第一夜『残余霊』

***


 鳥辺野とりべの市は、これといった歴史も特徴もないが、鳥辺野駅の周辺には大型商業施設や娯楽施設、飲食店が集積しているため、若者も遊ぶ場所には困らない。治安ともに住みやすい市としても人気を集めている。

 そんな市に、家族四人で引っ越してきた白坂渉しらさかわたるは、今年の春から鳥辺野高校に通う二年生だ。


 春休みが終わり、新学期が始まって早くも五日が経過していた。

 金曜日の放課後。

 渉は学校を出たその足で、鳥辺野駅前でバスに乗り、この市で一番大きな総合病院へと向かった。

 病院のすぐ真横に位置する停留所でバスを降りた渉は、目的地である病室まで迷いなく進んで行く。

 病室の前で一度足を止めて、軽くノックをした。中から若い少女の「はーい」という声が響いた。


「鈴華、入るよ」


 渉はドアを開けた。

 個室の窓際のベッドの上で、上体を起こし教科書を開いていた少女が、ぱっとこっちを向いて嬉しそうな笑顔を見せる。


「学業お疲れ様、お兄ちゃん」


「あぁ。お前も勉強お疲れ様。母さん来てたか?」


「うん。午前中に来てくれたよ。明日は朝イチでお父さんと一緒に来てくれるから。お兄ちゃんも来てくれるんでしょ?」


「もちろん。明日はいよいよ手術だからな。家族みんなで、ここで待ってるよ」


 渉がベッドの脇に置いてあった椅子を引き寄せて座る間に、中学三年生の妹–––白坂鈴華しらさかすずかは教科書とノートをベッド脇の棚の引き出しに片付けた。

 鈴華は、今日進んだ授業の範囲を担任に聞いて、毎日一人で勉強をしている。

 鈴華に肺の病気が見つかったのは一年前だ。

 肺を移植するための手術を受けるために、肺の提供を待つしかなかったが、幸いにもすぐに提供者は見つかった。

 その移植手術を、明日に控えている。


「いよいよ手術かぁ。…はー、やっぱり緊張するなぁ」


 目を閉じた鈴華は胸元に手のひらを当て、息を吐く。そのままそっと目を開け視線を落とし、ややしんみりした静かな声で言った。


「手術して早く良くなって、新しい学校に通えるようになりたいな…」


 渉はそんな鈴華を見つめ、笑みを絶やさずに言った。


「新しい町もなかなかいいところだぞ。駅周りは栄えてるしな。鈴華が好きそうなお洒落なカフェもいくつか見つけておいた」


「ほんと? わ〜楽しみ! 退院したら、お兄ちゃん一緒に行こうよ」


 鈴華はぱっと顔を上げて、嬉しそうに渉を見つめる。


「いいけど、新しい友達と一緒に行った方がもっと楽しめるだろ」


「うん、そうだね…。新しい友達もたくさんできるといいな」


 鈴華はやや不安そうな表情を見せたが、次には無邪気な子供のような笑顔を浮かべた。



***


 妹と他愛無い話をして過ごし、病院を出た時には外はすっかり暗くなっていた。

 渉は駅に戻るバスに乗った。利用者はお年寄りが目立つ。渉は中央の二人掛け席の奥に座り、通学用のリュックを膝の上に抱えた。

 バスが動き出す。まだ新鮮に感じる窓の外をぼんやりと見つめていた時、ふと思い出して小さく「あ」と声を漏らした。


 今朝はいつもより早起きをして、毎日の日課にしている近所周辺のランニングに出た渉は、まだ走ったことがない場所まで行ってみることにした。

 その途中に現れた神社の鳥居を目にした渉は、急な石段の先を見上げた。

「いいトレーニングになるな」と嬉しく思った渉は一気に登り切った。

 登り切ってそのまま境内の奥に進み本殿に向かう。財布から小銭を取り出して賽銭箱に投げ入れ、二拝二拍手一拝の流れを行った。

 顔を上げた渉はスッキリした表情で、「さぁランニングの続きだ」と踵を返す。すると作務衣を着た四十代くらいの男性が、竹箒を手に社務所から出て来た姿が見えた。


「おはようございます」と渉が元気よく挨拶すると、男性も穏やかな笑みを浮かべて挨拶を返してくれた。少しだけ立ち話をすると、この神社には病気平癒の御利益があることを知った。

 病気平癒のお守りも売っていると聞いた渉は、迷わず購入をした。

 淡い桃色が可愛らしい見た目のお守りは、鈴華にきっと喜ばれるだろう。


 そのお守りを鈴華に渡すことをすっかり忘れていた。

 まぁ明日手術前に渡せばいいか。そう思いながら一応リュックの中を確認する。


「あ、あれっ?」


 お守りが入っている白い紙袋が見当たらない。

 しばらく中をガサゴソと漁った渉は、本日二度目の「あ」を声に出した。

 教室の机の中だ。

 なぜ机の中に入れたのかその時の自分の行動が謎だが、リュックに戻すのを忘れて置いてきてしまったのは確かだ。

 あ〜やっちまった、と内心でため息を吐き、スマートフォンで時刻を確認する。

 十九時前。閉門時間は確か十九時半。明日は土曜日で学校は開いてはいるが、できれば両親と一緒に真っ直ぐ病院に向かいたい。駅前でバスを降りてダッシュで学校に行けば、なんとか間に合うかもしれない。


「よし、戻るか」



***


 そうして再び学校に戻って来た時には、十九時半を十五分ほど過ぎてしまっていた。

 まだ先生が残っていることを祈りながら正門と裏門を確認するが、どちらもしっかり閉じられてしまっていて、グラウンドにも人の気配は全くなく、校舎は明かり一つ確認できない。


「はぁ〜…マジか。せっかく戻って来たのにな…」


 裏門の前で夜の校舎を見上げ途方に暮れる。

 前の学校でも一度、忘れ物を取りに学校に忍び込んだことはあった。あの時は確か一階の廊下の窓から中に入ることができた。

 たまたまクレセント錠が中途半端に引っ掛けられていた窓があり、揺すってみると外れたのだ。

 その時のたまたまが今回も起こることを祈り、同時に学校側へは謝罪をして、渉は門をよじ登った。

 そして一階の窓を一つ一つ確認して行く。

 ここは駄目だ。

 ここも駄目。

 ここは……

 あった。中途半端に錠が引っ掛けられている窓が。

 揺すってみると簡単に外れた。窓を開けて廊下に降り立ち、きちんと窓は閉め直す。

 月の光で薄明かりに照らされた廊下を進み、二階にある教室に向かった。

 薄暗い教室の中に足を踏み入れて机に向かい、物入れの中を覗き込む。


「あった」


 中からお守りが入った袋を取り出した渉は、安堵の笑みを浮かべた。

 お守りを大事にブレザーのポケットに仕舞い、さぁ帰ろうと背筋を伸ばした、その時。


 ……コツ、


 廊下から聞こえてきた音。ヒールが鳴るような音だ。

 やばい、先生だ……。

 渉はしゃがみ込んで息をひそめ、閉め切った廊下側の腰窓をじっと見つめた。音は教室の後方の廊下から歩いて来ている。

 このまま先生が教室の前を通り過ぎるのを待つしかない。


「………」


 コツ、コツ、という硬い音と気配は後方の出入口まで来た。そのままゆっくりと前進して行くが…


「……?」


 渉は違和感を感じた。

 腰窓に上半身の影が映らない。しかし音は確実に目の前の廊下を横切っている。

 違和感が拭えないまま音を耳と目で追っていると、やがて音は教室の前方の出入口まで移動して来た。

 そこは先ほど自身が入って来た時に開けたままにしていた。

 踏み出した片足が見えた。赤いパンプスだ。床に突いたヒールからコツ、とあの音が鳴る。

 ひらりと、これまた赤いワンピースが揺れた。

 丈の長いワンピースから覗く女の細い足首は、死人のように青白く–––


「……!?」


 女の上半身は、なかった。

 スッパリと真っ直ぐに切断されたかのように、綺麗にない。

 下半身だけが……動いている。


「ひっ……」


 引き攣った短い悲鳴が喉の奥で上がった。空いたドアの前でピタ、と下半身が止まる。

 気づかれた……!

 下半身が教室の中に入って来た。

 慌てた渉は周辺の机を乱しながら、後方の出入口から廊下に出る。


 ドサッ


 何かが上から落ちてきて、首から背中にかけて覆いかぶさった。

 衝撃とずしりとした重さによろけながらも、なんとか両足を踏ん張った。そして自身の胸元を見下ろす。

 細長く青白い両腕がだらりとぶら下がっている。しっとりと濡れた長い黒髪がブレザーにはりついていた。

 渉は機械のように、ぎこちなく首を捻った。

 肩口に乗るように顔がある。

 前髪の隙間から覗く女の目と間近で視線が合った。

 耳まで避けた口元がニタァと笑い、次の瞬間、獲物を丸呑みするワニのようにがばっと開いた。


「うわああああああああああ!!」


 渉はようやく悲鳴を上げた。

 がむしゃらに暴れると女が離れた。やった、と思って後ろを向く。

 すぐ目の前に上半身だけの女がいた。固まった渉に両手を伸ばして襲いかかってくる。


「うわああっ!」


 再び悲鳴を上げた渉は拳を握り、何も考えずにその女の顔面を殴り飛ばした。

 上半身の女は壁に当たって床に落ちた。その姿を見る余裕もなく渉は廊下をダッシュする。走り出してからちらっと後ろを見てみると、女の下半身と、その後ろからは女の上半身が宙を飛びながら追いかけて来ていた。

 何だあれ何だあれ何だあれ何だあれ……っ!?

 その一言が頭を埋め尽くす。

 とにかく外へ逃げよう。渉は一階へ降りる階段を目指した。

 階段目前。だがそこで、上半身の女に追いつかれた。

 背中に体当たりをくらった渉は床に倒れ込む。すぐさま体を起こそうとしたが、両肩を手で押さえつけられ身動きが取れなくなった。


「っ、ぐ…!」


 女が再び大口を開けた。

 だめだ、逃げられない–––……

 やや涙目になった目をぎゅっと閉じる。

 すると、まぶたの裏にピカッと走る光を感じた。

 肩を押さえつける女の手が離れた。

 甲高い動物のような悲鳴が遠ざかる。それを追うようにヒールの音が鳴り響き、やがて消えた。


「–––……、…?」


 渉は恐る恐る目を開ける。

 訳がわからず混乱したまま上体を起こすと、視界の端に黒いスニーカーを履いた誰かの足元が見えた。


「チッ……逃した」


 と、頭上から不機嫌な少年の声がした。渉が見上げるとその少年と目が合った。

 細身で色白、やや童顔の端正な顔立ちに、青みがかった髪色と黄色い瞳が印象的な少年だ。

 この少年が助けてくれたのだと、少し遅れて理解した。


「大丈夫か?」


「あ……はい…助かりました、ありがとうございます……」


 心配してくれた少年に敬語を使ってお礼を言った。同時に浮かべた笑みは恐怖でかなり引き攣っている。

 立ち上がった渉は、女が逃げて行った薄暗い廊下の先を見つめながら、


「……今のあれって幽霊ですよね。俺初めて見たな……あれ?でもさっき顔面殴れたんだよな」


 と、不思議に思って殴った方の手を拳にして見つめた。拳には嫌な感触が残っている。


「『残余霊』を殴ったのか? すごいな」


 少年は驚いた顔で渉を見つめ、それから軽くくすっと笑う。


「ざんよれい?」


 顔を上げた渉は少年を見て首を傾げる。聞いたことがない言葉だった。

 少年はハッとした顔をして、次に顔を顰め、渉から目を逸らすと片手で口元を覆った。まずい口を滑らせた、というような反応だ。

 そのまま相手が何も言わないため渉は困ってしまった。何か言うべきか迷って、とりあえず…


「あの。俺、二年の白坂渉です。宜しくお願いします」


 自己紹介をした。初対面の人に出会ったらまずは挨拶が基本だろう。

 すると少年は「あぁ」と呟き、口元から手を下ろして再び渉を見ると、穏やかに笑う。


「三年の元宮界斗もとみやかいとだ。宜しく」


 そのまま続けて界斗は言う。


「白坂は、こんな時間に何をしていたんだ?」


「えぇと…」


 渉は後頭部に手をやって困った表情を浮かべる。


「教室に忘れ物をしたんで取りに来たんです。忘れ物も見つかったんで帰ろうとしたら、さっきの幽霊に襲われて……。あ、先輩も忘れ物ですか?」


「用が済んだなら早くここを出た方がいい。行こう」


 渉の質問をさりげなくかわした界斗は、すぐ脇の階段を降り始めた。

 渉は慌ててその後ろをついて行く。

 余計なことは聞かない方が良さそうな雰囲気を界斗からは感じるが、訳もわからず襲われた身としてはやはり聞かずにはいられない。

 無視されるか、または不機嫌にさせてしまう覚悟で口を開いた。


「あの、元宮先輩。さっきのその……『残余霊』っていうのは一体何なんですか?」


 界斗が踊り場で静かに足を止めた。

 その後ろで渉も合わせて立ち止まる。界斗は苦い顔をして振り返った。

 その顔のまま渉をじっと見つめ、やがて諦めたかのように小さくため息をつくと、渉の質問に答えた。


「簡素に言うと、『残余霊』は死んだ人間や動物がこの世に残していった怨念から生まれる化け物だ。奴らは空腹を満たすために、人間や動物を襲って喰べる」


「うわ…じゃあ俺はさっき、喰われかけたってことか……」


「そういうことだ」


 短く返して腕を組む界斗。

 渉は眉を下げ言った。


「人間を喰べるって…それ、ヤバい事件になりますよ」


「もうなってる。『残余霊』が起こした失踪事件や殺人事件は、鳥辺野市を中心にここ数年で何十件も発生しているからな」


 それを聞いた渉は「うわぁ」と青い顔をした。

 引っ越して来たばかりの土地が、実はものすごく危険だと知ってしまったショックは大きい。


「被害が大きくなる前に、全ての『残余霊』を封印し直すことが俺の役目だ。奴らは日中はどこかに隠れて、夜に餌を求めて動き回る。特に普段から人が多く集まる場所に現れる。学校もその一つだ。俺はほぼ毎晩のように、校内を見回っている」


「は〜、毎晩は大変ですね。つか、封印って漫画とかアニメの中の話みたいで格好いいなぁ」


 界斗はその顔に微妙な感情を浮かべた。


「……格好いいか?」


「格好いいですよ! さっきも一瞬で化け物を追い払ってくれたじゃないですか。格好いいです!」


 目をキラキラさせて褒めてくる渉に、界斗はやや苦手意識を感じながら作り笑いを浮かべる。すると渉がはたと気づいたように言った。


「あ、じゃあさっきの『残余霊』も早く封印しないとまずいですよね。あのままだと、外へ逃げられるかもしれないし…」


「いや、その心配はない。君みたいな外からの侵入者も防げるように、学校全体に結界を張ってあるからな」


「え? でも俺は入って来れましたけど」


「それは結界を張る前だったからだ」


 界斗は淡々とした口調で告げる。


「さっきの『残余霊』は空腹で殺気立っていた。ここから出られないと気づいたら、君を喰うためにまた襲いかかってくるぞ」


「うわっ、それはヤバいどうしよう…早くここから出ないと」


「賢明だな」


 二人は一階の薄暗い廊下を歩く。

 界斗の後ろをついて歩く渉は、無駄に目をキョロキョロさせている。さっきの女が暗闇に紛れて襲って来ないかと内心ビクビクしていた。

 やがて界斗は裏門に近い窓の前で立ち止まり、渉を見て言った。


「数秒間だけ結界を解く。その間に外に出るんだ」


「はい」


 渉はほっと胸をなで下ろした。


「あの、元宮先輩。さっきは危ないところを助けてくれて、本当にありがとうございました」


 お礼を言って今度はきちんと頭を下げた。渉が頭を上げると、目の前で界斗が微笑んでいた。

 その表情を見て何故か、さっきまで頭の中にあった“早くここから出る”という思いが薄れてしまった。

 代わりに余計とも言える思いがふつふつと湧き上がる。

 渉は一度界斗から視線を外し、再び視線を合わせて言った。


「元宮先輩は、さっきの『残余霊』を追うんですか?」


「あぁ」


「一人であんな化け物を相手にするのって、大変じゃないですか」


「……。確かに大変だな」


 界斗は少し間を空けてから、正直に言った。


「奴らを封印できる場所まで誘導するのが毎回一苦労なんだ。向こうは俺を喰おうとするどころか、逆に逃げて行くからな」


「え、じゃあ俺が囮になって、あいつを誘導しましょうか?」


 界斗が驚きともいえる表情を浮かべた。渉はぐっと拳を握りしめて、気合の入った声を出す。


「先輩が必要としてくれるなら俺、やりますよ。囮になります!」


「–––……」


「あ…えっと……すみません、やっぱり迷惑ですよね」


 頭の後ろを掻きながら、あははと乾いた声で笑う渉。我ながら何を馬鹿なことを言っているんだと思った。さっきも喰われかけたのに。

 しかし界斗は少し考える沈黙を置いてから、やがて低い声で言った。


「いや…。俺の霊符を持っていれば『残余霊』から身を守れる。もしかしたら、上手くいくかもしれないな」


「霊符って、紙のお守りのことですか?それが元宮先輩の武器なんですね」


「ああ。通常の霊符以外に『残余霊』に効力を発揮する霊符がある。俺が主に扱うのはそっちだな」


「なるほど。じゃあさっきもその霊符で俺を助けてくれたんですね!」


 おおっと思わず口から興奮した声を出して目を輝かせる渉に界斗は苦笑いするが、すぐに真面目な顔になって言った。


「白坂。俺に協力してくれるか?」


「はい、任せてください!」


「ありがとう」


 力強く頷いた渉に向かって、界斗はその端正な顔に穏やかな笑みを浮かべた。

『残余霊』を封印できる“場所”は決まっているらしい。そこへ向かう為に歩き出した界斗に渉はついて行く。すると界斗の口から、少々乱暴な言葉が出てきた。


「白坂の方が、あのクズより役に立ってくれそうだ」


「クズ……仲間がいるんですか?」


「あれは仲間じゃない。封印一つできない役立たずだ」


 仲間じゃないらしいその人物は散々な言われようだ。


「その人も学校に居るんですか?」


「あぁ。一人で外の見張りをさせてる。馬鹿と鋏は使いようだ。番犬としては役に立ってるな」


 可哀想になるほど散々な言われようだ。


「白坂。今から『残余霊』を封印する為に必要な“場所”についての説明をする」


 界斗は言って話題を変えた。

 渉はこくりと頷いて界斗の隣に並ぶ。


「『残余霊』を封印する場所のことを『封印空間』という。その空間に繋がる通路のような機能を果たすのが『デッドスペース』だ」


「デッドスペース?」


 渉は耳慣れないその言葉に首を傾げた。


「『デッドスペース』は、有効活用することができない空間のことをいう。例えばベッドの下や、棚と壁の間にできる隙間だな。上手く工夫すれば収納スペースとして活用できる」


「なるほど。あれをデッドスペースって呼ぶのか」


 渉は、自身の家の中にあるデッドスペースを思い浮かべた。意識してみると意外とある。


「有効活用ができない空間は外にも溢れている。だがその全てを利用できる訳じゃない。ある程度の大きさと広さが必要だ」


 界斗は話しながら、先ほど降りて来た階段とは別の階段下で足を止めた。

 そこの階段下の左脇には、コの字になった行き止まりの何もないスペースができている。学校の場合、こういった『デッドスペース』ができてしまうことは、あまり珍しくない。

 界斗は隣の渉に顔を向けた。


「ここの『デッドスペース』が一番誘導しやすいだろう」


 渉は近づいてそこをまじまじと見るが、何の変哲もないただの空間である。


「『デッドスペース』を通じた先にある『封印空間』は、『残余霊』を封じ込める為の『箱』の役割を果たす。だからまずは『残余霊』を『封印空間』の中に入れることが必要不可欠だ。入って来ればもう此方の物」


 腕を組み、界斗は説明を続ける。


「俺は『デッドスペース』を通じて『封印空間』に入ることができる。そこで封印を行うのが俺の役目だ。『封印空間』に入れるのは俺と『残余霊』だけ……あぁ、違った。もう一人いる。外にいる番犬だ」


 番犬のことを思い出すだけで、界斗の顔が嫌そうに歪むのを渉は知った。そんなに嫌いなのだろうか。


「俺は先に『封印空間』の中で待機する。白坂は、『残余霊』を上手く『デッドスペース』の近くまで誘導してくれ。できれば奥の壁の近くに。そうすれば、確実に奴を中に入れることができる」


「わかりました。でも、上半身と下半身の両方を上手く誘導できるかどうか…」


「心配いらない。バラバラでも元は一つの体だ。必ず引き寄せ合う」


 と、界斗は言った。

 渉は頷く。


「わかりました。やってみます」


「くれぐれも無茶はしないようにな。あと、これを」


 界斗は前掛けのボディバッグから取り出した数枚の霊符を、渉に差し出した。


「『防残余護身符ぼうざんよごしんふ』だ。敵の攻撃から身を守ってくれる。体の左側に持っておくといい。この霊符は折っても問題ないから」


「ありがとうございます! うわ、こんなに貰っていいんですか?」


 受け取った霊符を数えてみると十枚もあった。形の面白い墨の文字。読み方は全くわからない。

 界斗は眉を下げ、軽く笑う。


「念には念を。一枚につき効力は一回だ。十回の攻撃は防げるが……やっぱりもっと持たせておいた方がいいか」


「いや、これで十分です。自分で言うのも何ですが、足の速さと体力には自信があります。上手く逃げてみせます」


 心配する界斗に、渉はにかっと歯を見せて笑った。

 渉が霊符を丁寧に二つ折りし、左側のズボンの尻ポケットに入れるその動きに合わせて、界斗のスマートフォンが小さく鳴った。

 上着のポケットから取り出したスマートフォンの画面を見た界斗は、「番犬からだ」と呟いて電話に出る。


「なんだ、シン」


『よぉ、カイ。俺は今、最高に気分が上がってるぜ。何故だと思う?』


「無駄口はいい。さっさと報告しろ」


 界斗はイライラして言った。

 渉の耳にも、電話の相手の声は聞こえている。楽しそうな笑いを含んだ、低い男の声だ。


灯影とうえいだ。久しぶりに会いに来てくれたぜ。長いこと待たせやがってまったくよ。だが久しぶりに刀抜いて殺り合えるんだ。俺の気分が最高にいい理由がわかっただろ』


「そうか。任せた」


 短い言葉で冷たく返した界斗は、素早く通話を切ってスマートフォンを仕舞った。

 不機嫌になっている界斗に、渉は恐る恐る問いかける。


「あの、外で何か起きてるんですか?」


 界斗は渉を見て表情を和らげたあと、真剣な顔をして言った。


「外のことは今はいい。俺たちはここにいる『残余霊』を封印することに集中しよう」


 界斗の真剣な視線を受けた渉は、表情を引き締めて、こくりと頷いた。



***


 元宮心矢もとみやしんやは、通話が切れたスマートフォンを尻ポケットに突っ込みながら、正面玄関前の階段から腰を上げた。

 黒髪に映える紅い色の目をした少年だ。背中には竹刀袋を背負っている。

 端正な顔だちに浮かべるニヤついた笑みは、これから人を殺すことを考えている殺人鬼を思わせる。

 彼はズボンに両手を突っ込んだまま、軽やかな足取りですぐ目の前のグラウンドに向かった。

 彼の目には、グラウンドの先からこちらに向かって歩いて来る黒い人影が見えていた。

 その人影は、細身の体を黒スーツに包んでいる。歳は三十代前半ぐらいの男で、焦茶色の長い髪の毛を後ろで縛っていた。不敵な笑みを浮かべた男は気安く近寄れない危険な空気を纏っていて、見様によってはヤクザ側の人間を思わせる。

 二人はおよそ10mの距離を空けて立ち止まり、真っ直ぐお互いを睨みつけた。


「よぉ灯影、久しぶりだな。遅えじゃねぇか。待ちくたびれてテメェの望み通り死ぬとこだったわ。つーことで一回殴り飛ばされろ」


 広いグラウンドに、心矢の声ははっきりと響いた。

 灯影が鼻を鳴らし、軽く肩をすくめる。


「相変わらず無駄口を叩くのが好きだな、刀使いの小僧」


「俺の長所のひとつなんでね」


「そうか」


 灯影は短く言葉を吐き出した。次に鋭い眼光で心矢を睨みつける。


「だが、お前の相手をするのは俺ではない。––––零鬼れき!」


 二人の間の地面に暗い上空から巨体が降って来た。

 体長二メートル以上はある半獣だ。筋肉が膨れた手足と全身を覆う毛並みを持ち、顔は猿に近い。

 零鬼は心矢を見下ろすと、牙を剥いてニタリと笑った。

 心矢はくつくつと笑いながら、ポケットから出した右手で背中の竹刀袋を下ろし、中身を取り出す。

 鞘に収められた刀–––『残余刀ざんよとう』を抜き、刃先を半獣に向けた。


「いいぜ、まずはてめぇのペットから殺す! 次にてめぇをブッ殺す!!」


 心矢は興奮と殺意に満ちた目を光らせ、実に楽しそうに叫び突進した。



***


 渉は一人、二階の廊下を歩いていた。

 二階までついて来てくれた界斗と別れた後、渉は『残余霊』が姿を現すまで廊下をウロウロしている。


「………」


 黙って辺りを気にしながらとにかく歩く。俺の存在に早く気づけと祈りながら。


 カツ、


 背後から聞こえて来たその音に、ビクッと体が震えて足が止まる。

 恐る恐る振り返った。

 暗闇に赤い下半身が浮かび上がっている。渉が振り返ると下半身はピタッと止まった。だがすぐに、こちらに向かって突進して来る。


「うおっ、来た!」


 渉はダッシュした。こっちの方向は『デッドスペース』がある階段とは逆方向になるが、仕方ない。

 走りながら振り返る。下半身は追いかけて来ていた。よし、このままついて来い。


「っ、うわ!?」


 顔を前に向けると、前方から宙に浮いた上半身が両手を広げて襲いかかってきた。

 油断した。これは避けられない。

 両手が渉の頭を鷲掴みにしようとしたその瞬間、霊符が効力を発揮し上半身を後方へ弾き飛ばす。

 上半身は床をバウンドするように転がった。渉は足を止めることなく、上半身の真横を走り抜けて階段に向かう。


「よし、ついて来い化け物!」


 振り返ると上下共に追いかけて来ていた。手すりを掴み、階段を半分ほど抜かして飛び降りる。

 霊符はあと九枚。ぜんぜん余裕がある。

 踊り場で上半身が飛びかかって来た。霊符が再び弾き飛ばし、壁に激突。

 女の顔は殺気立っていた。怯むどころか何が何でも渉を捕まえようとすぐに追いかけて来る。

 一階の廊下に出た渉は、休むことなく廊下の先にある『デッドスペース』を目指した。

 いける。大丈夫。上手くいく。

 頭の中で自身を励ます。

 やがて目的地を目前にした渉はそのままの勢いで右折し、階段下の脇の空間『デッドスペース』へスライディングした。


「っ……!」


 足から壁に当たって止まった。行き止まりとなっているその空間で体を起こした渉は、後ろを見た。

 上半身と下半身が目の前にいた。

 ようやく獲物を追い詰めたと、ジリジリ近寄って来る。渉は怯える兎のように震えるしかない。

 その時、後ろの壁に変化が起こった。

 背中を向けている渉には見えていないが、壁が大きく波打っている。それに合わせて、目の前の女の体が壁に向かって引き寄せられたかと思うと––––


「吸い込まれた…!?」


 言葉通り、二つの体は壁に吸い込まれていった。

 渉はぽかんとしたまま元に戻った壁を見つめた。手を伸ばしペタペタ触れてみる。硬くてひんやりとした何の変哲もない壁だ。


「上手くいったんだな……」


 ここでようやく体の緊張が解けた。どっとした疲れが襲ってくる。


「あとは、中にいる先輩がやってくれる……」


 渉は祈るような気持ちで、壁をじっと見つめた。



***


『封印空間』は左右上下に壁のない、どこまでも果てしなく広がる暗闇の世界のようである。

 そんな非現実的な空間を、無数の白い煙が漂っていた。


「………」


 界斗は無言で突っ立ったまま目を閉じ、じっと待っていた。

 やがて空間が一つ波打った。

 それに反応した界斗は目を開ける。


「–––来たな」


 目の前に上下バラバラの女が現れた。

 女は戸惑ったように辺りを見回すと、界斗に視線を固定させた。

 女が襲いかかって来る前にさっさと終わらせよう。

 界斗は両手の間に『残余封印符』を挟むと、胸の前で合掌をした。

 目を閉じ自身の霊力を霊符に送る。

 そして『残余封印詞ざんよふういんのことば』を唱えた。


「《鳥辺山とりべやま神留かむずます、命姫みことひめに申す、残余、罪穢れと共に箱に封ずる》」


 手の中の霊符が光を放ち消えると『封』の巨大文字が目の前に浮かび上がった。

 すると空間を漂っていた白い煙が意志を持って動き出し、女の上下の体に巻きついていく。

 抵抗むなしく無数の煙に巻きつかれ、やがてその赤い姿が煙の中に見えなくなった次の瞬間、『封』の文字が光を放ち、女の甲高い悲鳴とともに煙が一瞬で解き放たれた。

 そこに『残余霊』の姿はない。

 文字は消え、煙は再びゆっくりと空間を漂う。界斗は静かに両手を下ろした。

 封印完了だ。

 界斗は、ふぅと息を吐いた。

 渉は上手くやってくれた。


「…囮、か」


 そう呟いた界斗は少しだけ笑った。

 そこからじっと宙を見つめて何か考え始め、考えが纏まると……


「利用できるな」


 その口元の笑みを深めた。



***


 零鬼れきは動物から生まれた『残余霊』だ。その容姿からすると類人猿だが、知能はない。

 そもそも『残余霊』に知能はない。奴らは“空腹を満たす”という本能で人間や動物を襲う。ただそれだけの存在だ。

 しかし、灯影は他の『残余霊』とは違っていた。

 灯影は人間の『残余霊』だ。だが不思議なことに、その容姿は生きた人間と変わらない。

 灯影が他の『残余霊』と違っている部分は他にもある。灯影には知能があり、そして“能力”を持っていた。

 灯影はその“能力”で『残余霊』を支配し、従わせることができる。



 ブンッ


 風を切る音が響いた。

 零鬼が振るった腕の攻撃を心矢は身を低くして交わし、そして地面を蹴った。

 零鬼の顔に向かって突っ込む形で斬りかかる。零鬼は太い腕で顔面をガードした。刀は皮膚を切り裂くが、その皮膚は硬く傷口は浅い。


「……!」


 心矢は目を見開く。

 零鬼の体が前回やり合った時と比べると明らかに強化していることに気づいた。

 心矢の動きが一瞬止まったその隙をついて、零鬼が傷ついた腕を顔面から振り払う勢いで振った。その腕が心矢に当たり、体が後ろ向きに吹っ飛んだ。

 地面を転がった心矢はすぐさま膝と片手を地面につき零鬼を睨んだ。

 刀を持つ右手の甲で頬の傷口を拭う。地面に擦れてできた擦り傷に、じわじわと血が滲んだ。


「っ、えな。お、久しぶりの痛みだ。すげぇやっぱ久しぶりだと擦り傷でも感じ方が違うな。つまり気持ちがいい」


 相変わらずの無駄口を叩きながら立ち上がろうとした。が、脇腹に走った鋭い痛みに再び膝をつく。

 右の肋骨が激しく痛んだ。何本か折れた肋骨が内臓を傷つけたのか、口の中に血の味が広がる。


「やっべぇ、ちょー痛ぇ。マジで痛ぇ」


 面白い映画を観ているようなテンションで心矢は笑った。この男はどう考えても普通ではない。

 心矢の尻ポケットで『治癒疼痛符ちゆとうつうふ』が効力を発揮していた。頬の傷が消え、肋骨と内臓が治り痛みが消える。

 界斗が心矢に持たせている霊符は『治癒疼痛符』のみ。それがたったの五枚だ。

 心矢は敵から身を守る『防残余守護符』すら持っていない。そんなもの持っていたら痛みを感じられなくなる、という理由でだ。

 元宮心矢は痛みを恐れない。

 逆に痛みを求め、それを娯楽にしているほどだ。だから化け物相手でも彼は笑っていられる。

 のしのしと近づいて来る零鬼を睨みつけたまま、心矢は立ち上がった。

 零鬼の後方では、灯影が余裕の笑みを浮かべて見物している。

 零鬼が雄叫びを挙げ飛びかかって来た。

 心矢は横に飛んだ。さっきまで自分がいた場所に零鬼は着地する。ドスンッと地面が揺れて、大きくへこんだ。

 心矢の脳裏に過去の記憶がよみがえる。自身の右手に握られている『残余刀』を見つけたあの日の記憶だ。あの時もこの化け物はさっきと同じように上から降って来た。


「そーいう攻撃の仕方は、そこらの猿と一緒だな!」


 心矢は叫び素早く相手の背後に回って背中を大きく斬りつけたが、やはり傷は浅く致命傷にはならない。

 痛みに怯むことなく、零鬼はぐるりと振り返って腕を伸ばした。

 ハッとした心矢が相手から身を離そうとして後ろに飛ぶが、少し遅かった。鋭い爪に右の二の腕を引っ掻かれる。


「–––っ!」


 心矢は悲鳴を噛み殺し、後ろに転がって立ち上がった。

 血が溢れ出す二の腕をおさえると、二枚目の霊符が効力を発揮して傷を治した。残り三枚だ。

 戦闘では傷を治す霊符はかなり便利だ。だが欠点もある。傷が治っても流れた血は戻らない。つまり血を流しすぎると貧血でぶっ倒れるか、最悪それで死んでしまうことになる。


「……なんだぁ、会わない間にパワーアップしてんじゃねぇか」


 やはり前回に比べると零鬼の体は強化され、力も上がっていた。

『残余霊』は人や動物を喰うことで空腹を満たし、同時に力を強める。

 特に人を喰うと力は格段に上がる。会わない間に零鬼が人を何人か喰ったことは明らかだった。


「よぉ化け物。会わない間に何人喰ったんだ?」


 心矢が問うと零鬼は不思議そうに首を傾げて口を開く。


「さんにん……三人、くった」


 地獄の鬼を思わせるような低い声だ。心矢はわざとらしくやれやれと首を振る。


「三人か。なるほどなるほど。レベル三アップか。逆に俺はレベル上げてねぇからなぁ。あ〜まじ油断してたわ」


「つぎは、おまえを、くう」


「は?」


 指を差されそう宣言された。

 心矢は目をパチクリさせる。


「––––ははっ、ハハハハハハハハハッ!」


 心矢は手のひらで目元を覆い隠し、実に可笑しそうに声を上げた。指の隙間から零鬼を見つめて目を細めると、すっと手を下ろす。


「すっっっげぇ嬉しい告白してくれるじゃねぇか」


 そこには、狂気に満ちた笑みが浮かんでいた。



***


「あ、元宮先輩!」


 壁の中から界斗が出て来た。


「上手くいったな」


 波打つ壁が元に戻るのを不思議そうに見つめる渉に、界斗は笑みを浮かべて言った。渉は界斗を見て、にっこり笑う。


「はい!」


「ありがとう、白坂。本当に助かった」


「いやぁ。お役に立ててよかったです」


 渉は照れ臭そうに後頭部に手を回す。


「あ、霊符は二枚使っちゃいました」


「二枚で済んだのか。凄いな」


「残りはお返しします」


「いや、貰ってくれ。今後どこかで奴らに襲われる可能性はある。その時にきっと役に立つから」


「う、そっか……じゃあ、ありがたくいただきます」


 渉は表情を曇らせた。今後の生活を思うと、自分だけじゃなく家族のことも心配になる。


「さて。そろそろ外の様子を見に行くか」


 そう言った界斗の表情には先ほどまでの笑みが消えていた。

 廊下の窓に目をやる界斗に合わせて渉もそちらを見る。外で一体何が起きているんだろうか。


「白坂は裏門から出たら早く家に帰るんだ。絶対に学校には戻って来るな。いいな?」


「あ……はい」


 界斗の真剣な眼差しを見て、渉は小さく頷いた。

 結界を解いた界斗が窓を開けてそこから渉だけを外に出すと窓を閉じようとした為、渉は慌てて言った。


「先輩は外に出ないんですか?」


「鍵をかける必要があるからな。俺は中の『デッドスペース』を通じて外の『デッドスペース』に出られるから問題はない」


『デッドスペース』同士は繋がっているようだ。だから界斗は校内に侵入できたのか、と渉は納得した。


「白坂。今日あったことや知ったことは、誰にも言わないでくれるか」


「わかりました。誰にも言いません」


 渉が頷くと、界斗はふっと息を吐くように微笑んだ。それを見た渉は……


「あの……」


 思わず口にしようとした言葉を呑み込み、別の言葉を口にした。


「おやすみなさい」


「ああ。おやすみ」


 界斗は窓を閉じた。

 渉は界斗に向かって軽く頭を下げてから背中を向けると、裏門に向かって走って行った。



***


 心矢が零鬼とやり合い始めて、すでに三十分が経過した。

 心矢は苦戦していた。

 零鬼はあちこちから血を流しているが、傷が浅いせいで奴の動きは全く鈍らず、心矢に休む間を与えない攻撃を仕掛けてくる。


「人間喰っただけで強くなれんのは羨ましいぜ」


 呟きながら心矢は再び後ろに飛んだ。

 さっきまで自分が立っていた地面に零鬼の拳がめり込むのを視界に捉えた、その時。


「……!」


 背中が壁に打つかった。

 いや、グラウンドに壁はない。

 零鬼とは違う気配を感じ取った心矢は、首を捻って後ろを見た。

 灯影がすぐ真後ろで笑みを浮かべている。

 こいつ……!

 心矢は息を呑んだ。

 すぐさま距離を取ろうとしたがすでに遅く、背中から腹の中心を灯影の腕が貫通する。


「–––がはッ」


 体を前に曲げ、口から血を吐いた。

 痛い。

 腕が引き抜かれると更なる激痛が走り声が上がる。手から刀が落ち、心矢の体は力を失って前に倒れた。

 灯影は真っ赤な血に濡れた腕を軽く振り、うつ伏せの心矢を足で転がし仰向けにした。

 すでに三枚目の霊符が腹の傷を治している。だが一気に血を失った心矢の意識は朦朧としていた。


「霊符は、あと何枚だ?」


 不敵な笑みを浮かべた灯影が言った。

 朦朧とした意識の中、心矢は無言で相手を睨みつけ、微かに笑う。


「長所の無駄口はどうした」


 灯影はにやりと笑い、次に零鬼を呼んだ。

 近づいて来た零鬼に短く命令をすると、零鬼は倒れている心矢に近づき、片足を上げてその体を踏みつけた。

 ただ足を置いただけに近いが、それでも胸元を圧迫されて息が止まる。


「ツッ……!」


 徐々に加えられる力。このままだと骨が砕かれ内臓を潰される。逃げ出せなければ残りの霊符を使い切ってお陀仏だ。

 愉快な顔でその光景を眺めていた灯影は、ふと地面に落ちていた『残余刀』に視線をやった。

 無言の顔が険しくなる。まるで強い恨みがあるかのように刀を睨みつける灯影は、ゆっくりと刀に手を伸ばした。

 その時、灯影は誰かの気配を感じた。

 ハッと顔を上げると同時に、零鬼の体が光に弾かれ吹っ飛んだ。

 地面を転がった零鬼から気配のする方向へと視線を移す。

 校舎側のグラウンドの先から歩いて来るのは、一人の少年だ。


「来たか。霊符使いの小僧」


 呟き、灯影は唇の端をつり上げた。



***


 遠距離からでも敵に向かって霊符の力を飛ばすことは可能だ。

『防残余守護符』を使って零鬼を吹っ飛ばした界斗は、歩みを止めずにグラウンドの中へと向かう。鋭い視線は真っ直ぐ灯影を捉えていた。


「随分とやりたい放題やっているな。灯影」


 界斗はおよそ10mの距離で立ち止まると、静かな怒りを露わにした声で言った。

 灯影はふんと鼻で笑う。


「仲間を痛めつけられた怒りか?」


「この町でやりたい放題していることに対しての怒りだ。そこの男はどうでもいい」


「どうでもいいか。だったら、その力で守ってやる必要はないだろう」


「“鳥辺山の主”の命令に従っているだけだ。逆らうことはできない」


 “鳥辺山の主”と界斗はわざと口にした。界斗の予想通り、灯影の眉間にしわが寄る。


「霊符使いの小僧。お前とこうして言葉を交わしたことはあまりなかったな」


 そう言った灯影は、界斗の顔をじっと見つめる。


「……なるほど。“あの男に似ている”な」


 そう独り言のように呟いた。

 界斗は何も返さなかった。これ以上、無駄話をする気はないと無言で伝えている。

 灯影はやれやれと肩をすくめると、今度は凍てつくような目で界斗を見た。


「零鬼」


 灯影に名を呼ばれた零鬼は殺気立った恐ろしい獣の顔つきで、界斗に向かってジリジリと近づいて来る。

 界斗は戦闘モードに入ろうとした。

 しかし灯影が零鬼に放った命令はそれとは違った。灯影は少しばかり残念そうに言った。


「帰るぞ」


 その一言に零鬼の動きがぴたりと止まる。

 零鬼はここにきて弱っていた。

 あちこちにできた傷から流れる血を見て界斗は察する。『残余刀』でできた傷が『残余霊』に与えるダメージは強い。浅い傷でもそれが複数になればそれなりのダメージを負わせられる。

 今なら零鬼を始末できるかもしれないが、界斗は何もしなかった。霊符は守りの力に特化しているため、界斗一人では『残余霊』を倒すことはできない。

 界斗が早々に諦めて見つめる中、灯影と零鬼は暗闇にふっと姿を消した。


「……」


 界斗は、地面に倒れたまま動かない心矢に近づき、その顔を冷たい表情で上から見下ろした。


「死んだか」


「…生きてま〜す……」


 心矢は片手を上げてへらっと笑った。無駄口が少ないのは今だけだ。


「また仕損なったか」


「だってレベル三アップだぜ…」


「……三人か」


 界斗は心矢から視線を外し、眉を潜める。

 心矢はようやく安定してきた意識の中で体を起こし、刀を掴むと杖代わりにしてふらふらする足で立った。腹部に穴があいた服は真っ赤な血で染まっているが、界斗は別の穴のことを気にして心矢に言った。


「グラウンドの穴、埋めておけよ」


「はぁ?」


 心矢の顔が嫌そうに歪んだ。親から部屋を片付けなさいと言われた子供のようだ。


「グラウンドの整備は野球部の仕事だろ。俺の仕事はもう終わったぜ。これ以上は働かねぇかんな」


 刀を鞘におさめて竹刀袋に戻し背負った心矢は「あ〜腹減った、さ〜帰ろ帰ろ」と呑気に言いながら歩き出した。

 その後ろを、苛立ちを含んだため息をついて界斗が続く。



***


 渉は裏門を出たすぐ脇のスペースに突っ立っていた。

 帰ろうとして、だがやはり界斗のことが気になってしまって悩んでいた渉は、近づいて来る足音を聞いてハッと顔を上げる。


「白坂?」


 界斗が渉に気付き目を見開く。

 渉は安堵の表情に笑みを浮かべた。


「元宮せんぱ、……!?」


 界斗の隣にいた男の存在に気づいた渉は、その血に染まった姿を見て固まった。


「おいおいおいおい、なんだぁ、てめぇは」


 口を開けたまま青ざめた顔で震えている渉に気づいた心矢は、凶悪な顔つきで渉を見下ろす。


 一体外で何があったんだ……!?

 渉の目には、目の前の男が人を殺した後の殺人鬼に見えていた。体に汗が吹き出す。


「あ、あの…っ、おお俺っ、二年の白坂渉っていいます…! 校内で『残余霊』に襲われてるところを、元宮先輩に助けてもらったんです…!」


「ほ〜ぅ」


 震え声で何とか自己紹介をした渉に、心矢はニヤリと笑いかけ、その顔をそのまま界斗に向けた。


「カイ。てめぇが人助けするたぁ、明日は嵐だな」


「黙れ」


 界斗は心矢を睨みつけた。

 心矢は気にせず、再び渉に視線を戻す。


「俺は三年の元宮心矢だ」


「よ、宜しくお願いします……あ、名字、同じなんですね」


「兄弟だからなぁ」


「従兄弟だ」


 心矢の嘘を瞬時に界斗が訂正した。


「白坂、早く帰れと言っただろう。何でまだここに居るんだ」


 界斗が怒っているのはその顔を見れば明らかだった。

 渉は視線を足元に落とし、しゅんと落ち込んで「ごめんなさい……」と口にした。


「ぶっははははは! やべぇ! カイが口うるせぇ親みたいなこと言ってる!ちょー傑作!あははははははは!」


 心矢が急に大声で笑い出した。びっくりして顔を上げる渉と、苛立ちの顔でため息をつく界斗。

 界斗は渉に歩み寄って両肩に手を置くと、その体をぐるりと後ろへ向けさせた。


「ほら、今度こそ帰るんだ」


 背中を軽く押された渉は素直に頷き、今度こそ帰ろうと歩き出す。が、目の前を塞ぐように移動してきた心矢に止められた。


「よぉ後輩。てめぇは夜の学校に忍び込んで何してたんだよ。いや待て言うな。当ててやる。中間テストの解答用紙を盗もうとしたんだな!」


「えッ!? ち、違いますよ!」


「シン。白坂に絡むな」


 界斗が怒りを込めた瞳で心矢を睨みつけた。心矢は挑発的な顔にニヤついた笑みを浮かべて界斗を睨む。

 睨み合う二人に挟まれている渉は、冷や汗をかいていた。渉は口元に引き攣った笑みを浮かべて、口を開く。


「えぇと……。明日、入院している妹の手術があるんです。それで、病気平癒のお守りを神社で買ったんですけど、それを教室に忘れて来たことに気づいて、取りに戻ったんです」


「妹は病気なのか?」


 渉の後ろから界斗が言った。

 渉は振り返って界斗を見る。界斗の顔に笑みはない。


「はい。…あっ、でも、手術すれば良くなるって言われてますから。けど妹はまだ中学生で、きっと不安だろうし怖いと思うんです。だから少しでも、その気持ちを楽にしてあげたいなって……」


 なに余計なことまで言ってるんだ、と思った渉は、口をつぐんで界斗から目を逸らした。渉の後ろでは、心矢が心底つまらなさそうな顔をしている。


「そうか…。もしよかったら、病を癒す効力があるこの霊符を、お守りとして妹に渡してくれないか?」


 界斗は、ボディバッグから取り出した一枚の霊符を渉に差し出した。渉は驚いた顔を上げて、微笑む界斗を見る。


「あ、ありがとうございます! 先輩の霊符なら、ものすごく効き目がありますよ!」


 霊符を受け取った渉は嬉しそうに笑った。

 その後ろで心矢が不意に真面目な顔になり何やら考え込む。そんな珍しい様子を、界斗は渉に向けた笑みを絶やさずに確認した。


「それじゃあ俺、帰ります。元宮せんぱ……、界斗先輩。今日は本当にありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げた渉は、続けて心矢にも頭を下げた。

 そしてようやく、家に帰る為に走り出した。

 遠ざかる渉の姿を冷めた瞳で見つめていた界斗に、心矢はようやく真面目な顔をやめて問いかける。


「んで。てめぇは何を企んでやがる」


 界斗は無言のまま、冷ややかな顔を心矢に向けた。


「てめぇが野良犬に無償で餌を与える訳がねぇ」


 そう言って、心矢はにやりと歯を見せ笑う。

 界斗は、渉が去った歩道の暗闇に再び視線を戻してから答えた。


「俺たちが『残余霊』を目覚めさせてしまったあの日から、もう二年が経った。全ての『残余霊』を封印し直すのに、あと何年かかるのかもわからない。俺は早く終わらせたいんだ。その為にも……」


 界斗は静かに息を吐き、冷たい声を響かせた。


「彼には悪いが、利用させてもらう」




***


 翌日。

 午前中に両親と総合病院へ向かった渉は、病室で家族を待っていた鈴華に、神社のお守りと霊符を手渡した。

 霊符を興味深そうに見つめる鈴華に、学校の先輩からお守りとしてもらったことを伝えると、鈴華は嬉しそうに「優しい先輩だね。退院したら、直接お礼言いたいな」と言って笑った。

 手術は無事、成功した。

 全身麻酔からまだ回復していない鈴華は、ベッドの上で穏やかな寝息を立てている。

 その寝顔を安堵の表情で見つめる渉は、学校で界斗に会って報告しなきゃと考えていた。

 そして月曜日。

 校内でなかなか界斗に会えなかった渉は、3年の教室まで行こうかと悩みながら渡り廊下を歩いていた。

 そこで自販機の前に界斗の姿があることに気づき、喜んだ渉は界斗の名前を呼んだ。お茶のペットボトルを取り出した界斗が、渉に気づいて口元を緩めた。

 渉はその場で界斗に「妹が、直接お礼を言いたいそうなんです」と伝えると、界斗は「そうか。だったらお見舞いに行ってもいいか?」と言った。

 こうして、今週の日曜日の午後に、界斗がお見舞いに来ることになった。



***


 日曜日。

 すっかり体調が良くなった妹は、退院を一週間後に控えてご機嫌だった。

 午後に見舞いに来た渉は妹と一緒に界斗を待った。三十分ほどして個室の扉がノックされ界斗が姿を現した。驚くべきことにその隣には一人の少女がいた。

 鈴華は界斗に霊符をくれたお礼を言った。界斗はにこりと笑って、どういたしましてと言い、そして隣にいる少女を紹介した。


「君と同じクラスになると聞いたから、連れて来たんだ」


「はじめまして! 私、結崎愛美ゆいざきまなみ。これからよろしくね、鈴華ちゃん」


 にこっと笑顔を見せて明るくハキハキした声で自己紹介をした愛美は、金髪ショートカットのスポーティファッションをした、見た目も中身も元気な少女だ。


「うん。よろしくね、愛美ちゃん」


 鈴華は少し緊張気味な笑みを浮かべて返した。

 積極的な愛美が鈴華に話題を振り、明るいその笑顔につられて鈴華の笑みも和らいでいく。


「白坂。ちょっと二人きりで話がしたいんだが、いいか?」


 二人が会話に夢中になっている中、界斗が渉に静かな声でそう言った。

 渉が不思議そうに界斗の方を見ると、界斗は病室の扉の方をちらっと見て、外に出ることを伝えてきた。


「あ、はい。大丈夫ですよ」


 渉は頷き、鈴華と愛美に向かって少し席を外すことを伝え、界斗と一緒に廊下に出た。

 廊下に出た二人は他の人の邪魔にならないように壁に背中を向けて並んだ。

 渉はさっそくニヤニヤして界斗に言う。


「あの子って、界斗先輩の恋人ですか?」


「いや。愛美は母親の再婚相手の娘だ」


「あ、そうだったんですね…」


「まぁ、再婚はまだしていないんだけどな」


 余計なことを聞いてしまった……、と渉は反省する。

 界斗は特に気分を害した様子もなく、渉を見つめて口を開いた。


「『残余霊』のことで、白坂に頼みたいことがあるんだ」


 渉は驚いて目を大きくした。

 界斗は真剣な眼差しを渉に注ぐ。


「全ての『残余霊』を封印する為に、俺に白坂の力を貸して欲しい」


「俺の……?」


 渉は戸惑った。


「でも俺は、界斗先輩みたいに霊力もないただの人間です。俺に出来ることなんて…」


「俺は、白坂の根性に惚れたんだ」


 渉は驚いて、穏やかな表情を浮かべている界斗を見つめた。


「『残余霊』に襲われたあの状況で、逃げずに俺に協力してくれた。その根性には驚かされたよ。力を持たない人間の心は弱い。けど白坂は、力を持たなくても強い心を持っている」


 渉は胸が熱くなるのを感じた。


「白坂が居てくれたら、多くの犠牲者を出さずに済む。もちろん、白坂の命は俺が守る。絶対に傷つけさせない」


 界斗は真っ直ぐな言葉を打つけてくる。女子ならノックアウトされてしまいそうなセリフに、渉は思わず頬を赤らめた。


「だから頼む。協力して欲しい」


 界斗は渉に頭を下げた。

 界斗の気持ちは渉に充分伝わった。


「–––……わかりました。俺もこの町の平和を望んでます。俺が出せる全力で、界斗先輩に力を貸します!」


 頭を上げた界斗はホッとした表情を浮かべ、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう、白坂」


 部屋に戻ると、鈴華と愛美が笑い声を上げていた。


「あ、兄さん」


 愛美がこちらに顔を向けて、界斗を呼んだ。


「今ね、鈴華ちゃんと駅前にできたパンケーキのお店の話してたんだ。鈴華ちゃんが退院したら、四人で一緒に行こうよ」


「いや、俺はいい。甘いものは苦手だって知ってるだろ?」


「だいじょーぶ! そこのお店、お食事系のパンケーキもあるから。ね、行こうよ兄さん。お願い!」


 愛美が祈るように手を組んで、じぃっと界斗を見つめると、界斗は苦笑いを浮かべて渋々折れた。


「わかったよ」


 やったぁと喜んだ愛美は、はたと気づいたように言った。


「そうだ、心矢さんも呼ぶ?確か甘いもの大好きだったよね」


「あいつを呼ぶなら、俺は絶対に行かないぞ」


「あーはいはい。わかった呼ばないから。も〜、相変わらず心矢さんとは仲悪いんだね」


 愛美はやれやれというように首を振った。

 それからしばらく四人での会話を楽しんだ。

 愛美から学校のことをいろいろ聞いた鈴華は、凄く楽しそうだった。その笑顔を見られることが、渉の幸せでもある。

 だからこそ渉は覚悟を決めた。

 この新しい町で家族と平穏な生活を送るために。

 界斗と、そして心矢に力を貸すと。




 こうして、渉のこれまでの日常は大きく一変することとなる–––。


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