何だか『気になる人』ができた日本の女の子

 月曜日の朝6時。まだ日の出ていない薄暗い部屋の中、暖人はベッドの上で寝返りを打っていた。彼が寝返りを打ちながら手を伸ばしたとき、何かに触れた気がした。


(ん?なんだこれ)

 暖人はそれが何なのか確かめようと、手で触ってみる。ほのかな温もりとともに、硬さの中に柔らかさが混じる不思議な感触だ。ケータイにしては柔らかすぎるし、枕や布団にしては硬すぎる。


「うわっ!!」

 暖人は手元に触れたものを確かめようと、そっと目を開けた。そこで目に飛び込んできたのは、隣で腹を出してぐっすりと眠っている優芽の姿だった。暖人はあまりの状況に驚き、思わず大声を上げてしまった。


「うぅん……あ、お兄ちゃんおはよう~」

 暖人の悲鳴で目を覚ました優芽は、まだ半分夢の中にいるような気だるい声でのんびりと挨拶をし、目をこすりながらゆっくりと起き上がった。


「あ、おはよう~、じゃなくて!お前、なんでここで寝てんだよ!?おかしいだろ!」


「え?本当だ。ん~昨日の夜にちょっとトイレに行って、そのまま兄ちゃんのベッドに突撃しちゃった…とか?」


「ありえるか!そもそもお前の寝場所はあっちだろ!」

 暖人が指さした先には、ベッドから少し離れたところに、ぐちゃぐちゃに乱れた布団と枕が敷かれていた。


「だって、あたし、敷布団には慣れてないんだもん~!」


「わがまま言うな。この部屋にこれ以上ベッドなんて置けるわけないし」


「ええーじゃあ、兄ちゃんがそっちで寝てくれればいいじゃん」


「するかよ!」

 朝から言い争いを始めた二人の間で、ケータイのアラームが鳴り響く。暖人はアラームを切って、寝床を片付け、朝食の準備をするために台所へ向かった。


 暖人が朝食を準備している間、優芽も寝床を片付けて学校の準備を進めていた。シャワーを終え、髪を乾かしている途中、台所から漂う香ばしい匂いと共に、暖人の「ご飯できたぞ」という声が響く。それを聞いた優芽はドライヤーを止め、髪を整えてから、食卓に腰を下ろした。


「うぅん~!美味しい!」

 今日の朝食は黄身がとろける目玉焼きとふっくらした白米、そしてピリ辛のキムチ。昼食や夕食に比べると少し質素なメニューではあるが、優芽は目を輝かせながら、嬉しそうに頬張った。


「お兄ちゃんのご飯て美味しいもんねー」


「そうか?ならよかったけど」


「うん!でも、納豆とかあったらもっとよかったかもね~」


「昨日全部食べちゃったから、今日はこれで勘弁してくれ」

 優芽の注文を受けた暖人は、ケータイを取り出してメモ帳に「納豆」と入力する。目玉焼きの黄身を最後に口に運び、食事を終えた優芽は席を立ち、シンクに食器を置いて水を張り、そのまま再びベッドへ向かった。


「お前、また寝ようとするんじゃねぇ!」


「痛い!痛いよ!」

 暖人のツッコミを無視してベッドへ向かう優芽。そんな彼女がベッドに倒れ込むのを阻止しようと、暖人は腕を掴んで引き止める。朝からの綱引きがひとしきり続いた後、気がつけば優芽が学校へ行く時間になっていた。


「学校までの道はちゃんと分かっているのか?」


「もちろん!ちゃんと地図も確認したし!」

 昨日の出来事が気になって、心配そうに問いかける暖人。そんな暖人の気持ちを分かっているのかいないのか、優芽は明るく答えた。


(はあ、マジほっとけないやつなんだからな)

 優芽は、自分を心配してくれている兄に「行ってきます」と言って家を出た。優芽を見送った暖人も、そのまま部屋に戻り、学校へ行く準備を始めた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「あれ?なんか違う」


「えっ?!また家に戻っちゃったじゃん?!」


「うぅん……ここで右に曲がって……じゃないか……?」


「えっ、ここってどこ?」

 優芽は戸惑いの色を浮かべながら、周囲とケータイを交互に見つめた。地図を確認しながら歩き続けていたものの、どうやらまた迷子になってしまったらしい。


「お兄ちゃんに電話しようかな……」

 しかし、優芽は迷った末に暖人に電話をかけるのをやめることにした。昨日の出来事が頭をよぎり、これ以上兄に心配をかけたくないと思ったからだ。どうすればいいのか分からず立ち尽くしている優芽に、ある少年がそっと声をかけてきた。


「君、うちの学校だよね?」

 優芽と同じ制服を着ていた少年は、困った様子の優芽に気づいたのか、穏やかな声でそっと話しかけてきた。


「なんか道に迷っているみたいでさ。もしかして転校生?」


「あ、はい。えっと、あなたは……?」


「そうだね、僕はミル。日本にずっと住んで、今年こっちに転校してきたよ」

 そうなんだ、日本語が通じるのはその理由だったんだ。優芽は日本語が通じる人が近くにいることにほっとし、安心した笑顔を浮かべながら、自分も自己紹介をした。


「あたしは鴛野川おしのがわ優芽ゆめと申します!日本で生まれ育って、今日から転校することになりました!えっと、実は道に迷ってて……」


「やっぱりそうだったんだ!えーと、鴛野川さん……で合ってるよね?よろしくね!」


「はい。こちらこそよろしくお願いします」


「うん!じゃあ、遅刻しないように早く行こう!」

 そうして二人は、学校に遅れないように並んで歩き始めた。澄み渡る青空の下、爽やかで心地よい風が頬を撫でる中、微妙な気まずい空気を破ったのは、ミルの声だった。


「鴛野川さんって、韓国は初めて?」


「はい。韓国語もまだ話せないのに学校なんて……少し心配です」


「そうなんだ~。でも、うちの学校は国際学校だから、それぞれの母国語に合わせて授業が行われるんだよ。たぶん、僕たちは日本語で授業を受けることになるから大丈夫だと思う。」


「そ、そうなんですか?よ、よかった~」


「でも韓国語の勉強はちゃんとしておかなきゃでしょ?さっきみたいに道に迷ったら大変だから」


「そ、そうですね……」


「アハハ、もし分からない韓国語があったら言ってよ。僕、こう見えても一応韓国人だから」


「あ、はい、ありがとうございます」

 道を歩いているうちに、同じ制服を着た生徒たちの姿がちらほらと目に入るようになり、二人はそのまま校門の前にたどり着いた。


「それじゃ、僕はちょっと行くところがあってね」


「あ、はい。ありがとうございました」


「うん。またね」

 その言葉を最後に、ミルは先に学校の中へ足を踏み入れた。優芽は彼の後ろ姿をぼんやりと見つめていたが、ふと我に返り、慌てて自分も学校の中へ入っていった。校内に足を踏み入れた優芽は職員室へ向かい、扉を開けて中へ入ると、担当の先生が彼女に気づき、優しい声で話しかけてきた。


「あなたが鴛野川さんだよね?」


「あ、はい」


「えーと、日本1組だね。3階に教室があるから、そっちに行ってくれたらいいよ。頑張ってね!」

 先生は言葉を終えて、優しい笑顔を見せてくれる。優芽は先生に礼を言い、職員室から出て、先生に教えてもらった教室へ向った。


 2階へ上がり、ドアを開けて教室に足を踏み入れる優芽。教室ではちょうど朝のホームルームが進行中だった。優芽の入室に気づいた担任の先生は、彼女を前に呼び、教壇に立たせた。


「えーと、こちらは今日転入してきた鴛野川優芽さんです。みんな仲良くしてくださいね」


「初めまして。鴛野川おしのがわ優芽ゆめと申します。日本で生まれ育って、今年転入することになりました。1年という短い時間ですが、これからどうぞよろしくお願いします。」


「はい。それじゃ、鴛野川さんの席はあっちだね」

 先生が指さした教室の後ろ、窓際には空いている席が一つあった。優芽はもう一度軽く頭を下げた後、先生に指定された席へ向かい、椅子に腰を下ろした。


「それじゃ、今日のホームルームはここまで。みなさん、今日も頑張ってくださいね」

 先生は話を終えるとすぐに教卓を片付け、教室を出て行った。先生が教室を出るや否や、周りの女生徒たちが次々と優芽の席に集まり始めた。


「ねね!おし……おしの……」


「鴛野川優芽です。優芽で大丈夫ですよ」

 集まった女生徒の一人が優芽の名前を言おうとしたが、途中で言葉に詰まってしまった。おそらく、優芽の名字が珍しいため、うまく発音できなかったのだろう。優芽も自分の名字が珍しいことは分かっていたので、彼女にそっと教えてあげた。すると、別の女生徒が優芽に声をかけてきた。


「ねね!優芽ちゃん!ちょー可愛いんだけど!化粧品、何使ってる?」


「優芽ちゃん!兄弟いる?あの兄弟さんもちょーイケメンだろうね~」


「「「優芽ちゃん!優芽ちゃん!」」」

 優芽が答える間もなく、次々と質問が浴びせられる。どうすればいいのか分からず困惑している優芽の耳に、突然、一筋の光のように差し込む声が聞こえてきた。


「そこ!うるさいから自分の席に戻りなさい!」

 幸いにも、次の授業のために担当の先生が教室に入ってきた。先生の一声で、蟻のように群がっていた生徒たちは、それぞれ自分の席へと戻っていった。


「これはXとYが左側にあって……」

 教室の中には、先生の声だけが静かに響いていた。ほとんどの生徒たちは真剣に授業に耳を傾けていたが、中には居眠りをしたり、よそ見をしている者もいた。優芽も数学が得意な方ではなく、退屈そうな表情でぼんやりと黒板を眺めているだけだった。退屈な授業が続く中、優芽はつまらなさをこらえきれず、大きなあくびをしながら時計に目をやった。


(うわっ!まだ30分もたってないじゃん)

 残り時間を確認した優芽は、深いため息をつきながら絶望したように机に突っ伏した。伏せたまま窓の外に目をやると、運動場では他のクラスの生徒たちが楽しそうに体育の授業をしている様子が目に入った。


(いいな~あたしも体育の授業やりたいな~)

 確かに優芽は体力がある方ではないが、頭を使う数学よりも体を動かす体育の方がずっと得意だった。そんなことを思いながら、半分閉じた目で他のクラスの体育の授業をぼんやりと眺めていた優芽の視線に、一人の少年の姿がふと飛び込んできた。


(あれ?あの子は……今朝の?)

 優芽の目が大きく見開かれ、伏せていた体を起こして窓へと近づいた。そんな優芽の視線に映ったのは、間違いなくミルの姿だった。運動場では生徒たちがそれぞれ集まって話していたが、なぜかミルだけは少し離れた場所から彼らを見つめているだけだった。


(確か、ミル……だっけ?なんで一人でいるんだろう?)

 朝は初対面の自分にも親しげに接するほど親和力のある彼だったが、今はなぜ一人離れているのかが気になった。もしかしていじめに遭っているのではないかと一瞬頭をよぎったが、今は他人のことを気にしている余裕はなかった。何しろ、自分も今日が初めての登校日であり、学校に慣れることが最優先だったからだ。そう思い直した優芽は窓から視線を外し、押し寄せる眠気を振り払おうと小さく首を左右に振り、再び黒板へ目を向けた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 チャイムが鳴り、昼休みが始まった。男子たちは我先にと食堂へ駆け出し、女子たちはそれぞれグループを作って食堂へ向かっていった。優芽も昼食を取るために席を立つと、先ほど話しかけてきた二人の女生徒が優芽に近づいてきた。


「ねね!優芽ちゃん!よかったら一緒に食べない?」


「そうそう!優芽ちゃん、一緒に食べよう?」

 突然近づいてきて、驚くほどの社交性を発揮しながら優芽を誘ってくる二人。優芽は一瞬戸惑ったが、初対面の自分に親しく声をかけてくれるだけでもありがたいと思い、二人の提案に応じることにした。


 優芽は二人と共に美味しそうな香りが漂う食堂へ足を運んだ。今日のメニューはスパゲッティとコーンスープ。それにピクルスとガーリックトーストが添えられ、デザートにはバナナが用意されていた。優芽は盛りだくさんのトレイを手にし、二人と向き合う形で食卓に座り、食事を楽しみ始めた。


「そういえば、まだ自己紹介もやってないね。私はキム・ミンジ!お父さんは韓国人でお母さんは日本人のハーフだよ!」


「私は高橋たかはし譲愛ゆずあ!ミンジちゃんとは逆に、お父さんが日本人でお母さんが韓国人なの!よろしくね?」


「はい、こちらこそよろしくお願いします。ミンジさんと高橋さんで大丈夫でしょうか?」


「いや~、優芽ちゃん、固い固い!もっと気楽にしてくれてもいいのに~」


「そうそう!礼儀大事だけど、友達同士ではそんなことなんてどうでもいいから~」


「「ねえー!」」


「あ……じゃ、ミンジちゃんとゆずちゃんで……」


「うんうん!良い調子だね!」


「そうそう!その調子、その調子!」

 二人の親和力に、優芽はまた圧倒されてしまう。しかし、二人が上手く話を盛り上げてくれたおかげで、優芽も昼休みの間に色々な話をすることができた。ミンジと譲愛は中学時代に初めて出会い、ハーフという共通点で親しくなったそうだ。それ以外にも、二人とも一人っ子だということや、今は彼氏がいないという話も出た。そんな話をしながら時間を過ごしているうちに、いつの間にか昼休みが終わりかけていた。


「うわー、お腹いっぱい!ねね!美味しかったよね?」


「そうそう!すごく美味しかったよ!」


(あの二人の口癖って「ねね」と「そうそう」かな……?)

 優芽は心の中で二人に軽くツッコミを入れながら、教室へと向かった。教室に戻ってからは、次の授業のために机の上に教科書を置き、周りをきちんと整えた。そしてトイレに行こうと教室のドアを開けて一歩を踏み出した瞬間、突然飛び出してきた誰かと衝突し、その勢いで尻もちをついてしまった。


「痛っ!」


「あ、ごめんなさい!」

 優芽を押し倒した人の声は、あっという間に遠くの方へ消えていった。優芽がお尻をさすりながら痛みをこらえていると、誰かが手を差し伸べてくれる。その手に気づいて顔を上げた優芽の目に映っていたのは、ミルの姿だった。


「鴛野川さん、大丈夫?」


「だ、大丈夫です。ありがとうございます」

 ミルは優芽を立たせてあげた後、軽く挨拶をして廊下の向こうへ歩き去っていった。優芽はそんな彼の後ろ姿をぼんやりと見送りながら、頬がほんのり熱くなり、胸が静かに高鳴るのを感じた。


(な、なに……あたし、なんでこんなに胸が……)

 優芽が頬を手でそっと押さえながらぼんやりと立ち尽くしていると、授業のチャイムが廊下に響き渡った。チャイムの音にハッとした優芽は、急いでトイレへと駆け出した。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「はい、それじゃ、今日もおつかれさまでした」


「起立!礼!」


「ありがとうございました!」

 授業が終わると、生徒たちはそれぞれ荷物をまとめて教室を出て行き始めた。優芽も机を片付けて席を立ち、帰る準備を整える。優芽が教室を出ようとしたその瞬間、ミンジと譲愛がそっと近づいてきて、優芽に声をかけた。


「ねね!優芽ちゃん!初登校はどうだった?」


「そうそう!私も気になる!」


「あ、うん、ちょっと緊張したけど、思ったより悪くなかったかな……」


「ほんとう?よかった、よかった!」


「そうそう!よかった!」

 二人はまた、すごい勢いで「ねね」と「そうそう」を連発しながら優芽に話しかけてきた。優芽にとって初めての登校日は、確かに悪くはなかった。新しい友達である二人と仲良くなれたし、授業も日本語で進められたおかげで問題なくついていけた。その三人は、今日の出来事を語り合いながら1階へ降りて靴を履き替え、校門へと向かった。


「それじゃ、優芽ちゃん!また明日!」


「そうそう!また明日ね!」


「うん、また明日ね」

 ミンジと譲愛は校門を出て、優芽に挨拶をしてそれぞれの家へと向かった。優芽も家に帰ろうと足を踏み出したが、その瞬間、ふと頭の中にある考えがった。


(まって、家ってどうやって帰るんだっけ?)

 学校に来るときはミルに助けてもらったけれど、帰り道のことまでは全く考えていなかった。


(やっぱりお兄ちゃんに電話しようかな……)

 もしかしたら、暖人はまだ学校にいるかもしれない。しかし、ここでいつまでも立ち尽くしているわけにはいかなかった。暖人に迷惑をかけるのは少し申し訳ない気持ちもあったが、とりあえず電話をかけることにした。


「あ!鴛野川さん?」

 電話をかけようとケータイを手に取ったその瞬間、後ろから誰かが優芽の名前を呼びかけた。名前を呼ばれて振り向いた優芽の視線の先には、校門を出てくるミルの姿があった。


「あ、ミルさん……でしたよね?」


「お!覚えてくれたんだ!ありがとう!もう帰るの?」


「あ、はい。ミルさんも、もう帰るんですか?」


「そうだよ!よかったら一緒に帰らない?」


(か、神……!神様だ……!)

 自分でも気づかないうちに救いの手を差し伸べてくれたミル。優芽にとって今の彼はまるで神そのものだった。優芽は彼の提案に大きく頷き、何度も激しく首を縦に振って同意を示した。優芽の熱烈すぎる反応に少し戸惑いを見せたミルだったが、結局二人は一緒に帰ることにした。


「鴛野川さんの初登校はどうだった?」


「優芽で大丈夫ですよ。友達もできたし、悪くなかったと思います」


「そっか、ならよかった!」

 優しく初登校の様子を尋ねてくれるミルに、優芽は数学の時間に窓越しで見つめていた彼の姿をふと思い出す。


「もしかしてなんですが、ミルさんも学校に来てからまだそんなに経ってないんですか?」

 ミルも今年転校してきたと言っていたから、一人でいたのはいじめなんかではなく、ただまだ友達がいないだけなのかもしれない。優芽の質問に、ミルは少し照れくさそうな顔で答えた。


「それなんだけど、実は僕も優芽さんと同じく、今日が初登校なんだ」

 だから一人だったんだ、と自分が見た光景に納得した優芽は、なんだか仲間ができたような気がして、心の中でひそかに喜んでいた。恥ずかしい秘密を知られたように照れていたミルは、優芽に問い返した。


「優芽さんって、どう分かったの?」


「見ようとして見たわけじゃないんですけど、ミルさんが体育の授業をしているのを見ちゃって……それで、なんだか一人で離れているように見えたんです」


「見られたんだ~。僕、まだ韓国には友達がいなくてね。だから優芽さんを見て、惹かれたのかもしれないね」

 ミルの言葉を聞いた優芽の胸が再び高鳴り始める。口の中が乾いてきて、頬が少し赤くなり、どこかに隠れたくなるような気持ちが込み上げてきた。そんな優芽の様子に気づいたミルは、優芽に問いかけた。


「え?顔、ちょっと赤くなってるけど、大丈夫?」


「あっ、はい!大丈夫です!!!!」

 ミルに顔が赤くなっているのを見られた優芽は、その恥ずかしさに耐えられず、まるで逃げるようにその場を駆け出した。


「あっ、まって!優芽さん、そっちじゃないよ!」

 優芽が家とは違う方向に走り出すと、ミルもその後を追いかけて走り始めた。こうして二人は町を何周か走り回り、最終的に優芽の家の前でようやく足を止めた。


「はあ、はあ、大丈夫?」


「はあ、はあ、はい。ごめんなさい。大丈夫ですか?」


「はあ、はあ、大丈夫だよ。なんで急に走ったの?」


「はあ、はあ、いや、なんか走りたくなっちゃって……」

 二人は同時に深く息を吸い込み、一気に吐き出しながら呼吸を整えた。あるほど呼吸が落ち着くと、優芽はミルに話しかけた。


「あの、今日は色々ありがとうございました」


「いやいや、僕、何もしてないし」


「いいえ、おかげさまで道に迷わずに学校に行けましたし、家にも帰れましたし……何かお礼でもしたいんですが……」

 優芽の言葉を聞いたミルは、少し躊躇ためらいながら優芽に答えた。


「それじゃ、優芽さんの連絡先もらえるかな……?」

 その瞬間、優芽は自分の耳を疑った。初めて会ったばかりなのに、ずっと気になって、意識してしまう相手から先に自分の連絡先を聞かれるなんて。まるで今にも空を飛べそうな気分だった。そんな優芽は、震える手でケータイを取り出し、ミルと連絡先を交換した。


「ありがとう。ちゃんと保存しておいたよ。それじゃ、またね」

 ミルはケータイをポケットにしまい、背を向けて歩き出した。しばらく何かを考えるように目を閉じていた優芽は、やがて両手を拳に握りしめ、大きく息を吸い込む。そして、家に向かって歩き出すミルに向かって大きな声で告げた。


「と、友達なんていなくても大丈夫です!あ、あたしが、ミルさんを支えてあげますから!」

 優芽の言葉を聞いたミルは、足を止めてしばらくぼんやりと立ち尽くした後、明るい声で笑いながら優芽の方を向いて言った.


「アハハ、ありがとう!優芽さんって本当に頼りになるね」

 ミルの笑い声を聞いた優芽は、思わずとんでもないセリフを言ってしまったことに気づき、恥ずかしさが込み上げてくるのを感じた。ミルはそんな優芽を見つめながら、からかうような口振りで話しかけた。


「もし明日も道に迷いそうだったら、連絡してもいいからね?」


「迷わないよ!」


「ガチャ」


「あれ?優芽ちゃん?ミルもいるじゃん?」

 道の真ん中で顔を赤く染めて立っている優芽と、楽しげに笑っているミルの間に、ドアを開けて現れたのはソヨンだった。


「お姉ちゃん?」


「え?お姉ちゃん……?」


「あ、紹介するね。こっちは僕の姉のソヨンだよ」


「あれ~?これは自己紹介タイム?ミルの姉のソヨンで~す!」


「まって、ソヨンニーってミルさんのお姉ちゃんだったの?!」


「そうだよ!今度ミルのこと、優芽ちゃんに紹介してあげようっと思ったけど、これはタイミングがいいね~」

 そうしてソヨンはしばらくミルのことを紹介し始めた。しかし、その内容は、すでに優芽がミルから聞いていたことばかりで、あまり役に立たなかった。それよりも、今の優芽にはミルとソヨンが兄妹だという事実よりも気になることが一つあった。


(さっきのあれ、ソヨンニーに聞こえてはないよね……?)

 自分が口にした恥ずかしい言葉——「あたしが、ミルさんを支えてあげますから!」それだけは絶対にバレてはいけない。いくらソヨンだって、いくら親しい人だって、ロマンチック映画にでも出てきそうな、手足が縮こまるほど恥ずかしいセリフを言ったことがバレるのは、どうしても避けたい。もしや聞かれていなかったかと、不安で顔が真っ青になっていく優芽を見たソヨンとミルは、少し困ったような表情で挨拶をし、家へと向かっていった。


「学校はどうだった?」


「ん~、初登校だったからね~、ちょっと微妙って感じ?でも優芽さんにも会えたし楽しかったよ」


「おやおや、もう彼女探し?うちの弟さん、早すぎじゃない?」


「そんなことないよ!それに僕、彼女いるし」


「え?彼女いるの?」


「そうだよ!ちゃんと中学の時から付き合っています!」


「うちの弟さん、やるな~」

 こうして兄妹は、これまで話せなかったお互いのことを語り合いながら道を歩く。その頃、家の前でぼんやりと立っていた優芽は、全身をだらりとさせながら、ドアを開けて家の中に入っていった。


「おかえり。学校はどうだった?」


「た、楽しかったよ……アハ、アハハ……」


「そう?そういえば、さっきまでソヨンが来たけど弟さんが韓国に来たって」

 暖人の言葉を聞いた優芽は、顔の表情が固まり、できるだけ笑顔を作ろうと必死に努力しながら、震える声で答えた。


「そ、それなんだけど、さ、さっき家に入る前、ソヨンニーに出会ったよ」

 優芽の反応に少し怪訝そうに思った暖人だったが、気にせずに話を続くことにした。


「そうか?とにかく、今週末に一緒に買い物行こうって」


「うん?あ、うん。いいじゃん。うん、いいと思う。アハハ、アハハハ……」


「それじゃ、ソヨンにはメッセージ送っておくからな」


「うん。アハハ、アハハハ……」

 優芽のぎこちない反応に、「学校がちょっと大変だったのか?」と思った暖人。彼はぼんやりと空を見つめながら笑っている優芽のことが少し心配になったが、気にせず課題に集中することにした。そんなふうに、しばらくの間、優芽の虚ろな笑い声だけが部屋に響き渡り、彼女の韓国での波乱に満ちた学校デビューも、ついに幕を閉じた。

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