第二夜『天女咲夜』
***
元宮心矢の中には、二つの抑えきれない欲求が渦巻いている。ひとつは“人を殺したい”という欲求。そしてもうひとつは“自分自身を傷つけたい”という欲求だ。
その欲求が目覚めたのは小学五年生の頃。学校を休み続けていた心矢を心配した従兄弟の元宮界斗が起こした行動が、今後の二人の仲に修復不可能な亀裂を残す、大きな事件に繋がった–––……。
***
殺したい……。
自室のベッドの中で横になり、毛布に全身を覆い隠した幼い頃の心矢は、ひどく怯えた顔で震えていた。
最近は“自分自身を傷つけたい”という欲求よりも、“人を殺したい”という欲求が強い。何かしていても、ぼんやりしていても、“人を殺したい”思いが頭から離れることはなく、強烈な渇望となって心矢を苦しめていた。
誰でもいい、誰でもいいから。
殺したい、殺したい。
ああ……
もうだめだ。
殺したい、殺させてよ、誰か俺に殺されてくれよ。
ああ、ぁあぁああ、ああああああああああああああああああ––––
ピンポーン
界斗は少し背伸びをして、家の玄関のチャイムを鳴らした。少しして扉が開き、心矢の母親が顔を出すと、ランドセルを背負っている界斗に向かってにこりと微笑む。
「あら界斗君。こんばんは」
「こんばんは。これ、今日出た宿題のプリントと、学校からのお便りです」
「ありがとう。本当に助かるわ」
母親は界斗が差し出した封筒を受け取った。そこで界斗は、少し遠慮がちに尋ねる。
「あの…心矢は、まだ体調よくならないんですか?」
「…心配かけてごめんなさいね」
母親は暗い顔になった。それを見た界斗は不安にかられた。
心矢が学校を休んで一週間以上経っている。
先生からは体調不良だと伝えられていたが、こんなに長引くと、何か深刻な病気なんじゃないかと心配でならなかった。
「風邪とか、病気じゃないよ。でも理由をぜんぜん話してくれないまま部屋に閉じこもってしまったから、どうしたらいいのか私もわからなくて…。何か学校で、嫌なことでもあったのかしら…」
それを聞いた界斗は、病気ではないことに一安心した。そして、子供らしい元気な声で言った。
「だったら、俺が心矢に何があったのか聞いてみます。俺になら、何か話してくれるかもしれないし」
母親は驚いた顔をしたが、すぐに納得した顔になって界斗に言った。
「確かにそうね。界斗君になら、あの子も何か話してくれそうだわ。頼んでもいいかしら」
「はいっ」
界斗は力強く頷き、にっこりと笑った。
家に上がった界斗は、リビングの椅子にランドセルを置かせてもらい、二階にある心矢の部屋へ向かった。扉の前に立ち、軽くノックをしてから声をかける。
「シン、起きてるか?」
返事はなかったが、ベッドが軋む音が微かに聞こえた。
「入るからな」
界斗は遠慮なく扉を開けて中に入った。
見慣れた部屋のベッドの上で、シーツを頭から被り、膝を抱えて俯いている心矢がいる。
界斗に気づくと、心矢は少しだけ顔を上げた。数日見ない間に、その顔はひどくやつれていた。正気がない濁った瞳は、界斗を見ているようで何も映してはいない。
界斗は驚いて固まった。目の前の心矢の姿が衝撃的で言葉が出てこない。
従兄弟の心矢とは、同い年の兄弟のように一緒に育ってきた。だからこそ、界斗は心矢のことをよく知っている。
無駄に元気でよく笑い、ちょっとしたことで不機嫌になったり怒ったりする。それが、界斗がよく目にする心矢の顔だった。
泣いたり落ち込んだりした顔は一度も見たことがない。だから界斗は、目の前の弱りきった人間が知らない誰かに思えて、動揺を隠せなかった。
「…、…シン、どうしたんだよ。何があったんだ?」
「……………」
心矢から反応はない。
そのことが界斗をさらに不安にさせた。
「…シンのお母さんも、クラスのみんなも心配してる。お母さん困ってたよ。シンがどうしてこんなことになってるのか分からないって。俺だって分からないよ。けど、シンが話してくれたら、みんなが助けてくれる。きっと悩みも解決して、こんなに苦しむこともなくなるよ。だから…」
界斗は必死になって、何も言わない心矢に話しかけた。
その時、心矢の濁った瞳が揺れた。そして小刻みに震える唇から、絞り出す声が聞こえた。
「…、行け…」
「え?」
「出て行けよッ!」
突然の大声に、驚いた界斗の肩が跳ね上がる。心矢の紅い瞳は、怒りに染まっていた。
界斗は怖かった。
それでも。
怒りを真っ直ぐに打つけられても、界斗は逃げることはしなかった。心矢を助けられるのは自分しかいないと、妙な使命感がそうさせていたのかもしれない。
「シン……苦しいんだったら、我慢なんかしなくていい」
界斗は真剣な眼差しでベッドの前まで近づいてしゃがみ込むと、真正面から心矢を見つめた。
すると、それが心矢の心に変化をもたらした。
「……カイ、どうしよう……俺の頭……ずっと、おかしいんだ……」
瞳からすっと消えた怒りが怯えに変わった。震える声でそう言った心矢は、瞳からぼろぼろと涙を流した。
殺したい……。
心矢の頭の中に、何度も響く自身の声。目の前で、界斗が何か言っている。
「大丈夫だから。なんでも俺に言って。俺がシンを助けるから」
……俺を、助ける?
どうやって助けられるというんだ。
俺は人を殺したいんだよ。
誰でもいいから、早く殺したいんだよ。
早く、早く、早く、早く。
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい。
ああぁあぁもうだめだ!!
殺したい、殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい–––––……ぁあ、ぁあぁああ、ああああああああああああああああああああ
「ああぁあああ!!」
「!? シン!」
「あああああ–––––……ぁ…、…あははっ、ハハハ、あははははははははははっ!」
心矢は頭を抱え、叫び狂いながら笑いだした。
衝動は、もう止められなかった。
心矢は毛布を跳ね除け、目の前の界斗の首を両手で掴んで押し倒した。硬い床に背中を強打した界斗の口から、くぐもった悲鳴が漏れる。
界斗に馬乗りになって、首を絞める。
苦しむ界斗を見下ろす心矢は、狂った笑顔を浮かべていた。
あぁ、殺せる。
やっと、人を殺せる。
これで欲求が満たされる。
もう苦しまなくていいんだ。
やった、やったやったやったやった!
「……シ、…っ…ン……」
界斗は必死にもがき抵抗するが、心矢の力には敵わない。
このままだと殺される。
俺は、死ぬ。
界斗の顔面は恐怖一色に染まった。
「–––––––––」
視界が霞み、体から力が抜けていく……。
遠ざかる意識の中で、ガチャっと扉が開く音と、次いで母親の悲鳴を聞いた。
その後どうやって助けられたのか、界斗は覚えていない。
放心状態の界斗は、リビングに突っ立っていた。
目の前には、両膝をついて泣いている心矢の母親がいる。母親は何度も、ごめんなさい、と繰り返し謝っていた。
「界斗君…お願い……さっきのことは誰にも…誰にも言わないで…。あの子の為にも…お願い…」
顔を上げた母親はそう懇願し、界斗の両腕を震える手で掴んで深く深く頭を下げた。
「………うん、大丈夫だよ。誰にも言わないから」
界斗は、感情が消え失せた声でそう言った。
誰にも言わない。界斗はその時の約束を、ずっと守っている。
***
鳥辺野高校 校内 20:30
––––今現在、界斗は『封印空間』の中にいた。
彼以外誰もいない空間はどこまでも広がっている無音の暗闇であり、その空間を無数の白い煙が漂っている。
界斗は、夜の日課である『残余霊』の封印を行なっている最中だ。
その日課に、数日前から新しいメンバーが加わっている。後輩の白坂渉だ。
今こうして界斗が待機している空間の外では、渉が校内を彷徨っている一体の『残余霊』を、階段下の『デッドスペース』まで誘導している頃だろう。
「……はぁ…」
界斗は目を閉じたまま静かに突っ立っていたが、やがて眉間に皺を寄せて、小さくため息をついて瞼を上げた。
界斗は明らかに不機嫌だった。それにはワケがある。
少し前に一緒にいた渉から、おそるおそるこう尋ねられた。
『界斗先輩って、心矢先輩のどこが嫌いなんですか? あっ、すみません! 急にこんなこと聞いて……。けど、界斗先輩って心矢先輩のこと思い出すだけでも嫌そうな顔をするから、なんでそんなに嫌いなのかなぁって、ちょっと気になってしまって……』
界斗は内心で『昔、あいつに本気で殺されかけたからだ』と思いつつ、渉には『性格が合わないからだ』と声に出して答えた。
渉はそれで納得した様子だった。
心矢のことを思い出すだけでも顔に出てしまうのは、もうどうしようもない。
本気で殺されかけた記憶は恐怖となって、ずっと界斗を苦しめてきた。
だが、成長するにつれて恐怖は苛立ちへと変わった。
自分を殺そうとした男が、目の前でのうのうと生きていることへの、苛立ちと嫌悪感。
界斗は心の底から、心矢が早く死んでくれることを願っている。
だがその前に、心矢には
あの男を相手にできるのは、どんな痛みも恐れずに立ち向かえる心矢が最適だ。
界斗自身は、骨が折れたり血が流れるような痛みを負う殺し合いなど、出来ることならしたくはない。
普通の人間なら、誰もがそう思うだろう。
「……そろそろ、来るか」
待機時間はまもなく終わる。
界斗はすっと表情を引き締め、頭から余計な思考や記憶を全て取り払い、指先に挟んだ『残余封印符』を構えた。
***
一方その頃。
校内三階の廊下を、渉は引き攣った顔をして猛ダッシュしていた。
渉が後ろを確認すると、一体の『残余霊』が追いかけて来ている。
先ほどまで、渉は静かな廊下を歩いていた。
すると、前方の教室の出入口から1匹の大型犬がゆっくりと出て来た。
渉はぎくっと足を止め、思わず「うわっ」と声を上げてしまった。犬は渉に気付き、頭を上げてこっちを見た。
最初は、学校に迷い込んだ野良犬か飼い犬かと思った。だがその犬の頭部を見た瞬間、渉は全身が凍りついた。
犬は、首から上だけが人間だった。
ぺたっとした薄い黒髪、顔色は悪く、肌にはハリがない、かなり疲れきった表情をした中年男性の生首。
目の前の『残余霊』を一言で表すなら、都市伝説の人面犬だ。
「なんで『残余霊』ってあんなキモ怖い姿の奴ばっかなんだよ……!」
渉は逃げながら思わず叫んだ。
人面犬は低い男の声で「わんわんっ!」と吠えながら追いかけて来た。背後から聞こえるおじさんの「わんわん」は、ハッキリ言って気持ち悪い。
犬の足の速さをナメてはいけない。
目指す1階の階段下にある『デッドスペース』に辿り着くまでに、界斗から貰った『防残余護身符』十枚のうち六枚を使ってしまった。
だが、今回も無事に誘導できた。
壁に吸い込まれた人面犬を、『デッドスペース』の先にある『封印空間』に送り込んだ渉は、そのまま床に大の字に寝転がった。
「はぁっ、はぁっ……」
あ〜、気持ち悪かった……。
***
空間が大きく波打ち、その波に押されるようにして『残余霊』が姿を現した。
界斗は手慣れた様子で両手の間に霊符を挟むと、胸の前で合掌をし、自身の霊力を霊符に送りながら『残余封印詞』を唱えた。
***
目を閉じている渉は、まだ床の上に大の字になっていた。
すると、小さく笑う声が上から聞こえてきた。ハッと目を開けると、界斗が穏やかな表情で渉の顔を見下ろしていた。
「お疲れ様、白坂」
「あっ、界斗先輩、お疲れ様です!」
慌てて立ち上がった渉はにっこり笑った。先ほどの姿を見られていたことを少し恥ずかしく思う。
「封印完了だ。白坂のおかげで封印も順調に進んでいる。ありがとう」
「お役に立てて嬉しいです!それに俺が無事でいられるのは、界斗先輩の霊符のおかげですから。ありがとうございます」
渉は照れながらぺこっと頭を下げた。
そして嫌なことを思い出したように顔を顰める。
「それにしても、さっきの『残余霊』は怖いというより気持ち悪かったです…。そういえば『残余霊』って、死んだ人間や動物から生まれる化け物なんですよね。さっきの人面犬は、どっちの『残余霊』だったんだろう…?」
「両方だな」
渉の疑問に、界斗は答えた。
「人間と動物の体の一部が合体した『残余霊』は過去にも何体か居た。そう珍しくはない」
「あ、そうなんですね」
歩き出した界斗について行くと、講堂の出入口付近に設置してある自販機の前で立ち止まり、「奢るよ」と言われた。
渉はスポーツドリンクを買ってもらった。界斗はお茶を買い、二人でペットボトルを開けてその場で飲む。
喉が潤った渉は軽く息を吐いて、この後のことを界斗に聞いた。
「界斗先輩。今夜は二体目もいきますか?」
「…いや、今夜も一体で終わりにしよう。あいつも居ないからな」
あいつ、と言った時に界斗が微かに眉を寄せたのを見た渉は、あいつ=心矢のことだと分かった。
「初めて心矢先輩と出会った時、服が血塗れでびっくりしたんですけど、ここ数日居ないのって、あの大怪我が原因ですか?」
渉が心配してそう聞くと、界斗は困ったように眉を下げて言った。
「心配いらない。ただのサボりだからな」
心矢が封印に非協力的なのは今に始まったことではない。
役に立たないのならせめて番犬として毎晩仕事しろ、と界斗は声を大にして言いたい。
界斗が『残余霊』を封印するには、かなりの霊力と体力を同時に使う。
霊力の方は特に問題ないが、問題は体力だ。界斗の体力では一日二体の封印が限界だった。
界斗も、できれば一日二体の封印が理想ではある。だが、最大の敵である灯影はいつ現れるか分からない。その為、心矢がいない日は安全第一を考えて、界斗は力を残しておきたかった。
「あの、界斗先輩。今さらですけど俺、先輩たちのことを、もっとちゃんと知りたいと思ってるんです」
ぼんやりとしていた界斗の耳に、渉の遠慮がちな声が届いた。
「え?」
「あっ、すす、すみません! また余計なこと聞いてしまって気分悪くなりましたよね! 何でもないです忘れて下さい!」
「あ、いや…別に気分は悪くしていないが……」
大袈裟に慌てながらぺこぺこ頭を下げる渉に、界斗は苦笑する。
「すまない。ちゃんと聞いてなかったから、もう一度言ってくれないか?」
「あ…はい。えぇと、俺、先輩たちのことをもっとちゃんと知りたいんです。あ、知りたいっていうのは、趣味とか好きな食べ物とかそういうんじゃなくって、え〜と……」
「……」
界斗は穏やかに笑いながら、渉の話に黙って耳を傾けている。逆にそれが渉を緊張させ焦らせた。
「つ、つまり、先輩たちが全ての『残余霊』を封印する目的…というか、今に至るまでの経緯を知りたい…というか……」
「なるほど。理解した」
とりあえず界斗は、目の前で謎に苦しそうな顔をしてしゃべっている渉に、ちゃんと伝わったという事を言葉で返した。
よかった伝わった…と、渉は目を瞑りほっと胸をなでおろす。
そんな渉を見つめながら、界斗は迷っていた。
界斗は、渉に直接関係しないことをわざわざ教える気はなかった。『残余霊』について、そして『封印空間』と『デッドスペース』について教えておけば、囮として利用するには何の問題もないからだ。
さて、どうするか。
界斗は思案する。
界斗が思う渉の性格的に気になることは有耶無耶にせずにちゃんと理解したいと思うタイプだろう。界斗がここで適当に話題を変えて逃げても、後々同じように聞かれる無限ループに陥りそうだ。
仕方ないか。
界斗は早々に判断した。
ペットボトルをゴミ箱に捨てた界斗は、再び渉の方を向いて言った。
「白坂。今週の土日のどちらかで、日中会えないか?」
「あ、はい。特に土日とも用事はないので会えます」
「じゃあ土曜日、鳥辺野駅に十三時頃待ち合わせしよう。案内したい“場所”がある。その場所は山奥にあるから、向かうなら明るい時間帯がいい。そこへ向かいながら、俺たちが今に至るまでの経緯を話そう」
渉は、急にでてきた“場所”という言葉に不思議そうな顔をしたが、特に聞き返さずに「はい、わかりました」と頷いて笑った。
界斗も、形だけの笑みを浮かべた。
***
渉の新しい学校生活についてだが、特に問題はないという一言だ。
本人の明るい性格もあってクラスにはすぐに馴染め、昼食を共にしたり、休み時間に雑談しながら笑い合える友達もできた。
今日の昼食は、渉も含めてお弁当なし組で売店に向かった。それぞれが好きなパンを選んでいると、スーパーでよく見かける“苺がまるごと一個入った苺大福”が渉の目に止まった。
ラスト一個だった苺大福をおやつ用に購入したが、結局パンでお腹いっぱいになり、帰ったら妹にあげようと鞄に入れた。
渉は半帰宅部状態だ。
前の学校ではバスケ部だったが、本気で取り組んでいたとは言えず、またバスケ部に入部するかはちょっと悩みどころだった。
とりあえずバスケ部は見学したが、他の部活動も見ておこうといろいろ回った。その中でも今日は茶道部を見学したが、お茶の先生が稽古している場は本格的で興味深かった。
「う〜ん」
渉は1人渡り廊下を歩きながらまだ悩んでいた。
帰宅部の選択肢がないわけではない。体が鈍らないように毎日の日課でランニングはしているが、夜な夜な『残余霊』を相手にする身としては、体を動かすスポーツはしておいた方がいいだろうと思える。
「やっぱりバスケ部かなぁ…」
独り言を呟いていると、渡り廊下から見える道場から剣道部の声が聞こえてきた。
「剣道部はまだ見学してなかったなぁ…」
道場をぼんやり眺めながら歩いていると、後ろから急に誰かに肩を組まれ、強制的に立ち止まらされた。
「よー後輩、久しぶりだなぁ。名前忘れちまったけど顔さえ覚えてりゃ問題ねぇな。いやそもそも俺ははなっから覚える気がねぇんだわ。けどテメェはカイの捨て駒だ。つーことは俺の捨て駒でもある。あれ? つーことは飼い犬と同じで名前くらい覚えてやる必要があるのか? なぁどう思う?」
渉は緊張しながら首を横に向け、心矢と目が合うと、とりあえずぎこちなく笑った。
肩口で心矢はニヤニヤと笑いながら、組んでいた腕を下ろす。解放された渉は背後の心矢と向き合う。
心矢は剣道着姿だった。長身でスタイルがいい心矢のその姿は、男から見ても羨ましいほどかっこいい。
「俺は先輩の名前も顔も覚えてますよ。心矢先輩」
「ほーう。自分の方が記憶力あるみたいな言い草だな。喧嘩売ってんのか」
「いやっ、そんなつもりは全くないです!…えぇと、俺の名前ですけど、白坂渉です」
「覚えづれ〜名前だな。捨て駒でいいか」
「いや比較的覚えやすいと思いますけど……あと、捨て駒っていう言い方はやめていただきたいです」
「あ? おっと悪りぃ悪りぃ。よくよく考えたら4文字で無駄に長かったわ。教えてくれて助かったぜ、渉」
いやそんな親切心を込めて言った訳じゃないから感謝されても困るし…てか結局名前呼びにするのか。
渉は声に出すのも面倒くさくなって内心で思うだけに留めた。次いで、心矢から言われた“捨て駒”という言い方にやや不満に思う。渉は心矢に、俺は仲間だと言いたかった。
「あの、心矢せんぱ、」
「つーか名前とかどうでもいいっつの。俺がテメェに声かけたのは甘いもの買って来させる為なんだよ。つーことで渉、今からコンビニ行って何でもいいからスイーツ買ってこい」
「え…っ」
完全なパシリだ。
この時点ですでに渉の頭に“断る”という選択肢はない。ではコンビニに行くか?今から?確か学校の近くにコンビニはなかったはず……。
「あっ、そうだ。これなら今すぐ渡せるんですけど……」
渉は急いでリュックから苺大福を取り出して、それを心矢におずおずと差し出す。
「昼休みに売店で買ったんです。これで良ければ、」
「テメェ…」
俯いた心矢の口から響いたのは、ワントーン落とした低い声。
渉はひぃっと悲鳴を上げて怯えた。
やっぱり、コンビニのちょっと洒落たお高めのスイーツじゃなきゃ駄目だったか–––……と、安い苺大福でどうにかしようとした少し前の自分を呪う。
しかし。
「よく分かってんじゃねーか。俺の今の気分は甘いものにプラスした果物だ。上出来だ」
パッと顔を上げた心矢の表情は明るく、同じように声も明るかった。
心矢は渉の手から苺大福を受け取って、片手の上の苺大福を見つめる。
「えっと…苺大福で大丈夫ですか?」
「ああ。苺大福すげー好き」
心矢は物凄く嬉しそうに笑いながらそう言った。女子が今の心矢を見たら「かわいい」と思わず言ってしまう、そんな笑顔だ。
渉は心底驚いた顔で、心矢のニコニコ笑顔を見つめた。
渉の中での“心矢=怖い”というイメージが薄れていく。
渉の目の前で心矢は苺大福を食べ始めた。渉は、また命令をされる前に早く逃げよう、と考えて口を開く。
「えぇと…。じゃあ俺はこれで、」
「一回だ」
失礼します、と言おうとした渉の言葉を、心矢の一言が遮った。
渉は意味がわからず「へ?」と聞き返す。
心矢は半分減らした食べかけの苺大福を片手に、どこか得意げな顔に軽く笑みを浮かべて言った。
「苺大福一個。つまり一回だ。テメェに何かあった時には一回だけなら俺が助けてやる。つっても、カイの霊符貰ってんなら俺の出番はねぇだろうがな。あ〜、あと有効期間は明後日までだ。何故かって?この苺大福の消費期限が明後日までだからだ」
「明後日って、すぐじゃないですか」
渉は思わず不満を口にしてしまった。慌てて口を塞いだがもう遅い。心矢の眉間に皺が寄るのを見て、怒らせてしまった、と顔が青くなる。
「っだよ、じゃあ四日。四日はどうだ。二倍だぜ? まだ文句を言うか? 百円の苺大福が二百円になるって考えてみたらちょっと買うか迷うだろ。けどその代わりに消費期限が二日延びると知ったら、まぁ二百円でもいっかってならねぇか? ……いやならねぇな。買ったらすぐ食うし。ん? いや待て。さっきから俺は何を言っているんだ?」
「知りませんよ。……あの、とりあえず四日で。四日で宜しくお願いします。ありがとうございます」
自分の発言に、はて?と首を傾げている心矢に、渉はさっさとこの話を完結させる為にお礼を言って、ぺこりと頭を下げた。
おう、と呟いた心矢は気分良さそうにまた笑った。
それを見て渉はホッとする。そしてふと、この状況はチャンスなのでは、と考えた。
心矢と渉がこうして会話を交わすのは今回で二回目だ。まだ二回。つまり二人は全く親しくない、ただの先輩と後輩と言ってもいい。
心矢はそれでいいかもしれないが、渉はそうは思わなかった。今のこの状況をチャンスに変えて心矢と親しくなっておくのは、今後の為にもいいだろうと考えた。
だがしかし上手くいくだろうか。
渉がそう不安に思ってしまうのは仕方ない。
なんせ相手は言わずもがな心矢だ。
心矢の機嫌が悪くならないような話題を考えた渉は、今の心矢の姿を見て、これだ!と閃き口を開く。
「心矢先輩って剣道部なんですね。実は俺、まだ部活するか決めてなくて迷ってるんです。あ、前の学校ではバスケ部だったんですけど、この際違う運動部でもいいかなぁって思ってて、」
「あ? こしあんかつぶあんかどっちにするか迷ってるって?んなもん選べねぇなら両方だ両方。つーか話長えよ」
「いや誰もあんこの話はしてないですよ、てか先輩に話長いとか言われたくないんですけど!?」
思わずツッコミを入れた。目の前の心矢はだるそうな態度で、最後の一口の苺大福を口に放り込む。
「あー美味かった、ご馳走さん。じゃあな」
「え…えっ!? ちょ、待ってください心矢先輩!」
食べ終わったと同時に渉にすっかり興味を無くしたように背を向け、ひらりと手を振った心矢を慌てて止めた。
「あ?」
足を止めて心矢が振り返る。その顔がやや苛立っていた。
ヤバい怒ってる何か言わなきゃ…と、また渉は青ざめた顔になる。その時渉の脳裏に浮かんだのは、心矢との初対面の夜、腹部を血塗れにした彼の姿だった。
「あ、う、えと……け、怪我!お腹の怪我はもう大丈夫なんですか?」
「
「出血大サービスの使い方間違ってますよ……って、え? 腕が貫通したんですか!?」
「おう。カイの霊符の力でこの通り生きてるけどな。霊符がなけりゃその一撃で俺は死んでたんだ。いやしかしあの時の激痛を思い出すともう–––……あ〜〜もうっ! やっぱマジで惜しいことした!あの
心矢は急に頭を両手で掻き乱しながらテンション高く叫んだ。
そんな心矢に困惑する渉は、心矢の言葉の意味を理解して恐怖する。
「心矢先輩は…痛みとか、死ぬことが、怖くないんですか?」
「怖い?ハハハハハハ! 俺が怖えって思うのは死が遠のく平和な日常だ!『残余霊』が居なくなった日常を考えたらマジで怖えよ。俺は生きてられねぇ。だが遅かれ早かれその平和な日常は訪れる。テメェがカイに協力すりゃ尚更だ。そうなったら、俺はとっととこの世からおさらばするぜ。何故かって?『残余霊』と生死をかけて戦った日常の代わりになるような、俺の欲求を満たしてくれるような何かが始まるとは思えねぇからだ。俺は平和な日常で生きるくらいなら、自刃でもなんでもして死んだ方が幸せっつー話だ」
心矢は笑いながら無駄に長い言葉を返した。
すると、目の前の渉が急に泣きたそうに顔面を歪めた。それを見て、心矢は気の抜けた顔になる。
「おいおいおいおい、どうした?俺はテメェに感動を与えるようなことは言ってねぇぞ」
「…っ、感動じゃなくて、悲しいんですよ!」
「悲しい?」
訳がわからない、というように心矢は眉を顰めた。
渉は泣きたそうな顔を俯かせ、声をいつもより重くして言う。
「だって心矢先輩、『残余霊』との戦いが終わったら、死ぬみたいな言い方するじゃないですか。そんなこと聞かされたら悲しみますよ!自殺なんて絶対に駄目です! ……俺はそこまで心矢先輩のことよく知らないけど、でも、心矢先輩が死ぬなんて嫌だし、死んだら悲しい。泣くかもしれない」
「……」
心矢が口を閉じて顔から一切の感情を消した。そんな心矢の無表情を見てしまった渉はガチガチに緊張し、背中に冷や汗を流す。
心矢は目線だけを渉から横へ逸らし、そして低い声で呟く。
「あ〜〜〜〜〜……………………うっぜぇ」
渉は息を呑み、今日一怯えた表情になった。
心矢はゆっくり語るように言う。
「わかんねぇ……ぜんっっぜん、わかんねぇんだわ。他人の死の何がそんなに悲しいのか、何故泣けるのかよぉ」
心矢は不気味に笑いながら渉にゆっくりと詰め寄る。渉は後ずさるが、その場から逃げ出すことも、心矢の紅い瞳から目を逸らすことも出来なかった。
「テメェみたいな連中って多いよな。会ったこともない人間の死を悲しんだり、自分には無関係の事件や事故に怒ったりする。なぁその感情ってマジなんなんだ?感情豊かな人間ならあって当然なのか?」
「…っ……」
「けどよ、テメェらはそうやっていちいち悲しんであげた赤の他人のことなんて、 一ヶ月もすりゃ忘れちまってんだろ。泣いて怒った感情も覚えちゃいねぇだろ?」
「…あ、あの……心矢せんぱ、」
「テメェらの感情は弱いんだよ。一ヶ月、一週間、明日には忘れちまうくらい弱えの。–––……けどな、俺のは違う。俺の“人を殺したい”と“自分自身を傷つけたい”欲求は、ちょっとやそっとじゃ消えてくれねぇんだ」
ちりちりと焼けるような視線。
渉は心の底から恐怖した。
目の前の男は危険だ、これ以上関わるな、と己の防衛本能が叫ぶ。
「………つってな。ハハッ、これでわかっただろ?俺がテメェと馴れ合う気はないってことがよ」
「………ぇ……?」
渉の口からは弱い声しか出なかった。
足を止めた心矢は渉を見下ろしたまま目を細め、ふんと鼻を鳴らす。
「つーことだ。もう呼び止めんなよ。じゃあな」
そう言って軽く笑った心矢は、背を向け道場の方に向かって去って行った。
取り残された渉は放心状態のまま、しばらくその場から動くことが出来なかった……。
***
土曜日 鳥辺野駅 13:00
渉は五分前に駅に到着したが、改札付近にはすでに界斗の姿があった。
「界斗先輩、お待たせしてすみません」
「いや、俺もさっき到着したばかりだ」
目の前で立ち止まった渉を見て、界斗は穏やかに微笑む。界斗と渉が休日にこうして会うのは、お互いの妹たちも入れて四人でパンケーキを食べに行った時以来だ。
二人はそのまま改札を通り、渉の家とは逆方向になる電車に乗った。
そして界斗は目的の“場所”に到着する間に、己が今に至るまでの経緯を、渉に話し始めた––––。
––––––心矢が『箱』の封印を解いてしまった、あの日。
ポカンとしている心矢と、その目の前で驚愕の表情を浮かべている界斗。
上空へと舞い上がった煙がいくつもの黒い玉となって四方八方に飛び散っていくのを、界斗と心矢は呆然と見つめるしかなかった。
そんな二人に襲いかかってきた『残余霊』の
吹き飛ばされた界斗が意識を取り戻したのは、心矢が『残余刀』を使って零鬼を追い払った後だった。
そして界斗は、己の父親の名が彫られた無地の箱を開けた。
中から和綴じのノートを取り出してページをめくってみると、一ページごとに墨で大きく書かれた霊符と、その効力についての説明が丁寧な文字で記入されていた。
様々な図柄や文字を組み合わせた霊符を、ページをパラパラとめくりながら興味深く見つめていた界斗は急に、背後から得体の知れない気配を感じた。
「–––全く、とんでもないことをしてくれたな」
女性の艶めかしい声が響き渡る。それが自身のすぐ背後だと気づいた界斗は慌てて後ろを振り向いた。
大人の女性が、しゃがみ込んでいる界斗を立ったまま見下ろしていた。
その女性の容姿を一言で表すと––––“天女”だ。
上着は淡い桃色、長いスカートは淡い紫色という天女の衣装を身に纏った、美しい女性。
己の身長と同じくらい長い黒髪は絹のように細く、瞳の色は宝石のように美しい紫だ。
女性は目を細め、値踏みするように界斗を見つめた。
「ほう……なるほど。あの兄弟たちの子供か」
「っ……」
「テメェ!」
驚きで固まった界斗の耳に、心矢の怒りの籠った声が聞こえた。
界斗の視界に映る女性の背後から、心矢が刀を手にこちらに向かって走って来る姿が見える。
「“止まれ”」
威圧を交えた女性の声が空気を震わせた。
ぎくっと心矢の足が止まる。
女性は後ろを向いて、己を睨みつけてくる心矢を見ると、口元の笑みを深めた。そして再び界斗に視線を戻すと、小首を傾げ、艶めかしい声で言った。
「さて、子供たち。私と今後についての話をしようか」
そう言われて、困惑する界斗。
構わず女性は話し始めた。
「お前たちは、この山の–––鳥辺山に伝わる『咲夜伝説』を知っているか?」
唐突だった。
界斗は無言で眉根を寄せつつ、小さく頷いて見せる。鳥辺山の『咲夜伝説』を、界斗は幼い頃に祖父に初めて聞かされた記憶がある。
女性は語る。
「その昔、地上に舞い降りた天女は、鳥辺山に住み着き村人を喰らう『
女性がなぜこの伝承を語ったのか、界斗は瞬時に理解した。
「まさか、その天女が…」
「そうだ。私がその天女、
そう言って、咲夜はにっこり笑った。
立ち上がった界斗は何も言わないが、その顔にははっきりと困惑の色が浮かんでいる。
対して、心矢はずっと口を閉じたまま、じっと咲夜を睨みつけている。
「お前たちは、
咲夜は界斗を見て、それから心矢を見る。
「“同じ血の匂い”がするから分かるぞ。名は何というんだ?」
「俺は正一の息子の界斗。……もう一人は浩二の息子の心矢です」
心矢が何も言わないため、界斗が代わりに名前を言った。
いつも無駄にベラベラ喋る心矢が大人しいのは珍しいが、単にこの状況の対応をこちらに丸投げしているだけだろうと、界斗は思う。
「私が正一と浩二に出会ったのは、二人がちょうどお前たちと同じ歳の頃だった」
咲夜は笑みを浮かべた。
「正一と浩二は元気にしているか? 二人とも大人になってからは一度も会いに来てくれなくなってな。少し寂しいぞ」
「いえ……父さんたちは亡くなりました」
「何? 本当か」
界斗は頷き言った。
「お互い結婚した翌年に、二人で出かけた車でのドライブ中に、トンネル内で起こった事故に巻き込まれて亡くなっています。俺たちが生まれる前のことです」
「そうか……」
咲夜は短く呟き、しんみりした顔を伏せた。
咲夜はひとつ息を吐くと、真面目になった顔を上げて言った。
「ここから先の話は表向きに語られている伝承とは違ってくるが、全て真実だ。お前たちの今後に関わる重要な話になる」
そう前置きをして、話し出した。
「お前たちが見つけた小さな『箱』。その『箱』に封印されていたのは、『残魔』が生み出した『残余霊』という化け物だ」
辺りに視線をやりながら物静かな口調で続ける。
「この鳥辺山は昔“葬送地”だった。この山には人間や動物の怨念がそこら中に残っている。『残魔』はその怨念から『残余霊』を生み出し、従わせていた。私は『残魔』を退治する為に山に向かう際、私に協力したいと申し出てくれた四人の若者をお供に連れて行った。彼らは“元宮”という名の兄弟だった」
界斗と心矢は同時に目を見開いた。
「彼らに『残余霊』と戦うことの出来る“霊力”を授ける為に、彼らには私の“血”を飲んでもらった。そして彼らの協力のもと『残魔』を殺し、全ての『残余霊』を『箱』に封印することが出来たのだ」
咲夜は言った。
「その『箱』の封印が解かれることがないように、私はこの森で『箱』を守り続けてきた。……だが、今回を含めて二度も封印が解かれてしまった。一度目の封印が解かれた原因は、この神社に落ちた雷だ。その夜は豪雨だった。本殿に直撃した雷によって火災が発生したが、幸いにも雨によって火は燃え広がることなく鎮火した。だが、祀ってあった『箱』は破損し、封印が解かれた『残余霊』は山の外に逃げてしまった」
咲夜はゆっくりと、界斗と心矢の顔を見ながら話す。
「『残余霊』を再び封印する為に、私の血を分けた元宮の人間をこの山に呼び寄せた。そうしてやって来たのが正一と浩二だ。私の血を体内に取り込んだ兄弟の子孫は皆“霊力”を持っている。正一と浩二。もちろんその息子であるお前たちもだ」
界斗は息を詰めて、心矢は厳しい表情で、咲夜を見つめる。
「私は正一と浩二に『残余霊』を封印する為の協力を得て、正一には“守りの力”の『霊符』を。浩二には“攻撃の力”の『残余刀』を与えた。あの二人は本当に上手くやってくれた。全ての『残余霊』を一年もかからず封印することが出来たからな」
界斗はここまでの話を聞いて、嫌な予感に表情を険しくする。
「……もしかしてその役目を、次は俺たちに負わせようとしていませんか?」
「もちろんだ。この役目はもはや、私の血を分けた元宮の人間の宿命でもある」
宿命、と聞いた界斗はくっと喉を鳴らし、複雑そうな顔をした。咲夜は構わず続ける。
「『残余霊』の数はそう多くはない。一日一体だとしても、一年あれば終わらせられる程の数だ。もちろん、二人のコンビネーションあってのことだがな」
「……」
界斗は下を向くと唇を噛んだ。
「めんっどくせぇな。テメェでぱぱっとどうにかできねぇのかよ」
苛立った乱暴な声を聞いた咲夜は、後ろを振り向いて心矢を見る。
心矢は咲夜を睨み返した。
「私は、今では鳥辺山の守り神だ。だからこの山から外に出ることができない。この山に決して近寄らない『残余霊』を、私自ら封印することが出来ないのなら、私の霊力を持つお前たちを頼らざるを得ない」
「ハッ、不憫だな。だったら協力してくれる人間にテメェの血を飲ませろよ」
「そう易々と人間に血を分けるわけにはいかない。私の血を体内に取り込むということは、“人とは違う生き物”になるということだぞ」
咲夜は淡々と返した。
心矢は不快げな表情を露わにして、チッと舌打ちする。
「そもそも、テメェが駆けつけるのが遅くなったことが原因じゃねぇか。『箱』を守る山の神が聞いて呆れるぜ」
恐れを知らない心矢の口から出た遠慮のない言葉に対して、咲夜は真顔になると沈黙した。その表情からは感情を読み取ることはできない。
二人の会話のやりとりを界斗はほとんど聞いていなかった。眉を潜め、一人考え込む。
『残余霊』の姿を界斗はよく見ないまま気絶してしまったが、心矢は“猿みたいな化け物”だったと言っていた。
空から降ってきた巨体の猿。
想像するだけでかなり恐ろしい化け物だ。
「俺は、協力できません」
界斗は力強く言った。
それを聞いた咲夜はすっと目を細めて界斗を見つめる。
「『残余霊』に立ち向かうには“攻撃の力”と“守りの力”が必要になる。特に“守りの力”を扱える者がいなければ『残余霊』を封印することは不可能だ」
それに、と咲夜は続ける。
「『残余霊』の中に“灯影”という名の男がいるが、こいつは一筋縄ではいかない。手強い相手になるぞ」
「へえ、ゲームでいうラスボスみたいな敵か?」
そう言ったのは心矢だ。
急に楽しそうな心矢を見た咲夜は、小さく頷く。
「『残余霊』に知能はないが、灯影には知能があり、加えて他の『残余霊』を“支配”できる能力を持っている。灯影の『支配能力』は、相手に“名前”を与え、相手が“名前”を受け入れることで“支配”の契約が結ばれるようだ」
界斗の中で不安が張り詰める。そんな敵がいるなら尚更、この役目を背負うことを拒否したい。
「『残余霊』は封印する対象だが、灯影に関してはその必要がない。奴はもはや『残魔』と同等の存在と言ってもいい。殺さなければならない」
「灯影か。そいつ、マジで殺してもいいのか?」
ニヤッと口角を上げて心矢が言った。
「ああ。正一と浩二は灯影を殺せず封印するに留めたが、やはり始末しなければならない。今回のようなことが起こらないようにする為にもな」
「今回のこと?」
呟いた界斗を見返して、咲夜は言った。
「お前たちをこの場所へ導き、『箱』の封印を解かせたのはおそらく灯影だ」
界斗の脳裏に、どこからか聞こえてきた『タスケテクレ、ココカラ出シテクレ…』という声が蘇った。あれは灯影だったのか。
「だったらそいつは俺の獲物だ。俺が殺す」
心矢は楽しそうに笑いながらそう言った。
界斗はぎょっとする。
「…! シン、お前…っ」
「腹ぁくくれよカイ。親父たちに出来たんだ。だったら俺らにも出来んだろ」
「–––…いや、俺はやらない。第一、シン。お前は俺と協力して封印が出来るのか? 先に言っとくが、俺はお前と協力なんて出来ないぞ」
「あ〜確かに。前言撤回。協力は無理だな」
考えて、あっさり頷いた心矢。
「なんだ、お前たちは仲が悪いのか?それは大問題だな……」
咲夜は眉を潜めたが、こちらはこちらで引く気はなく、界斗に拒否権を与えない。
「『残余霊』を封印できる“守りの力”を持てるのは–––……界斗、お前だ。お前の父親、正一がその適任者だったようにな」
界斗は体を固くした。
「お前が持っているそれは霊符書だ。正一が書き残していった……今では形見になるな」
形見、と聞いた界斗はずっと手に持っていた霊符書を見下ろして、ぎゅっと手に力を込める。
すると咲夜が音もなく界斗に近づき、顔を覗き込んできた。
息を呑む界斗。美しい紫の瞳に支配されるような錯覚を覚える。
「界斗。お前なら、正一のように霊符を使いこなせる」
「–––……」
卑怯だ、と界斗は悔しく思う。父親の名前を出されると、頑なだった心が揺らぐ。
「–––この役目はお前の“宿命”だ。受け入れてくれるな?」
咲夜は小声で囁いた。
界斗の中で、言葉にできない複雑な感情がじわりと湧き上がる。
界斗は目を閉じた。
気がつくと、静かに、弱々しく、頷いていた……。
***
界斗と渉は電車を降りて、小さな木造の駅舎に設置された改札を通り外に出る。
目の前には、田舎満載の風景が広がっていた。スーパーもなければコンビニも見当たらない。民家もまばら。土地の大部分を田畑が占めているこの地域に、界斗の父親、正一の実家がある。そこで生まれた界斗は、高一の秋頃まではこの地に住んでいた。
母親の仕事の都合で引っ越しが決まり、母親と二人でこの地を離れてからは、界斗が父親の祖父母に会いに行くのは、お盆や正月といった行事が主で、年に数回程度だ。
母親と祖父母の仲は、幼い頃の界斗から見てもあまり良好とは言えなかった。
母親は育児よりも仕事中心の生活で、界斗は祖父母に面倒を見てもらいながら育った。
祖父母は優しかった。界斗も祖父母に懐き、母親の料理よりも祖母の料理が好きで、母親と遊ぶよりも祖父と遊ぶ方が楽しかった。
母親は、強い疎外感を募らせていたのだろう。
ある夜。二人きりの部屋で、母親は幼い界斗の頬を叩いた後、正面から強く抱きしめ、タガが外れたように大声で泣き出してしまった。
界斗はこの時、母親の孤独と苦しみを知った。申し訳ないことをしたと、気に病んだ。もう母親を苦しめてはいけない。そう誓った。
だから––––
母親が急な引っ越しを決めて、さらに急な再婚の話をしてきた時も、界斗は反対しなかった。
「先輩? 界斗先輩!」
渉の呼び声にハッとした界斗が横を見ると、渉は不思議そうな顔をして言った。
「急にぼーっとして、どうかしたんですか?」
「ああ、いや、なんでもない。行こうか」
界斗は頭から過去の記憶を打ち消して、にこりと笑った。それから二人は田舎道を歩き、やがて山道へと入って行った。
「うわ、凄いなぁ、廃神社って俺初めてだ!」
廃神社の境内に立った渉は、目を輝かせてキョロキョロと辺りを見回した。背後では界斗が小さく笑っている。はしゃぐ子供を見る親のような表情だ。
界斗はここを訪れて思う。山道も廃神社も、まるで時間が止まっているかのように昔から何も変わりがない。
「白坂、こっちだ」
界斗は境内の隅に聳え立つ御神木に近づき、渉を呼んだ。渉はすぐに近寄って来ると、目の前の御神木を見上げる。
「立派な木ですね」
「この辺りの地面の下から、掘り起こしたんだったな」
界斗がすぐ足元の地面を見下ろす。そこは何の変哲もない地面だ。渉も地面を見下ろして、界斗が教えてくれた経緯を思い出しながら口を開く。
「–––…ここで先輩たちは、全ての『残余霊』を封印するという契約を交わしたんですね」
「ああ、そうだ。俺は霊符を。心矢は『残余刀』を武器に、その日からずっと戦い続けている」
界斗は御神木を見上げると、すっと表情を消した。
目を細め、そのまま数秒間何かを思考するようにじっとしていた界斗だが、ふいに渉を見て、その顔に穏やかな笑みを取り戻す。
「白坂。他に何か聞いておきたいことはあるか?」
顔を上げた渉は笑顔を浮かべる。
「いえ、大丈夫です。いろいろと教えてくれて、ありがとうございました」
渉はお礼を言って頭を下げた。
「そうか。じゃあ俺からも、白坂にひとつ訊きたいことがあるんだが。いいか?」
「え?」
頭を上げた渉は、変わらず笑みを浮かべている界斗を見た。
「あ、はい、何でしょうか」
「一昨日の放課後、心矢と二人きりで何を話していたんだ?」
驚いて、困惑する渉。
界斗に見られていたことに全く気づかなかった。
「えと、別に、雑談っていうか、他愛もない話をしただけですよ」
「……」
渉はぎこちない口調でそう言った。
界斗は数秒間黙ったまま渉をじっと見つめると、困った顔をして言った。
「そうか。あいつが白坂に絡んで嫌がらせをしていたんじゃないかと思っていたが、余計な心配だったな、すまない」
「いえ……」
渉は苦笑する。
パシられそうになったことは伏せておこうと思うと同時に、渉はふと思い出した。
それは、心矢との会話の中で生まれた悩みであり、界斗に相談しようか迷っていたことだ。だが界斗に相談すれば、彼の機嫌はたちまち悪くなるだろう。だが渉がこの悩みを相談できる相手は、界斗しかいなかった。
渉は、勇気を振り絞って口を開く。
「あの…、界斗先輩」
「ん、何だ?」
「その……心矢先輩のことで、少し相談したいことがあるんです」
渉の予想通り、界斗から笑みが消えた。
予想していたとはいえ、界斗を不機嫌にさせてしまった不安は大きい。だがもう、後戻りはできない。
「心矢先輩が言ったんです。『残余霊』がいなくなった平和な日常で生きるくらいなら、死んだ方が幸せだって……。俺は、冗談だと思いたいけど、心矢先輩が、本気で自殺を考えていたらどうしようって、怖くて……」
「そうか。まぁ、本気だろうな」
界斗は投げやり感のある口調で言った。そんな界斗に、渉はつい感情的になってしまう。
「だったら止めないと! 俺が何言ったって心矢先輩の気持ちを変えることは出来ないかもしれない……けど、界斗先輩の言葉ならきっと、心矢先輩の気持ちを変えられると思うんです。だから、」
「何故?」
「え?」
冷たい目をした界斗は、何食わぬ顔で言った。
「死にたい奴は、死なせておけばいい」
「……!」
渉の顔が強ばり、唇が震える。
「界斗先輩は本気で……本気で、心矢先輩が死んでもいいって、思っているんですか?」
「ああ」
即答だった。
渉の表情が凍りつく。
「死にたいと言っている連中は、本音では助けてほしいと救いを求めている。だが心矢は違う。あいつは助けてほしいとは微塵も思っていない。本気で死にたいと思ってるあいつを、助けようとする方が間違っている」
「そんな…」
渉はショックを受けた。
俺が……俺が、間違っているのか…?
そんな渉を見た界斗は小さくため息をついて、少し和らいだ表情に微かな笑みを浮かべる。
「白坂、お前は優しいな。けど、心矢のことで白坂が悩む必要はない。それと、あいつにはなるべく関わるな。話してみて分かっただろ?あいつは危険だ」
「……界斗先輩」
渉は、苦しそうに声を出す。
「界斗先輩が心矢先輩のことを嫌う理由って、性格が合わない以外にもあるんじゃないんですか?」
「……」
渉が発した言葉によって、界斗の表情が僅かに崩れた。それに気づいた渉は、あるんだ、と確信する。
その時。
「––––教えてやれよカイ。ガキん頃、俺がテメェを本気で殺そうとしたから、嫌いなんだってよ」
二人きりだった境内に、突然声が響いた。
界斗と渉は、崩壊した鳥居がある方向を同時に見た。そこに、竹刀袋を背負った心矢の姿があった。彼は不敵な笑みを浮かべて、両手をズボンのポケットに入れたままゆっくりと近づいて来る。
「……シン。何しに来た」
界斗は心矢を睨みつけると、低い声で言った。
心矢はニヤニヤした笑みを浮かべる。
「カイ。テメェは力を手に入れてから俺を恐れなくなった。けどよ、力があってもなくてもテメェは俺より弱い。“守る者”がいる時点で、テメェは俺には勝てねぇんだよ」
心矢はそう言いながら、ちらっとだけ渉の方を見た。目が合った渉は、得体の知れない恐怖を感じて顔が強張る。
「テメェの年下の彼女とそこの後輩が、テメェの弱点だ」
「…彼女じゃない。愛美は妹だ」
「おっと、そうだったそうだった。おいおいちょっと間違えただけだろ、そんな怒るなよ、お兄チャン」
心矢は界斗を挑発した。
界斗は鋭い目つきになり、強く心矢を睨みつける。
「お前は早く死んだ方が世の為だな」
「テメェの望み通りそのうちに死ぬけどよ。その前に、“人を殺したい”この欲求だけはどーしても満たしておきてぇんだよなぁ」
「だったらさっさと灯影を殺して死ね」
「もちろん灯影の野朗は俺が殺す。奴は俺に最高の痛みを与えてくれるありがたい存在だ。同時に、俺の“人を殺したい”欲求も満たしてくれるんだぜ」
心矢はケラケラ笑いながら両手を広げた。
「けどよ、俺にはもう一人殺したい奴がいるんだよ。俺が初めて殺そうとして殺し損ねた獲物がまだ生きてやがる。なぁ、その獲物が誰だか分かるか?」
真っ直ぐに界斗を見つめる心矢の紅い瞳は、どす黒い感情で濁っていた。心矢は背中の竹刀袋から『残余刀』を取り出す。
「カイ。俺は今テメェを殺したくて……殺したくて殺したくて殺したくて、仕方ねぇんだ……」
誰が見ても、今の心矢は異常だった。それを決定づけるように、心矢が鞘から刀を抜く。
「…! 白坂、俺から離れろ」
「えっ…?」
「早く行け!」
界斗に強く背中を押された渉は、戸惑いながらも界斗から離れる為に走り出した。
「アハハハハ! 此処がテメェの墓場になるかもしれねぇな! ハハハハハ!」
心矢の狂った笑い声が、鼓膜を震わす。
心矢が『残余刀』を手にして突っ込んで来る。
界斗はいつも身につけている前掛けのボディバッグに素早く手を入れて、護身除難の霊符の中から、危険から身を守る効力がある霊符を取り出した。
心矢は目の前の界斗に斬りかかる。刃先が界斗に触れる直前に効力を発揮した霊符の力により、心矢の体が後ろへ吹き飛んだ。
そうなることは分かっていた。
心矢は、地面に叩きつけられるのを回避するべく、受け身をとって軽く地面を転がり、すぐさま体勢を整えた。
心矢は歯を見せにやりと笑いながら、界斗を睨みつける。
「簡単に殺せねぇ獲物の方が、殺した後の快感も倍になるっつーわけだ。嫌いじゃねぇ、むしろ大歓迎だ!」
叫び、地面を蹴った。
二人が戦う様子を離れた場所から見ていることしか出来ない渉は、青ざめた顔で震えていた。
「なんで……なんで、こんなことになってるんだよ…」
二人は仲間だ。なのに、どうして、こんなことに。
–––止めないと。
そう思っても、力を持たない渉には何もできない。
「カイ、テメェも本気で来いよ! 本気で俺を殺しに来い!」
「黙れ!」
「ハハハハハハ! テメェの体力が尽きるのが先か、俺の体力が尽きるのが先か。そこで互いの生死が決まるってわけだ!」
心矢は上機嫌に叫んだ。
「まずはその顔に傷をつけてやるよッ!」
心矢は、霊符を構える界斗に真っ直ぐ向かって行く。
「–––なんつって」
急ブレーキをかけて止まった心矢は、真横に向かって刀を思いっきり投げた。
刀は回転しながら真っ直ぐ飛ぶ。
想定外の心矢の行動に驚いた界斗が、刀が飛んで行く方向に視線を向けると、その先には–––渉がいた。
「くっ…!」
声を噛み殺した界斗は、手にしていた霊符を渉に向かって飛ばした。
渉は、飛んで来る刀を避けることもできず、腕で顔を庇いながら目を閉じる。
目前まで迫ってきた刀を、効力を発揮した霊符がバチンッ!と音を響かせて弾き飛ばした。刀は渉から離れた地面に突き刺さる。
この時、心矢の狙い通りに界斗に隙ができた。心矢はすかさず界斗の顔面に向かって拳を突き出す。
咄嗟に反応した界斗は顔の横ギリギリで拳をかわし、そのままその腕を掴んで心矢を投げ飛ばそうとしたが–––––
「––––––ッッ!」
腹部に激痛が走った。
強い痛みに体が硬直する。すぐ目の前で心矢が目元を細め、してやったりと笑った。
界斗は体を動かせぬまま己の腹部に視線を落とす。心矢が握りしめた折りたたみのナイフが深々と突き刺さっていた。
「……っ、は……」
空気を吐き出すように界斗は弱い呻き声を漏らした。
心矢はナイフを動かさず持ったままもう片方の腕を界斗の背に回し、力ないその体をぐっと引き寄せると、界斗の耳許に唇を寄せて吹き込むように囁いた。
「ほらな。弱点がある限りテメェは俺には勝てねぇんだよ」
「…ッ……」
界斗はギリッと歯を食いしばった。
心矢は喉奥でくくっと笑い、腕の中にある界斗の体を容赦なく突き飛ばす。
地面に倒れ込んだ界斗は、背中を丸めて腹部の傷口を押さえた。指の隙間から生暖かい血が流れていくのが分かる。
渉は突っ立ったまま、一連の出来事を真っ青な顔をして見ていた。界斗が地面に倒れ込んだ瞬間、渉は金縛りが解けたかのようにハッとした。
心矢は血に濡れたナイフを握ったまま、その顔に凶悪な笑みを浮かべている。動かない界斗を見下ろしたまま、心矢がナイフを握る腕をゆっくりと頭の上まで持ち上げるのを見た渉は–––––
「やっ……やめろ!!」
咄嗟に叫んで走った。
界斗を庇うように心矢の前に立ちはだかった渉は、両手を広げてもう一度叫ぶ。
「もうやめて下さい! 心矢先輩!」
「…おい、邪魔すんな。退けよ」
「い、嫌です、退きません!」
どうしよう、どうしようどうしよう! なんとかして心矢先輩を止めないと!!
その時、渉は閃いた。
「い、苺大福!」
「…………苺大福?」
心矢は眉を寄せた。少し困惑している様子だ。
「そうです、苺大福ですよ、心矢先輩!」
「–––……おおっ、そうか、苺大福か!」
心矢の顔がパッと明るい笑顔になった。よかった気づいてくれた!と、嬉しくなって渉も笑顔になる。
二人が話している間に、界斗は霊符で傷を治し、両膝は地面についたまま体を起こすと、苺大福で何故か通じ合って笑顔になっている二人を見上げて『なんだこいつら…』と変なものを見るような目をした。
「で。苺大福がなんだっつーんだよ」
心矢の顔から笑顔が消えた。全く気づいていなかったようだ。
「いや、だからその、一回だけなら俺を助けてくれるって言ったじゃないですか。だからあの1回を今ここで使いますって事ですよ」
「あ? つっても今テメェを助ける必要なんてどこにも、」
「あります!俺は今すごく助けてほしいです! 二人の争いを止めたくても止められないから凄く困ってて……だから、心矢先輩に助けてもらいたいんです!」
渉は必死な思いで力強く叫んだ。
心矢は、気の抜けた表情で渉の顔を見つめる。渉は泣きたそうな目をして、今度は落ち着いた声で心矢に言った。
「お願いです。もうこれ以上、界斗先輩を傷つけるのはやめて下さい」
「……」
心矢は黙って渉を睨みつける。
渉はぞっとするほど怖い心矢の顔から、目を逸らさないようにするのに必死だった。
「……ハァ〜〜〜ったく、しょうがねぇな。助けるっつー約束だったしな、惜しいがやめてやるよ。まぁ一発ブッ刺せたから、なんだかんだでスッキリしたわ」
心矢はがしがしと片手で頭を掻き乱しながらそう言って、折りたたみナイフをジャケットのポケットに仕舞った。
よ、よかったぁぁ……。
渉の体から一気に力が抜けた。
その後ろで界斗が立ち上がり、心矢を怒りに満ちた目で睨みつけて文句を言う。
「くそ、服が血塗れだ…。弁償しろよ、シン」
「お、血も滴るいい男になったじゃねーか。黒い服だからぜんぜん目立ってねぇよ、安心しろ」
「黙れ消えろ」
「お〜怖。で、どうよ。ブッ刺されたご感想は。スゲェ興奮しねぇか? テメェもスッキリしただろ」
「ふざけるな。俺はドMのお前と違って痛いのは御免だ」
怒りのまま睨みつける界斗と、面白そうにニヤニヤして睨みつける心矢。
バチバチと睨み合う二人の視線から逃れるように、渉はやや背を低くして後ずさった。
二人の間から抜け出た渉は、目の前で再び殺気立つ二人にハラハラする。
「お、いっけねぇ」
が、先に目を逸らしたのは意外にも心矢だった。心矢は境内に視線をキョロキョロさせる。
そして遠くの地面に突き刺さっている『残余刀』を見つけ、それに向かって腕を伸ばし軽く手招きをすると『残余刀』が宙に浮かび上がり心矢に向かって飛んで来た。
心矢は右手で柄を掴むと『残余刀』を鞘に納め、そのまま肩に担いだ。
まるで手品を見たような気分になっていた渉は、思い出したようにハッとして界斗を見た。
急に渉と目が合った界斗は、驚いた顔に戸惑いの色を浮かべる。
「界斗先輩っ、怪我は大丈夫なんですか?」
「あ、……あぁ、心配いらない。霊符で治療済みだ」
「そうですか、よかったぁ」
渉はほっと胸をなでおろした。
緊張が緩んだふにゃっとした顔の渉に、界斗は困った笑みを向ける。
「白坂。シンを止めてくれてありがとう。俺はお前に…その……」
「?」
お礼を言ってから、なぜか気まずそうに渉から目を逸らす界斗に、渉は不思議そうな顔をする。
「……さっきは、ひどい態度をとった。すまなかった」
「え?ひどい態度って……、あ」
何のことだろう?と思った渉はすぐに気づいた。渉が心矢のことを相談した時の冷たい態度のことを、界斗は謝っているのだろう。
渉は笑顔を浮かべる。
「大丈夫です、俺はぜんぜん気にしていませんから」
「–––……そう、か…」
「それと、俺も礼を言わせて下さい。さっきは守ってくれてありがとうございました」
渉の笑顔を見た界斗はほっとして、ぎこちないながらも笑みを浮かべた。
そんな二人の会話を面白そうに聞いていた心矢は、刀で自身の肩をとんとんと叩きながら言う。
「おいおい、なーにつまらねぇガキみたいな仲直りの仕方してんだよ。男なら一発殴ってチャラにしろや」
「黙れ、シン」
界斗にギロッと睨まれても、心矢はどこ吹く風だ。心矢が何か言うだけで、一瞬にして界斗の機嫌は悪くなる。
そんな二人を見ていて、渉は思う。
……心矢先輩は子供の頃に、界斗先輩を本気で殺そうとしたことがある。だから界斗先輩は心矢先輩のことが嫌いなんだ。…いや、嫌いという感情だけじゃない。
界斗先輩はやっぱり本気で、心矢先輩が死んでもいいと思ってるんだ……。
渉は己の心が重く沈むのを感じた。
「それで。どうしてお前が此処にいるんだ、シン」
「そりゃあ、アレだよアレ。アレに呼び出しくらったんだよ。じゃなきゃ、俺がわざわざ自分からこんな薄気味悪いだけの娯楽も何もねぇ場所に来るか? 分かるだろカイ」
「……あの人か。俺が事前にここに来ることを知らせていたから、わざとシンを呼んだんだな」
界斗は理解し眉を顰めてそう言った。
あの人とは、咲夜のことだ。
咲夜に直接会うにはこの山に足を運ぶ必要があるが、声だけのやりとりなら『封印空間』で行える。界斗は事前に『封印空間』を通じて咲夜に渉を連れて行くことを伝えていたが、それを聞いた咲夜は、何かの目的の為に心矢を同じ日に呼び出していたようだ。
「あの、界斗先輩。あの人って誰のことですか?」
渉がそう界斗に訊いた–––刹那、渉は背後に誰かの気配を感じた。
「–––私のことだよ」
「……!」
女性の声だった。
耳に直接吹き込まれるように囁かれ、渉の肩が大袈裟に跳ねる。
渉は慌てて振り返り、目を見開いた。背後に立っていたのは、淡い天女の衣装を纏う、長い黒髪と紫の瞳の美しい女性だった。
「はじめまして、私の名は咲夜。“姫様”と呼んでくれ」
にっこりと笑う咲夜に、渉は見惚れた。
「は、はじめまして姫様。俺は白坂渉です。界斗先輩から、貴女についていろいろ話は聞かせてもらっています」
「ふぅむ、良いな。若くてかわいい男の仲間入りは大歓迎だ」
咲夜は声を弾ませ、必要以上に渉に顔を寄せた。緊張した渉は体を固くする。
「かわっ…」
かわいい、と言われて渉は思わず頬を赤らめた。嫌とか恥ずかしいとはまた違った妙な気分になる。
一方、渉の背後に立つ界斗と心矢は、心中で同じことを思っていた。完全に遊ばれているな、と。
「姫様、そのくらいにして下さい」
すぐ目の前の美女に頭がくらくらしてきた渉を救ってくれたのは界斗だった。
咲夜はようやく渉から目を逸らし、渉の背後に立つ界斗を見て笑みを浮かべる。
「界斗。お前と心矢の喧嘩を見ていたぞ。派手にやられたな」
「…、…」
ぐ、と何かを堪えるように界斗は唇を引き結んだ。
すると心矢がもう限界だと言わんばかりの苛立った声を上げる。
「おい姫。長え立ち話してんじゃねぇよ。面白い話ならまだしもクッソつまんねぇ話で欠伸が止まんねーわ」
咲夜はやれやれとして心矢を見る。
「久しぶりだな、心矢。全く…お前は相変わらずだ」
「うるせぇよ。で、俺をこんなクソ寂れた場所に呼び出した理由はなんだ」
咲夜は渉から離れて界斗と心矢の前に音もなく立った。
渉は口を閉じ少し緊張した面持ちで、咲夜の後ろから様子を見守る。
「もちろん、直接お前たちの顔を見て“説教”をする為だ」
二人は同時に「えっ」と声に出して驚いた。
すぐさま心矢が文句を言う。
「おいおいおいおい、ざっけんな。何の説教だよ。ンな説教されるようなことした覚えはねぇぞ」
「界斗を殺そうとしておいて何をほざく、」
「おっとストップ! 姫。これに関しての説教は無しだ。何故かって言やぁ説教するだけ無駄だからだよ。天地がひっくり返ってもコイツの殺しはやめねぇ」
「…指をさすな、シン」
界斗は横目で、心矢の指先から心矢の顔を睨みつけるが、心矢は界斗に挑発的な笑みを返す。
睨み合う二人に咲夜はため息をついた。だがすぐに怒った顔をして腕を組むと、二人に鋭い視線を投げかける。
「界斗、心矢。灯影の始末に相変わらず梃子摺っているようだな」
「「……」」
無言のまま、二人は同時に顔を顰めた。
「早く始末しなければ灯影はますます力をつけ、その分犠牲者が増えることになるぞ。そろそろ、二人力を合わせて戦おうとは思わないか?」
界斗は何も言わず、曇った顔を静かに伏せた。
「何言ってやがる。力は合わせてんだろ」
そう言ったのは心矢だ。
彼は咲夜を見て、口元に浮かべた笑みを歪ませる。
「俺はカイの霊符の力を借りて奴と殺り合ってんだ。それで十分だろ」
「私が言いたいのは、界斗と力を合わせて戦えということだ」
「加勢は必要ねぇな。邪魔になるだけだ」
心矢は苛立ったように顔を背けた。
咲夜はやれやれと小さくため息をつく。
「界斗、お前はどうなんだ?」
咲夜は界斗に問う。
界斗は咲夜と視線を合わせると、淡々とした表情で言った。
「シンが必要ないと言うのなら、俺自らが歩み寄ることはしません」
咲夜は少しの間、口を閉じて沈黙した。咲夜の後ろで渉は不安な顔をしている。
「–––…そうか。これに関しては、私が命令しても良い結果にはならないだろうな」
しょうがない、という一言でこの話を終わらせた咲夜は急に足を踏み出して界斗に近づくと、両手を上げて界斗の頬を挟み込む。
驚いた界斗の目を見つめた咲夜は、耳許に唇を寄せて小声で囁いた。
「界斗。お前が決めたことに私は何も反対はしない。だが、渉をただ利用するだけの駒にはするな。渉の命はお前が守りなさい。どんなことが起こっても、彼を傷つけ、死なせてはならない。約束しなさい」
再び真正面から界斗を見つめ、咲夜は嫣然と微笑む。
「–––…はい、約束します」
界斗は咲夜を見つめ返すと微かな笑みと共に頷いた。
そんな二人の密かな会話を心矢は聞いていたが、特に興味もなければ彼にとってはどうでもいいことだった。何も知らない渉だけが困惑をその顔に浮かべている。
咲夜は界斗の頬からそっと両手を下ろした。そして二人に向かって、どこか愛おしむような眼差しを送り笑みを浮かべる。
「説教とは言ったが、単に私がお前たちの顔を見たかったというのが正直なところだ」
界斗と心矢は、それぞれが怒りとも呆れとも言える微妙な表情を浮かべた。
最後に咲夜は後ろを振り返って、穏やかな笑みを渉に向ける。
「会えて嬉しかったぞ、渉。そして協力に感謝する。これから宜しく頼むな」
「あっ、はい! こちらこそ宜しくお願いします。先輩たちの力になれるように頑張ります」
渉は、誰もが好感を持てる明るい笑顔を浮かべた。
そんな渉の持ち前の明るさと素直さを、咲夜は大いに気に入った。もしかしたらこの少年が界斗と心矢を変えてくれるかもしれない–––そんな淡い期待を抱く。
「では、またな」
三人に向かってにっこりと微笑んだ咲夜は、一瞬にして姿を消した。
「帰ろうか、白坂」
界斗は渉に笑みを浮かべて言った。
渉も界斗に笑みを返して「はい」と頷く。
「あ〜腹減った。甘いもの食いてぇな〜」
心矢が先に半壊した鳥居の先にある山道へと歩を進め、その後ろに界斗と渉が続く。
無事に山から出た三人に、突然道の先から声がかかった。
「–––界斗に、心矢か?」
二人が同時に声が聞こえた先を見ると、一人の老人が軽く手を上げゆっくりと歩いて来る姿が見えた。
界斗は隣にいる渉に「父方の祖父だ」と教えた。祖父は皺がある顔を嬉しそうにして、三人の目の前で立ち止まる。
「おじいさん、お久しぶりです」
界斗は穏やかな笑みを浮かべて祖父に挨拶をした。どこか他人行儀だ。
「久しぶりだな、界斗。友達と遊びに来たのか?珍しいこともあるものだ」
渉に視線を合わせて、祖父は穏やかに「こんにちは」と言った。渉は笑みを浮かべる。
「こんにちは。先輩達と同じ高校に通っています。白坂渉です」
「よお、じいさん。見ない間になんか一気に老けたなぁ」
渉が言い終わるとすぐ、心矢が失礼な言葉を祖父に投げかけた。
祖父はそれを気にする様子もなく、心矢に親しみを込めた笑みを向ける。
「そりゃあ老けるさ。会うのは何年ぶりかな、心矢。正月にも顔を見せに来ないとは、薄情な孫だ」
「行事にはこれっぽっちも興味ねぇからな。顔を見たいならビデオ通話で十分だろ。つっても俺は付き合わねぇけど」
祖父はやれやれと小さく首を振る。
「直接顔を見ることに意味があるんだぞ、心矢」
「ったくよー。あんたも姫もめんどくせぇな。そんなに顔を見てぇなら、見たい奴が会いに来いっつの」
「…姫?」
穏やかに笑っていた祖父の顔が、急に驚きを露わにした。
すぐ真横の森を見て、再び視線を戻して口を開く。
「姫……それは咲夜のことか?お前たちはあのお方に会ったのか?」
三人は驚いた。
界斗が訊く。
「おじいさんも、咲夜に会ったことがあるんですか?」
「ああ–––…とうの昔だ。だが、そうか…。私は姿をもう見ることは出来ないが、あのお方は今もこの山に……」
祖父はすぐ真横に鎮座する森の奥を、遠い目をして見つめながら話す。
「私が小学生の頃、友達と探検に入った鳥辺山で一人はぐれて、迷子になったことがあった。そんな私を、天女の姿をした美しい女性が助けてくれたんだ。女性は私を森の外へ導いてくださった。森から外に出られた私は、お礼を言おうと振り返ったが、そこには誰もいなかった…。女性の姿を見ることができたのはその一度だけだ」
祖父は山全体を見るように振り仰ぐ。
「私が見た女性は、鳥辺山の『咲夜伝説』に出てくる天女だったんだろう。この山にある神社に祀られていた『箱』を、御守りしていたお方だ」
祖父はゆっくり目を閉じ、再び語る。
「数十年前…雷によって神社は火災にあい、祀ってあった『箱』も破損してしまった。その後、元宮家の数名と宮司で集まり、『箱』を別の神社へ祀る儀式を執り行った。私も元宮の代表として参加をし、その時に『箱』をこの目で拝むことができた。まぁ、なんて事はない、黒く焦げてしまった、四角い小さな『箱』だったよ」
祖父は語り終え、やや俯くと、話疲れたように息を吐いた。
そんな祖父に、界斗は静かに問いかける。
「–––…おじいさん。父さんたちから、その『箱』について何か聞いていませんか?」
祖父は不思議そうに界斗を見た。
「正一と浩二からか? いいや、何も聞いてはいない。私は、この件に関して息子たちに何も語らなかったからな」
「…そうですか」
界斗は思った。
祖父は知らない。父親たちが咲夜に会い、そして『箱』に『残余霊』を封印するという大役を果たしたことを。
父親たちは、誰にも語らないままこの世を去ったのかもしれない。
もし–––…
もし父さんが生きていたら。
父さんは、俺に語ってくれただろうか…
「長話をしてしまったな。どうだ、これからうちに寄って、茶でも飲んでいかないか?」
祖父が柔らかな笑みを浮かべて言った。
界斗は祖父の顔を見返して、小さく笑みを浮かべる。
「いえ…。俺たちはもう帰ります」
「そうか…。久しぶりに顔が見れてよかった。今度は家に遊びに来なさい。お友達も連れてな。ばあさんも喜ぶ」
祖父は最後ににこりと笑って、ゆっくりした足取りで去って行く。その弱々しい小さな背を、三人は静かに見送った。
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