何だか『涙の温もり』が分かる韓国の女の子

 昨夜、忘れていた課題を慌てて終わらせた後、窓の外を見る。外では鳥たちが木に止まってさえずっていた。そして同時に、暖かな日差しが暖人の部屋を満たしている。早く終えると思っていたが、思ったよりも課題の量も多く、難易度も高かったため、かなりの時間がかかったようだ。そんな疲れ果てた暖人は、時間を確認するためにケータイを手に取った。今は朝の7時。今日授業がある暖人にとって、心置きなく眠ることはできなかった。それに、課題に集中していたために気づかなかったメッセージに目が留まった。


(あ、早く返さないと)

 メッセージを送ったのは、暖人の妹である『鴛野川おしのがわ 優芽ゆめ』。彼女は暖人より3歳年下で、日本の学校に通っている女子高生だ。優芽は暖人と頻繁に連絡を取るわけではなかったが、時々様子を尋ねてくれ、距離感なく過ごしていた。暖人は優芽からの連絡に応えるため、メッセージアプリを開いたが、彼女のメッセージを見て目を疑った。


「お兄ちゃん、寝てる?もし寝てたらごめんね~?そういえば、あたし、お母さんに言われたんだけど、今、お兄ちゃんがいるところで1年くらい住むことになったの。近くの学校への転校手続きももう終わったし、今通っている学校での手続きも終わったらしいよ」

 優芽が来るのはあまり気にしていない。子供の頃からいがみ合いながらも仲良く過ごしてきた仲なので、優芽と一緒に家を使うこと自体も嫌ではなかった。しかし、あまりにも急に決まったこと、しかも1年も住むということに、暖人は少し戸惑っていた。


 暖人は何と返事をすればいいか悩んだ。無視をするという手もあったが、それでも優芽が来ることは変わらない。実際、暖人も特に断る理由はなかった。ただ、同居人ができるということは、一人で生活することと別の問題。寝る場所も新たに作らなければならないし、食費も洗濯も何も2倍になる。それに、何よりもプライバシーがなくなることが一番大きな問題だ。そうして暖人が悩み苦しんでいると、優芽から新たなメッセージが届いた。


「お兄ちゃん、起きた?おはよう!そういうことで、今週の土曜日に行くからね!よろっちー」

 無鉄砲に突きつけられた彼女のメッセージに、暖人は何も考えないことにした。いや、疲れ果てていて何の考えも浮かばないと言った方が正しいだろう。考えることを諦めた彼は、優芽に「分かった、よろしく」と返信し、目を覚ますために洗面所へ向かい、何度か顔に水をかけた。そして軽く朝ごはんを食べてから、学校へ向かう。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「それじゃ、今日はここまでにしましょう。おつかれさまでした」

 講義が終わると、暖人はすぐにでも眠りそうな顔で机の上に倒れ込んだ。そんな暖人を見て、隣に座っていたソヨンは怪訝そうに彼に声をかけた。


「暖人くん、どうしたの?そんな死にそうな表情して……あ、もしかして、またダメないやらしい想像とかして眠れなかったとか?」


「そんなんじゃないよ。昨日課題で寝れなかっただけ。それに、ちょっと考えなきゃいけないことがあって……」


「考えなきゃいけないこと?なにそれ」

 暖人の答えが気になったソヨンは、怪訝そうに彼に尋ねた。ソヨンが気にするのも無理ではない。普段は真面目に授業を受ける暖人だが、今日は疲れ果ててほとんど授業にも集中できていない。それにその理由が『考えなきゃいけないこと』と言われれば、気にならざるを得ない。すると、暖人は喉の深いところからため息を吐き出しながら答えた。


「実は、今週の土曜日、妹が来るらしいけど、何を準備すればいいか全然わからなくてさ……」


「へぇー、暖人くん、妹さんもいるんだ!でも、何日くらいなら別にいいんじゃない?」


「それがね……1年くらい住むらしい」


「え????1年????それは悩むね……それより、妹さんの寝ところとかは大丈夫なの?」


「寝るのは自分の部屋で寝ればいいんだけど……まだ布団とかそういうのが全然できてなくてさ……」

 暖人の返答を聞いたソヨンは、何か心を固めたような表情で席を立ち、心配そうな表情の暖人に言った。


「ほら、こうしてる場合じゃない!早く行こう!」

 そう言ったソヨンは、暖人を急かしながら部屋から出て行った。暖人も怪訝そうな表情で疲れた体を引きずりながらソヨンの後を追った。


 ソヨンと暖人が着いた先は、大型家具店。生活に必要なさまざまな家電や家具を取り扱っており、この地域では最も大きな規模を誇っていた。高い天井の下、整然と並ぶ家具たちは、まるで一つの小さな街のような雰囲気をかもし出している。さらに新しい家具の香りがただよい、照明に照らされた家具たちは美術館の展示品のようにも見えた。暖人はその圧倒的な広さに驚き、思わずソヨンを見つめた。すると、ソヨンは「ふふ」と小さく笑いながら、いたずらっぽく暖人に声をかけた。


「どうよ!ここがこの周りで最も大きくて、新婚夫婦にとってまるで『夢の国』と呼ばれる家具店なのだ!!」

 アニメで見かけるような大げさな身振りと言葉を叫んだソヨン。暖人はそんなソヨンを少し恥ずかしそうに見つめた。しかし、その視線にもひるむことなく、ソヨンはさらに話を続けた。


異国日本姫君優芽を迎える勇者暖人よ!この私と共に家具探しの旅に出るのだ!」

 ソヨンは目を一つまたたかせることもなく、思わず背筋がぞくっとするような恥ずかしいセリフを平然と口にした。代わりに恥ずかしさを覚えた暖人が、ソヨンに訊く。


「お前さ、恥ずかしくもないのか……?」


「めっちゃくちゃ恥ずかしい!でも、かっこよく言えた自分が好き……!」

 そう言い終えたソヨンの顔は、遅れて赤く染まった。恥ずかしさを振り払うために、ソヨンは頭を左右に振ってから、暖人を見つめて話を続けた。


「でも、土曜日に来るっていったでしょ?私もさっき気づいたけど、今日金曜日だから、買うなら今しかないんだよ?」

 ソヨンの言葉を聞いた暖人は、慌てて日付を確認する。ケータイの画面には、金曜日と映し出されていた。妹が来るということに気を取られていたせいで、今日が何曜日なのかすら気づいていなかったのだ。残された時間がほとんどないことを悟った暖人は、ケータイをポケットにしまい、ソヨンに声をかけた。


「ごめん!俺も今気づいた!悪いけど家具選び、手伝って欲しい!」

 暖人は両手を合わせ、少し頭を下げてソヨンに頼んだ。


「もちろん、いいわよ。この私がどうしてここに来たと思うのかよ」

 暖人はそう言ってくれるソヨンに感謝の言葉を伝えた後、ソヨンと共に店の奥へ進んだ。店の奥に入ると、ベッドや布団などを取り扱っているコーナーが現れた。そこで寝具を探していた暖人は、さっきまで隣にいたソヨンがいなくなったことに気づいた。すると、ベッドの方から明るい少女の声が聞こえてくる。


「暖人くん!これめっちゃふかふか!!デザインもめっちゃ可愛いじゃん!!ねね、これ買おうよ!」


「これがいくらだと思ってるんだよ。それに、こんなドデカいベッドは俺の部屋に入らないし」


「ええー。じゃぁ、暖人くんが引っ越しすればいいじゃん!」


「するかよ!ベッドじゃなくて敷布団を探してるんだよ。それより、それ迷惑だからもう起きてくれないか」

  ソヨンの言葉に軽くツッコんだ後、暖人は敷布団を探しに行った。向かった先は、敷布団や布団と枕をセットで取り扱っているコーナーだった。ベッドに比べると数は少ないが、それでもかなり良さそうな敷布団セットがいくつか暖人の目に留まった。


「これはちょっと高いね……あ、これはちょっと安めだけど、何がいいかよく分からないな」

 暖人がそんなふうに悩んでいると、いつの間にかソヨンが背後に来てアドバイスをする。


「敷布団はね、ふかふかさも大事だけど、厚さも大事なのよ!ふかふかしてるだけで厚さが薄いと、腰が床に当たっちゃって、かえって健康を害することがあるからね!それに、サイズも体型に合わせて選ぶのが一番いいの!妹さんの体型がどんな感じか分からないけど、普通の女性ならこのくらいのサイズがちょうどいいと思うよ」

 どこから持って来たのか分からない白いガウンをまとい、研究者がかけるようなメガネをかけて現れたソヨンは、片手であごを支え、もう一方の片手では腕組みをしながら暖人に話しかけた。その姿は少し大げさかもしれなかったが、彼女の知識は確かだった。暖人はそんなソヨンの姿にツッコミを入れたくなったが、話の内容が役に立つものだったため、ツッコむのをやめて敷布団セットを選ぶことにした。


「それじゃ、これにしよ……」


「おい、待ってよ兄さん」

 心を決めて敷布団セットに伸ばした暖人の手をつかみ、ソヨンが言った。


「なによ急に」


「こんなだっさいデザインは妹さんにも失礼じゃないかよ。もっと乙女の心に理解してよ。この童貞が」

 ソヨンが暖人の痛いところを突いた。確かに、暖人は女性の気持ちをよく分かっていない。何が女性にとって「かわいい」と感じられ、何が「ダサい」と思われるのか、はっきりと区別できない。優芽は兄が買ってくれたものだから、当然感謝して使うだろう。しかし、彼女もまた、ファッションや流行に敏感な10代の少女であることは間違いない。優芽への配慮が足りなかったと気づいた暖人は、ソヨンに感謝し、さっきまで買おうとしていた敷布団セットから手を離した。


「そっか。じゃ、何を買えばいいか……」


「そっちにあるんじゃないか!!このアホが!!」

 ソヨンが怒りながら手を伸ばした先には、薄いピンク色の生地に小さなウサギが描かれた敷布団セットがあった。確かに、そのデザインなら若い女性たちに人気がありそうだった。暖人にそう言ったソヨンは敷布団セットが置いてある場所へ足をどたばたさせながら歩いていった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 優芽に必要な家具をいくつか購入し、配達の手続きまで全て済ませた暖人とソヨンは、優芽が家に来たときに必要な日用品を買うため、スーパーに立ち寄った。


「ここならそんな大きくないけど必要なものは全部買えると思うよ」


「そうだね。まずは洗剤とかかな」


「いやいや、あまいなーうちの暖人さん。ここは試食コーナーから行くのが常識じゃないか」


「それを普通に常識とは呼ばねぇよ。普通にお前の腹が減ってるだけじゃない?」

 こうツッコまれたたソヨンは、図星ずぼしを突かれたように顔を赤らめて答えた。


「だ、だって!講義終わってから今まで何も食べなかったもん!それに最近、ダイエットもしてるから朝ごはんもなしだったし……」


(ダイエット?あいつ、全然痩せてるけどダイエットだと?)

 暖人はソヨンの体重がどのくらいかは知らない。しかし、彼女がダイエットなどは必要としないほど、完璧なスタイルを持っていることだけは分かっていた。むしろ、ソヨンの小柄な体格のせいで、これ以上体重が減ったら健康に悪いのではないかと心配していた。女性が他人の視線とは関係なく、自分を満たすためにダイエットをするということは分かっている。それでもなぜソヨンがダイエットをしようとしているのか気になったため、暖人は彼女に尋ねた。


「どうしてダイエットしてるの?これ以上体重減ったら健康悪くなるかもだぞ?」


「心配してくれるの?デレるな~ヒヒッ。もう夏も近づいてくるし、もし海とかプールとか行って、太ったら困るじゃん。念のため体重を調節してるってこと!」

 そういえば、今日は昨日より少し暑くなった気がする。地球温暖化の影響なのか、韓国の春はとても短く、夏が長い。暑いのが苦手な暖人は、今年の夏はどこへ行こうかと考えていた。すると、不意にビキニ姿のソヨンが頭に浮かびかけた……が以前ソヨンが「臭いで分かるよ」と言ったことを思い出し、頭を左右に振ってその考えを振り払う。


「暖人くん!早くこっち来て!」

 頭を振っていた暖人に、ソヨンが声をかける。ソヨンについて行ったら、いつの間にか試食コーナーに着いていた。ソヨンは幸せそうな表情で、甘くて食欲をそそる香りを鼻をクンクンさせて楽しんでいた。暖人もその香りに誘われ、思わず喉に唾を飲み込み、彼女の後を追った。


「これめっちゃ美味しい!早く食べてみて!」

 暖人とソヨンは、香ばしくて油っぽい匂いに引き寄せられて、餃子の試食コーナーに到着した。店員のおばさんが焼いてくれる、油で照り照りと光る少し焦げ目のついた餃子は、暖人の口の中に湖のように唾液を広げさせた。


「早く!はいっ、あーん」

 ソヨンは持ってる爪楊枝を皿に置いて、餃子を別の爪楊枝に刺して、暖人の口元に持っていった。口元に近づいた餃子の香りは、予想以上に香ばしく、肉の旨味がほんのりと広がっていた。暖人は口の中に溜まった唾液を飲み込み、口を開けて餃子を食べた。


 餃子を噛むと、パリっとした皮が口の中で割れる音が響き渡った。うまく焼けた皮は適度に硬く、しっかりと割れた後、しっとりとモチモチした食感が広がった。同時に、肉汁のしょっぱくて刺激的な油っぽい味わいが口いっぱいに広がり、よく煮込まれた野菜のシャキシャキした食感と甘みも感じられた。


「どう?美味しい?」


「うん、美味しいね」


「でしょ?私、食べ物の中で餃子が一番好きなんだ~。匂いからして反則じゃない?」

 ソヨンは暖人の満足そうな顔を見て、無邪気に笑いながら、皿に残っている最後の餃子を一口で食べた。幸せそうな表情で餃子の味を楽しんでいたソヨンは、ふとある事実に気づき、瞬間的に表情が固まった。


(まって……これ、間接キスじゃない……?!)

 ソヨンが口に入れた爪楊枝。その爪楊枝はさっきまで暖人の口の中に入っていた爪楊枝だった。ソヨンは自分が使った爪楊枝を皿の上で発見し、顔が少し熱くなっているのを感じた。


ソヨンが慌てていると、暖人はじっとソヨンを見つめていた。暖人は目を閉じて少し考えてから、すぐにソヨンの方に歩み寄った。


(え?え?!私、まだ心の準備が…)

 ソヨンは目をぎゅっと閉じ、手を合わせて少し身を縮めた。暖人はソヨンの方に手を伸ばし、そのままソヨンの頭をすり抜けて冷蔵庫の扉を開け、餃子の袋を取り出した。


「うーん、思ったより高いね」

 暖人の声が聞こえ、ソヨンが目を開けると、暖人が餃子の袋を持っているのが目に入った。そこで、ソヨンは自分が勘違いしていたことに気づき、顔が真っ赤になり、体を震わせながら頭を下げた。暖人がそのソヨンの様子を見て、心配そうに手をソヨンの肩に伸ばすと、ソヨンは突然大声で叫んだ。


「近づかないで!バカ!」

 暖人は突然のソヨンの叫びに、訳がわからない顔をしてその場で固まった。ソヨンは頭を上げて頬を膨らませ、拳を握り、腕と足を少し広げて荒い息を吐いていた。そんなソヨンの姿は、まるで相手を威嚇しているようでありながら、どうしても可愛さが隠しきれないレッサーパンダのように見えた。そんなソヨンと暖人の様子を見ていた店員のおばさんは、微笑んで言った。


【あら~、新婚さんなのかな?可愛いお嫁さんだね~、若いっていいわ~】


【違います!!】

 ソヨンはびっくりして手を振りながら、慌てておばさんに否定した。それからソヨンはしゃがみ込んで、両手で顔を覆い、顔の熱を冷ますように深く息をついた。


(なんでそんなに緊張してたんだろ……)

 顔の熱が収まったソヨンは、手を胸に当てて、自分の心臓の鼓動を感じた。心臓は強くドキドキと鳴っていて、その音さえも聞こえるくらいだった。ソヨンが驚いた気持ちを落ち着ける間に、暖人は取り出していた餃子の袋を冷蔵庫に戻し、次のコーナーに向かって歩き出した。


「あっ、ちょっと!一緒に行こうよ!」

 ソヨンは立ち上がり、先に向かった暖人の後ろを追いかけた。そんな暖人とソヨンの後ろ姿を、店員のおばさんは微笑みながら見送り、手を振った。


「はぁ、食った食ったー!」

 ソヨンが満足そうに言葉を出した。二人は結局、この1時間で何も買わずに、お腹だけ満たして試食コーナーを後にした。


「結局この1時間、何も買えなかったんだけど……」


「いいさいいさ!お腹を満たしたからそこはもういい!」

 暖人もお腹が空いていたし、ソヨンが何も食べていなかったということが気になっていたので、何も言わないことにした。すると、ソヨンがいたずらっぽくにっこりと笑い、続けて口を開いた。


「ね、ちょっと疲れたけど……休んでいかない……?」

 なぜかほおを少し赤らめ、デレるように話しかけたソヨン。暖人は思わず胸がきゅんとする。


「え、ま、まって!と、友達同士でそんなことは、よ、よくないと思うけど!」

 ひどく慌てて言葉をどもる暖人に、ソヨンは口元にいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。


「へぇー。友達同士でそーゆーことは、ダメ……?私、何回もやったことあるけど……」

 とんでもない発言を聞いてしまった暖人は、改めてソヨンのイメージを考える。小柄で愛らしい体格に、顔立ちやスタイルも抜群、いたずらっぽく明るい性格と、可愛くて元気な仕草ジェスチャー。ソヨンはどう見ても愛されるべき存在であり、誰かとそういうことをするのも大したことではないのだろう。しかし、「なぜ自分に…?まさか、自分をそんな対象として見ていてたのか…?」と考え、顔を赤らめる暖人に向かって、ソヨンはさらに話を続けた。


「ねぇ、行こうよ。私、もう無理だよ」

 ソヨンはどこか不安そうな様子で、体をくねらせながら暖人に近づいた。さらに頭が回らない。昨日のことが思い出して、恥ずかしさで目が回りそう。何か言わなければならない。しかし、喉からは何の言葉も出てこない。暖人がそんな気絶しそうな様子で立ち尽くしていると、ソヨンが大爆笑しながら指である場所を指し示して言った。


「マジウケるんですけど!カフェでちょっと休んでから行こうって言っただけ!何考えていたんだよ!暖人くん、本当最低だね?アハハ」

 ソヨンの目元に小さな涙が浮かんだ。その涙を片手で拭いながら、彼女は笑い続けていた。暖人は、騙されたという事実に、何とも言えない虚しさを感じる。友達同士なのに、そんな良くないいやらしい考えを抱いてしまったことに罪悪感が押し寄せ、体から力が抜けていく。そして、そのまま暖人の体は地面へと崩れ落ち、やがて「ドスン」という音とともにぶつかった。


「ね、ちょっと!大丈夫?」

 倒れてしまった暖人を見て、ソヨンはどうしようもなく慌てる。そして、助けを求めるため、どこかへ走り出した。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 周りの騒がしい音に目を覚ました暖人。頭を上げると、ソヨンが心配そうな表情で暖人を見つめていた。どうやら疲労が溜まっていたところに、ソヨンのいたずらのインパクトが重なって気を失ってしまったらしい。体を起こそうとすると、ソヨンが暖人を止めさせる。


「まって!まだ起きちゃダメ!また気を失っちゃうよ」

 そういえば、昨日もこんなことがあった。マーラータンの店で気を失って、急いで立ち上がろうとしてソヨンの……暖人はその考えを打ち切ることにした。すると、またソヨンが口を開いた。


「これは私が悪かった……本当にごめん!私がやり過ぎた!」


「ああ、おぉ。大丈夫。それより時間が……」


「もう閉店時間に迫ってるよ。本当にごめん!妹さんにも申し訳ないし……私も一緒に行くから、買えなかったものは今度買おう」

 ケータイを確認すると、いつの間にか時間がかなり過ぎていた。「結局何も買えなかったな」と暖人は思ったが、今日だけがチャンスなわけでもないので、気にしないことにした。すると、ソヨンが再び口を開いた。


「それより、暖人くん、本当によく気失っちゃうね」

  暖人がよく気を失うということは事実ではない。もちろん、この二日間で二度も気絶してしまったのは事実だが、それぞれの理由がある。昨日は誰が食べても気絶しそうな辛さだったし、徹夜して正気でいられる人はいない。それより、その原因はすべてソヨンにあるのではないか。暖人はその原因ソヨンに問い詰めるように言った。


「は?それはお前がそんなこと言ったから……!」


「へぇー?私はちょっと休んでいこうってしか言ってないけど?」


「だから……いや、それよりお前、誰にでもそんな冗談言うのはよくないと思うけど」


「暖人くんだけだよ?」

 ソヨンの言葉に暖人の目が大きく開いた。彼女は自分が何を言ったのか、本当に分かっているのだろうか。その言葉の意味を探ろうとしている暖人に、ソヨンがを続ける。


「私、言ったでしょ?暖人くんは周りの人たちと一緒にいることに、まだ不慣れだって。私も昔、独りぼっちだったよ。信じられないでしょ?アハハ。でも、やっぱ独りぼっちだったら寂しいなーって思っちゃってさ。もし暖人くんも、そんなこと思ってるんじゃないかなって……だから暖人くんに役に立ちたいんだ。暖人くんが寂しいって思わないように。そして私以外の人たちとも仲良く過ごせるように。暖人くんが周りの人に慣れるようにね?これは私のわがままだけど」

 これを聞いた暖人は、再びあの時感じた胸の響きを感じる。痛いほどしみる孤独。誰にも助けを求められない自分の状況。一寸いっすん先も見えない未来への不安。すべてが暖人の心を締めつけ、押しつぶしていく。ああ、ダメだ。また涙が出そう。涙がこぼれないように、彼はぎゅっと目を閉じて顔を下げた。そんな暖人の頭をソヨンは優しく撫でながら、話を続けた。


「そう思えば、妹さんが来るのは本当に助かることだよね。周りに知り合いが増えることだもん。それに家族だからもっと頼りになるしね」

 その言葉を聞いた暖人は、我慢していた涙が一筋、頬を伝って流れるのを感じた。できるだけ泣かないように耐えていた彼だったが、ソヨンの言葉がその決意をあっけなく崩してしまった。心の中で抱えていた重い塊が、一筋の涙とともに流れ出る。ソヨンは暖人をそっとあわれむように見つめる。彼女は目を閉じて、彼に最後の一言だけを残した。


힘들 때면辛いときは 언제든지いつでも 나에게私のことろに 와서来て, 너의あなたの 짐을苦しみを 덜어내줘分けてほしい

 彼女が何を言ったか暖人は理解していない。しかし、大事なのはそれではなかった。いつかまた積もるかもしれないあの塊が、そのときだけは暖人の中から溶け流れていた。夜は深くなり、周りの騒がしい音はなくなって、二人だけの静かな時間はしばらく続いていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


【ただいま~】


 誰もいない静かな部屋。ソヨンは暗い部屋の明かりをつけた。部屋は一気に明るくなったが、人の気配が全く感じられないその空間は、どこか物寂しさが漂っていた。


(お母さんまだか……)

 お父さんは出張が多く、家に帰ってくることがほとんどない。お母さんも「会社で急な仕事が入ちゃって、帰りが遅くなるかも」と言っていた。ソヨンは自分の部屋に入り、手に持っていた小さな箱をテーブルにそっと下ろした。


 少し寂しさを感じたソヨンは、その気持ちを振り払おうと箱を開けてみた。箱の中には、可愛くておいしそうなマカロンが入っていた。それは、暖人と別れる前に「昨日と今日はありがとう。大したものじゃないけど、受け取ってほしい」と言って渡してくれたものだった。マカロンにはさっきまでいたカフェの名前が記されている。ソヨンはそのマカロンを手に取り、口元に軽く微笑みを浮かべながらベッドに横たわった。


「もう。本当に女の子の気持ちが分かってないって……こういうのは手作りにして欲しいんだけど……でも、そういうところも好き。ありがとう」

 ソヨンはマカロンを口に運び、一口かじった。甘くて甘くて、寧ろほろ苦さも感じるマカロン。その味は、どこかソヨンの心に似ていた。今日のことを思いながら心地よくマカロンを食べ終えたソヨンは、そのままぐっすり眠り落ちた。

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