうに目的の屋台をキョロキョロ見て探し始める。

 ふと界斗は背後からの会話が聞こえないことに気づいた。立ち止まって後ろを見ると渉と鈴華の姿が消えていた。


「愛美、止まってくれ。二人とはぐれたみたいだ」


「え? ……あ〜大丈夫じゃないかな。たぶん気になる屋台を見つけたから行っちゃったんだよ」


 立ち止まった愛美は界斗から目を逸らすと、どこかぎこちない口調でそう言った。

 ここに到ってずっと感じていた違和感が確信に変わる。この流れは初めから仕込まれていたんだろう。

 界斗は不快に思うよりも、呆れの方が大きかった。渉と鈴華をこちらのいざこざに巻き込んでしまったことが申し訳ない。

 そんな界斗の気も知らずに愛美はニコニコ笑顔で言う。


「二人とは後で合流すればいいじゃん。時間がもったいないし、私と一緒に回ろうよ、兄さん」


「–––…そうだな」


 界斗は後退していた笑みを口元に戻し、愛美と一緒に歩みを再開させた。

 祭り会場の中心となっている広場に二人は到着した。数々のイベントが行われるステージが中央に設置されていて、その周りに屋台がずらりと並んでいる。


「あっ、焼きそばあったよ、兄さん」


 愛美はお目当ての屋台を見つけると界斗の服の裾を掴んで引っ張った、その時。


「あー、界斗君だ!」


 少女の大きな声が界斗の名前を呼んだ。

 浴衣姿の三人の少女が小走りで近づいて来る。彼女たちは界斗のクラスメイトだ。


「え〜夏祭り来てんじゃん。うちらが誘っても断ったくせに」


「心矢君も一緒? てか、その子誰?」


「もしかして彼女? 年下っぽくない?」


 馴れ馴れしい三人組は、裾を掴んだまま固まっている愛美をじろじろと見る。まるで値踏みするような視線を浴びせられ、愛美は不快感に眉を顰めた。


「彼女じゃなくて、妹だ」


 と、界斗は作り笑いを浮かべて言った。


「ああ! 再婚相手の娘さんね!」


「へ〜、界斗君ちゃんとお兄ちゃんしてるじゃん」


「ねぇ心矢君は一緒に来てないの? 浴衣姿見せたかったのに」


 三人が界斗に向かって口々に言う中、愛美は内心で『早くどっか行け』と呪文のように何度も唱える。ひどく居心地が悪くてイライラした。

 その時、界斗に手を握られた。

 驚いた愛美が界斗の顔を見上げるよりも先に、界斗によって手を引かれる。


「じゃあ俺たちはこれで。祭り楽しんで」


 後ろから「え〜」と不満の声。界斗に大人しく手を引かれる愛美は僅かに目を伏せ、頬をほんのり赤らめる。掴まれた手から伝わる界斗の体温にドキドキしていた。

 焼きそばの屋台の前で足を止めた界斗は、隣で無言のまま俯いている愛美に穏やかな声で言った。


「愛美。焼きそば、今なら並ばずに買えるぞ」


 界斗は愛美の手を離そうとしたが、逆にぎゅっと握り締められる。


「–––…兄さん。この間の話をしたいんだけど、いい?」


 愛美は顔を上げて界斗をじっと見つめる。界斗は頷いて人の邪魔にならない隅へ移動した。

 二人は手を離し向き合って立つ。

 愛美はまだ迷いがあるのか、なかなか口を開かない。そんな愛美を界斗はじっと見つめ、黙して静かに待っていた。ようやく目を合わせた愛美は意を決したように口を開く。


「あれからずっと悩んで考えたんだけど…私やっぱり、兄さんのことが好きなの。この気持ちは、すぐに諦めることは出来ないよ」


「……」


「でもね、ちゃんと分かってるから。私と兄さんは血が繋がってなくても兄妹なんだから、この気持ちは、いつか絶対に諦めなきゃいけないってこと。……だからね、私が新しい恋をするまでは、兄さんのことを好きでいることを、許して欲しいんだ」


 愛美はそう伝えると、界斗の目を真っ直ぐ見つめた。

 界斗は悩ましい気持ちだった。

 できることならすぐにでも諦めてほしい。しかしそれができないのが“恋”という厄介な感情なんだろう。誰かを本気で好きになったことがない界斗には理解できない感情だ。

 愛美は来年には高校生になる。この先の人生で出会う異性の中に、必ず新しい恋を見つけることはできるだろう。

 それまでの我慢だと界斗は愛美を許すことに決めた。


「ああ。わかった」


 界斗は微笑を浮かべた。


「ありがとう…兄さん」


 愛美の表情が緩み、安堵の笑みが浮かぶ。


「あー、ホッとしたら余計にお腹すいちゃった。早く焼きそば食べよ!」


「ああ。その前に、二人と合流しないとな」


「あっ、そうだった、お礼も言わなきゃ!」


 愛美はスマートフォンを取り出して鈴華にメッセージを送った。

 焼きそばを買い、続いてたこ焼きを購入したタイミングで、渉と鈴華が笑顔で二人の元へ近づいて来た。無事に合流した四人はそれぞれが食べたいものを買い揃えると、広場の隅に設置されている飲食スペースに移動し、空いているテーブルに買った物を並べていく。


「鈴華ちゃん。後でヨーヨー釣りしに行こうよ」


「うん」


 愛美と鈴華が目の前で楽しそうに喋っている間、界斗は隣にいる渉に視線を向けて申し訳なさそうに言った。


「白坂。俺たちのことで余計な気を使わせてしまって悪かったな」


「気にしないでください。結果解決できて、今は四人で祭りを楽しめてるんですから」


 渉がにこっと笑い、界斗もつられて笑みを浮かべた、その時–––『残余霊』の気配を感じた。


「っ、」


 顔を強張らせ大勢の人でごちゃごちゃしている広場を見回す界斗に、渉は首を傾げる。


「界斗先輩?」


「…、……」


 界斗は気配に集中しながら鋭い視線を巡らす。

 無数の提灯で飾られた明るい祭り会場の外側は薄暗い空間……そこから感じる気配。よく見ると黒いスーツを着た男が一人、ぼんやりと立っていた。男は凝視する界斗に不敵な笑みを浮かべる。

 –––灯影……!

 灯影は背を向けた。どこかへ向かうその姿が見えなくなって行く。

 ほっとく訳にはいかない。

 界斗は小声で「白坂」と渉を呼び、その耳元に口を寄せて囁く。


「『残余霊』が現れた」


「えっ!」


 小声で言った界斗の言葉に驚いた渉は思わず声を上げてしまった。慌てて口を手で塞いだ渉に、界斗は言う。


「俺は奴を追う。その間、二人のことを頼む」


「は、はい」


 緊張と不安を顔に浮かべる渉と目を合わせたタイミングで、「何、どうかしたの?」と愛美が不思議そうに声をかけてきた。

 界斗はにこりと笑う。


「ごめん、ちょっと買い忘れた物があるから買って来るよ。三人は先に食べててくれ」


 咄嗟に思いついた嘘を言って急いでその場を離れた。後ろで愛美が何か言っているのが聞こえたが、振り向かずに人で溢れ返る会場を走る。

 祭り会場から抜け出した界斗は、先ほど灯影がいた場所に近づいて辺りを見回した。灯影の姿はどこにも見当たらないが、微かに気配は残っている。その気配を追いながら再び走り出した界斗は、同時にスマートフォンを取り出して心矢に電話をする。が、一分以上鳴らしても繋がらない。


「チッ、役立たず……」


 諦めてスマートフォンを仕舞った。

 祭り会場から五分ほど離れた住宅街まで来た界斗は、道路沿いから少し入り込んだところに鎮座する神社に気づき足を止めた。

 鬱蒼と生い茂った木々に囲まれた神社は静寂に包まれている。だがその奥から灯影の気配がした。


「…、……」


 界斗は乱れた息を静かに整えながら、身につけているボディバッグを上から手のひらで押さえた。中に入れている霊符の存在を確かめながらなるべく足音をたてないように鳥居をくぐり、参道を歩く。参道の先にあるのは灯籠に灯された本殿。本殿のすぐ前にこちらに背を向けて灯影は立っていた。

 境内には二人以外誰もいない。

 だが灯影が従えている『残余霊』の零鬼が、どこか距離を置いた場所で待機している可能性がある。界斗は辺りに警戒しつつ灯影の背を睨みつけた。


「久しぶりだな––––霊符使いの小僧」


 灯影は振り返った。

 およそ10mの距離で立ち止まった界斗を見つめて薄い笑みを浮かべる。


「そう警戒するな。今夜は襲いに来たわけじゃない。“取り引き”をしに来たんだ」


「取り引き…だと?」


 界斗は眉を寄せた。

 灯影はズボンのポケットに両手を突っ込み、ほくそ笑む。


「刀使いの小僧は居ないようだな。だが好都合だ。あの小僧とは面と向かって冷静に話が出来る気がしないからな」


「–––……」


 心矢が居ないことを知られている。

 界斗に緊張が走った。ボディバッグに手をやり、より一層警戒心を強めて灯影を睨みつける。そんな界斗の様子に灯影はやれやれと肩をすくめた。


「俺の言うことを信じないか。まぁ無理もない。俺たちは顔を合わせれば殺し合いをしてきた関係だ。だが今夜はそんな気分ではないんだ。お前と面と向かって話がしたい」


「……」


 界斗は眉を寄せ考え込む。

 界斗一人では灯影を殺すことはできない。心矢がいないこの状況で一触即発を避けるためにも、界斗は冷静さを装い口を開く。


「分かった、話は聞こう。ただし今夜は殺り合わない。そう約束しろ」


「ああ、約束しよう」


 灯影は薄く微笑んだ。

 界斗はボディバッグから手を下ろす。だが所詮は口約束。心中では警戒を緩めることはない。


「俺は現在、裏社会の連中から依頼を請け負う掃除屋死体処理を生業にしている」


 灯影は淡々と話し始めた。


「処理する死体はもちろん人間だ。死体は零鬼に全部喰わせてしまえば跡形も残らない。簡単な仕事だな」


 界斗は目を見開いた。

 なかなか姿を見せなかったこの数ヶ月間、裏稼業で人間の死体を喰っていたことに衝撃を受けた。

 するとおもむろに灯影が上着の内ポケットに手を入れた。界斗はぎくりとして身構えたが、灯影が取り出してこちらに見せたのは小型のピルケースだった。

 それを灯影は界斗に向かって放り投げた。真っ直ぐ飛んだピルケースを、界斗は咄嗟に反応して右手でキャッチする。手の中にある半透明のピルケースを見た。中には青いグラデーションがかったカプセル型の薬が数粒入っている。


「…これは?」


 界斗は灯影に視線を戻して尋ねた。

 灯影は手をズボンのポケットに戻し、答える。


「『B・C』。『黒波』という犯罪組織が製造しているドラッグだ。手土産にやろう。煮るなり焼くなり好きにしろ」


「……」


 ニュースで聞いたドラッグの名前に界斗は一瞬表情を強張らせた。『黒波』という組織の名は初めて聞く。


「俺が掃除屋を生業にしているのには理由がある。『黒波』のボス、黒木静波に接触するためだ。この数ヶ月間、黒木から依頼を受け仕事をこなした。黒木は俺の仕事を高く評価している」


 灯影は薄く笑う。

 界斗は灯影の考えが全く理解できなかった。零鬼に喰わせる死体が欲しい…という理由はまずないだろう。

 依頼を受けて仕事をする–––そんな非効率なことをしなくても、他の『残余霊』と同じように夜な夜な無差別に人を襲えばいいだけだ。


「……お前は何が目的で、そんな危険な組織に近づいているんだ。まさか金か?」


 界斗は灯影を睨みつけて尋ねた。

 灯影はやや呆れたように答える。


「金に興味はない。俺が求めているのは––––人間社会での“居場所”だ」


「……!」


 界斗は目を見開き耳を疑った。

 灯影は界斗から顔を逸らし、本殿を灯す灯籠の方を見つめる。


「俺は組織を手に入れるために、黒木からボスの座を奪う。黒木を殺すことは簡単だが、それだと意味がない。俺が黒木の代わりになる為には、幹部の連中を俺側に付かせる必要がある。その為の交渉を持ちかけるよりも先に、連中の信頼を得ることから始めなければならない。それには少々面倒だが時間がかかる」


 灯影は淡々とした口調でここ数ヶ月間の行動を語った。

 界斗は顔を顰めて言う。


「そんな組織に居場所を置いて……お前は、人間と一緒に生きたいのか?」


 その問いに灯影ははっきりと表情を曇らせ、界斗を睨みつける。


「何を勘違いしている小僧。人間は俺の餌だ。食料か、利用するか、それ以外に価値はない」


「……」


 界斗は思う。

 灯影はボスという地位を手に入れて、組織の中に“居場所”をつくり、そこで生きることを目的にしている。

 だが目の前にいる男は見た目は人間そのものでも化け物だ。たとえ犯罪組織の中だとしても化け物が人間と共存し合えるわけがない。

 そう思考する界斗をよそに、灯影は思い出したように口を開く。


「ああ、そうだ。そのドラッグが何から作られているのか教えてやろう」


 その言葉に反応した界斗へ灯影は薄い笑みを浮かべ言った。


「そのドラッグは『残余霊』の血液から作られている」


「なっ……」


 界斗は目を見開き絶句する。


「黒木の組織は、アジトの地下に一体の『残余霊』を監禁している。そいつから毎日のように血を抜きドラッグを製造している。そのドラッグを人間が飲むとどうなるか、気になるだろう?」


 灯影の顔にはっきりとした悪い笑みが浮かぶ。


「飲んだ人間は化け物になる。肉体が強化され、超人的なパワーを手に入れられる。だがそれは一時的な効果だ。次に起こるのは人体の破壊。最終的に待ち受けるのは–––––死だ」


 界斗は表情を硬くし、手元のピルケースに視線を落とす。すぐさま顔を上げて灯影を睨みつけた。


「…お前は『残余霊』の血にそんな力があることを知っていたのか?」


「まさか。知っていたとしても、同族の血で作ったドラッグを売り捌くビジネスなど流石に思いつかん」


 灯影は軽く肩をすくめた。


「俺が『B・C』を知ったのは深夜の繁華街ですれ違った男から感じた“同族の臭い”だった。呼び止めて聞いてみると男はドラッグの売人で『B・C』を所持していた。その中身が『残余霊』の血であることはすぐに分かった」


 淡々と言葉を紡ぐ。


「俺たちの血が人間を一時的に化け物に変えるというのは思わぬ収穫だった。それをビジネスにしている人間にも興味が湧いてな。売人の男に金を渡し『黒波』という組織の情報を聞き出した俺は、正体を隠し、掃除屋としてボスの黒木に近づいた」


 そう語り、冷たい目を細める灯影。


「黒木……特に幹部の連中は、ドラッグの原料を増やそうと他の『残余霊』をさがし回っている。俺はそいつを利用することを考えた。幹部の連中に零鬼を差し出すという条件付きで、取り引きを持ちかけてみようか、とな」


 一瞬の含み笑いの後、顔から笑みを消し去った灯影はじっとりとした視線を界斗に送った。


「さて–––…ここから本題の“取り引き”に移ろうか」


 灯影は両目を鋭く光らせ、本題を口にする。


「今後一切、俺に関わらないことを約束しろ。それと引き換えに、人間を喰い殺すことを一切やめると約束する」


 そう簡素な言葉を紡いだ灯影に、界斗はすぐさま言い返す。


「ふざけるな。お前が黒木の代わりにドラッグを使ったビジネスを続ける気なら、人が死ぬ状況は変わらないだろ。そんな取り引きには応じられない」


「善人ぶるなよ小僧。お前が他人の命を守るために、あの咲夜の言うことを聞いて動いている訳じゃないことは知っている。他人の命、ましてや悪人の命がどうなろうと知ったことではない–––それがお前の本心だろう?」


「…っ、…」


 界斗は口をつぐんだ。

 悔しいが何も言い返せない。

 界斗は重いため息を吐くように言った。


「–––…俺一人の判断で決めることは出来ない。決定権は咲夜にあるからな」


「そうか。まぁそう言うだろうと思っていた。とりあえず、この取り引きは一旦保留としておこうか」


「…、?……」


 あっさりとした返事だった。

 界斗は眉をひそめる。

 何かおかしい……灯影の目的は一体なんだ?


「そういえば、お前の父親は元気にしているのか?」


 唐突な言葉に界斗は目を見開いた。灯影はくつくつと笑い、芝居がかった口調で言う。


「ああ、とっくの昔にくたばったんだったな。ああ、そうだったよ、忘れていた」


「–––…っ」


 界斗は力強く灯影を睨んだ。その目には抑えきれない怒りがこもっている。

 だがその怒りを吹き飛ばすような言葉を、灯影は嘲笑を浮かべて口にした。


「確かあの女に。––––咲夜に殺されたんだったな」


 ……!!

 心臓を貫くような衝撃が界斗を襲った。

 薄く開いた唇が震える。


「殺された? どういうことだ……」


「やはり知らなかったか。知っていたら、あの女の命令には従えないだろうな。お前たちの父親はあの女に殺されている」


「出鱈目を言うな! 父さんたちはトンネル内で起こった事故に巻き込まれて亡くなったんだ」


「あの女の力によって引き起こされた事故だ」


「! っ……」


 口をつぐんだ界斗はあることに気が付いた。

 父親の正一は弟の浩二と出かけたドライブ中に、トンネル内で複数台が絡む追突事故に巻き込まれて亡くなった。

 その追突事故が起きたトンネルだが、鳥辺山を貫通して出来ているトンネルだった。

 鳥辺山の守り神である咲夜なら、トンネル内での事故を引き起こすことは可能かもしれない……。


「…まさか…そんな……」


 界斗は声の勢いを落とし呆然とした。

『箱』の封印が解かれたあの日。界斗と心矢の前に現れた咲夜は、父親たちが亡くなったことを知らずに問いかけてきた。『正一と浩二は元気にしているか?』と。だがもし灯影が言うことが本当だったとしたら–––…あれは、演技だったのか?


「–––––––––」


 声にならない強い混乱に襲われる。信じるな。奴の罠だ。そう何度も自分に言い聞かせるが手の震えは止まらない。


「–––あの女は、お前たちにもう一つ隠し事をしているぞ」


 そんな界斗に、灯影はニヤリとして追い討ちをかける。


「俺は『箱』の封印を解かせる為に犬を使ってお前をあの山の神社に誘き寄せた。その後、お前は刀使いの小僧を引き連れて地面を掘り返し『箱』を発見して封印を解いた。そこに至るまでにそれなりの時間があったはずだ。だが、あの女は近くでそれを眺めていて、止めに入ることをしなかった」


 界斗は混乱した頭でその時のことを思い返す。

 襲いかかってきた零鬼を、心矢が『残余刀』を手にして追い払った。その後、目を覚ました界斗が掘り返した木箱から霊符書を見つけたタイミングで、背後に咲夜は現れた。

 ––––…最初から最後までずっと近くで眺めていた。俺たちの手で『箱』の封印が解かれることを、咲夜は望んでいたのか…?


「どうして……」


「全てはあの女の計画だったんだろう。『箱』の封印をわざと解かせ、お前たちに『残余霊』を封印させるという流れをつくった」


 灯影はニタリと嗤う。


「気をつけろよ。父親と同じように最終的にはお前もあの女に殺されるかもしれんぞ」


「–––…っ…、どうして、父さんたちを殺す必要があった……咲夜の目的は一体なんだ!?」


 界斗は思わず声を張った。

 呆れ顔をした灯影は、わざとらしくため息をつく。


「そこまでは知らん。あの女の私情など興味はない。気になるのなら本人に訊け」


「–––、……」


 界斗は俯き唇を噛んだ。

 咲夜に対しての不信感が募る。

 けれど、頭の片隅ではまだ冷静な自分がいた。灯影の言うことを信じるな。咲夜に直接確認するまでは––––


「……!」


 その時、前方から気配が消えた。

 遅れて気付いた界斗はハッとして顔を上げる。目の前に灯影の姿がない。


「隙だらけだぞ、小僧」


 すぐ真後ろから聞こえた灯影の声––––慌てて振り返るが……いない。


「命が欲しければ俺だけではなく、あの女からも身を引くことだな」


「……!」


 声はすぐ真横の木の上から聞こえた。見上げると、木の枝に立つ灯影が嘲笑を浮かべて口を開く。


「これは“忠告”だぞ、小僧。次に会う時はお前たちの命を奪う。確実にな。お前たちのちっぽけな霊力ではもう俺たちに太刀打ちはできない」


「…っ…」


 冷えた目で界斗を見下ろした灯影はその言葉を最後に、鬱蒼と生い茂った木々の闇に溶け込むように姿を消した。

 境内から灯影の気配が消え失せ、界斗だけがその場に残される。


「…くそッ……!」


 界斗は地面に視線を落とし苛立ちを吐き出した。左手で前髪をくしゃりと乱し、泣きたそうに顔を歪める。

 いろんな感情でごちゃごちゃな頭をとにかく落ち着かせようと、そのまま目を閉じて心を無にする。


「––––……」


 だんだんと落ち着いてきた。ふと忘れかけていた右手の拳に視線を向ける。拳をそっと開きピルケースを見つめた。

 –––真実が知りたい。

 咲夜が父親を殺したのか。

 咲夜はなぜ『箱』の封印を解かせたのか。

 それら疑問が灯影の嘘か本当か分からない今。

 直接、咲夜に問いただそうと決めた。


「……」


 ピルケースをズボンのポケットに入れて界斗は歩き出す。祭り会場へ戻るまでもう口を開かなかった。



***


 界斗が広場に戻ると、ステージ上では和太鼓のパフォーマンスが行われていた。

 先に食事を済ませていた三人はその場に座ったままステージの方を見ている。界斗に気づいた愛美があっと声を上げた。


「も〜兄さん遅い! 何買いに行ってたの?」


 不満を顔に浮かべた愛美に、界斗は手に握っていた三本のりんご飴を掲げて見せてにこりと笑う。


「遅くなってごめんな、待ち時間が長くて…。ほら、りんご飴。食べたかったんだろ?」


「わあ、やった! ありがとう兄さん」


 愛美に手渡した界斗は続けて鈴華に手渡す。受け取った鈴華が少し申し訳なさそうに礼を言った。


「ありがとうございます、界斗さん。いただきます」


 界斗はにこりと笑う。


「どういたしまして。二人には俺たちのことで迷惑をかけたから、そのお礼だ」


 そう言って界斗が渉の方を見ると、渉は何だか浮かない顔をしていた。渉にもりんご飴を差し出すと、渉はハッとして「ありがとうございます」と笑って受け取った。

 愛美と鈴華は、りんご飴を舐めながら楽しそうにステージのパフォーマンスの方を見ている。

 界斗もステージの方を眺めるが、心ここにあらずだった。


「界斗先輩」


 真横に座っている渉に名前を呼ばれ、界斗は渉の顔を見た。渉は少し言いづらそうに口を開く。


「あの……顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」


「……」


 何があったのか。『残余霊』はどうなったのか。渉は訊かない。

 それよりも界斗の体調を心配していた。お人好し、という性格がぴったり当てはまる男だ。うそ偽りのないその感情が傷ついた界斗の心を癒す。


「……大丈夫だ。心配いらない」


「……」


 界斗は笑みを浮かべた。

 それが“形だけの笑み”だと渉は気づいていたが、大丈夫だと言われてしまうと返す言葉に詰まり、そのまま黙り込むしかない。

 すると界斗が思い出したように「あ、そうだ」と呟いた。


「白坂の誕生日っていつなんだ?」


 唐突な問いに渉は驚きつつも答える。


「誕生日は九月十日です。界斗先輩はいつですか?」


「俺は六月二十五日だ。そうか、白坂の誕生日はもうすぐだな。日頃の感謝も込めてお祝いするよ」


 笑顔で言う界斗の言葉を聞いて渉もようやく嬉しそうに笑った。



***


 夏休みの最終日。

 蒸し暑い夜の外を一人で歩く界斗は、とある住宅地にある小さな公園に向かっていた。

 待ち合わせをしている人物より先に到着した界斗は無人の公園内に設置されたベンチに座り、街灯に照らされた足元に視線を落とす。思い詰めた顔のまま無言で待つこと数十分。

 公園に入って来た人の気配を感じて、界斗は顔を上げた。真っ直ぐ此方に向かって歩いて来る心矢は、見慣れた竹刀袋を背負っている。

 目の前で立ち止まった心矢を、界斗は静かに睨み上げた。


「二十分の遅刻だ」


 開口一番そう相手を批判した。

 心矢がふんと鼻で笑う。


「思ったより準備に時間がかかっちまってよぉ」


「見え透いた嘘をつくな。コンビニでのんびり買い物してたんだろ」


 視線を心矢の顔から腕にぶら下げているコンビニ袋に向ける。袋は買い込んだお菓子でいっぱいに膨れていた。

 界斗はやれやれと腰を上げて、公園内の一角にある『デッドスペース』へ向かって歩き出す。


「行くぞ、シン」


「あ〜〜〜面倒くせぇ」


 心矢は頭の後ろで腕を組み、怠そうな顔で文句を言い出す。


「つか急に何? あの女交えて『封印空間』で話し合うことがあるから参加しろとか、意味わかんねぇんだけど。新たな形の井戸端会議かっつの。つまんねぇ世間話すんなら即帰らせてもらうからな」


「うるさい、黙って来い」


 界斗は冷たく吐き捨てズボンのポケットに手を入れる。中にあるピルケースの存在を指先でそっと確かめた。


***


『封印空間』内


「姫様、話があります。応答して下さい」


 界斗は虚空を見上げて言った。

 界斗の背後からは、心矢がポッキーをポリポリ齧る音がずっと聞こえている。何も知らず呑気な男だ、と界斗は内心で呆れた。


『界斗、心矢。久しぶりだな』


 空間を震わせるように咲夜の声が響き渡る。


『二人一緒か、珍しいこともあるもんだ。直接顔が見られないのは残念だが、こうして会話が出来るのは嬉しいな』


 その声は実に嬉しそうだった。

 姿が見えない虚空を界斗は陰った表情で見つめる。いつもと違う界斗の様子に気づいているのかいないのか、咲夜は続けた。


『ああそうだ、二人に朗報があるぞ。残りの『残余霊』があと三体だ。三体のうち二体は灯影と零鬼だな。そしてもう一体は…』


「もう一体の居場所は分かっています」


 咲夜の声を遮るようにして界斗は言った。


『何? ほんとうか界斗』


「はい。『黒波』という犯罪組織に囚われていると、灯影からの情報です」


『灯影から?』


 咲夜の声が訝しむ色を含んだ。


「灯影が接触して来たんです。一対一で話をしましたが、そこでいろいろ聞かされました」


 灯影の生業や企みなどは省略し、ズボンのポケットから取り出したピルケースを掲げて見せる。


「組織が製造しているドラッグを渡されました。このドラッグが何から作られているか分かりますか?」


『『残余霊』の血だな』


「そうです。組織に囚われているもう一体はこのドラッグの原料となっています。このドラッグは摂取した人間を化け物に変え、死に至らしめる効果があるそうです」


『まったく…人間は恐ろしい物を作り出すな』


 咲夜のため息混じりの声が響いた。

 話を聞いていた心矢が口を開く。


「おいおい、それがドラッグの効果だっつーのかよ。面白くねぇ薄味だな。期待しすぎて損したぜ」


 心矢はがっかりした顔でポッキーを齧る。


『しかし、もう一体が囚われの身となると…。灯影や零鬼とはまた違った意味で厄介だな』


「そうかぁ? 組織の内部に侵入するとかスリルがあっていいじゃねーか。ついでに組織をぶっ潰すっつーのも楽しいだろうなぁ」


『お前という奴は…』


 笑っている心矢に対して咲夜は呆れた声を響かせた。

 界斗は曇った表情のまま黙っているが、先ほどまで冷静だった心がぐらぐらと不安定になっていた。

 真実を知ることから逃げるわけにはいかない。不安に揺れる心を無理矢理ねじ伏せ、意を決して口を開く。


「姫様。貴女に聞きたいことがあります」


『ん? なんだどうした?』


 咲夜は穏やかな声を響かせる。

 界斗は冷たい瞳を虚空に向け、静かな声で言った。


「灯影から聞きました。俺たちの父親を殺したのは–––…貴女だと」


『……』


 咲夜は黙った。

 界斗は構わず続ける。


「トンネル内で起こった追突事故は、貴女の力によって引き起こされた……。答えてください。それは本当なんですか?」


 界斗は心拍数が上がるのを感じた。

 無言で返答を待つ界斗に、やがて咲夜は淡々とした言葉を返す。


『ああ、そうだよ。私が正一と浩二を殺したんだ』


 界斗の顔が一瞬強張る。

 咲夜の口から誤魔化すことなく告げられた真実に、界斗は手を強く握りしめた。


「どうして……どうして殺す必要があった。理由は何なんだ」


『……忘れられるのが、怖かったんだ』


 ぽつりと呟かれたその言葉を聞いて、界斗は口を閉じて眉を顰めた。

 咲夜はそのまま静かに言葉を紡ぎ出す。


『正一と浩二はよく私の元を訪れてくれて、いつも楽しい話をしてくれた。『残余霊』を封印し終わった後も、二人は私に会いに来ることを忘れなかった。私はそれがとても嬉しかった。……けれど二人が社会人になってからはその数も減り、そして結婚の報告を受けたその後には、ぱったり途絶えてしまった……。二人は私のことを簡単に忘れてしまったんだ。私はいつまでも覚えているのに。ずっと二人のことを待ち続けていたのに』


 悲痛な声が響き渡る。


『日々の寂しさと虚しさが私を苦しめ続けた。だから、あの日––––……トンネル内で起こした事故は、ふいに湧いた怒りからだった。本気で殺すつもりはなかったんだ。けれど結果的に二人は死んでしまった』


 界斗は体の横で握りしめている手が怒りで震えるのを感じていた。


『それから数年後に、お前たちがあの廃神社にやって来て『箱』を掘り返し始めた時、私はふと思ったんだ。正一と浩二が私に会いに来てくれていたあの楽しかった日々を、また取り戻せるんじゃないかと。だからお前たちが『封印』を解くのを止めなかった。魔が差した……というんだろうな』


 黙って聞いていた界斗だが、もう耐えられないと口を開く。


「そんな理由で二人を殺して……そんな理由で、俺たちの行動を止めなかったのか」


『–––…そんな理由だと?』


 咲夜の声に怒りがこもった。


『私の気持ちなどお前たち人間には分からないだろうな』


 界斗はうんざりする。

 同情できない。身勝手すぎる理由で父親を殺したことに怒りだけが倍増していた。

 界斗は吐き捨てるように言う。


「お前の気持ちなんて少しも理解できない。もう沢山だ。悪いが俺はここで降りさせてもらう」


『己の役目を投げ出すのか? まだ封印が出来ていない『残余霊』がいるんだぞ。放っておけば死者が出続けることに、』


「今後灯影に関わらなければ、それと引き換えに人間を喰い殺すことをやめると取り引きされた。俺はその取り引きに応じる。命をかけて封印してもまたお前の勝手な感情で全て無駄になるんだろうからな」


『……』


 咲夜は黙り込んだ。

 界斗は虚空を睨みつけたまま一人思う。直接会いに行かなくて正解だったと。刃向かえば、最悪その場で殺されたかもしれない。


『–––……心矢。お前も界斗と同じで、ここで自分の役目を投げ出すか?』


 暫し沈黙していた咲夜は、心矢に向かって問いかけた。

 すると心矢は眠そうな目を虚空に向けて、迷いなく返答する。


「即答するとノーだな。こっちは前回、灯影の野朗に腹に穴を開けられてんだ。やられっぱなしは好かねぇからやり返す。まぁつまり、俺にとってはゲームなんだよ。ゲームはラスボスを殺さねぇと終わらねぇ。クリアせずに途中で投げ出すっつー考えは俺にはねぇな」


 それを聞いた界斗は心矢を睨みつけて声を張った。


「シン! お前はなんとも思わないのか? お前の父親もあの女に殺されたんだぞ!」


 心矢はうんざりした視線を界斗に送る。


「カイ。テメェはそれをすげぇ気にしてるみてぇだけどよ。俺はクッソどうでもいいんだわ」


「……!」


 界斗は目を見開き固まった。

 心矢は面倒臭そうに続ける。


「親父は俺が産まれる前に死んだんだぜ。俺は親父の顔も、声も、性格も、温もりも、なーんにも知らねぇ。つまり他人のような存在なんだよ。どこでどう死んでようが、どこに骨を埋めてようが、明日の天気くらいどうでもいい」


「お前……、本気で言ってるのか?」


「くどいぞ、カイ。産まれたての子供じゃねぇんだ。暑さで溶けちまった脳みそでも理解できんだろ」


 心矢の非情な言葉に心が凍りつく。

 咲夜に父親を殺されたと知ったら、心矢も当然だが怒るだろうと界斗はそう勝手に思っていた。


「っ、分かるわけないだろ……シン…お前の考えも、俺は理解できない!」


 界斗は苦しそうに叫んだ。

 心矢は感情を顔から消すと、界斗を見つめて問いかける。


「なぁカイ。死はそんなに悪いものなのか?」


「何言っ、……––––」


 何言ってるんだ、という言葉は声にならず、界斗は口をつぐんだ。

 そして記憶を探る。

 あれは確か小学校低学年の頃……心矢から今と全く同じセリフで問いかけられたことがあった。

 あの時、自分はなんと答えたのか–––……。界斗がそれを思い出そうとした思考を遮るように、咲夜が静かな声を響かせる。


『死は悪いことではない。死を否定的にとらえている生き物は人間だけだ。遅かれ早かれ、生き物は皆必ず死ぬ宿命にある』


 界斗は虚空を睨み上げて叫ぶ。


「だからって、人を殺していい理由にはならないだろ!」


 界斗の中で、咲夜に対する感情が一つに絞られた。

 “憎しみ”。

 その一つに。


「–––……もう何を話しても無意味だ」


 界斗は視線を落としてそう吐き捨てると、そのまま『封印空間』の外へと足を向けた。

 界斗が足早にその場を去って行く中、心矢はやれやれとした顔で後に続こうと歩き出す。


『心矢、待ってくれ。…一つ、お前の為に伝えておきたいことがある』


 咲夜は心矢にだけ聞こえるような囁き声で呼び止めた。

 心矢は足を止めて、何となくその囁き声が聞こえた方向に目を向けるが、咲夜の姿は見えない。


『今後は界斗の力を得られないまま一人で灯影に挑むことになるかもしれない。灯影は確実に力をつけているだろう。今のお前の霊力では歯が立たない程にな』


「そりゃあ大変だ。まぁそん時はそん時だな。当たって砕けろの精神で殺り合うのも悪くねぇよ。死ぬことは怖くねぇし、むしろ殺し合いの最中に死にたいとか願ってっからよ」


『……そうか。だがそんなお前でも、もしかしたら力を必要とする状況に陥るかもしれない。その時は私の元へ来るといい。今以上の霊力を与えることは可能だ』


「……」


 心矢は姿が見えない相手に対して心の内を探るような目をしたが、次には余裕綽々とした笑みを浮かべ、ひらりと手を振って歩き出す。


「その保険、とりあえず加入しとくわ。じゃあな」



***


『封印空間』を出た界斗はそのまま先ほどのベンチに座って項垂れると、大きなため息をついた。

 遅れて出て来た心矢が界斗の隣にどかっと座り、残り少ないポッキーを箱から取り出して話しかけてくる。


「お〜い、まだ拗ねてんのかよ」


「…うるさい黙れ」


「たとえ血の繋がりがあってもよ、俺とテメェの考え方は違うんだ。同じじゃないから理解できねぇのは当たり前だろ。自分の思うようにできねぇからって一人で怒って拗ねてんじゃねぇっつの。仕事と私どっちが大事なの〜とかいう面倒クセェ女と一緒だぜ」


「黙れって」


 界斗は頭を上げて心矢を睨みつけると、その手に持っていたポッキーを奪って口に入れた。


「あっ、テメェまた人のモノ横取りしやがって!」


「くっっそ甘い…………、はぁ…疲れた…いろいろ……」


 チョコレートの嫌な甘さを感じながら界斗はまた深く項垂れた。つい本音を呟いてしまったことに気づいて舌打ちしたくなる。


「オメェはよぉ、もっと楽観的になれよ。イライラしてたら老けるし病気になるだけだぜ」


「…ほんっとに、黙ってろよ」


「うわ、八つ当たり。はははウケる」


 心矢は楽しそうに新しく取り出したポッキーを齧った。そして急に真面目な顔をして言う。


「で。残りの『残余霊』はどうすんだよ。もうテメェと俺だけの問題じゃねぇんだぜ。ここに渉がいたら最後までやるって言いそうだけどな」


「……」


 暫し沈黙した界斗はゆっくり頭を上げた。前方を見据えたまま眉間にしわを寄せ、重い口を開く。


「続けるにしても、残り三体は俺とお前で方を付けることになるな。ここから先、力を持たない白坂を巻き込むには危険すぎる」


「ハッ、ここに来てテメェと協力すんのかよ。しょーがねーなー」


「その上から目線な言い方やめろ」


 何故か上機嫌な心矢を横目で睨んだ界斗は立ち上がって数歩前進し、ふと思い出して足を止める。

 ポケットに仕舞っていたピルケースを取り出してじっと見つめ、蓋を開けると、中身を地面に全て落とした。そして上から踏みつける。

 カプセルが割れ、中身が地面に濃いシミを作った。そのまま足を動かして上に土をかける。

 すると背後から珍しくやる気が入った心矢の声が聞こえた。


「さてさてさて、さっそく作戦会議だ。まずは組織のアジトを突き止めなきゃ何も始められねぇよな。つーことで下見に行くか? いやだからアジトの場所がわかんねーんだって。するとどうすっかな〜。灯影から聞き出すのが一番手っ取り早いけどよ、安い餌で釣れるような魚じゃねぇしな〜」


 界斗は振り向かずに、心矢の無駄口に対して沈んだ言葉を返す。


「……やる気なところ悪いが、今はまだそんな気になれないんだ。少し時間をくれ」


 かくっと肩を落とした心矢は、やる気に水を差されてムッとする。が、今の界斗に何を言っても無駄だと気づき、文句は口にせずにポッキーを齧った。


「……」


 界斗は無言で頭上を見上げる。

 その暗い瞳は夜空に浮かんだ明るい月を映す。

 界斗は迷っていた。

 自分はここで、本当に降りるのか。

 心矢が言うように、もう二人だけの問題ではなくなっているのに。

 それに灯影の取り引きに応じたとして、それが一生守られる保証はない。危険な存在をのさばらせておいていいのか。

 この迷いを無くすにはどうすればいいのか……。



 そんな思いに揺れ動く界斗の心中をよそに、再び灯影の魔の手が忍び寄ろうとしていた–––。


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