第5話 契約内容
契約の話の前に、月盾は入浴を勧められた。
月盾は貧困街で暮らしているが、貧困街の貧賤だからと衛生観念が欠如している訳ではない。
疫病が発生するのを嫌って、帝錦都市の衛生管理委員会は貧困街に十分な数の無料大浴場を設置していた。
同時に、住人に配布した無料衣服は彼等の入浴時に回収して、綺麗に洗濯して再び配布する。
清潔な衣服と身体を維持して、しかも食料も配給されているので、貧困街で暮らす貧困者といえども健康状態は悪くなかった。
未知の病気が蔓延した過去は一度もない。
また、無料大浴場も衣服貸出所も暴力団が管理しているので治安も良かった。
暴力団は規則を守らない不肖者を即座に射殺するからだ。
月盾も毎日夕方になると無料大浴場で入浴していた。
どうやら暴力団と警察の間で秘密の取引があったようで、住民が何日も入浴せずに路地裏で寝ていると、暴力団が来て無料大浴場まで連行される。
月盾も幼い頃は何度も暴力団に捕まれて、無料大浴場の利用を強制されたものだった。
とはいえ、貧困街で暮らす他の住人達と同じで、月盾も自然と入浴が好きになった。
頭部に浴布を置いて、湯船で何時間も入浴していた。無料大浴場を利用しないのは罪だが長時間利用は許されている。
無料大浴場は貧賤の子供達には数少ない娯楽の場だった。
待合室には映画が放送されている大型画面もある。自動で音楽を奏でる箏や笛も置いてあった。
月盾は無料大浴場を思い出しながら、浴室で裸になった。個室で一人で入浴するのは生まれて初めての経験である。
貧困街で教わったように、石鹸で身体を洗ってから浴槽の湯に身体を沈めた。
石鹸は薔薇の香りがして、無料大浴場で並んでいる廉価量産品よりも泡立ちが良かった。
湯船に肩まで浸かりながら、月盾は黄金姫が何を要求してくるのだろうかと考えて不安になった。
謎の夷狄、白薔薇遺跡で亡霊のように現れる黄金姫は、月盾が務級探索士になるのを手助けしてくれると言った。
しかし、見返りに要求させる内容を想像すると素直に喜べなかった。
研究のために解剖させろと言われる可能性もあり、月盾は憂鬱になった。
「焼き菓子が焼けているわよ」
入浴を終えると、黄金姫は月盾に冷えた珈琲牛乳を渡してくれた。
月盾は珈琲牛乳を飲むと食卓に着いた。
月盾は黄金姫が用意した部屋着に着替えていた。
部屋着の上から防弾服を装備しようと思ったが止めた。
防具を装備していても、黄金姫を相手に役立つとは思えなかったからだ。
相手と戦う実力がないのであれば、相手に攻撃される危険を減らすべきだと思った。
そして、武装を解除して、相手に脅威ではないと思われたら多くの場合は平和に会話できる。
「それでは今度は私の話をさせて貰うわね」
黄金姫が言うと、月盾は頷いた。
まだ温かい焼き菓子を食卓において、夷狄は月盾の正面に座り話を始めた。
「まず、私は白薔薇遺跡に所属している夷狄ではありません。もっと南、東南諸島にある遺跡で暮らしている夷狄です。ある目的のために人間と契約を結びたいのだけど、人類は現在は西の新大陸を攻略しているから東南諸島には来ないでしょう。それで白薔薇遺跡で契約者を探していた訳。私の目的のためには絶対に人間の協力者が必要なのよ。それも遺跡探索士のね」
「確認だけど」と月盾は黄金姫に尋ねた。「それは依頼と捉えても良いの?」
探索士の仕事は主に四種類に分類される。
重要な順から都市防衛、遺跡征伐、依頼任務に遺物収集である。
都市防衛とは夷狄から城郭都市を守る仕事で、大規模襲撃時に発動されて付近にいる探索士は強制参加である。
都市防衛が発動された場合は、探索士は現在進行中の仕事を全て中断して都市防衛に参加しなくてはならない。
また、遺跡征伐は完全破壊可能だと思われる遺跡に対して発動されて、探索士は探索士協会から遺跡征伐軍の将兵として招集される。
都市防衛とは異なり強制ではないが、参加を断る場合には特別な理由を必要とした。
遺物収集は遺跡を探索して、遺物を収集して探索士協会に販売する探索士の通常業務である。
販売する遺物には等級に応じた基準量が決められていて、基準より少ないと注意される。
そして、依頼任務とは依頼を受けて依頼内容を遂行し、事前に契約していた報酬を受け取る仕事である。
公開依頼と指名依頼の二種類があり、公開依頼とは探索士協会から携帯端末に送られてくる複数の依頼から一つを選択して受ける依頼である。
複数の公開依頼から自分が受けたい条件の依頼を自由に選択する。
指名依頼は「指名依頼」として携帯端末に送られてくる依頼で、依頼主は探索士協会の場合もあれば個人の場合もある。
特定の探索士を信頼して指名しているために、指名依頼の対象になる事は探索士社会では特別な探索士の証である。
「黄金姫はぼくを指名して契約を依頼している。だから、今回は指名依頼に該当すると思うのだけど。確認したい」
今まで指名依頼だけではなく、そもそも公開依頼すら一度も受けた経験がない月盾は黄金姫に尋ねた。
「まあ、指名依頼と言えば指名依頼ね」と黄金姫は首を傾げた。「でも、私は探索士協会を通して依頼するつもりはないわ。指名依頼は、依頼主が探索士協会に依頼内容と報酬と依頼する探索士を登録して行われる依頼よね。残念だけど、私は探索士協会を利用して月盾と契約したくはないの」
「どうして?」
月盾が警戒すると、黄金姫は溜息を吐いた。
「私が夷狄だからよ。探索士は夷狄と取引する行為が禁じれているわ。つまり、私が探索士協会に依頼を出しても無視される訳」
「だったら駄目じゃないか」
黄金姫は慌てて言った。
「でも、私と契約すると月盾には利益があるわ。夢を叶えたいのでしょう?」
「規則を破る事はできない」と月盾は憤慨して言った。「それに規則を破ると探索士資格を失うから結局は務級探索士にはなれない。黄金姫の依頼は矛盾していて、ぼくを騙そうとしているとしか思えない」
「だから、私は月盾と秘密契約を結びたいの」
「秘密契約?」
月盾が尋ねると、黄金姫が説明した。
「探索士協会に内緒で私は月盾に依頼を出したいの。依頼内容は二つよ。一つ目は私の契約者になって貰うこと。二つ目は科学技術評議会が隠匿している秘密情報を手に入れて私に渡して欲しいの」
科学技術評議会の名前が出て、月盾は怯えた。
科学技術評議会は人類社会の最高権威であり最強権力である。
評議会が隠している秘密情報を渡せなど、相手が夷狄でなければ幻聴を疑うほどの危険な発言だった。
評議会と敵対するなど、普通の人間は言葉にする事はおろか想像すらしない。
月盾は恐ろしい要求を何通りも想像していたが、黄金姫の要求は想像を超えていた。
「もちろん、報酬は奮発するわ。事前報酬として、私は月盾を務級探索士にして分離壁の内側で暮らせるように支援します。そして、成功報酬として、正級探索士ですら入手が不可能な貴重な遺物を贈呈します。依頼を受けてくれたら、月盾はきっと歴史に名を残す探索士になるわ」
「重犯罪者としてだろう。夷狄に人類の秘密情報を渡すなんて」
月盾が怒気を込めて言うと、黄金姫は表情を暗くした。
食卓の上に置かれた焼き菓子は放置されたままだった。
「依頼は断る」と月盾は言った。雷人と炎風の姿を思い出した。「務級探索士になるために人類を裏切ろうとは思わない。裏切り者になる危険を冒すくらいならば、自分の力で務級探索士を目指す」
黄金姫は泣き出しそうな顔をして、器に盛られた焼き菓子を見つめた。
月盾は食卓の上に自分の身分証明書を置いた。
身分証明書は横幅八六ミリに縦幅五九ミリ、記録装置が搭載されている長方形の札だった。
七色二十六階法による月盾の階位は小建なので、身分証明書の札色は黒である。
身分証明書には月盾の名前と生年月日、階位、そして個人番号が記入されていた。
以上の情報に加えて、探索士なので、下部に青文字で「進広四級探索士」と刻まれている。
月盾は黄金姫に言った。
「ぼくは小建で貧困街の貧賤だけど、探索士になった時に決めた。周りからどのように思われようとも自分に誇れる探索士になろうって。探索士として規則は守るし、依頼には誠実な探索士になろうと。
探索士になって、身分証明書に自分が探索士であると記入されたのを見て思った。
ぼくには探索士であること以外に誇りはないし、だから探索士である事を大切にしたい」
「分かったわ」と黄金姫は悲しそうに言った。
「ぼくを殺す?」
「殺したりはしないわ」
黄金姫は言うと、食卓の上に置かれている焼き菓子の皿を月盾の方に押した。
月盾は迷ったが焼き菓子を諦めた。
依頼を断っているのに、施しを受けるというのは不誠実であると思ったからだ。
「それならせめて、契約だけでも結んでくれないかしら。契約は夷狄の行動を拘束するけど契約した個人の行動は拘束しないわ。
今の人類にとっては、契約とは探索士が夷狄を武力により制圧して支配する行為を意味している。だから、夷狄の契約者になるのは探索士法では禁止されてはいない。
社会常識としても規則としても、夷狄と取引する行為と契約する行為は同じではないの。
取引は支配される側で、契約は支配する側。だから夷狄契約は奨励されている」
「本当に?」と月盾は疑わしげに尋ねた。
「本当よ。そもそも、契約時に契約を提供する人工知能が虚偽の情報を相手に与えていた場合は契約は無効になるわ。詐欺を行う人物に相手を騙した報酬は与えられない。
だから私は嘘を吐けない」
月盾は考えた。そして、再び尋ねた。
「契約者の不利益を教えて欲しい」
「ないわ」と黄金姫は答えた。「ただ、契約者は夷狄から支援を受ける。支援を支配と捉えるのであれば、それが不利益よ。消費者は大企業に支配されている。以上の文脈で月盾は私に支配される。
でもでも、支援は支援よ。秘密情報の件は保留するわ。けれども契約してくれたら私は月盾が務級探索士になれるように助ける。そして、私は自分を優秀な夷狄だと自負しているわ。
月盾、これは好機なのよ。月盾はただ支援を受けるだけで何も失うものはないの」
月盾は迷った。
話の内容は正確には分からなかった。
しかし、黄金姫が、月盾が黄金姫と契約しても規則違反にはならないし、不利益にもならない、と月盾に信じさせたいと強く思っている事だけは理解できた。
月盾は自分は騙されていると疑った。
夷狄が嘘で人間を騙すのを、月盾は無料大浴場で放送されている映画で何度も見た。
それに月盾が黄金姫の契約者になるとして、黄金姫の利益が分からない。
なぜ、目の前に座っている謎の夷狄は新人探索士と契約したいのだろう。
親睦を深めて、信頼を得てから依頼を受けさせる予定なのだろうか?
「どうして、黄金姫は人間と契約したいの?」
月盾は率直に質問した。
「人間と契約しないと遺跡を追い出されるのよ」と黄金姫も率直に答えた。「私は白薔薇と契約しているの。三年間は私が契約者を見つけるのを支援すると。そして、契約終了まで残り三日しかないのよ」
「そうなの?」
「そうなのよ。だから助けて、月盾」と切実な声で黄金姫は訴えた。「誘拐される私を見捨てたでしょう。威嚇射撃もせずに私を拳銃で撃ったでしょう。それは本当は絶対に許されない悪い事なのよ。でも、全部、許します。だから、私と契約して私の契約者になってください。お願いします。
月盾に見捨てられたら私は終わりなの。三年も駄目だったのに後三日で契約者を見つけるのは無理よ。私は可哀想でしょう。だから月盾は私に同情して契約してください」
黄金姫の提案は滅茶苦茶だった。
しかし、月盾は必死に契約を結ぼうとしている少女に同情してしまった。
黄金姫が秘密情報を欲している理由は分からない。
しかし、炎風や雷人と会うために探索士になった月盾には、黄金姫の感情が理解できた。
月盾が務級探索士が暮らす世界に行きたいように、黄金姫は白薔薇遺跡から追い出されたくないのだ。
もしかしたら黄金姫が秘密情報を欲しているのは、月盾が務級探索士になりたいと思っているのと似た事情なのかもしれない。
月盾には夢があるので、同じく夢がある黄金姫を応援したい気持ちもあった。
しかし、夷狄と取引はできない。
探索士は夷狄を利する行為は禁止されているのである。
月盾は悩んで黄金姫に提案した。
「契約はぼくから自由に破棄できる。以上を条件にできるのであれば、ぼくは黄金姫と契約を結んでも構わない」
黄金姫の顔が明るく輝いた。
「本当に?」
「約束する」と月盾は言った。「契約を自由に破棄できるなら契約する。黄金姫がぼくを騙していたら契約は破棄する。探索士が夷狄と契約する行為が禁じられていると分かった瞬間に契約は終了だ」
「ありがとう、月盾。これで私は救われたわ。それでは今から利用規約と契約内容に関する説明を行うわね」
黄金姫は利用規約と契約内容の説明を始めた。
食卓に文字が表示される。
月盾は字が最低限しか読めないので黄金姫に説明を求めた。
すると「本契約は」と前置きがあり、契約書類で使われる難しい言い回しで説明が続いた。
一度聞いただけでは、貧困街出身の月盾には内容が欠片も分からなかった。
しかし、月盾は難解な説明を何度も繰り返される苦痛から逃げるために、適当に「分かりました」と答える愚か者ではなかった。
相手が夷狄である以上は慎重すぎて慎重すぎる事はない。
説明が続いた後に、黄金姫が「以上の説明の内容は理解できましたか」と尋ねると、素直に分からない部分を質問した。
説明は何度も繰り返されて、脳が糖分を必要としたので焼き菓子は一時間でなくなった。
新しい菓子が追加された。
利用規約と契約内容の説明は十日間も続いた。
そして、十日後の昼食前に黄金姫は必要な説明を完全に終えた。
黄金姫は微笑みながら言った。「それでは帝錦都市小建位、進広四級探索士の月盾は、私、黄金姫伊尺飡と契約を結びますか?」
月盾は答えた。
「契約を結びます」
契約が結ばれた。黄金姫は嬉しそうに笑った。
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