何だか『知らずに本心』を伝えた韓国の女の子
少し暑い日曜日の朝。
「ちょっと、暑いしキツいから離れてよ」
「ええ、あたしもキツいけど、手が届かないから仕方ないじゃん」
優芽は頬を膨らませながら、愚痴をこぼした。確かに電車のつり革は暖人が掴むには十分だったが、優芽の身長だと少し難しいかもしれない。電車の中には小柄な人でも掴めるつり革もあったが、暖人と優芽がいる場所から少し離れたところにあったため、仕方なく優芽は暖人の腕にしがみついていたのだ。暖人はため息をつき、優芽が自分の腕をよりしっかりと掴めるように、暖人は少し腕を動かしてあげた。
「そういえば、韓国の遊園地って制服を貸してくれるんだって!ねえ、お兄ちゃん、一緒に着てみようよ!」
「着ないよ」
「うわっ、はっきり断るんだねー」
「そうだよ」
「お兄ちゃんがこう出てくれるなら、あたしにも
優芽は突然電車の床にゴロンと寝転び始めた。そして、「やだやだー!あたしも韓国の制服着てみたいんだもん!」とわがままを言った。
「おい、ちょっと!おとなしくしろ!」
「やだやだー!お兄ちゃんなんて大っ嫌い!!!」
どうやら優芽は、暖人の言うことをまったく聞く気がないようだ。そのまま放っておけば、何時間でも床に寝転んでいそうな優芽を見て、暖人はため息をつきながら言った。
「はあ、わかったよ。着てやる」
「本当?やったー!お兄ちゃん大好き!!」
優芽はその場で力強く地面を蹴って立ち上がり、暖人に飛びかかった。突然優芽が飛びかかったせいで、バランスを崩して倒れそうになった暖人だったが、すぐに体勢を立て直し、優芽を自分の首にしがみつかせたまま、走る列車の窓の外に視線を向けた。
「うわっ!乗り過ごすところだったじゃん!」
暖人は優芽を慌てて降ろした後、混雑した人々の間を抜けて電車を降りた。優芽は弾むような足取りで制服レンタルショップに向かい、暖人はたらたらと彼女の後ろを追いかけた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
制服レンタルショップの中には、恋人と思われる人たちが何組か集まっていた。ピンクのベストと短いピンクのスカートで可愛さを最大限にアピールしている人、ベージュのカーディガンと黒い線が入ったベージュ色のチェック柄のスカートで品の良さを強調している人、黒いベストと黒いスカートでシンプルにまとめた人など、それぞれが自分らしい魅力を見せつけていた。そんな韓国風の制服の中に、日本のセーラー服を着ている人たちもいた。
(セーラー服も可愛いんだよな~。優芽が来たのは全然そうではなかったけど)
優芽が今まで着ていたセーラー服は、他のセーラー服のデザインとは全く違うことがなかった。しかし、校長の「うちの学校の制服は他の学校と差別化したい」という意見で、優芽は3年間金色のセーラー服を着なければならなかった。その金色のセーラー服を着ていた優芽は、優れた容姿にもかかわらず、どこか浮いて見えた。暖人は今、優芽が制服を借りてでも着たいと思っているのは、その時のトラウマのせいではないかと少し考えた。
「お兄ちゃん、お待たせ!どう?似合う?」
試着室のカーテンが開き、周囲の人々のざわめきと共に、制服を着た優芽が姿を現した。彼女が着ている制服は、白いブラウスと赤と黒のチェック柄のスカートがセットになったものだった。その制服は普通の学校の制服と大差はなかったが、優芽という存在だけで、圧倒的なオーラを放ち、輝いていた。
「まあ、悪くないね」
「それって可愛いってことでしょ?兄ちゃんってば~」
「うっせぇ」
「そういうお兄ちゃんもカッコいいじゃん、ソヨンニーがまた惚れちゃうかもね~?」
優芽のいたずらっぽい冗談に、暖人は思わずビクッとした。少し顔を赤らめた暖人は、からかうように話す優芽に抗議した。
「だから付き合ってないって!お前、それソヨンにも失礼だよ」
「え、なんで?」
「俺も分かんないけど、ソヨンに彼氏がいるかもしれないじゃん」
「ほぉ~そっか」
そこまで考えたことがなかったような反応を見せた優芽は、何かを思い出したように暖人に尋ねた。
「でも、二人でプリクラ撮ったんでしょ?」
「それはただの友達として撮っただけ。ソヨンもそう言ってたし」
(男女が友達としてプリクラを撮るなんてある?)
疑問を持った優芽だったが、何も言わないことにした。理由は単純。早く遊園地を楽しみたいからだ。こんなやり取りをしている間にも、大切な時間がどんどん消えていってしまうからだ。
「ってか、準備終わったらもう行くぞ」
ちょうど暖人が優芽の気持ちを察したように声をかけた。暖人が先に店を出て、優芽が楽しそうに後に続く。その二人の前に広がっていたのは、広大な夢の国……だったらよかったが、実際にはその光景を遮ている大勢の人々だった。
「お兄ちゃん……今日って何曜日だっけ……」
「日曜日……だね」
(週末に人が混むのは当たり前だけど、まさかここまでとは……)
予想以上の人混みに戸惑う暖人。優芽は一度つばを飲み込み、暖人を見ながら言った。
「お兄ちゃん……あたし、手つなぐ方がいいかな……」
「そ、そうしよ……」
普段なら手つなぎなんて、優芽も暖人も嫌がっていただろう。しかし、今日のような人混みの中でお互いを見失ったら、探す手立てがない。二人は手をつなぎ、人波に向かって一歩を踏み出した。
【あ、あの人……】
暖人と優芽が人々の中に消え去った後、誰かが口を開けて独り言をつぶやいた。少し離れた場所から二人を見つめていた一人、それはミソだった。カフェで働いていたミソは、休憩のため外に出たとき、暖人と優芽の姿が目に入り、それ以来ずっと見守っていた。ミソは優芽と手を繋いでいる暖人を見ながら、記憶をたどっていた。
(確かにあの人、ソヨンとプリクラを撮りに行ったよね……?なんで別の女と手まで繋いで……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「「ごくっ」」
暖人と優芽を乗せたジェットコースターがガタガタと音を立てながら、ゆっくりと空へ上がっていく。下を見下ろすと、人々が
「「きゃあああああああああ!!」」
ジェットコースターが急速に下に落ち始める。そして、突然空へと再び舞い上がり、円を描きながらきれいに回転する。その後も何度か上下しながら、暖人と優芽を降り場に連れて行く。
「「ごくっ」」
今度は高さが分からないほど遥かに高い空。ドロップタワーにぶら下がり、震えている暖人と優芽。すごい高さからくる恐怖に、股間のあたりがむずむずする。
「「きゃあああああああああ!!」」
ある高さに達して、グルグル回っていたドロップタワーは回転を止め、突然落下する。二人は思わず目をぎゅっと閉じて開けると、あっという間に地面に着いていた。
「アハハ、お兄ちゃん!これ楽しい!」
「ぐえぇ、ぐえぇぇぇぇぇ」
楽しそうにハンドルを回しながら笑っている優芽。猛烈な勢いで回るコーヒーカップに乗っている暖人は、むかむかして吐き気をもよおす。あの二人は何時間もアトラクションを楽しみながら時間を過ごした。
「つかれたー」
暖人はテーブルにうつ伏せて、疲れた様子で言った。
「お兄ちゃん……マジ体力だめだね」
「うっせぇな。8時間も遊んで元気満々なお前がおかしいんだよ」
「まあ、あたしまだ若いしね~。どこかのおじいちゃんと違ってさ!ちょっとお手洗い行ってくるね」
優芽の言葉が気に障ったが、彼にはツッコむ力もなかった。そうやって休んでいた暖人の後頭に、誰かの影が差し込んできた。
「あれ?暖人くん?」
頭を上げて声の正体を確かめる暖人。声をかけたのは、他でもないソヨンだった。突然のソヨンの登場に、暖人は体を起こして座り直した。
「お、ソヨンじゃん。こんなところで何してるの?」
「私、この遊園地のカフェでバイトしてるんだけど、ちょっと他のお店に頼みごとがあってね。暖人くんは?」
「優芽と遊びに来てさ。今はちょっと休憩って感じで休んでる」
「まぁ、暖人くん体力ないもんね?すぐ倒れちゃうから。ヒヒッ」
「それとこれは違うと思いますが……」
「そういえば優芽ちゃんは?一人で遊びに行ったの?」
「お手洗いに行ってる。でも、ちょっと遅いな」
「道に迷ってるとか?もしそうなら、探しに行かなきゃじゃない?」
「いやー、子供じゃないし……たぶん大丈夫だと思う」
「そうかな?そうだったらいいけど。あ、それじゃ、私、ちょっと急いでるから!またね!」
そう言って、ソヨンは風のように駆け去って行った。一瞬で消えてしまったソヨンに、暖人は「幻だったのかな?」と思う。暖人はケータイを取り出し、少し遅れている優芽にメッセージを送った。
「結構遅れてるけど、大丈夫?」
メッセージを送った暖人は、再びテーブルにうつ伏せになり、押し寄せる疲れに耐えきれず、少しずつ目を閉じ始めた。
(ん……?俺、ちょっと眠った……?)
目を開けると、いつの間にか周りが夕焼けに赤く染まっていた。ケータイを取り出して時間を確認すると、7時を少し過ぎていた。暖人は慌ててメッセージを確認したが、優芽からのメッセージは届いていなかった。暖人は席を立ち、優芽を探すために足を動かした。彼に優芽がどこにいるのか、何があったのかを知る術はなかった。しかし、だからと言って、じっとしているわけにはいかなかった。暖人はまず、服を借りた店に向かって走り出した。
【女の子?見たことないけど……】
【ふぅ~ん、来たことないわ】
【いや……ないない】
服を借りた店を含め、自分が訪れた場所を探してみたが、優芽の姿は全く見当たらなかった。優芽を、大切な妹を失ってしまうなんて、兄として失格だ。暖人は自分を自責し、同時に自分には何もできないという事実を痛感した。もっと優芽に気を使ってあげればよかった。あのとき、優芽の後をついて行ってあげればよかった。優芽が泣きながら自分を探している姿を想像すると、だんだん頭が真っ白になっていく。今でも優芽が自分を呼びながら走ってきてくれればいいのに、現れて自分にわがままを言って欲しいのに。しかし、現実はそうではなかった。
暖人はまた一人になってしまった。周りには助けを求める人もいない。妹を失ったという現実、そして周りに誰もいないという孤独感が、暖人の心を再び圧し潰し始める。苦しくて息ができない。心臓が止まっちゃいそう。罪悪感で胸が痛い。暖人を取り巻く孤独と罪悪感は、まるで一度足を踏み入れると二度と抜け出せない沼のように、彼を徐々に飲み込んでいった。暖人がすべてを諦め、沼の底に身を任せ、抜け出すことすら考えなくなったその瞬間、ポケットからケータイの通知音が響き渡った。
「暖人くん。優芽ちゃん、ここにいるよ」
その瞬間、止まりそうだった心臓が再び動き始め、暖人は震える手で携帯を確認した。希望を失い、死にかけていた彼に救いの手を差し伸べたのはソヨンだった。彼女のメッセージを見れば、彼女は優芽の面倒を見ているようだった。暖人は今にも倒れそうな体だったが、残りの力を振り絞り、ソヨンが働いているカフェに向かって走り出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あれ?ここじゃないね」
「えっ?ここも違う……」
「ふうぅん……そこかな?」
トイレで用を足した優芽は、兄がいる場所へ戻ろうとした。しかし、足を踏み出した瞬間、波のように押し寄せてきた人混みに巻き込まれ、気がついた時には、自分がどこにいるのか分からない場所に到着していた。
「あれぇ?これは迷子ってやつかな……まあ、地図を見れば分かるっしょ!」
そう思いながら、近くに掛かっている地図を確認する優芽。しかし、地図を見た瞬間、優芽はすぐに困惑してしまった。なぜなら、地図に書かれているのは当然のことながら韓国語だったからだ。小さな文字で英語や中国語、日本語も書かれていたが、たくさんの人で賑わう場所で、人混みに巻き込まれて自分の位置すら分からない状態で地図を見て道を探すのはほとんど不可能に近かった。
「ま、まって、落ち着くんだ、あたし。そ、そう!け、ケータイでお兄ちゃんに連絡すれば……」
優芽はケータイを取り出し、暖人に連絡しようと画面を押してみる。しかし、ケータイは画面が消えたままで、何の反応も見せなかった。
「え?なんで?」
瞬間、優芽の脳裏に家を出た時からたくさんの写真を撮り、SNSにアップしていた自分の姿が浮かび始めた。おそらく、その時からずっと充電が減り、電源が切れてしまったのだろう。
(どうしよう……怖い……またおしっこ漏らしちゃいそう)
優芽が今立っている場所は、韓国の遊園地。韓国語が話せて、アトラクションが好きな人にはここが天国だろう。しかし、優芽は韓国語を全く話せない。つまり、今の優芽にとって、この場所は天国じゃなくて異世界と変わらない。装備も、知識も、仲間もない見知らぬ異世界。ファンタジージャンルの小説だったら、仲間を作り、装備を得て、知識を積み重ねて魔王を倒すのが
【あの……もしかして、道に迷ってますか?】
涙をためた目で立ち尽くしている優芽の後ろから一人の女性が声をかけてきた。その女性の名はミソ。優芽と暖人が一緒にいたのを見たミソは、一人で泣きそうに立っている優芽を見て、心配そうな顔で声をかけてきたのだ。
【あ、もしかして、韓国語が話せないのかな?えっと、Can You Speak English?】
優芽が何も言わずにぼんやりと自分を見つめているのを見たミソは、彼女が韓国語を話せないことに気付き、どうにか優芽と会話を試みようとした。しかし、彼女の努力にもかかわらず、思ったよりも言語の壁を越えるのは難しかった。
【困ったな……一応、カフェに連れて行こうか】
ミソは優芽に「ついて来て」とジェスチャーをし、自分が働いているカフェに彼女を連れて行った。
【いらっしゃい……あれ?どうした?】
仕事を終えて家に帰ったミソが再びカフェに戻ると、ソヨンは怪訝そうに尋ねた。
【帰ろうとしたけど、道に迷ってるような人がいてね。たぶん、ソヨンちゃんが知っている人の知り合いだと思うんだけど、少しだけ面倒を見てもらえないかな?】
ミソは暖人と優芽がどんな関係か知らない。暖人の存在も、ソヨンと一緒にいた人だとしか分かっていない。もし暖人とソヨンが付き合っていて、この少女が暖人の浮気相手かもしれない。しかし、それはソヨンが解決すべき問題であり、自分が関与することではないと分かっていた。ミソはソヨンに挨拶をした後、優芽をカフェの中に入れ、再び家へ向かって歩き出した。
「あれ?優芽ちゃん?暖人くんは?」
「そ、ソヨンニー……ブワアアアアア」
ソヨンを見た瞬間、涙が一滴、二滴とこぼれ始める。やがて優芽は赤ちゃんのように大声で我慢していた涙をこぼし始めた。異世界で異邦人の助けをもらい、仲間のいる場所にたどり着いた勇者。たとえ魔王を倒せなかったとしても、その勇者にとってはそんなことなんてどうでもいい。ソヨンは突然泣き出した優芽を見て戸惑いたが、テーブルの上でティッシュを取り出し、彼女の涙を優しく拭ってあげた。
「そうなんだ。それで迷子になっちゃったんだね?」
「うん……ヒクッ」
ある程度落ち着けた優芽は、ソヨンに今までの出来事について話した。
「そうなんだね。じゃ、まだ暖人くんには連絡してないの?」
「しようとしたけど……ケータイの充電が切れちゃって……」
「そっか、じゃあ私から連絡しておくね?暖人くんが来るまで、少し休みながらおしゃべりでもしようか!」
ソヨンは、まだ気が滅入っている優芽を元気づけようと思ったのか、少し明るい声で話しかけながら、暖人にメッセージを送り始めた。
「ん~何から話そうかな~?遊園地、楽しかった?」
「楽しかった!すごく楽しかったけど……久しぶりに兄ちゃんと遊べたのに、あたしが道に迷ったせいで、兄ちゃんに迷惑かけちゃったんじゃないかって……ちょっと心配で……」
優芽は遊園地に来るのを楽しみにしていた。暖人も表には出さないものの、きっと期待していたに違いない。異国での生活は孤独であり、寂しいものだから。優芽自身が経験したわけではないが、それくらい誰にでも分かることだ。寂しさで切ない日々を耐え抜き、ようやく再会した家族。家族と一緒に温かい食事をしながら楽しい話をして、楽しく遊びに行くことを、暖人も心のどこかで待ち望んでいたはずだ。しかし、今その全てを、自分のせいで壊してしまったのではないか。そんな思いが、優芽の胸を締め付けた。
優芽の顔色は、次第に暗く沈んでいく。ほんの数時間前までは、暖人と一緒に遊園地を楽しんでいたのに。夢のような場所で、夢のような時間を過ごしていたのに。しかし、自分の不注意で、その夢は一瞬にして悪夢へと変わってしまった。兄ちゃんにもっと頼っていたら、こんなことにはならなかっただろう。普段はわがままばかり言うくせに、どうして肝心なときにそれを言えなかったのか。そんな思いが、自分をひたすら責め立てる。しかし、現実は冷たく、変わることはない。優芽の頭の中には、兄に嫌な思い出を作ってしまったという考えだけが、重くのしかかっていた。
「あたし……全部あたしが悪かったんだ……お兄ちゃんが、あたしのこと嫌いになっちゃっても……それでも仕方ないよ……全部、あたしのせいだもん……」
言い終えた優芽は、溢れそうになる涙を必死にこらえようと、顔を伏せた。そんな優芽の様子を見たソヨンは、彼女の震える手をそっと両手を包み込み、静かに目を閉じて柔らかな声で口を開いた。
「ふぅん~。でも、私はそう思わないよ」
優芽の体がソヨンの言葉にびくっとする。顔を伏せて涙をこらえている優芽に、ソヨンは優しい声で話を続けた。
「私は、暖人くんが優芽ちゃんを恨むなんて、絶対にないと思う。確かに、優芽ちゃんがいなくなったことで、とても困ったかもしれないし、もしかしたら、すっごく怒るかもしれないよ?でも、それは恨みや怒りじゃなくて、家族としての愛情だと思うんだ。大切な家族を失いかけたら、誰だってそうなるものだし、何より、暖人くんはそんな狭い心の持ち主じゃないからね?だから、きっと大丈夫!」
ソヨンの温かい言葉が優芽の心を包み込む。今の優芽にとって、一番必要な言葉かもしれない。自分が一番好きで最も大切に思っている兄が、自分を嫌っていないというその言葉。それを聞いた優芽は、どこか心が軽くなるのを感じた。
「私はね、暖人くんが文字通り暖かい人だと思うんだ。私がどんなふざけたことをしても、どんな無茶を言っても、どんなひどいことをしても、暖人くんはいつだって全部受け入れてくれる。たまに、私がやり過ぎたかなって思うこともあるけど、暖人くんは嫌な顔なんて一切しない。それが暖人という人なんだ。見た目は冷たくて無情に見えるかもしれないけど、心の中は誰よりも温かくて情に厚い。暖人くんはそういう人だよ。たぶん、私は暖人くんのそういうところに惹かれたんだよね~」
その言葉を聞いた優芽は、少し違和感を感じる。確かに二人は付き合ってないと言っていた。友達だと言っていた。なのに、どうして彼女はこんなにも本気なのだろう。優芽はそんな疑問を持ちながら、顔を上げ、思わずソヨンに問いかけた。
「ねえ、ソヨンニーって本当にお兄ちゃんと付き合ってないの?」
「も、もちろんだよ!ただのともだ……」
「じゃ、なんでそんな本気なのよ……!!」
「えっ……」
優芽の叫びが静かなカフェの中に響き渡った。
(こんなことをするつもりじゃなかったのに。怒るつもりなんてなかったのに。でも……でも、大切な兄を、何年も一緒に過ごしてきたあたしの兄を……付き合ってもないあの女が何を知っているように話すんだよ!)
優芽は震える唇を落ち着かせようと、そっと歯で軽く噛んだ。そして、自分の感情を押し隠すかのように、静かに顔を伏せる。その瞬間、頭の奥で眠っていた過去の記憶が、ゆっくりと蘇り始めた。
あれは、私が幼児園に通い、兄が小学校に入学した頃の話。当時の私は、幼児園から帰ると特にやることもなく、一人でぼんやりと時間を持て余していた。だから、兄が帰ってくるのを待つのが日課になっていて、帰宅した兄が学校生活の話をしてくれる時間が何よりも楽しみで、大好きだった。そんなある日、学校から帰ってきた兄は、上機嫌な笑顔を浮かべながら、私たちの部屋に入ってきた。
「お兄ちゃん、おかえり!今日は何して遊んだの?」
「ただいま!今日は絵本を作りながら遊んだんだ!」
「ええ~、また絵本なの?」
「そういう優芽も好きなんでしょ?」
「それはそうだけど……じゃあ、今日はどんな話なの?」
「王子様が悪党からお姫様を助けて、結婚する話!」
「ええ~、またその話?つまんな~い!」
いつも兄は、同じ話ばかり繰り返し書いていた。いや、正確に言えば、小学校に入学してからずっと、その物語を書き続けていたのだ。兄が王子様で、悪党からお姫様を救い出して結婚するという物語。一体何があったのかは分からないけれど、兄はその物語に特別な思い入れがあるように見えた。
「あら~、暖人、今日は上機嫌ね~。もしかして、彼女でもできたのかしら?」
部屋に入ってきたのは母だった。母はとても優しくて、いつも私たちのことを気にかけてくれる人だ。私が幼児園から帰ったときも、兄が学校から帰ったときも、必ずその日の出来事を笑顔で尋ねてくれる。そんな母は、今日特に上機嫌で帰ってきた兄を見て、学校でどんなことがあったのか、きっと気になったのだろう。
「うん!実は好きな子がいたけど、その子から告白されたよ!」
「え?お兄ちゃん、彼女できたの?」
兄から聞かされた衝撃的な話。普段こういう話をしない兄だからこそ、彼女ができたという知らせは、なおさら驚きだった。
「あら、よかったわね。今度、ママにも紹介してね?」
「うん!この子と結婚するから!ママにもパパにも優芽にも紹介する!」
兄の言葉に、家族みんなが和やかに笑った。小学生なのに結婚を考えるなんて。そんな兄の幼さが微笑ましく、可愛らしく見えたのかもしれない。しかし、その穏やかな時間は、長くは続かなかった。
「お兄ちゃん、今日は何して遊んだ?」
「……」
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「……」
「ねぇ、お兄ちゃん?」
「うるせぇんだよ!ほっといてよ!」
兄はそのまま強くドアを閉めて、部屋に入ってしまった。初めて見る兄の姿に、私は怖くなって言葉を失い、その場で立ち尽くしてしまった。
「あ、あたしもお兄ちゃんと話したくないもん!お兄ちゃん嫌い!」
あの日以来、兄は数日間部屋に閉じこもったままだった。食事をする時も、寝る時も、何も話そうとしなかった。そんな冷たい空気が続いていたある日、ある少女が家を訪ねてきた。
「すみません、暖人くんはいますか?」
「あら、こんにちは。暖人の友達かしら?」
「はい!暖人くんに渡したいものがあるんです!」
「そうなのね?でも、暖人が部屋から出たがらないのよ……よかったらママが渡してもいいかな?」
「そうですか?じゃあ、お願いします!」
「はい。暖人と仲良くしてくれてありがとう。また今度遊びに来てね」
少女は母にある物を託し、そのまま静かに去っていった。幸い、母からその物を受け取った兄は再び普段の姿を取り戻したものの、あの少女が暖人の前に現れることは二度となかった。時が経ち、少女が姿を見せない日々が続くにつれ、兄は次第に他人に自ら近づくことをやめ、どこか冷たく、遠い存在へと変わっていった。私は、兄がどんな物を受け取ったのか、あの少女が誰なのか全く知らない。それでも、兄が部屋に閉じこもるようになった理由が、その少女と深く関係していることだけは、本能的に感じていた。
(どうせあの女も、兄を利用したり
その日のショックがよほど大きかったのだろうか。優芽は兄に近づく女性たちに対して、強い警戒心を抱くようになった。兄と離れないように、大切な兄を守るため、そして彼女たちの手で兄が弄ばれることがないように、一生懸命努力した。もちろん、兄を心から愛し、大切にしてくれる人が現れたならば、それ以上干渉するつもりはなかった。だからこそ、優芽は暖人とソヨンが付き合っていることを心のどこかで願っていたのかもしれない。しかし、ソヨンは暖人と付き合っていないと答えた。つまり、彼女は優芽にとって警戒すべき存在でしかなかった。
「えっと、優芽ちゃんが何を聞きたいのか、それはよく分からないけど……でも、これだけは言える。私、暖人くんが好き。前も言ったけど、友達同士で、人としてね?」
優芽は顔を上げてソヨンを見つめる。ソヨンの顔には悩みの跡なんて全くなく、穏やかに笑っていた。
(違う、これは違う。これは……友達なんかじゃ……)
その後もソヨンは、暖人との出来事について楽しそうに語り続けた。しかし、その言葉は優芽の耳には届かなかった。なぜなら、今の彼女には、どうしても気づかずにはいられないことがあったからだ。湧き上がるその感情に、優芽は正確に気づいてしまった。
ソヨン自身はまだ気づいていない。しかし、優芽には分かってしまった、今の彼女が暖人に持っている感情。それは——愛だった。友達同士のような軽い友情ではなく、男女の間に芽生える、少し恥ずかしく、しかし甘美で心を満たすような感情。誰よりも相手を思い、誰よりも相手を理解したいと願う、愛という感情。ソヨンが暖人に対して抱いているその感情を、優芽は確かに悟ってしまったのだ。
(ソヨンニーは、本当にお兄ちゃんのことを愛してたんだ……)
暖人のことを誰よりも心配し、誰よりも気遣い、そして誰よりも深く理解してくれる。それは、単なる優しさを超えた愛という感情だった。ソヨンが暖人を見て微笑む姿、暖人のことを考えて頬を赤らめる様子、暖人について楽しそうに語る言葉。その一つ一つの何気ない仕草や言動のすべてが、愛そのものだ。ソヨンの真心に気づいた優芽は、それまで抱いていた彼女への警戒心が、春の日差しに溶ける雪のように消え去っていくのを感じた。
「優芽!!」
背後から暖人の慌ただしい声が聞こえてくる。彼の目元は少し赤く腫れており、額には汗がにじんでいた。優芽を探してあちこちを駆け回ったせいだろう。ソヨンもその声に気づき、優芽に微笑みながら軽く挨拶をした。
「暖人くんも来たみたいだし、そろそろ行こうか?暖人くんにはちゃんと謝るんだよ?」
「うん……ありがとう、ソヨンニー」
優芽の「ありがとう」には、自分の面倒を見てくれたことへの感謝だけではなく、自分が愛する兄を心から大切にしてくれることへの感謝も込められているのだろう。優芽は静かに席を立ち、ソヨンに軽く挨拶をしてから、暖人のもとへ歩き出す。その背中を、ソヨンは何も言わず、穏やかな微笑みを浮かべながら静かに見送っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
家に帰る道。日はすっかり暮れ、道端には街灯のぼんやりとした明かりだけが頼りだった。
「あの……お兄ちゃん……」
「なに?」
「その……今日は本当にごめんなさい。あたしが道に迷ったせいで……お兄ちゃんに悪い思い出を作っちゃったのか……って……」
「はぁ、そんなわけないだろう?今日は楽しかったし、お前を探すためにどれだけ走り回ったか分かんないけど……まあ、こうして見つけられたからそれでいいや」
「うん……ありがとう。でも、本当にごめんね」
二人は再び何も喋らず、静かな道を歩き始めた。暗闇の中、足音だけが穏やかに響いている。しばらく沈黙が続く中、優芽がふと暖人に声をかけた。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「なによ」
「お兄ちゃんって、本当にソヨンニーと付き合ってないの?」
「そうだよ。何回も言わせるつもり?」
「いや、そうじゃないけど……実はソヨンニーと話してみたけどさ……」
何かを言おうとした優芽は、足を止めて少し
「うんん、何でもない!すごくいい人だなーって」
「いきなり何よ……」
優芽は言おうとした言葉を口にしなかった。自分の気持ちは、自分自身で伝えるべきだから。まだ彼女は自分の感情に気づいていないようだが、いつかその気持ちと向き合う日が来ると優芽は信じている。少し嬉しそうに微笑んだ優芽は、再び暖人と暗い道を歩き始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「疲れたー」
「遊園地って疲れるよね~」
「誰かのおかげで、何周も走り回ってね」
「えっ、ご、ごめんなさい……」
「冗談だから。まったく……今日は早めに寝よう」
「え~、あたしまだ最推しの番組見てないけど~」
「それは明日にしろよ。お前、明日学校もあるんでしょ?」
「え?学校?」
そういえば、学校のことをすっかり忘れていた。そもそも優芽は両親に「暖人もいるから、韓国で1年くらい勉強しておいで」と言われて韓国に来たのだ。突然の学校デビューに、優芽は頭が真っ白になった。
「えっ、あたし……韓国語全く喋れないし……どうすればいい……?」
「俺が知るかよ」
韓国語が下手な暖人に聞いても、答えは得られない。こんなことになるなら、もっと前に勉強しておけばよかったと思う優芽。しかし、もう手遅れだ。暖人のベッドで苦しみながら絶叫する優芽の声と共に、夜は深まっていった。
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