第三夜『父親の存在』

***


 心地よい揺れが続くバス車内に『次は鳥辺野動物園前、次は鳥辺野動物園前でございます』とアナウンスが流れた。車窓から見える空は徐々に日が落ち始めている。


「–––白坂。白坂、もうすぐ着くぞ、起きろ」


「……う〜ん…わかった…いま起きるよ母さん…」


 すぐ真横から聞こえてきた声に返事をした渉は目を覚ました。寝起きでボーっとしたまま、視線を真横に向ける。

 隣に座っているのは界斗だ。

 バスに乗車した界斗は白紙と筆ペンを取り出し、目的地に着くまでの間ずっと無言で霊符を書いていた。

 渉は邪魔をしないようにスマホを触って時間を潰していたが、いつの間にか眠ってしまっていて、ついさっき界斗に起こされたのだが。

 ……さっき俺、界斗先輩になんて言った?


「……」


「…?」


 渉は界斗の顔を見つめたまま頭を働かせる。渉に無言で見つめられる界斗はクエスチョンを頭に浮かべて、渉の顔を見つめ返す。

 ……母さんって、言った。間違いない。

 ボッと顔を真っ赤にした渉は慌てて周囲を確認する。座席の後方に座っていた自分たちの周りには、幸い乗客は座っていない。恥ずかしい寝言を聞いたのは界斗だけだ。


「すっ、すすすすみません界斗先輩! 完全に寝ぼけてましたごめんなさい…!」


「あぁ、気にしなくていいぞ」


 真っ赤な顔で謝る渉に、界斗は優しく微笑む。

 渉は前を向き顔を両手で隠して俯いた。今なら小学生が先生をお母さんと呼んでしまった時の気持ちがものすごく分かる。


「で。テメェはその歳になってもまだ母親に起こしてもらってんのかよ。はははははっ、ウケる」


 後部座席から、心矢の笑い声。

 ハッとした渉が後ろを振り向くと、渉の座席の背もたれに身を乗り出した心矢がニヤニヤした笑みを浮かべていた。

 心矢はバスに乗車して席に座った瞬間に居眠りしていたが、渉よりも先に起きていたようだ。心矢にも先ほどの寝言はバッチリ聞かれていた。


「ち、違いますよ! 俺、早朝のランニングを日課にしているんで、家族の誰よりも早起きしてるんですからっ」


「ハッ、どうだか」


 心矢の小馬鹿にした言い方に、渉は恥ずかしいと思うと同時に少し腹が立ったが、ぐっと我慢する。心矢と口でやり合ったところでボロボロに負かされるのは目に見えていた。

 三人は休日を利用して夜の動物園に向かっていた。

 その理由は、先日の放課後にまで遡る––––



***


 季節は早くも七月上旬。

 放課後。クラスメイトと軽い雑談を交わしながら帰る準備をしていた渉のスマートフォンに、界斗から『今から時間をもらえるか』というメッセージが届いた。


「界斗先輩、お待たせしました」


 待ち合わせした生徒玄関前に一人で立っていた界斗に、渉は声をかけて駆け寄った。

 近づいてきた渉に気づいて顔を上げた界斗は、穏やかに微笑む。


「急に悪いな、白坂」


「いえ、ぜんぜん大丈夫です。放課後は暇なんで」


「そういえば、運動部に入部しようか考えているんじゃなかったか?」


「そのつもりだったんですけど、やっぱり帰宅部でいいかなって。その代わり体が鈍らないように毎日ランニングして、室内でできる筋トレも始めました!」


「へぇ、さすがだな。俺も白坂を見習わないといけないな」


 界斗はにこりと笑った。

 褒められた渉は軽く照れたあと、思い出したように口を開く。


「えっと、俺に何か用ですか?」


「あぁ、ちょっと相談したいことがあるんだ。立ち話もなんだから、今から喫茶店に行かないか? もちろん奢るよ」


「え、ありがとうございます、ご馳走になります! って、なんかいつも奢ってもらっちゃってすみません」


「気にしなくていい。白坂には力を貸してもらっているんだ。これくらいのお礼はさせてくれ」


 行こうか、と言って歩き出した界斗について行く。歳が一つしか変わらないのに大人だなぁ、とその背を見つめながら渉は感心すると同時に憧れた。



***


 学校から徒歩十分ほど。決して活気があるとは言えない商店街の中に『喫茶キムラ』はある。

 父方の祖父母が経営している喫茶でバイトをしている大学二年の木村なぎは、界斗と同じ小中学校に通っていた先輩で、昔からの顔馴染みだ。そんな凪から界斗のスマートフォンに『友人と行った旅行先のお土産を渡したいから、放課後お店に寄って』というメッセージが届いていた。

 界斗が喫茶店の扉を開けるとドアベルがカランカランと鳴り響く。

 クラシック音楽が流れる程よい広さの落ち着いた雰囲気の店内。ウッド調の内装で棚の置物や飾りがお洒落だ。


「いらっしゃいませ。あ、界斗君久しぶり」


 前髪を横に流し長い黒髪を綺麗に後ろで纏めたエプロン姿の女性、凪がカウンターの中から出て来る。

 界斗は笑顔を浮かべた。


「お久しぶりです、凪さん。奥のボックス席って空いてますか?」


「えぇ、空いてるわ。今ちょうど常連のお客さんがみんな帰ったところだからゆっくり出来–––…あら?界斗君がお友達連れて来るなんて珍しい、ていうか初めてね」


 渉に気づいた凪は驚いた顔を見せたが、すぐにニコッと笑う。


「初めまして。木村凪です、よろしくね」


「初めまして。白坂渉です、宜しくお願いします」


 凪はすぐに二人を店内の一番奥のボックス席に案内した。界斗と渉は窓側の席に向かい合って座る。凪が水の入ったグラスを二人の前に置くと、界斗はホットコーヒー、渉はアイスコーヒーを注文した。

「お土産と一緒に持って来るわね」と凪は言ってカウンターの中へ引っ込んだ。


「居心地いい喫茶店ですね。帰ったら鈴華にも教えよう」


 店内を見回しながらそう呟いた渉に、界斗は穏やかな笑みを送る。


「白坂は妹と仲がいいな」


「お互いにマイペースというか、似たような性格してるんで、喧嘩はぜんぜんしないですね」


「素直で他人への思いやりがある。いい兄妹だ」


 そう言って穏やかに微笑む界斗に、渉は笑顔を向けながらも気恥ずかしくなり頬を赤らめた。


「あ…それで、相談ってなんですか?」


 渉が聞くと、界斗は真面目な表情になって少し声を潜める。


「実は–––」


 刹那、店内のドアベルが鳴った。次いで、カウンターでコーヒーを入れていた凪の声。


「いらっしゃい、心矢君。界斗君先に来てるわよ」


 来店した客の名前を聞いた瞬間、微かに眉を寄せる界斗と、驚いた表情をする渉。


「よぉカイ。わんこ引き連れてお茶会かよ。俺も参加するぜ」


 二人の前に現れた心矢は相変わらずニヤついた笑みを浮かべている。

 心矢は竹刀袋をソファの背に立て掛け、渉の隣にどかっと座った。そんな心矢に渉はやや不満な目を向ける。


「わんこって、俺のことですか心矢先輩」


「あ? 他に誰がいるっつーんだよ」


「普通に渉って呼んで下さいよ。前は名前で呼んでくれたじゃないですか」


「うっせぇな。重い女みてーなこと言いやがって。つーか“わんこ”と“わたる”の響きに違いがあるか? 呼びやすさでいうと断然わんこだな」


 心矢は前にも渉の名前の呼びやすさであーだこーだ言っていた。名前の呼びやすさにこだわる理由が彼にはあるのかもしれないが、“わんこ”呼びはいただけない。

 すぐさま文句を口にしようとした渉は、ふと以前から気になっていたことを思い出した。


「もしかして、心矢先輩が界斗先輩を“カイ”って呼んでるのって、呼びやすいからですか?」


 心矢と界斗は同時に目を見開くと、次いで『急に何を言い出すんだ』というようなジト目で渉を見る。

 そんな二人の反応に、渉は焦った。


「あ、いや実はずっと気になってたんですよね。ほら、お互いに愛称つけて呼び合うって仲良いなぁって思うじゃないですか!」


「「……」」


 界斗だけでなく、心矢も苦虫を噛み潰したような顔をする。

 また余計なことを言ってしまった……と、渉は固まった笑顔で冷や汗をかいた。


「さあな。昔のことすぎて覚えてねーわ」


 心矢がどうでも良さそうに言った。

 渉は全力で「あっ、そうなんですね分かりましたすみませんありがとうございます!」と早口でこの話を終わらせた。

 界斗は冷たい表情で、心矢を見据えて問う。


「で。お前は何しに此処へ来たんだ」


「おいおい、俺がストーカーしてるとか思ってねぇだろうな。俺がストーカーしてたら、テメェは後ろからブッ刺された後に首と手足を切断されたバラバラ死体っつー感じで、とっくの昔に死んでるぜ」


「それで?」


「凪さんに呼ばれたんだよ。テメェもだろ」


 顔色ひとつ変えない界斗に向かって不敵な笑みを浮かべる心矢。とそこへトレイを持った凪が笑顔で現れた。


「コーヒーとココア、おまたせしました」


 界斗と渉の前にはコーヒーを。心矢の前にはアイスココアを置いた凪は、器に盛られた甘そうなクッキーの山をテーブルの中央に置いた。


「あとこれ、お土産のクッキー。甘さ控えめの塩味とチーズ味もあるから、甘いもの苦手な界斗君でも食べられると思うわ。渉君もどうぞ食べてね」


 ありがとうございます、いただきます、と界斗と渉はそれぞれお礼を言った。

 凪はトレイを胸元に抱えると、界斗と心矢の顔を見ながらニコニコ笑顔で口を開く。


「界斗君と心矢君が一緒にいるところすごく久しぶりに見るわ。なんだか嬉しい!」


「「……」」


 二人の機嫌が覿面に悪くなっていくのを感じた渉は、恐怖に小さくガタガタ震えながら下を向く。

 するとドアベルが鳴り、次いで「木村さーん、発注品のお届けものでーす」と業者の男性の声が響いた。


「あ、はーい今行きます!じゃあみんな、ゆっくりしていってね」


 場の空気が重いことに全く気づいていない凪は、にこっと笑顔を振りまいてその場を去って行った。

 心矢は小さく舌打ちしてグラスを持つと、ストローをくわえココアを飲む。界斗もカップを持ちコーヒーを一口飲んだあと、渉の方を見ておもむろに口を開いた。


「それで、白坂に相談したいことなんだが。ここ最近、鳥辺野動物園の動物が、日に日に姿を消している事件がニュースになっているのは知っているか?」


 アイスコーヒーにミルクを入れてストローで混ぜた渉は、顔を上げ答える。


「あ、はい。テレビでもネットでも話題になってますよね。檻にはしっかり鍵がかけられているし、壊れてもいない。だから動物が脱走した可能性は低いって–––……え、もしかしてこの事件、『残余霊』の仕業なんですか?」


「その可能性が高いと俺は思う」


 まさかと思って口にした渉に、そうあっさりと頷いた界斗。

 すると心矢がチョコレートでコーティングされたクッキーの袋を破きながら言う。


「狙われてんのは小動物ばっかなんだろ。敵は小物だぜ」


 お菓子の効果なのか、先ほどまでの不機嫌さがさっぱり無くなった心矢はご機嫌な様子だ。そんな心矢に界斗は冷たい視線を向ける。


「なんだ、知ってるのか」


「俺だってニュースくらい暇潰しに見んだよ」


「スイーツ特集を見たついでだろう」


「ははは、アッタリ〜」


 心矢はニコニコ笑顔でクッキーを口に放り込んだ。甘いものを食べている時の心矢は純粋な子どものような笑顔を見せると同時に、食べることに集中したいのかいつもの無駄口を叩かない。


「それで、封印しに行くんだろ?」


 心矢は人の悪い笑みを界斗に向けた。界斗は短く答える。


「ああ」


「え、行くって、動物園にですか?」


 渉は界斗に訊いた。

 界斗は渉に視線を戻し、唇に淡い笑みを浮かべて頷く。


「ああ、今週の土曜日を予定している」


「けど、『残余霊』が活発に動き出すのは夜の時間帯ですよね。日中の動物園だと現れる可能性は低そうですけど…」


 やや遠慮がちに言った渉に対し、界斗は変わらぬ口調で返す。


「それなら問題はない。今週の金曜日から夜の動物園が楽しめる『ナイトイベント』が始まるんだ。八月にかけて閉園が二十時まで延長になる」


 界斗はカップを静かにソーサーに戻しながら続ける。


「動物園まではバス移動だ。帰りの最終バスは二十二時台。状況によって遅い時間帯の帰宅になる可能性もあるから、無理にとは言わない」


「俺はぜんぜん大丈夫ですよ。協力させてください」


 そう言って渉はにっこりと笑った。界斗は好意的な笑みを浮かべる。


「ありがとう、白坂」


 二人が会話をしている間に心矢はチョコレートのクッキーばかりを選んで次々に口に放り込む。渉が心矢に顔を向けた時には、彼のテーブルの前には空になった袋がいくつも転がっていた。


「あ、心矢先輩はどうしますか? もちろん一緒に行きますよね?」


「無駄だ白坂。シンはどうせ面倒くさいとか言って、」


「俺も行くぜ」


「……は?」


 信じられない、という驚き顔で界斗は心矢を見つめた。

 心矢はそれに気分を良くしたように笑い、ココアを飲み干すと席を立つ。


「後で連絡しろよ、カイ」


 竹刀袋を持ってカウンターの中にいた凪を呼び会計を済ませると、心矢はさっさと出て行ってしまった。

 界斗は訝る表情のまま呟く。


「何を企んでるんだ、あいつ…」


「普通に協力してくれるんじゃないですかね」


「あいつにそんな仲間意識はないぞ」


 普段は温和な界斗だが、心矢のことになると少々口調がキツくなる。

 渉は眉を下げて小さく笑いコーヒーを飲んだ。その時、再びドアベルが鳴り響き「凪さんこんにちは〜!」と、明るい愛美の声が聞こえてきた。

 凪と愛美の親しげな会話に加えて、鈴華の声も聞こえてきた。

 渉が体を横に傾けて出入口の方を覗き見ると、渉に気づいた鈴華が少し驚いた顔をし、次いでにこりと笑って軽く手を振った。


「兄さんやっほ〜。渉さん、お久しぶりです」


 渉と界斗が座る席に近づいて来た笑顔の愛美は、気さくな挨拶で軽く手を上げた。

 学校帰りの愛美と鈴華は、クラスの女子の間で話題になっているケーキが美味しいカフェに行く途中、喫茶店の窓に映る兄たちの姿を見かけた為、声をかけに来店したと言った。


「さっきお店から出て来た心矢さんとすれ違ったよ。一緒にお茶するなんて珍しいね」


 愛美はニコニコして界斗に言った。界斗は愛美に笑みを向けるが何も言わない。


「お兄ちゃん。界斗さんとなんの話してたの?」


 渉は特に何も考えず、鈴華に笑顔を向けて口走る。


「あぁ、動物園に行く話を–––…」


 あ、しまった、と慌てて口を閉じたがもう遅い。鈴華は大きな目をぱちぱちさせる。


「え、動物園に行くの?」


「あ、あ〜〜……うん、まぁ…」


 渉は歯切れが悪い返事をして、鈴華から目を逸らした。心中で『界斗先輩ごめんなさい!』と全力で謝る。

 それを聞いた愛美がすぐさま反応した。


「え、うそうそ、心矢さんも一緒? 三人で行くの?」


 愛美に訊かれた界斗は「ああ」と冷静な一言を返す。


「えーいいなぁ! 動物園ってしばらく行ってなかったから私も行きたい! ね、鈴華ちゃんも行きたくない?」


「あ、うん、でも…」


 鈴華はちらっと渉を見る。渉の様子からしてバレてはいけなかったんじゃないかと、鈴華は気づいていた。


「ん? ちょっと待って…」


 眉を寄せた愛美がそう呟き顎に手を当て言った。


「男三人で動物園に行くってちょっと怪しいなぁ。もしかしてクラスの女子も一緒なんじゃない? 動物園で合コン的な!?」


 どうなの兄さん! と、愛美は界斗に問い詰める。

 界斗が何と答えるか、渉はハラハラしながら喉の渇きを潤すために水が入ったグラスに口をつける。

 界斗は僅かに笑って愛美に言った。


「ああ、そうだ。合コンだ」


「ブッ!」


「お兄ちゃんっ」


 渉はゴホゴホむせた。

 鈴華が慌ててハンカチを渉に手渡し「大丈夫?」と心配する。渉は受け取ったハンカチで口元を押さえたまま、優しい妹に引き攣った笑顔で大丈夫だと頷いた。

 何言っちゃってるんですか界斗先輩…!!

 渉は心中で叫んだ。

 合コン、と言われたら愛美は諦めるだろう。そもそも自分で蒔いた種である。合コンだと嘘をついてくれた界斗には感謝と申し訳なさしかない。


「…兄さん、彼女ほしいの?」


 愛美は笑顔を消して低い声で言った。はっきりと分かる不満を顔に浮かべている。

 渉と鈴華はそんな愛美の顔を不思議そうに見た。すると界斗は、にっこりとした笑顔を愛美に向けた。


「愛美。そんなに動物園に行きたいなら、今度行こうか」


「えっ……本当? 絶対だよ、約束だからね!」


「ああ」


 興奮気味に言う愛美に、笑顔のまま頷く界斗。愛美は嬉しそうに笑った。


「なになに〜、みんなで動物園に行くの?」


 そこへ凪がやって来て、愛美と鈴華の間から座っている二人に笑顔を向けて言った。


「鳥辺野動物園に行くんだったら、今年の春から一般公開されたチーターの子供の写真、撮ってきてほしいな」


 凪からの急な頼み事に、界斗と渉は苦笑いを隠せない。だが断ることはもちろん出来るはずもなく……。


「わかりました、撮ってスマホに送ります」


「ありがとう、界斗君」


 凪は嬉しそうににこっと笑い、仕事に戻って行った。界斗はやれやれとしながら愛美に言う。


「愛美。早くカフェに行かなくていいのか?」


「あっ、そうだった! 早く行かないと満席になっちゃう。行こっか鈴華ちゃん」


「うん」


「お邪魔しました〜」と愛美は笑顔で手を振り、鈴華はぺこりと頭を下げて、二人は一緒に店を出て行った。

 界斗は渉に向かって笑みを浮かべ、申し訳なさそうに言う。


「妹が騒がしくしてすまない」


「いえ、明るく元気な子でいいじゃないですか。界斗先輩が愛美ちゃんを紹介してくれたおかげで、鈴華もすぐに友達ができたし、学校に行くのがすごく楽しそうなんです」


「そうか、ならよかった」


「それより、動物園に行くことしゃべってしまって本当にすみません…」


 頭まで下げた渉に、界斗は笑みを絶やさず言った。


「いや、気にしなくていい。白坂は、動物は好きか?」


「はい、大好きです。動物園も久しぶりだし、せっかく行くなら楽しみたいです!」


 頭を上げた渉は嬉しそうな笑顔を界斗に向けた。界斗はその顔を見て穏やかに微笑む。


「ああ、そうだな」



***


 鳥辺野駅からバスで約三十分。

 鳥辺野動物園前のバス停に降りた三人は、日が落ち始めてだいぶ過ごしやすい気温になった外を、山肌をバックに佇む動物園に向かって歩いて行く。駐車場を突っ切った先にある正門のそばで、界斗と渉は一度立ち止まった。


「白坂。先に園の周辺で誘導しやすい『デッドスペース』を見つけておこうか」


「はい、わかりました」


 渉は界斗を見て頷き、続いて心矢に目を向ける。


「…て、あれ? 心矢先輩は?」


 渉はその場でぐるりと辺りを見たが、心矢の姿はどこにも見当たらない。

 すると界斗が困った顔に笑みを浮かべて言った。


「あいつなら先に入場して行ったぞ」


「ええっ、自由人だなぁ」


「好きにさせておこう」


 必要になった時に使えばいい、と界斗は心中で非情な一言を呟いた。


「そういえば」


 渉はふと何か思い出したように呟いて、界斗に尋ねた。


「利用できる『デッドスペース』って確か、ある程度の大きさと広さが必要なんですよね。けどそれだけで、利用できるってわかるもんなんですか?」


 渉の疑問に、界斗は答える。


「俺の目には、『封印空間』に通じる『デッドスペース』が波打つように視覚化されるんだ。それで一目見ればどの『デッドスペース』が使えるのか判断できる」


「凄いなぁ。それってもちろん心矢先輩もですよね」


「ああ」


 二人はなるべく人目につかない園の裏に回って、その周辺で利用できる『デッドスペース』を一通り確認し終わったところで、ようやく動物園に入場した。

 二人は様々な動物を軽く見て行きながら、チーターがいるエリアを目指した。思っていたよりも来場者は多く、小学生くらいの子供連れ親子も目立つ。


「夜の動物園って楽しいですけど、どこかに『残余霊』が潜んでいると思うと怖いですね…。『ナイトイベント』中に、もしかしたら人が襲われる可能性も出てくるんじゃ……」


 隣から渉が不安そうに呟いたのを聞いて、界斗は渉をちらっと見て言葉を返す。


「無いとは言えないな。だから早急に封印する必要がある」


「そうですね。動物も可哀想だけど、人が殺されるのはもっと嫌ですから」


 渉は力強いセリフを紡ぎ表情を引き締めた。その隣を歩く界斗は、特に表情に変化を見せることなく淡々と歩く。

 夜行性の動物がいるエリアは人気で人も多く集まっていた。

 二人はガラス越しに動き回るチーターを眺める。お目当ての子供のチーターは三つ子の兄弟で、愛らしい三匹が戯れ合いながら遊んでいた。


「元気に動き回ってて可愛いですね」


 渉は楽しそうに言った。

 界斗はスマートフォンを構えて写真を何枚か撮ると、ふとスマートフォンをそのまま渉に向けた。気づいた渉がスマートフォンを見て目を丸くする。


「え、俺を撮るんですか?」


「白坂の妹に送ったらどうだ?」


「あはは、別にいらないって言われそうですけどね。まぁいいや」


 いぇーい、とノリ良くダブルピースで笑顔を向ける渉に、界斗は素の表情を見せて笑いながらシャッターを押した。


「あ、じゃあ界斗先輩も撮って妹さんに送ります? チーターをバックに」


「いや、俺は–––…」


 苦笑いを浮かべて断ろうとした界斗は、不意に『残余霊』の力を感知した。

 弾かれたように反応した界斗は、鋭い目つきで周囲を見回しながら意識を集中させる。


「界斗先輩、どうしたんですか?」


 渉は不思議そうに首を傾げた。


「…『残余霊』の力だ。微かだが感じる」


「えっ」


 渉は驚くと同時に身を緊張させた。周囲に視線を流していた界斗が呟く。


「移動しているな…。行こう、白坂」


「あ、はい!」


 二人は小走りでその場を離れた。


 園内の隅に設置されている、人気ひとけのない小さな公衆トイレ。

 内部の明かりが薄暗い闇に浮かび上がり、その背後の森が巨大な濃い影となっている。夜ともなるとそれらが余計にその周辺を寂しげで不気味な雰囲気に変えていた。

 渉よりも先を行っていた界斗は、その公衆トイレを前にして一度立ち止まった。界斗が見つめる先には、小学生くらいの女の子の姿があった。背を向けている女の子は建物の脇に一人で突っ立って、目の前に広がる森の中を見ている様子だ。


 ガサガサ……


 突如、一本の木の樹冠が大きく揺れ始めた。女の子はその木を見上げると不思議そうに首を傾げる。


 ガサッ


 大きく揺れた葉の中から、女の子に向かってにゅっと突き出すように黒い塊が現れた。

 –––黒い蛇の頭だ。

 黒蛇の頭の大きさは、女の子の頭の大きさとさほど変わらない。

 黒蛇は赤い舌をチロチロと出し入れしながら女の子を見下ろしている。女の子は固まってしまって動かない。

 まずい。

 界斗は走り出し、同時にバッグから霊符を取り出し、放った。

 黒蛇がばっくりと口を開け女の子を頭から丸呑みしようと襲いかかるが、一瞬の光を放った霊符の力が黒蛇の頭を強く弾いた。女の子が短い悲鳴をあげて地面に尻餅をつく。

 黒蛇は木々を移動して森の奥へと逃げて行った。

 界斗は少し遅れて園内と森の境目に立つと、森の奥に目を凝らす。一瞬だが、木々を揺らして森の奥深くへ逃げて行く黒蛇の姿を見た。全長5メートルを超えた巨大蛇の姿に、界斗は息を呑む。

 渉は急いで女の子の元へ駆け寄った。地べたにぺたりと座り込んだまま驚いた顔で固まっている女の子の前に片膝をつき、心配そうに声をかける。


「大丈夫? 怪我はない?」


「う、……ぅわあぁあぁん!」


 女の子はタガが外れたように泣き出してしまった。

 渉は慌ててハンカチを取り出すと、それで女の子の涙を拭いてあげながら微笑んで言った。


「よしよし、もう大丈夫だから。怖いおばけはあのお兄ちゃんが追い払ってくれたよ。もう心配ない」


「ぐす、っ、ヒック、…う、うん……」


 安心したのか、女の子はすぐに落ち着きを取り戻した。

 界斗は静かに森の奥を睨みつけていたが、やがて渉に視線を向けて声をかける。


「怪我はなさそうだな」


「はい。…さっきのが、動物園で悪さをしている『残余霊』なんでしょうか」


「おそらくそうだろうな。姿を見たが、見たこともない巨大な黒蛇だった」


 それを聞いた渉の顔が強張る。

 界斗は淡々とした口調で続けた。


「素早い動きと、暗闇に溶け込む黒い姿は厄介だな…。後を追うにしても、森の中では相手がかなり有利になる」


「あの、界斗先輩。先にこの子を安全な場所に連れて行きませんか?」


 渉が困った顔をして界斗を見つめると、界斗は口の端だけを上げた曖昧な笑みを浮かべた。


「ああ、そうだな。親の姿が見当たらないな……迷子か」


「ママは来てないよ。パパと来たの。けどパパ、いつの間にかいなくなってたの」


 女の子は大きな黒い瞳で界斗を見上げてそう答えた。

 いなくなってた、という女の子だが、父親が目を離した隙に女の子の方が勝手にそばを離れてしまったのだろう。渉は再び女の子に目線を合わせて、微笑み言った。


「そっか。じゃあパパがきっと心配してるから、迷子センターってところに行って、そこでパパを呼んでもらって迎えに来てもらおう」


「うん…」


 女の子は小さく頷いた。

 渉の対応を眺めていた界斗は、先ほどよりも和らいだ笑みを向ける。


「子供に慣れてるんだな、白坂」


「あはは、まぁ、小さい頃から妹の面倒を見てた影響もありますね」


 その時、女の子が立ち上がって界斗に近づいて来た。足元に立ってじっと界斗を見上げたかと思うと、界斗の上着の裾をきゅっと掴む。


「森本くるみ。小学二年生です」


「…え?」


 急に自己紹介をされて、戸惑う界斗。

 くるみは輝く瞳で界斗を見つめ、弾んだ声で言った。


「さっきの、ぴかって光っておばけが逃げてったの、すごかった!あれやったのお兄ちゃんなんでしょ。どうやったの?」


 界斗は頬を引き攣らせた。そのまま、かなりぎこちない笑みを浮かべて答える。


「ああ、そうだな、えと………魔法、かな」


「魔法? すごぉい!」


 くるみの声がいっそう弾み、瞳は輝きを増した。

 くるみは、小さな両手を祈るように組む。そして恋する乙女のようなうっとりした顔を見せたかと思うと–––


「お兄ちゃんは、悪いものからお姫さまを助けてくれる王子さまなんでしょ?」


「……えっ!? いや違、」


「くるみの王子さまだ!」


 上気した顔に笑顔の花を咲かせて、くるみは界斗の腰に両手を回して抱きついた。

 界斗は体を硬直させ、それを見た渉は思わず吹き出して笑ってしまい、慌てて口元を両手で押さえた。界斗と目が合うと、苦々しい表情をした界斗にじろりと睨まれる。


「白坂…」


「す、すみませ、ふふっ、…あっ、ごめんなさい!」


「いいから、どうにかしてくれ…」


 界斗のひどい顔色の悪さを見ると、子供が苦手なのは明らかだ。

 渉は一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、界斗に抱きついたまま恋する乙女のような笑顔のくるみを見て、言った。


「くるみちゃん、早く迷子センターに行こう。パパが心配してるよ」


 くるみはちらっと渉の方を見たが、一瞬にして不機嫌顔になると激しく首を振った。


「やだ! パパには会いたくないから行かない!」


「「え」」


 まさかの拒否に二人は驚きとともに困惑してしまう。

 くるみはぷくっと頬を膨らませ、界斗のお腹に顔を埋めていやいやと首を振る。渉は困り果てた顔で、界斗にこそっと耳打ちした。


「界斗先輩、とりあえず迷子センターには行くように、くるみちゃんを説得してください。界斗先輩の言うことなら聞いてくれるかもしれません」


「…、…あぁ、わかった」


 ぎこちなく頷いた界斗は一度目を閉じて息を吸って吐くと、目を開けてくるみを見下ろした。

 くるみが上目遣いで界斗を見ると、界斗は得意とも言える愛想笑いを浮かべる。


「おばけがまた襲いかかって来るかもしれない。だから安全な場所に行こう?」


「……じゃあ、」


 くるみは大きな瞳を潤ませ、縋るようなか弱い声を出した。


「王子さまが、ずっとそばに居てくれるなら行く」


「……」


 スン…と愛想笑いが真顔に変わった界斗を見てしまった渉は慌てて、だが力強く説得にかかる。


「か、界斗先輩、これはもうどうしようもないです。お父さんが来てくれるまで一緒に居てあげましょう!」


「………はぁ…」


 界斗は疲れたように息を吐く。だがすぐに気持ちを切り替え、真面目な顔を渉に向けた。


「白坂。この子は俺が迷子センターまで連れて行くから、白坂は森の中に逃げた『残余霊』を先に追ってくれないか?」


「え? あ、はい! もちろん––…」


 任せて下さい、と言った渉だが、不安な気持ちがすぐ顔にあらわれた。

 界斗は努めて渉を安心させるように言う。


「俺から心矢に連絡を入れて、助っ人として必ず向かわせるようにする。ちょっと高いスイーツを奢ると言えば喜んで協力するだろうからな」


「あ、それは効果ありそうですね」


 渉はホッとした。安い苺大福で大喜びしていた心矢を知っているからこそだ。

 界斗は申し訳なさそうに言う。


「無理を言ってすまない。俺もすぐに向かう。事前に渡しておいた霊符はちゃんと持ってるか?」


「はい」


 渉は、パーカーの前面についているポケットの中に手を入れた。霊符を折らずに入れられるように買った半透明のスライダーポーチに触れて確認した渉は、己がここに来た理由を思い出す。

 –––俺は、俺自身の役目を果たさなければ。

 気を引き締めた渉を見て、界斗は安堵に似た笑みを浮かべた。


「白坂。すまないが頼んだ」


「はい、任せて下さい!」


 渉は力強く頷き、黒蛇を追って森の中へ走って行った。界斗はその背を見送る。

 二人の会話を不思議そうに聞いていたくるみは、「ざんよれいって、なぁに?」と界斗に訊いた。


「さっきの怖いおばけのことだよ」


 界斗は困ったように笑いながらそう答えると、すぐに視線を逸らしその顔から一切の笑みを消し去る。

 そして心矢に連絡を入れるために、スマートフォンを取り出した。



***


 渉が一人、薄暗い森の中を周囲に警戒しながら無言で歩き続け、しばらく経った時だった。


 ……シュー……シュー………


「–––…?」


 静けさの中に、奇妙な音を聞いた気がした。足を止めた渉は、周囲をぐるりと見回す。


「な、…なんだ…?」


 まるで自転車のタイヤに空気を入れるような、そんな微かで奇妙な音だ。

 どこから聞こえて–––…と口の中で呟いたその時、うなじに生温い何かが落ちてきた。


「ひっ!?」


 ぞわっと鳥肌が立った。

 うなじを触った右手に、ねちゃっとした感触。手のひらを見ると、透明の粘り気のある液体が付着していた。

 な、なんだこれっ……。

 体を固くして、渉は恐る恐る上を見る。

 暗闇に溶け込む鱗に覆われた体を太い木の枝に巻きつけ、真上からこちらを見下ろしている黒蛇が、視界に飛び込んできた。

 黒曜石のような眼に睨まれ、体が固まる。次の瞬間、ばっくりと大口を開けた黒蛇が「シャアッ」と鳴き声を上げ、飛びかかるように降ってきた。


「うわぁああああ!!」


 渉は視界いっぱいに迫ってくる口腔から目が離せないまま悲鳴を上げた。

 次の瞬間、霊符が効力を発揮し、バチンッと光を放つと黒蛇の体を弾き飛ばした。

 黒蛇は軽く宙を舞い、木々の枝をいくつも折りながら地面に落下した。

 そのまま体を滑らせるように素早く逃げて行く。


「うっ……き…気持ち悪い…!」


 うなじに垂れた涎のあまりの気持ち悪さに、渉は黒蛇を追うことを忘れてハンカチでごしごし拭う。

 恐ろしい見た目をした黒蛇を思い出した渉は、全身に冷たい汗をかいた。


 がさがさがさ……


 とその時、一箇所の茂みの奥が鳴り響いた。渉は青ざめた顔で、ひっと悲鳴を上げる。

 く、来る……!

 渉は揺れる茂みの先を気丈に睨みつけて身構える。今度は上手く誘導しなければ–––……。

 だが、渉の目の前に現れたのは見覚えのある人物だった。


「よお、渉。相変わらずひ弱っちぃクソみてぇな面してんなぁ」


「 心矢先輩! …って、名前呼んでくれたと思ったら酷すぎる!」


 だが心矢が来てくれた事に、渉の顔には安堵の色が浮かんだ。

 心矢は渉に向かって軽い笑みを浮かべる。


「カイからの頼みで駆けつけてやったぜ。迷子のガキの相手してるアイツの滑稽な姿を見に行くか、頼みを聞く代わりに高えスイーツを奢らせるかで迷っちまった事は内緒にして……おっと喋っちまった、まぁいいか」


 相変わらずの無駄口を叩く心矢に、渉はげんなりした。逆に心矢のテンションは高い。


「ステージは森! 新鮮でいいねぇ。さぁて奴をさがすか。渉はしっかりと囮役を頼むぜ。つっても俺はテメェのこと守ってやれねぇからな、先に言っとくぜ。丸呑みされても恨むなよ」


「すっげぇ嫌だ! ちゃんと守って下さいね心矢先輩!?」


 心矢は早くも刀を抜いて肩に担ぎ、迷う素振りもなく森の奥へと歩き始めた。渉は心矢の後ろにぴったりついて行く。

 すると目の前の暗闇に、二階建ての四角い建物が一軒、ぽつんと現れた。

 コンクリート打ちっぱなしの建物の外壁は、繁殖した植物にところどころが覆われ、出入口の扉も取れ、窓も割れて存在しない。そこから微かに見える内部は空っぽで、まるで建設途中で放置された状態のような廃墟だった。


「こん中からクセェ気配がするぜ」


 心矢は鋭い光を放つ瞳で廃墟を見つめ、ニヤリと笑う。

 その一歩後ろに立つ渉は、余裕のない不安な表情をして廃墟を見つめている。


「うわ、『残余霊』以外にもヤバいのなんか出そう…」


「びびってんじゃねぇよ。虫が出そうくらいで、なっさけねー男だなぁ」


「いや虫じゃなくて……廃墟と言えば幽霊が出そうじゃないですか」


「幽霊だろうがなんだろうが、シメる気しかしねぇ」


 そう言って心矢は扉のない入口から中に入って行く。渉も覚悟を決めて、急いで心矢の後に続いた。

 内部には物がほとんど何もなかった。そのおかげで、足元は暗いが躓いたりする心配はない。

 渉はスマートフォンのライトで、無機質なコンクリートの壁や天井を照らす。ここが何の建物だったのかまるで分からない。

 ここに先ほどの『残余霊』が潜んでいるかもしれない…そう思った渉は唾を呑み込む。


「上か?」


 心矢はぽつりと呟いた。

 奥に見つけた直階段に向かい、上を覗き見た。二階は更に暗い。心矢は直階段を軽く調べ、二階まで問題なく上がれると判断する。

 心矢は一段目に足をかけ、ふと思い出したように後ろを見て渉に言った。


「渉、俺は上を見て来るぜ。テメェはそこにいろ」


「え? あ、はいっ」


 渉が返事を返す前に、心矢は軽い足音を響かせて階段を上がって行ってしまった。

 渉は力を抜くように息を吐いた。

 一人になるとすぐに不安に襲われる。心矢を追いかけようか悩んだが、邪魔だと言われそうだったのでやめた。

 上の方からは、心矢が移動している足音が微かに響いている。

 渉は緊張した表情のまま、スマートフォンのライトを階段からゆっくりと横へと向けて移動させた。そのまま自らも体をゆっくりと動かして後ろを振り向く。

 視界に、黒い何かが天井からぶら下がっていた。太く長い紐のようなものだ。

 よく見ようとライトを当てる前に、紐は天井からずるりと床に落ちてきた。ライトは、天井の一部が崩れてぽっかりと空いた穴を照らす。


「……!」


 渉は遅れて、その紐の正体が何であるのか理解した。だがまたもや遅かった。

 その正体–––黒蛇の『残余霊』が、再び渉に向かって襲いかかって来る。


 バチンッ


 再び霊符が黒蛇の体を弾き飛ばした。

 黒蛇が後ろに吹き飛ぶのと、逃げようとして足が絡れ、硬いコンクリートの床に渉が腰を打ちつけたのが重なる。


「い、てぇッ…」


 渉は痛む腰を押さえて顔を顰め、すぐさま状況を確認する。

 黒蛇は離れた場所からこちらを睨んでいた。またすぐに飛びかかって来ようとはせずに、警戒しているのか、渉から視線を逸らさず、外に逃げて行く気配はない。

 ……俺を喰らう気満々なんだな。これなら誘導できる。

 渉も黒蛇から視線を逸らさずに、ゆっくりと立ち上がる。一瞬だけ視線を逸らし、すぐ近くの割れた窓を確認すると、腹を決めた。


「…よし、来い! こっちだ!」


 渉は走り、窓から外に飛び出した。

 着地してすぐ地面を蹴って走る。

 後ろを見ると黒蛇は窓から長い体をずるりと吐き出しているところだった。


「うわっ!?」


 木の根っこか何かに躓いて派手に転んでしまった。

 痛がっている暇はない。急いで土で汚れた体を起こしながら、無意識にパーカーの前ポケットに手を入れた渉は、あれ?と呟いた。

 ………ない。

 ポケットの中にあるはずの、霊符を入れたポーチが。

 すぐさま体を起こした地面から周辺の地面も確認する。スライダーポーチはどこにも落ちていない。だとすると廃墟で転んだ時に–––……と渉が思ったその時、体に衝撃が走った。


「ぅ……ッ!?」


 両足から下半身にかけて黒蛇の体が一瞬にして巻きつく。渉は抵抗することもできないまま、すぐ目の前にある口腔を、恐怖と絶望に染まった顔で凝視するしかない。

 頭から喰われる、そう思った次の瞬間。黒蛇の体からどす黒い液体がパッと舞った。

 黒蛇は頭を上に突き上げながら悲鳴を上げる。渉の体を解放した黒蛇は、身を大きくくねらせながら茂みの先へと逃げて行った。


「あ"〜うぜぇ。加減しといてやったっつーのに、大袈裟に痛がってんじゃねぇよクソ蛇が。あ"〜イライラする。殺しちゃいけねぇ獲物の相手とかマジでストレス溜まるわ〜」


「心矢先輩…!」


 低い声で文句を吐きながらも助けに来てくれた心矢を見上げて、渉は泣きたそうになりながら喜んだ。

 刀を軽く振って刃に付いた汚れを飛ばした心矢は、気だるそうな顔で渉を見下ろす。


「おいこら。なーに悠長に触手プレイを楽しんでんだテメェは」


「いやいやあの状況ちゃんと見てました!? 死にかけたんです俺!」


「カイの霊符持ってんなら死にゃあしねーだろ。つか、ソレもう使い切ったのか?」


「そ、それが、霊符を入れたポーチを廃墟の中に落としてしまったようで…」


「うわダッセェ」


 草を生やして笑う心矢を、うぐぐと唇を噛み締めて睨む渉。


「ったくよー、しょうがねぇな。じゃあ俺の霊符を全部やるよ。つっても、俺が持ってるのは傷を治す霊符だ。まぁでも、無いよりいいだろ」


 心矢は面倒くさそうに頭を掻きながらそう言って、尻ポケットから雑に二つに折った『治癒疼痛符』を取り出し、それを渉に差し出した。


「いいんですか? けど、心矢先輩が怪我したら…」


「怪我はご褒美だ。問題ねぇな」


「そ、そうですか」


 渉は口の端を引き攣らせ、差し出された霊符を受け取った。

 その時だった。

 心矢が何かに反応し、渉の背中に覆い被さった。心矢の体の重みで、渉はそのまま地面にうつ伏せになり倒れ込む。


「ぅぶっ」


 地面に鼻先を打ちつけた渉の口から、くぐもった悲鳴が漏れた。

 ブンッと風を切る音と、木の枝をバキバキッと折る音が二人の上から鳴り響く。

 渉は土で汚れた顔をわずかに上げて眉を顰めた。心矢は上半身を渉の背中から浮かし、今しがた何が起こったのかを口にする。


「野朗…長い体を遠くから振り回してきやがった。まともに受けてたら骨の一本か二本やられてたな」


「…っ……」


 それを聞いてゾッとする渉の上から退いた心矢は、片膝を地面についたまま周囲に視線を巡らせ、珍しく思考する。

『残余霊』に知能はない。だがあの黒蛇の姿をした『残余霊』はどうだろう。さっきのような攻撃の仕方が戦略的なものではないとしても、素早い動きとパワーに加え、闇に溶け込む姿は厄介だ。

 心矢は『残余霊』の力を探るが、移動しているのか定まらず、だんだんとイライラしてくる。普段から集中力が続かない心矢は、こういった冷静に頭を使う状況が物凄く苦手だ。


「チッ…」


 イライラが募る。そのせいで余計に集中力が欠けてしまい、移動する力が追えなくなる。

 渉が青ざめた顔をして上体を起こすのを見た心矢は、苛立った感情を露わにして言った。


「おいこら。囮なら囮の役目をはたせよクズ」


「うぅ…すみません……あ、さっきは守ってくれて、ありがとうございます」


 青ざめた顔に無理した笑顔を浮かべて律儀に礼を言う渉に、心矢は僅かに目を見開き、次に思いっきり眉を顰めた。


「…次は守ってやれねぇぞ」


 嫌そうな顔をして目を逸らしたが、その声音はどこか優しかった。

 その時、草を掻き分ける激しい音が響き渡った。


「「–––……!」」


 一箇所の草むらが激しく揺れているのを見た二人は同時に反応し、急いで左右に飛ぶように避ける。

 刹那、二人が先ほどまでいたその場所に向かって飛び出して来た黒蛇の頭が突き抜けた。

 渉は逃げるように距離をとった。

 一方、心矢は刀を構えて黒蛇に向かって行く。だが黒蛇がブンッと振り回した尻尾が視界に入り慌てて避けようとしたが、くねくねした動きに惑わされ–––直撃する。

 尻尾の力はそのまま心矢の体を後ろへ吹っ飛ばした。


「ぐっ–––」


 木の枝をいくつか折りながら、最後は木の幹に背中を打ちつけて止まった。

 ドサッと地面に力なく落ちた心矢は、地面に腰をつけて足を投げ出し、背中を幹に預けたまま額を押さえた。

 ぐらぐらする視界に眉を歪め、あちこち痛む体の中でも特に痛みが激しい右の脇腹を右手でおさえる。幸い骨が折れた程の痛みではないし血も出ていない。

 ハッとして脇腹をおさえていた右手を見ると、そこに握られていた『残余刀』がない。吹き飛ばされた際に落としてしまったようだ。


「あンの、クソ爬虫類! 引きちぎってやる!!」


 心矢の怒りが爆発する。

 そんな心矢の元に逃げて来た渉が慌てて駆け寄って来た。


「だっ、大丈夫ですか心矢先輩!」


「朗報だ。刀無くした」


「えぇえ!!?」


 人のこと言えないじゃん! と心中で叫んだ渉はハッと思い出す。


「心矢先輩、前やった手品みたいに、刀を引き戻せないんですか?」


「手品? せめて魔法って言えよ。つか無理だ。アレをやるには俺の目に見える範囲に落ちてねぇと駄目なんだよ」


 最悪な状況だ。

 その時、心矢が視界の端に何かを捉え目の前の渉に向かって叫んだ。


「渉! あっちにさっきの廃墟がある! テメェはさっさとポーチ探して来い!」


「え、あ、はい! で、でも奴が…」


「クソ爬虫類は俺が相手しとくからさっさと行け!」


 心矢は立ち上がり、渉の肩を掴んで廃墟の方角へと押しやった。そして離れた場所からこちらの様子を伺っている黒蛇を睨みつける。

 渉は言われた通りに廃墟に向かって走って行った。

 渉が心矢から離れても、黒蛇は渉を追うことなく心矢を見据えている。怪我を負わされたことを怒っているのか。

 –––––獲物を俺に変えたか。まぁ好都合だ。

 心矢はニヤリと笑い、近くに落ちていた太い木の棒を拾った。


「さぁ来いよ。特別に相手してやる。–––––来ねえならこっちから行くぜ!」


 心矢の頭には黒蛇を『デッドスペース』へ誘導するという考えはない。さっきのお返しに一発か二発ボコらないと気が済まなかった。

 心矢は木の棒を竹刀のように構えて、地面を蹴りつけそのまま突っ込んだ。しかし黒蛇は、素早く木の幹に絡まり上へ上へと登って行く。木の上に移動されるとこちらが不利だ。


「だーっクソが! うぜぇ動きしやがって!」


 心矢は上を見上げて怒りのまま叫んだが、その口を閉じると冷静になって黙り込んだ。


「–––……」


 黒蛇は木の上を移動している。重みのせいでギシギシと枝が鳴り響き、ハラハラと葉っぱが落ちてくる。ぜんぜん身を隠せてはいない。

 心矢は内心で笑いながら、黒蛇の次の行動を読んだ。

 –––––上から降ってくる。

 予想は的中し、黒蛇は上から襲いかかって来た。瞬時に避けた心矢は、視線だけは黒蛇の頭から離さなかった。黒蛇が地面に着地した瞬間、木の腹を黒蛇の顔面に思い切り叩きつける。


 ボコッ


 額がへこみ、ギャアッと甲高い悲鳴が黒蛇の口から響いた。斬りつけずにボコボコに叩くくらいなら死にはしない。次はどこをへこませてやろうかと、心矢の口元が凶悪な笑みに歪む。

 突如、蛇の体がブルブルと震え始めた。

 太く長い体が、内側から蹴られるようにボコボコに膨れ上がったかと思うと、頭がばっくりと割れた。そこから脱皮をするようにヒトの形をした化け物が姿を現す。

 鱗も毛も一切ない、生肉の色をした肌が、黒蛇の皮をズルズルと脱ぎ捨てるように現れた。

 ヒトの形をしたクリーチャーだ。

 その姿はかなりグロテスクだった。目と鼻がないのっぺらぼうの顔には、唯一丸い口だけが存在する。その口から、ぶつぶつができた赤黒く長い舌がだらりと垂れた。クリーチャーの尻には、取ってつけたように黒蛇の尻尾が生えている。

 目の前で黒蛇からクリーチャーに進化した『残余霊』を、心矢は目を丸くして凝視していた。

『残余霊』が姿を変えられることを心矢はこの時初めて知った。

 もともと蛇と人間(人間なのか怪しい)が合体した『残余霊』だったのなら可能なのかもしれないが、そこのところはよく分からない。

 心矢だけでなく界斗も『残余霊』について全てを知っているわけではない。数少ない情報だけで今まで化け物を相手に戦ってきたということだが、心矢にとってはそれが問題だとは全く思わないし、知ろうとする気さえなかった。

 心矢はニヤリと笑う。


「だいぶイイ姿になったじゃねぇか。ただの蛇を相手するよりもテンション上がるわ」


 上機嫌になりながら、鋭い目つきで相手を睨みつける。

 心矢が動くより先に動いたクリーチャーが、勢いよく突進してくる。体当たりをくらう前に心矢は真横に飛んで避けた。

 心矢はすぐに体勢を整える。次にクリーチャーは拳を顔面に向かって繰り出してきた。瞬時に身を低くし拳を避ける。拳は紙一重で頭の上を掠めた。

 心矢は身を低くしたまま、クリーチャーの骨の浮いた脇腹に向かって木の棒を振るった。脇腹に直撃した木の棒がバキッと折れる音と、クリーチャーから漏れた悲鳴が重なる。

 使えなくなった木の棒を手放し、すぐさま距離を取るよう後方に飛び退く。

 その時、クリーチャーが振り回した長い蛇の尻尾が視界に入った。

 –––––やべっ…

 さらに距離を取る時間はなかった。尻尾は心矢に当たり、またしても真横へ吹っ飛ばされる。


「…ぃっ、てて…」


 地面を転がってうつ伏せで止まった心矢は、肘を使って地面から胸元までを浮かし、土で汚れた顔を顰めた。幸い一発目と比べると痛みは軽い。

 頭を軽く振って髪に付着した土を落とす。ふと、視界の端に鈍く光る物が見えた。目を向けると、二メートル程離れた地面に『残余刀』が落ちていた。


「あ、ラッキー」


 道端で小銭を発見したような軽い反応と呟きを漏らした心矢は、手を伸ばして刀を呼んだ。引き寄せられた刀は無事に心矢の元に戻って来る。

 刀を手にした心矢は立ち上がると、クリーチャーが襲って来ないことを不思議に思いながら周辺をぐるりと確認する。

 離れた場所に立つクリーチャーの姿を見つけた。クリーチャーの顔は心矢の方を向いているが、何故か襲いかかって来ない。クリーチャーは、刀を手にした心矢を警戒していた。

 とその時。


「心矢先輩、ポーチ見つけました! …って、うわっ、なんか姿が変わってる!?」


 心矢の元に走って来る渉は、クリーチャーと心矢が対峙しているのを見て驚きの声を上げた。

 そんな渉の元へ心矢も自ら駆け寄って行く。


「俺も刀見つけた。そんでご覧の通り、クソ爬虫類が進化したぜ」


「進化って…えぇ……」


「ボケてる場合じゃねぇぞ。戻るぜ!」


「えっ、どこにですか?」


「廃墟だよ!」


 走り出した心矢に、渉は困惑しながら慌ててついて行く。


「で、でもっ、奴を早く『デッドスペース』に誘導しないと…っ」


「『デッドスペース』ならさっきの廃墟の中にあったっつの!」


「えっ、あっ、そっか!」


 界斗と同じで、心矢もどの『デッドスペース』が利用できるのか判断できることを、渉は思い出した。

 渉は走りながら後ろを確認した。

 クリーチャーは四つん這いになって追いかけて来ている。犬並みのスピードで、距離はどんどん縮まって行く。

 二人は割れた窓から廃墟の内部に降り立った。少し遅れてクリーチャーも同じ窓から入って来ると、渉に向かって飛びかかって来る。


「うわっ! やっぱり俺を狙う!?」


 渉は青ざめた顔でクリーチャーを見上げて思わず叫んだ。だが今度は心配ない。パーカーのポケットの中に戻ってきた霊符の力が、クリーチャーを弾き飛ばす。

 弾き飛ばされたクリーチャーは、そのまま無機質なコンクリートの壁にベタッと張り付いた。張り付いたまま、顔だけは渉の方を向いている。

 心矢は直階段を調べた時に、直階段の真下にできた広い三角スペースの『デッドスペース』を見つけていた。

 心矢は右手に握っている『残余刀』の刃先を『デッドスペース』に向けると、クリーチャーと睨み合っている渉に向かって叫んだ。


「渉! 階段下にあるスペースに思いっきり突っ込め!」


「ぇあっ、は、はい!」


 慌てながらも、渉は言われた通りに動いて奥にある直階段に向かって走った。クリーチャーは壁を蹴って飛躍し渉のすぐ背後に迫る。

 渉は持てる力を出し切る勢いで走り、三角スペースに突っ込んだ。

 クリーチャーが渉のすぐ真後ろに迫った距離で、『デッドスペース』が大きく波打ち、クリーチャーを吸い込んでいく。


「やった!」


 無事にクリーチャーを『封印空間』に送り込む事に成功した渉は、床に座り込んだままガッツポーズと共に喜びの一声を上げた。


「渉! カイにテメェの出番だって伝えてこい! 三分以内だ、急げよ!」


 心矢は座り込んでいる渉の真横に立ってそう言うと、自らも『デッドスペース』を通して『封印空間』の中に吸い込まれていく。


「えっ、三分ってそれはちょっと無茶な…っ」


 渉の声は、目の前で姿を消した心矢には届かなかった。

 一休みしている暇はない。

 渉は急いで立ち上がり、廃墟を飛び出した。



***


 渉を見送り、心矢に連絡を入れ終えた界斗は、くるみと手を繋いで迷子センターに急いだ。

 が。


「あっ、見て見てカンガルー!」

「すごいっ、ライオンだー!」


 くるみはいちいち立ち止まり、界斗の手をぐいぐい引っ張っては、目に入った動物を眺めながら楽しそうに動物園を満喫する始末だ。

 …………疲れる。

 なぜ自分が父親の代わりのようなことをしているんだと、界斗はげんなりした。

 迷子センターに到着した時には、かなり無駄な時間を食っていた。

 迷子センターに入ると、くるみは界斗の左腕を抱きしめるようにぎゅっと掴んだ。さっきまで楽しそうに笑っていた顔が、その面影もない暗い顔になっている。

 歩きにくい状態で界斗は室内を進み、カウンターの中にいた女性スタッフに声をかけ、この女の子が迷子であることを伝えた。

 女性はくるみと視線を合わせると名前を聞いた。くるみが無愛想に「…森本くるみ」と答えると、女性はパッと表情を明るくして言った。


「よかったわ。お父さん、くるみちゃんを捜してさっき此処に来てくれたのよ。今呼んでくるからちょっと待っててね」


 女性はくるみににっこりと笑いかけると、その笑顔を界斗に向け、丁寧にお礼を言った。そして界斗の名前も聞いてからカウンターの奥の部屋に入って行った。

 ……よかった。

 界斗は疲れた顔で安堵する。

 界斗の腕を離さないくるみの様子からして、父親を待つ時間も拘束される可能性があったが、その心配が無くなった事に対しての安堵だった。

 ……早く白坂の元へ行かないと。

 界斗は次の問題へと気持ちを切り替える。先ほど電話で心矢を加勢に向かわせたが、界斗は心矢を信用していなかった。猫のように気まぐれなあの男が、途中で気分を変えてしまう可能性は十分にあるからだ。


「くるみ!」


 扉が開き、細身で背の高い男性がカウンターから出て来た。歳は四十代くらい。短い黒髪と細いフレーム眼鏡の穏やかな顔立ちをした男性だった。


「君がうちの娘を保護してくれた元宮界斗君だね。ありがとう本当に…。あ、私は森本太一といいます」


 顔立ちに似合う穏やかな声でそう言いながら、父親は界斗に名刺を差し出した。両手で受け取って軽く目を通す。氏名の上には弁護士と表記されていた。


「後日きちんとお礼がしたいから、良かったら、連絡先を教えて貰えないかな」


 学生の界斗に対しても丁寧だ。

 界斗は顔を上げ、にこりと笑う。


「いえ、気にしないでください。娘さんと無事に再会できて良かったです。それじゃあ俺はこれで–––」


 失礼します、と早々にこの場を離れようとした界斗だが、くるみが腕から腰に両手を回してぎゅーっと抱きついて来たせいで動けなくなる。

 戸惑った父親が声を上げた。


「こ、こら、やめなさいくるみ。お兄ちゃんが困るだろ」


「やだ! 王子さまにパパの代わりになってもらうから、パパはもういなくていい!」


 怒った顔で父親を睨み全力拒否するくるみに、父親はガーンと分かりやすい顔でショックを受けた。


「何というか…お見苦しいところをお見せしてすみません…」


「い、いえ…」


 父親は界斗を見て、申し訳ないと頭まで下げた。

 弁護士と聞くと気難しそうなイメージを持つが、目の前の男性はあまり弁護士らしくない性格をしている。


「此処へは、お友達と一緒に来ているのかな?」


「はい。外で待ってもらっているので、できれば早く戻ってあげたいんですが…」


「そ、そうですよね。–––ほら、くるみ。お兄ちゃん困ってるだろう、早く手を離してバイバイしなさい」


 くるみを見下ろした父親は、顔つきを真剣にして語気を強めた。少し頑張っている感はある。

 するとくるみは、大きな瞳に涙をいっぱいにして、ぐすっ、と鼻を啜ると震え声で言った。


「パパのせいじゃん…パパのせいだよ! くるみは悪くない! パパがっ、お仕事の電話にばっかり出て、くるみの相手してくれないからだよ…!」


 ぼろぼろ泣き出してしまう。


「やっぱりママと動物園に来ればよかった…! パパと一緒にお出かけしても、ぜんぜん楽しくない!」


「くるみ…」


 父親は呆然としてしまった。

 界斗の焦りは顔にも出てしまう。

 早く白坂を助けに行かないと。その前に誰か俺を助けてくれ…。

 すると、カウンターの中でずっと様子を見守っていた女性スタッフが出て来た。そして笑顔でくるみに話しかける。


「くるみちゃん、あっちのふれあいコーナーの部屋にいるモルモットを触ってみない?」


「え、モルモット触れるの…?」


「ええ。ほら、パパと一緒に行きましょ。お姉さんが写真撮ってあげる。ママに見せてあげたらきっと喜ぶわよ」


 くるみは眉を悲しそうに下げて、界斗を見上げる。


「…王子さまも、一緒に行こう…?」


 女性スタッフは界斗に視線を送った。気づいた界斗と目が合うと、女性スタッフは困った顔に笑みを浮かべ、駄目よ、と伝えるように小さく首を振って見せる。

 界斗はくるみを見下ろし、力ない笑みを浮かべた。


「俺には父親がいないんだ。俺が産まれる前から、もう父親の存在はこの世になかったから」


 くるみは、大きな瞳をさらに大きくした。


「…王子さまのお父さん、死んじゃったの?」


 界斗は小さく頷き、くるみの頭の上に手をおいて軽く撫でる。


「お父さんのこと、いなくていいとか、もう言ったら駄目だよ。本当にいなくなったら悲しいだろう?」


「……うん。わかった…」


 くるみは界斗から名残惜しそうに手を離すと、父親の方へ歩み寄って涙声で言う。


「パパ…ごめんなさい…」


「–––…いいんだ、くるみ。パパこそ、一人にしてしまってごめんな」


 父親も泣きたそうな顔に笑みを浮かべしゃがみ込むと、くるみを抱きしめた。くるみも父親にしがみつく。

 ようやく解放された界斗は、息を吐いて肩から力を抜いた。ふと女性スタッフと目が合うと、彼女は、お疲れ様、とでもいうように微笑む。界斗は疲れきった顔に弱い笑みを浮かべて返した。



***


「あ、いた! 界斗先輩!」


 迷子センターから出た界斗の元へ、必死な顔をした渉が走って来た。

 渉は界斗の前で立ち止まると両膝に手をおいて背中を曲げ、ハァハァと息を整える。渉の服や髪の毛はところどころ土で汚れていた。


「白坂、よかった無事で–––…」


 ホッとしたのは一瞬で、顔を上げた渉を見て界斗は眉を寄せる。渉の右頬には、血の滲んだ擦り傷ができていた。


「怪我してるな、大丈夫か?」


 界斗は無意識に渉の頬に片手を伸ばしてそっと触れた。渉は一瞬驚いた顔をして、すぐに困った笑みを浮かべる。


「大丈夫です、これくらい。俺よりも心矢先輩の方が傷の程度は酷いと思うので、後で見てあげて下さい」


「あいつにとったら怪我はご褒美だぞ」


「あはは、本人もそう言ってましたよ」


 渉の顔から手を下ろした界斗は、わずかに眉を寄せて目を伏せる。

 心矢はきちんと加勢に向かったのか…。


「あ、えとそれで、さっきの黒蛇を『封印空間』に送り込むことに成功したんです」


「本当か。流石だな、白坂」


 界斗は純粋に驚いた顔を渉に向けた。渉は軽く首を振ってから言う。


「俺だけの力じゃなくて、心矢先輩と協力して成功させたんです。それで今、心矢先輩は『封印空間』の中で奴を見張ってくれています。俺はそれを知らせに来ました」


 界斗は複雑な心境を抱く。

 心矢を少しでも信用できなかった己を責める気はない。だが心には己に対する不快な感情が広がっていく。それを無理矢理振り払い、界斗はにこりと微笑んだ。


「知らせてくれてありがとう。後のことは俺と心矢に任せてくれ」


「はい、宜しくお願いします」


「それと、助けに行くのが遅くなってすまない」


「いえ、気にしないで下さい。くるみちゃんはお父さんに会えましたか?」


「ああ。無事に会えたよ」


「そうですか。あ〜良かった」


 親子の再会を心から喜ぶ渉の笑顔を見て、再び界斗の心は嫌なダメージを受ける。

 複雑な心境を抱いたまま界斗は渉に言った。


「すぐに終わらせて来るから、白坂は出入口付近で待っててくれるか?」


「はい、わかりました」



***


 どこまでも果てしなく広がる暗闇を、無数の白い煙が漂っている。そこに竹刀袋を背負った心矢の後ろ姿を見つけた。


「シン」


 呼びかけると心矢は振り返った。

 振り返った瞬間に心矢が微かに眉を歪め、右手で右の脇腹を一瞬押さえたのを、界斗は見逃さなかった。

 渉以上に心矢の全身は汚れている。体ごと界斗の方を向いた心矢は、両手をズボンのポケットに入れてニヤリと笑った。


「よおカイ、遅かったじゃねぇかよ。面倒ごと押し付けてガキと動物園を満喫してたんじゃねぇだろな」


「……」


 界斗は黙ったまま心矢を軽く睨んだ。いつも押し付けている立場のお前が偉そうな態度を取るな、と心の中で文句を吐く。

 界斗は心矢から目を逸らし、そのまま視線を『残余霊』に向けた。

 地に伏せてぐったりとしているクリーチャーを見て、界斗は眉を寄せる。生きてはいるがかなり弱っている。その原因をつくった心矢を睨んだ。


「『残余霊』は殺す対象じゃないことを忘れたか?」


「目ぇ見開いてよーく見ろよ、生きてるだろうが。ムカつくからちょっと遊んでやってたんだよ。つか、さっさと来ねぇテメェが悪い」


 心矢は舌打ちし、クリーチャーに投げやりな視線を向けて再び界斗を見る。


「つーかよ、人間喰らう化け物を殺さずに封印するって理解できなくね? 今回の件でよーく分かったわ。殺せねぇ奴を相手にするとストレスでハゲそうになるってな」


「……」


「あ。今ハゲろって思っただろ。他人事だと思うなよ、テメェもそのうちハゲっからな」


 ストレスでハゲるならお前が原因でとっくにハゲてる、と界斗は心中で言い捨てて、すっかり伸びているクリーチャーに近づいた。

『残余封印符』を取り出し、両手の間に挟むと胸の前で合掌をして目を閉じ、霊力を霊符に送りながら『残余封印詞』を唱える。


「《鳥辺山に神留り坐す、命姫に申す、残余、罪穢れと共に箱に封ずる》」


『封』の巨大文字が浮かび上がり、空間を漂っていた無数の白い煙がクリーチャーの体に巻きついていく。そして『封』の文字から光が放たれると同時に、クリーチャーに巻きついていた煙が一瞬で解き放たれた。

 クリーチャーの姿が消え、空間は元の静けさを取り戻す。無事に封印完了だ。


「あ〜、終わった終わった。さぁて帰るか」


 封印を見届けていた心矢は、両手を頭の後ろで組んで背中を向けると歩き出した。

 振り返った界斗は、冷たい目でその背をじっと見つめて口を開く。


「シン、待て」


 呼び止められた心矢は、足を止めて面倒くさそうな顔をして振り返った。

 渉から心矢が守ってくれたと聞いていた界斗は、心矢に礼を言おうとして呼び止めた。のだが、いざとなると言葉が詰まる。


「あ? なんだよ」


「その、–––…」


 界斗は居心地悪そうな表情をして、心矢から目を逸らした。

 ありがとう、の一言がどうしても言えない。

 余計なプライドが邪魔をしているせいか。加えて場所も悪い。『封印空間』だと命姫に会話を聞かれてしまう可能性がある。そう思うと余計に……。

 ふと界斗は心矢が怪我をしていることを思い出し、礼を言うのは二の次にすることにした。

 眉間に皺を寄せて突っ立っている心矢に真顔で近づいて正面に立つと、心矢の服の裾を掴んでがばっと持ち上げた。右の脇腹の打撲した箇所が青紫色に変色している。


「うおっ、何すんだよスケベ!」


 小学生のような言動で焦った心矢に手を払いのけられた。界斗はため息をつき手を下ろして心矢をじろりと睨む。


「なんで俺があげた霊符で治さないんだ?」


「渉に全部やった。つーか、こんくらいの軽傷でいちいち霊符を使うなって文句を言うのはテメェだろ」


「……。治してやるから」


 界斗は前掛けのボディバッグから霊符を一枚取り出して心矢に差し出す。

 心矢は無言で手を伸ばした。その手は霊符を受け取らずにそのまま界斗の手首を掴み上げる。

 痛みで眉を歪めた界斗に、心矢は嘲るような言葉を吐く。


「気色悪い優しさなんかいらねぇよ。申し訳ない気持ちがあるなら、頭下げて感謝しろや」


「–––…なんだと?」


 界斗の目つきと声に怒りがこもった。

 心矢は歪んだ笑みを浮かべたまま、冷淡な目で界斗を見る。


「そもそも、テメェの判断は合ってたのか?渉を一人で人喰い化け物の相手に行かせて、信用してねぇ俺を加勢に向かわせたその判断だよ。もし俺が渉を助けに行かなかったら、渉はどうなってただろうな。まぁ渉は都合のいい囮だしな、最悪失敗して死んじまっても、どうでもいいってテメェは思ってるんだよなぁ」


「なっ、違う…!」


「違う? ハハハハハ! 渉は騙せても俺は騙せねぇぜ。テメェは誰に対しても嘘ばっかついてるじゃねぇか。上辺だけの優しさを振り撒いて、それに騙される連中を馬鹿にしてんだよなぁテメェは」


「……、–––……っ」


 界斗は昂ぶる怒りを露わにして心矢を睨みつけたが、その怒りを抑え込むように歯噛みすると、僅かに目を伏せ低い声を出す。


「–––……そうだ、お前の言う通りだ。俺は白坂のことを、囮として利用するために巻き込んだ」


 囮として利用する。当初に限らず今もそうだ。


「けど俺は、白坂の命をどうでもいいとは思っていない」


 界斗は心矢を睨みつけ力強くそう言った。

 心矢はふんと鼻を鳴らす。


「それも結局は嘘だろうが」


「違う!」


 界斗は力強く心矢の手を振り払い、苛立ちの滲む声で言う。


「役立たずなお前が、俺に偉そうに言える立場か」


「は?」


 心矢が眉を寄せ、こちらも苛立ちを露わにする。そんな心矢に界斗は挑発的な笑みを見せた。


「今回のことは礼を言う。助かったよありがとう。けど、これでいい気になるなよ。白坂を巻き込んだのは俺だが、そうなったのは非協力的なお前のせいでもあるんだぞ。面倒ごとは俺に押し付けて、いつも楽をしているのはお前の方だろ」


「俺がテメェと協力してりゃあ、渉を巻き込むことはなかったってか。けどよ、テメェははなっから俺と協力する気なんてなかっただろうが」


「もし俺が協力を求めたとして、お前は俺に協力したか? するわけないよな。無駄に頭を下げてお願いするくらいなら、今回のように餌で言うことを聞かせた方が楽でいい」


「テメェ…」


 心矢はドスの効いた声を響かせ、界斗の頬を殴った。そしてよろけた界斗の胸ぐらを掴み上げる。

 界斗は口の端が切れて血が滲んだ顔を一瞬顰めたが、怯むどころか恨みのこもった目をして心矢を睨む。

 今ここに渉が居れば二人を止めてくれただろう。だが頼みの渉は居ない。この空間には誰も居ない。


「…俺は、お前を恨んでる」


 界斗は僅かに目を伏せて低く呟いた。唐突なその一言に困惑したのか、胸ぐらを掴んでいる心矢の手が僅かに緩む。

 界斗は再び心矢を睨みつけた。


「俺の首を絞めてきたあの時からだよ。お前に殺されかけた俺が誰にもあの時のことを言わなかった理由がわかるか。お前の母親から誰にも言わないでほしいと泣いて懇願されたからだ。俺は約束を守ってる。お前が今こうして普通に暮らせているのは誰のおかげだ」


「–––…約束な。んなもん、テメェが勝手にしたことだろうが。そうやって誰にでもいい子ぶって自分で自分を苦しめてるっつーのに、恩に着せようとしてんじゃねぇよ」


 そう言いながら心矢は界斗を嘲笑う。

 カッと頭に血が上った界斗は心矢の体を突き飛ばし、胸ぐらから手が離れた瞬間、拳をつくって思いっきり心矢の頬を殴りつけた。

 心矢は後方に軽くよろけた。殴り返してくるかと界斗は身構えたが、心矢はその場から動かずに、俯いて静かにため息を吐く。

 心矢は足元を見つめたまま沈黙すると、界斗が言った“あの時”のことを思い出していた–––––。

 まるで動物の発情期のように定期的に襲ってくる“人を殺したい”欲求。

その欲求に初めて襲われたのは小学五年生の時だった。

 学校にも行けなくなった–––––…友達の顔を見ると殺したくなるから。

 家では自室に閉じこもった–––––…母親の顔を見ると殺したくなるから。

 誰かの顔を見ると、話しかけられると、近づかれると–––––…殺してしまいたくなる。

 だから心矢は、己の周りから必死に人を遠ざけた。それなのに、界斗は無防備に心矢に近づいてきた。

 界斗なら、この苦しみをどうにかしてくれるかもしれない……そう思って縋る思いで涙を流しながら助けを求めた瞬間に、欲求の糸がぷつりと切れた。

 衝動は止められなかった。

 界斗に馬乗りになって首を絞める心矢を引き離したのは母親だろうが、その辺の記憶は曖昧だ。正直言って、界斗の首に手をかけた辺りから覚えていない。

 その後の数日間は、虚脱状態で時間が過ぎた。ようやく学校に通えるようになった時、次に心矢を襲ったのは、界斗に対する言い知れぬ“怒り”だった。

 界斗は、心矢に対して今まで通り何も変わらない態度で接して来た。心矢はそれが許せなかった。

心矢は知っている。界斗は人に本心を見せないことが得意だと。

 ある日、心矢は学校で界斗を捕まえて二人きりになれる校舎裏に引っ張って行った。界斗は二人きりになると、途端に怯えた顔になった。

 ああほら、やっぱりな。

 本当は俺のことが怖いんだろ。

 あの時のこと恨んでるだろ。

 だったら隠すなよ。

 俺にだけはその本心を隠すな。

 挑発するように目の前の界斗にそう言ってやった。界斗はそれでも、本心を口にすることはなかった。けれどその日から、心矢を見る目と態度が変わった。

 界斗は心矢と目が合うだけでも顔を顰め、近づくと態度を悪くし、話しかけると口調が乱暴になる。

 傍から見ていたクラスメイトや大人からは、急に仲が悪くなったことを心配された。

 だが、心矢は苛々していた心が少しばかり楽になった。己に対してだけ隠すことなくつらに表すようになった界斗に満足していた。前のような仲のいい関係に戻りたいとは微塵も思わない。

 そうだ、これでいい。テメェは俺を恨み嫌ってろ。俺は、俺が殺したい奴が、俺を心の底から嫌っていることが、この上なく嬉しくて興奮するんだからよ。

 しかし肝心な“怒り”の感情は、まだ心矢の中から完全には消えていなかった––––––。


「…シン?」


 その声に過去を振り返っていた心矢はぴくりと反応した。目の前で怪訝な顔をしている界斗を見る。界斗の頬は赤く腫れてきていた。心矢の殴られた頬も熱を帯びている。

 この瞬間、心矢は気づいた。

 界斗に対する言い知れぬ“怒り”が何だったのか。そしてその“怒り”が、気がつくと己の中から消えているということに。


「ああ、マジかよ、ははっ…」


 心矢は手のひらで目元を覆い隠し、誰に言うともなく呟いた。

 ……カイを呼び出したあン時の俺は、こいつの口から怒りをぶつけられて、本気で殴ってもらいたかったのかよ……。

 男くさい少年漫画や青春ドラマのようなことを、界斗相手に期待していたのかと思うと笑えてくる。けれど、そんな思いが今ようやく叶ったと言うべきか……。

 心矢は疲れた顔から手を下ろすと、軽く息を吐いた。めでたしめでたし、とはまだ言えない。まだ、解決していない問題がある。


「……で。結局テメェは、俺に感謝してほしいのかよ」


 心矢は界斗に目線を合わせ、血が滲んだ口角を歪めると、ぶっきらぼうに言う。


「だったら望み通りしてやるよ。土下座付きがいいか?追加で餌をくれんなら考えてやってもいいぜ」


「–––……違う、そんなことはどうでもいい。お前はいちいち俺の神経を逆撫でする言い方でしか会話できないのか」


「あ〜もう、何だっつーんだよ! テメェは結局俺にどうして欲しいんだ!?」


 イライラしながら心矢は怒鳴った。


「それは、……」


 界斗は言葉を詰まらせた。引くに引けないこの状況下で考えるが、自分でもどうして欲しいのか分からない。


「はぁぁぁぁ…」


 心矢が重く長いため息を吐いた。そして真面目腐った顔をずいっと界斗に近づけると、一言一言強調しながら言葉にする。


「もう一度聞くぜ。結局テメェは、俺に、どうして、欲しいんだ?」


「……、…」


 界斗はもういろいろと困惑していて、どうして欲しいのかなんて考える余裕がなかった。

 それよりも、気が短い心矢が真面目な顔をして人の話を聞こうとしている姿は、はっきり言って気味が悪いし、何か裏があるんじゃないかと思えてしまう。


「特にこうして欲しいって気持ちは……ないな」


「おい」


 結局そう言ってしまった界斗に対して、心矢は頬を引き攣らせ苛立ちを見せた。けれどそれ以上何も言わずに大人しく黙ってしまう。そんな心矢らしくない態度が余計に界斗を困惑させた。

 界斗は顔を僅かに伏せ心を落ち着かせる。心矢に対しての恨みつらみは簡単には消えるものではない。

 けれど今この時。

 心矢と二人きりになって、今まで溜め込んでいた心の内をさらけ出したからなのか……。


「お前を殴って、いろいろ吐き出して……。それだけで、気持ちが随分と楽になった」


 界斗は疲れた顔に無意識に笑みを浮かべ、そう言葉に出していた。


「やっと本心が言えたのかよ。遅ぇんだよバカ」


「は?」


 バカ、という余計な一言にカチンときた界斗は心矢を思いっきり睨む。

 だが逆に心矢はふっと軽く微笑むと不意に界斗に手を伸ばし、殴った側の頬に手を添えてきた。界斗は顔を強張らせる。不快な感情よりも動揺が大きく、その手を拒むことを忘れた。

 軽く触れただけであっさり手を下ろした心矢は、その手をズボンのポケットに突っ込むと、背中を向けた。


「そんじゃあもういいだろ。一件落着! めでたしめでたし! さっさと外に出ようぜ。俺らの帰りを大人しく待ってるわんこが居るんだからよ」


 心矢にそう言われて界斗は渉のことを思い出した。すぐに終わらせて来ると言ったのに、結局長く待たせてしまっていて申し訳ない。

 しかし界斗は急ぐよりも急に気になり出したとある疑問を思う。

 ……それにしても、白坂に対する心矢の心の変化が気になるな。


「シン」


 歩き出した心矢の背に向かって、界斗は口を開いた。


「お前は白坂のことを、今はどう思っているんだ?」


 心矢は足を止めて振り返ると、顔を歪めつつ答える。


「はあ? 別にどうも思ってねーよ。今度はなんだよ」


「別に。ただ、急に白坂との距離感が縮まっているような気がしてな」


「俺のパーソナルスペースはテメェが思ってるよりも狭いんだぜ。ま、今回の件でよーく分かったんだよ。あいつは打たれ強い男だってな。つまりあれだ、そう。嫌いじゃねぇってこと。好きでもねぇけど」


「じゃあシン。今後は、お前も白坂を守ってくれるんだよな」


「はあ?なんでそうなるんだよ」


「嫌いじゃないんだろ」


「好きでもねぇよ」


 界斗は一瞬だけその顔に微かな笑みを見せた。次に真面目な顔になって心矢を見つめる。


「さっき俺にどうして欲しいのかって聞いたよな。俺はお前にも白坂を守って欲しいと思っている。俺に何かあった時に、奴らから白坂を守れるのはお前しかいない」


「……」


 心矢は一度口を閉じた。

 以前、渉と廃神社に来ていた界斗に向かって己が言い放った言葉を思い出す。


 ––––カイ。テメェは力を手に入れてから俺を恐れなくなった。けどよ、力があってもなくてもテメェは俺より弱い。“守る者”がいる時点で、テメェは俺には勝てねぇんだよ。


 そう。人は“守る者”ができるとそれが弱点となる。そう心矢は思っている。


「俺に“守る者”をつくれってか。さぁてその頼みどうすっかな。俺は弱点をつくりたくねぇんだよ」


「けど、もう白坂に対して情が移っているだろ」


 心矢は苦々しい顔になるとチッと軽い舌打ちを漏らし、背中を向けて歩き出すと同時に吐き捨てる。


「テメェもだろ」



***


「あっ、界斗先輩!心矢先輩!」


 正面ゲート近くのベンチに座って待っていた渉は界斗と心矢の姿が見えると、ぱあっと笑顔を浮かべて立ち上がり、手を振りながら駆け寄った。二人の目の前で立ち止まった渉は、頬が赤く腫れた二人の顔を見て動揺する。


「何かあったんですか?」


「「別に」」


 素っ気ない一言が合わさった二人は、互いを横目で睨んで目を逸らす。

 すると渉が、ははっと小さく笑い声を漏らした。


「テメェ、何笑ってやがる」


 心矢に凄まれた渉はびくっと震えて慌てて言う。


「いやだって、俺たち三人とも頬に怪我しちゃってるじゃないですか。なんか、そう思うと急に笑えてしまって…すみません」


「アホわんこ。こちとらヌルいバトルしてるわけじゃねぇんだぞ」


 そう言って心矢は渉の額を小突いた。「いてっ」と小さく声を上げた渉は、額をおさえて口を尖らせる。

 界斗はこの時ばかりは心矢に同感だった。


「あ、そうだ。俺たちついにやりましたね!」


 渉が嬉しそうに声を弾ませた。

 二人は目を見開いて『なんだ急に』というような反応を見せる。


「今回は三人で協力して『残余霊』を封印できたんです。初ですよ!」


「「……」」


「え、あれ? そんなに喜ぶことじゃない……ですかね?」


 二人は真顔で頷いた。

 渉は急に恥ずかしくなり、笑顔が引き攣った顔を赤らめる。


「あ……あ〜そうだこれ! 心矢先輩にお返しします!」


 渉はハッと思い出したように、心矢から受け取っていた霊符を取り出し、それを心矢に差し出した。

 心矢が手を動かして受け取る前に、界斗が渉に向かって笑みを浮かべて言う。


「白坂。その霊符を使って頬の傷を治してくれ」


「え?でもただの擦り傷ですから、なんか勿体無いです…」


「いいから。使ってくれ」


「おいおい、男の顔の傷なんて気にしてんじゃねぇよ、キメェな」


「いだだだっ! ちょ、なんで抓るんですかもう!」


 心矢は伸ばした手で、渉の怪我をしている頬を一回抓った。渉はジンジンする頬をおさえて涙目で心矢を睨むが、心矢は楽しそうにニヤニヤしている。

 界斗は心矢を横目で軽く睨みつけ、渉の手から一枚抜いた霊符を渉の顔に近づけた。


「白坂、見せてみろ。あぁほら血が滲んできてる。早く治さないと誰かさんの手の菌が入って悪化するぞ」


「お〜いこら、菌扱いすんなや」


 真横から聞こえてくる文句を無視して、界斗は頬の傷を治した。

 痛みがなくなった頬から手を下ろした渉は、目の前の界斗に「ありがとうございます」と笑顔で礼を言うと、二人の顔を見て続ける。


「先輩たちも、早く頬の傷を治した方がいいですよ。腫れてて痛そうです」


「ばっかオメー、こんなちっちぇ傷よりもこの汚れた全身の方が深刻だろうが。返り血なら大歓迎だが、汚ねぇ泥は不快でしかねぇ。あー風呂入りてぇな、そうだ銭湯に行こう」


 心矢はあっさりと銭湯に行くことを決めて、スマートフォンを取り出すと検索し始めた。

 渉も己の姿を改めて見る。見える範囲の肌の汚れはハンカチで拭いたが、服や髪の毛は無理だ。心矢ほど汚れてはいないが、この姿でバスに乗るのは周囲に不快な思いをさせてしまう。


「お、ラッキー。すぐ近くにコインランドリー付きの銭湯あるじゃん。最終バスで帰るなら余裕で入れんな」


 心矢のその言葉に、渉は顔を上げて口を開く。


「心矢先輩。銭湯に行くなら、俺も同行していいですか?」


「あ? うっせーな勝手にしろ」


「やった!」


 渉は喜んだ。前の学校の友達とよく銭湯に行っていた思い出があり、久しぶりにワクワクする。


「あ、界斗先輩も一緒に行きませんか? 三人で風呂に浸かって疲れ取りましょうよ」


「いや、俺は…」


 喜ぶ渉の顔を見て、界斗は断ろうとした口を閉じる。ここで断ると渉の気分が落ち込むかもしれない。

 それに二人がコインランドリーを利用するなら、衣類を持ち運びできる自分がいた方がいいだろう。そう思った界斗はにこりと笑って頷いた。


「分かった。俺も行くよ」


「やったぁ!」


「だからうっせぇぞ渉。風呂ぐらいではしゃいでんじゃねーよ、ガキかテメェは」


「いやだって、友達と銭湯行くのって楽しいじゃないですか。俺、前の学校の友達とよく近所の銭湯に行ってたんですけど、すげぇ楽しくて。あっ、心矢先輩、ゲームコーナーあったら対戦しませんか?」


 ニコニコしている渉の笑顔につられたのか、界斗も自然と笑みを浮かべた。それを見た心矢がからかい口調で界斗に言う。


「なんだぁカイ。テメェも実は風呂で大はしゃぎしたいガキのままかよ。ん? 待てよ、ガキの頃の風呂といえば……。あーなんだっけ、何か思い出しかけたけど忘れたわ。まぁいいや。カイ、約束のスイーツ忘れてねぇだろな。風呂上がりにアイス奢れよ」


「安いな。そんなんでいいのか」


 界斗は素っ気なく言った。

 心矢は顔を顰める。


「はぁ? 値段で味なんか変わんねぇだろ。アイスはアイス味。スイーツはスイーツ味。真っ赤な苺は血の味だ」


「意味が分からないです…」


「白坂、相手にするな。馬鹿がうつるぞ」


 一仕事終えた三人は閉園が近い動物園を出ると、そのまま銭湯へと向かった。



***


 渉を真ん中にして、白濁したにごり湯に浸かる三人は、疲れが抜けていく感覚にリラックスする。

 界斗は顔に湯をかけた瞬間、ピリッと痛んだ口の端の傷に顔を顰めた。界斗も心矢も頬の傷は治さないままだ。加えて心矢は脇腹の打撲も治していない。

 脱衣所で心矢が上着を脱いだ時、打撲に気づいた渉が「痛そ〜」と顔を顰めて呟くと、心矢は素っ気なく「腹に穴があく痛みと比べたらクッソ物足りねぇけどな」「いやそりゃそうでしょう…」腹に穴があく痛みを想像したのか、渉は顔色を悪くしていた。


「あ。思い出したぜ、渉」


「え、何をですか?」


 湯に浸かって三分も経っていないうちに、心矢が急にそう言って渉の名前を呼んだ。

 渉が真横に顔を向けると、心矢は前髪を掻き上げて上を向いたまま天井をじっと見つめて口を開く。


「貝殻だ。そうだ思い出したぜ」


「え? 貝殻?」


 渉の頭の上にいくつものクエスチョンが飛ぶ。

 心矢は思い出せてスッキリしたのか、その横顔は満足気に笑っていた。渉は心矢の言っていることの意味が全く分からない為、おずおずと訊ねる。


「えっと……すみません、何のことを言ってるんですか?」


「はあ? テメェが気になるつって訊いてきたんだろうが。俺が界斗を“カイ”って呼ぶ理由だよ」


 心矢は顎を下げて真横にいる渉を睨んでそう言った。

 渉は思い出す。確かに訊いた。界斗に連れられて行った『喫茶キムラ』で。


「ガキの頃、カイと一緒に風呂に入ってた時だな。俺が貝殻を集めるのにハマっててよ–––」


 心矢が渉に昔話を語り始めた。

 隣から聞こえてくる懐かしい話を界斗は湯に視線を落として静かに聞きながら、自身もその記憶を辿り始める–––。


 二人がまともに顔を合わせたのは、六歳の冬。年が明けた正月だった。

 父方の祖父母の家に、心矢とその母親が泊まりに来た。界斗は母親から事前に、今年の春から同じ小学校に通う従兄弟の心矢のことを聞かされ、仲良くするようにと言われていた。

 玄関前で、界斗は母親と祖父母と一緒に二人を出迎えた。心矢は無言で界斗のことをじ〜っと見つめていたが、自身の母親から「ほら、挨拶しなさい」と促されると、前に出て失礼な挨拶をしてきた。


「俺は心矢。お前は界斗って言うんだろ。なんかむかつく響きした名前だよな」


 何故か不機嫌な心矢はそう言って、頭の後ろで腕を組むとそっぽを向いた。心矢は母親に軽く怒られてもツンとしていて、界斗は黙ったまま心矢を睨んだ。

 界斗の中で心矢の第一印象は最悪だった。けれど心矢は無駄に元気でよく笑い、活発的で明るい子供だった。

 心矢に遊びに誘われて渋々外に出た界斗はその性格に感化され、大人たちの心配をよそに、二人はすぐに仲良くなった。

 後から心矢の母親にこそっと教えられて知ったのだが、心矢は界斗の名前に嫉妬していたらしい。「と」で終わる名前は男らしくてかっこいい響きがあるからだそうだ。

 シンヤ、という名前もかっこいいのにと界斗はその時思った。

 夜。

 外遊びから帰って来た二人は、冷えた体を温める為にそのまま一緒にお風呂に入った。

 その時、心矢が小物入れに出来そうなサイズのプレーン缶を持ち運んできた。心矢の隣で湯に浸かる界斗は、そのプレーン缶を不思議そうに見て心矢に訊いた。


「何それ?」


「俺の宝物が入ってるんだ。特別に見せてやるよ」


 心矢は、プレーン缶を湯につけないように持ったまま蓋を開けた。中にはいろんな種類の貝殻がたくさん入っていた。


「じゃじゃーん! どうだ、すごいだろ〜」


「貝がら…これが宝物なのか…」


「何だよ、そのガッカリしたって感じのむかつく顔は。キラキラしててきれいだろ。お前とおんなじ名前だぜ」


「俺の名前は界斗だよ。貝がらじゃない」


「略して“カイ”でいいじゃん。俺、そっちの方が呼びやすくていいし、かっこいいって思うぜ。俺のことは“シン”って呼べよ。それだったら文句ないだろ」


 界斗の不満を訴える視線に気づいていないのか、心矢は軽い鼻歌を歌いながら、プレーン缶の中から小さな貝殻を摘み手のひらに乗せて見せてくる。桜の花びらに似たピンク色の貝殻だ。


「ほらこれ、何て名前の貝がらか知ってるか?“桜貝”っていうんだぜ。幸せを呼ぶ貝なんだ。持ってると幸せになれるんだってよ」


「ふうん…」


「これ、カイにやるよ。見つけるの大変だったけど、特別だぞ」


「え? いらない」


「はあ!? 俺の宝物をタダでやるって言ってんだぞ、もっと喜べよ!」


「べつに欲しくない。それに、拾ったものって汚いし」


「汚っ…!? お前むかつく!」


 怒った心矢が界斗の顔面にばしゃっと湯をかけた。流石に我慢が出来なかった界斗は、同じように心矢にやり返した。

 そのまま喧嘩になってしまい、騒ぎを聞きつけた母親たちに怒られた––––––という子供の頃の思い出だ。


「へ〜なるほど、そうだったんですね。ていうか二人とも昔は……今もですけど、やっぱり仲がいいですね!」


 心矢の話を聞いた渉はニコニコしながらそう言った。

 すると心矢は思いっきり顔を顰めて「はぁ? どこがだよ」と吐き捨て続ける。


「あの後、俺が持ってた貝殻がカイに当たって頬が切れちまって、ギャン泣きしたカイのせいで俺がめっちゃ大人に怒られたんだぜ。こいつ昔っから軽い傷で泣くようなひ弱っちい男なんだよなぁ」


 心矢はそう言ってケラケラ笑う。

 界斗は何も言わなかったが、微かにこめかみをひくつかせ、無言で心矢を睨みつけた。心矢はわざと目を合わせず無視をする。

 そんな二人の間にいる渉は、心矢を非難するようにじろりと見た。


「はぁぁぁ……せっかく和やかな空気だったのに。心矢先輩が余計なこと言うから…」


「おいこら。なに人の顔見てクソデカため息ついてんだよ、沈めるぞ」


「ちょ待っ、目が本気っ…! 助けて下さい界斗先輩…っ」


「やめろシン。他のお客さんに迷惑だろ」


 心矢に頭を掴まれそうになった渉が、湯をばしゃばしゃ揺らしながら界斗の方へ避難する。

 心矢は、渉を庇う界斗をじろりと見て「テメェはわんこに甘すぎるんだよ」と文句を吐くと、体勢を戻して不貞腐れたように首まで湯に浸かった。



***


 その後の鳥辺野動物園では、動物が消えるという事件はパッタリと無くなった。

 三人は変わらず、残りの『残余霊』の封印を行っている。三人で協力してとはまだ言えないが、順調に進んでいた。


 だが三人はまだ知らない。

 灯影の魔の手が、すぐ背後まで忍び寄っているという事を–––。


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