第三話 誰かのために
家に帰ると、叔母さんが血を流して倒れていた。腹部に包丁が刺さっている。
僕は慌てて駆け寄って、力一杯に叫ぶ。
「叔母さん…!叔母さん!!」
しかし返ってきたのは沈黙だけ。僕の声は明かりの点いていない部屋に広がる薄暗がりに沈んで消える。
「何があったんだ」「誰に刺されたんだ」「取り敢えず救急車、警察…」
いろんな疑問が頭の中を飛び交う。じんわりと嫌な汗が頬を伝う。心臓が内側から何度も叩かれてるみたいに鼓動が高鳴っていて、今にも突き破れそうだ。そんな時、最悪な考えが脳を過った。
―僕のせいで不幸になった。
僕はスゥーッと青ざめていく。呼吸の数が増える。吐く息の量よりも吸う息の量が増え、破裂しそうになる。それが苦しくて、不安でさらに呼吸の数が増える。
「ぁあ…!!…はぁ…はぁ…あ゛ぁぁぁ!?」
呼吸に呻き声が混じる。
僕はその場に膝から崩れ落ちる。
落ち着かないとダメだ。動かないとダメだ。助けないとダメだ。
混乱する頭を無理矢理動かして自分を励ます。叔母さんはきっと生きてる。このまま見殺しにしたら、それこそ最低だ。
僕は立ち上がろうとする。が、体が誰かにしがみつかれてるように重い。
ズブズブと沼に引きずり込まれているような感覚。この"違和感"はなんだ。
「どうした?」
アマテラスの声がする。
僕はポッケに手を突っ込んで鏡を取り出す。そして嘔吐するかのように叫ぶ。
「アマテラス…!!叔母さんが!!」
僕は鏡を仰向けに倒れる叔母さんに向ける。
アマテラスは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの冷静な顔に戻って考える仕草をする。
しばらく観察したあと、口を開いた。
「安心しろ。死んじゃいない。見りゃ分かると思うが急所は外れている。そんなに時間も経っていないようだ。急げば後遺症も残らずに助かってしまうだろうな」
僕はほんの少しだけ安心した。
「どうしたら…いい?」
僕は縋りつくように言う。
アマテラスはこういう場合の対処法も熟知しているだろうと思った。
「放っておけ」
アマテラスは冷淡にピシャリと言った。
―えっ
僕は拍子の抜けたような声を出す。
放っておく?そんな事をしたら叔母さんは死んでしまう。
「何か問題でもあるか?」
あるに決まってる。叔母さんは僕を引き取ってくれて、僕に衣食住を与えてくれた。死んでいいはずがない。
失念していた。神様と人とでは価値観が違うものなのか。僕は鏡をポケットにしまう。そして叔母さんの側へ駆け寄る。
まずは包丁を抜こう。僕は手を伸ばす。
「包丁に触れるな。内臓が飛び出すぞ」
触れる寸前、アマテラスに止められた。
僕はハッとして後退る。
鏡はポケットにしまったはずだ。アマテラスは脳に直接語りかけるように移動したんだ。
「そうカリカリするな。俺は意地悪で言ってるんじゃない。お前のために言ってるんだ」
僕のため?
「その包丁には二種類の指紋がついてる。そこの女の指紋と、恐らく犯人の指紋だ。警察に通報すれば、すぐに犯人は特定できる。見たところ偽装工作もない。衝動的に刺して、慌てて逃げた。それだけだろう」
さっき安否を確認しただけで、そこまで調べていたとは、流石だ。でも感心してる場合じゃない。
「あと数十分もしないうちに、そいつは死ぬ。お前は寝て、明日の朝何事もなかったように警察に通報する。そうすれば犯人は逮捕され、お前はどっかに保護される。晴れて自由だ」
そんなの、間違ってる…!!
「間違ってない。お前が感じた"違和感"の正体を当ててやろう。それは"恨み"だ」
僕は叔母さんの事を恨んでなんて…
「いや恨んでるね。俺には分かる。こいつの身に降りかかる不幸は全部お前のせいにされる。目が合えば暴言を吐かれる。暴力を振られたことだってあるよな?」
それは…僕のせいだから…
「なら聞くが、助けてどうすると言うんだ?こいつが生きながらえた所で、失ったものも、荒んだ心も戻らない。完治してしまえば、今まで通りの生活に戻る。それだけだ」
…
「何度も言うが、俺は半端な覚悟のやつには手を貸さねぇ」
助けてどうする…?
アマテラスは、何が言いたいんだ…?
何でそんなに僕を突き放すんだ。
僕はただ叔母さんに生きて欲しい。
今まで通りの生活に戻ったって関係ない。
「それじゃ何も変わらないだろう。自分の心に従うんじゃなかったのか?」
自分の心に従う…?
そっか…。
なんで僕は叔母さんに生きて欲しいんだっけ…。
僕の頭に映像が流れる。
両親のお葬式の後の事。
ここはじいちゃんの家だ。
お客さん用の何もない畳の部屋。僕はこの部屋から出ないように言われている。
僕は壁に持たれてボーッとしてる。
そんな時、親戚が集まっている部屋から怒声が聞こえた。僕は聞き耳を立てる。
「俺は嫌だよ!!あんな不気味な子供!!」
「僕だって嫌ですよ!!まだ死にたくないですし!!」
お父さんの兄と、お母さんの弟だ。
彼らは至って普通の反応をしてる。僕を引き取れば、僕の両親と同じ目に遭う。だって髪の色が普通じゃないから。
当時の僕は、何で喧嘩してるんだろうって思ってたのかな。
そんな時、机を叩く音がした。銃声みたいだ。水を打ったような沈黙が広がる、そしてまたすぐに声が響く。
「あんた達最低だよ!!あの子はまだ3歳なのよ!?さっきから自分のことばっかり!!少しは可哀想とか思わないの!?」
お母さんの妹。僕を引き取ってくれた叔母さんの声だ。
「そんなに言うなら、お前が引き取れよ!!」
「いいんじゃない?お前の家なら、幼稚園も変わらないだろうし」
「言われなくたってそうするわよ!!あんた達に引き取られたら、颯人君が可哀想だわ」
「引き取るなら、俺達とは縁を切れよ。不幸が感染る」
「何言って…。いいわよ!!あんたらなんて家族でも何でもないから!!」
そんな会話で話し合いは終わった。
向こうの部屋から、勢いよくドアが開く音がすると、こっちに足音が近づいてくる。足音が僕の部屋の前でとまると、ゆっくりと扉が開く。
僕は聞き耳を立てていた事が悟られぬよう、慌てて壁から離れる。
叔母さんは僕を見て、にっこり笑うと、こちらに歩み寄ってくる。そして、膝を折り、僕に目線を合わせて言った。
「行こっか」
僕はただ頷いた。あなたは誰なんだとか、どこに行くのとか全部どうでも良かった。
僕は叔母さんに連れられて、歩いて家に向かう。
僕は数歩後ろを俯いたままのろのろと歩く。
叔母さんは僕に歩幅を合わせてくれる。家まではそんなに遠くないけど、結構時間がかかった。
叔母さんはいろんな話をしてくれたから、全然苦じゃなかったな。
「好きな食べ物は?」
「魚介…」
僕は道路を見つめながら答える。
海鮮料理が好きなのは本当だ。敢えて魚介と答えたのは、見栄というやつだろう。
「魚介!?大人だねぇ。今度食べに行こっか」
そんなら見栄が通じたようで、叔母さんは大袈裟に言う。
質問しても素っ気ない僕を見かねて、叔母さんは質問から語りにシフトする。
「颯斗くんと同い年の娘がいてね。あの子ったら壁一面に落書きしてね」
「お母さんの絵なんていうもんだから、怒るに怒らなかったのよ。ほんと参っちゃう」
愚痴っぽく言うけど、叔母さんはどこか嬉しそうな表情を浮かべて言う。
「颯斗くんは大人びてて偉いね。一体人生何周目なのかな?」
そう言って僕の白銀の髪を撫でる。
そして、叔母さんは気がついたように言った。
「誕生日は颯斗くんより後だから、妹になるのかな?」
「仲良くしてあげてね」
叔母さんは終始笑顔だったな。僕の不安を取り除こうとしてくれたんだ。僕は素っ気ない態度を取っちゃったけど、そっとしておいて欲しいとかそんな感情はなくて、すごく嬉しかった。
家に着くと、従姉妹と、叔父さんが出迎えてくれた。
従姉妹は、僕を見るなり飛びついてくる。そして、僕の両手を掴んでぐわんぐわんと揺さぶる。
「よろしくね」
僕の目を一点の曇りなく見つめ、満面の笑みで言う。
「…ぇ…あ…よろしく…」
僕は両手を揺さぶられながら言った後、助けを求めるように叔母さんの方を見る。
だけど、叔母さんはそんな様子を嬉しそうに眺めてる。
叔父さんの方は、最初は驚いたような表情を浮かべてたけど、すぐに微笑んで言った。
「いらっしゃい。中に入ろうか」
そう言われて、僕は家の中に連れられた。
その間も、手を離してもらえなかった。
ひとしきり案内されたあと、叔母さんは僕に目線を合わせて、口を開いた。
「今日からここが颯人君のお家だよ。私たちの事は、本当の家族だと思っていいからね」
そして僕たちは家族になった。
その日の夜。僕たちは同じ部屋で布団を敷いて寝た。僕は自分の意思で右端を選んだ。隣には叔母さんが寝ている。
僕は中々眠りにつけなかった。頭の中でお母さんとお父さんの姿がグルグルとしている。
暗がりに目が慣れてきて、うっすらと部屋を認識することができる。いびきや歯軋りはなく、心地良さそうな寝息が支配している。
ぼんやりと天井を眺める。すると、視界が潤んでいることに気がついた。
お母さんとお父さんにはもう会えないという悲しみが、再熱してきた。
そんな時だった。
「眠れないの?」
叔母さんに問いかけられた。優しく、みんなを起こさないようにとヒソヒソとしているけど、静かなので良く聞こえる。
僕は慌てて布団を被って体を背けた。
しばらく沈黙が続いた。
僕の行動に対するアンサーは言葉ではなく、行動で示された。
身体が締められる感覚に襲われた。だけど、苦しくはない。あの時の、お母さんによく似ている。
ボロボロと涙がとめどなく溢れてくる。さながら、ダムが決壊したようであった。
叔母さんは、優しく叩いたり、さすってくれたりした。僕は叔母さんの胸の中で泣いた。
数分ほど経った。泣き疲れて、睡魔に襲われる。意識がぼんやりとしてくる。
叔母さんは優しく語りかけてきた。
「お母さんとお父さんは、きっとお空で見守ってくれてるよ」
「きっと側にいてくれてるよ。絶対いなくなったりしないよ」
「颯人君が泣くと、私も悲しいよ。でも、颯人君が笑ってくれると、私も嬉しいよ」
「お母さんとお父さんも同じはずだよ」
「颯人君のペースでいいよ。泣きたい時は泣いてもいいよ。私が受け止めてあげる」
「だけど、楽しい時は笑ってみて」
「少しずつ、少しずつ、笑える明日を目指して行こ」
その言葉を聞いて、再び涙が溢れてきた。
だけど、僕は涙を拭いて、口角を上げて見せた。
叔母さんと叔父さんは僕を実の子のように、従姉妹 と同じように、分け隔てなく大切にしてくれた。
本当に幸せだった。
幸せだった。
ずっと続けばいいと思っていた。
そんな思いとは裏腹に、突然、崩壊を始めていった。
僕は小学生になった。学校生活は、相変わらずだけど、"まだ"家ではすごく幸せだった。
ある日のことだ。
僕とは違って、従姉妹にはたくさんの友達がいた。この日も放課後に友達と遊ぶ約束をしていたらしい。 僕も一緒にどうかと誘われたけど、断った。
「いってきまーす」
明るい声で、そういって家を飛び出していった。
それ以来、従姉妹が帰ってくることはなかった。
「はい、そうですか。はい…」
叔母さんは慌てた様子で、携帯電話に向かって話している。従姉妹が遊びに行った友達の親と話しているのだ。
友達の母によると、もうとっくに帰っているらしい。
「ちょっと探してくるね」
叔母さんは不安そうな様子だけど、それを僕に感じさせないように、そう告げた。
「あの子が帰ってくるかも知れないから、颯人君はここで待っててね」
叔母さんはそう言って出ていった。
僕はそんなに強くなかった。叔母さんみたいに、隠すことができない程にすごく不安だった。
僕は玄関にポツンと座って従姉妹と、叔母さんの帰りを待った。
外はとっくに暗くなっても、一向に帰って来なかった。
そんな時、ガチャリと鍵が開く音がした。僕は立ち上がって出迎えた。
しかし、立っていたのは、叔母さんと警察だった。そこに従姉妹の姿はなかった。嫌な汗が頬を伝う。
呆然た立ち尽くしている僕を他所に、警察は僕に一礼して中に入っていった。
僕も叔母さんに連れられて着いて行った。
しばらくの間、難しい話をしていた。僕は頭が真っ白になって、全然ついていけなかった。
―従姉妹は、誘拐事件に遭った可能性があるらしい。
毎日探し続けた。いろんな人が協力してくれたけど、捜索も虚しく、見つかることはなかった。
従姉妹がいなくなって、一気に寂しくなった。
一年が経った日の夜だ。
僕は怒声で目が覚めた。そっとリビングを覗いてみる。叔父さんと叔母さんが口論しているようだった。
「なんで不倫なんてしたのよ…」
「俺はやっぱり、あんな奴の父親にはなれない!!」
叔父さんは、そう言ってテーブルを叩いて立ち上がった。
「あんた馬鹿じゃない!?偶然に決まってるでしょ!!」
「あいつが来てから、俺は上司にミスを擦りつけられたり、痴漢の冤罪に遭ったんだ!!おふくろだって死んだんだぞ!!あいつが家に来てから突然だ!!俺は最初から反対だったんだ!!」
「そんなこと、あの子のせいにしないでよ!!」
「俺たちの娘が!!本当に血の繋がった娘だっていなくなったんだ!!あのよそ者のせいで!!俺たちの命だって危ないんだぞ!!」
叔母さんは黙ってしまった。
叔父さんが、僕のせいで不幸な目に遭ってるなんて知らなかった。
ドタドタと足音が近づいてくる。僕は隠れた。
叔父さんは苛々とした足取りで、外に出ていった。
再びリビングを覗き込むと、叔母さんが呆然と座り込んでいた。そして、確かにこう言った。
「偶然に…決まってるわよ…」
だけど、叔母さんは変わらず僕に優しくしてくれた。
だけど、ある日を境に叔母さんは急に冷たくなった。
叔母さんと会う時間は極端に減った。
ご飯はコンビニ弁当が用意されるようになった。
叔母さんは酒に溺れた。
僕は屋根裏部屋で暮らすようになった。
目が合えば暴言を吐かれるようなった。
暴力だって振られた。
そして、今に至るんだ。
僕は、腹部を真っ赤に染めて仰向けになって倒れ、か細く呼吸している叔母さんに目をやる。
「思い出したよ。アマテラス」
僕はアマテラスに語りかける。
僕は、自分が不幸になることだったら、きっと耐えられるんだ。
叔母さんも同じだよ。叔母さんは強くて優しい人だよ。
僕なんかよりも、ずっと。
叔母さんは、家族のことも、僕のことも、大好きだったんだ。
叔母さんは僕を引き取れば不幸になる事を知ってて、僕を引き取ってくれた。
肉親全員と縁を切って。
叔母さんは優しいから、自分が不幸になることなら、いくらでも耐えられるって思ったんだろうね。
だけど、娘を失った。原因不明で。行き場のない悲しみ。探すこと、信じて待つことしか出来ない自分が許せなかったと思うよ。
旦那さんは、たくさん辛い目に遭って、そしてにげてしまった。至って正常な判断だと思うよ。
叔母さんは、あまりにも早くたくさんのものを失った。自分を責めたと思うよ。
僕なんか引き取らなければよかったって。
だって、不幸になったのは叔母さん自身じゃなくて、周りだったんだ。
だけど、叔母さんは全てを失っても最後まで僕を信じてくれたんだよ。
「僕は叔母さんを憎んでなんて、断じてないよ」
僕は毅然とした態度で言う。
「叔母さんは本当に良い人だよ。誰かのために犠牲になれる人は、本当に良い人なんだ」
「僕は叔母さんに生きて欲しい。心の底からそう思ってる」
「僕のために犠牲になる覚悟をしてくれた叔母さんを助けたい」
「これは半端な覚悟じゃないよ」
僕が言い終えると、静寂に包まれた。
「…そうか」
しばらくして、アマテラスは重々しく口を開いた。
「お前は俺とは思えないほど、お人好しだな」
アマテラスは呆れたように言うわれ、僕は俯いてしまう。
「だが面白い。気に入った」
アマテラスは微笑みを浮かべて言った。
「さて、少し話し過ぎたが、まだ間に合うな」
僕はまず、救急に連絡した。
アマテラスの指示で、スムーズに話すことができた。
救急が来るまでの間に、アマテラスに教えてもらってペットボトルで即席の呼吸器を作ったり、止血をしたりした。
叔母さんの呼吸も安定したように見える。
流石アマテラスだと思った。
救急車が到着すると、叔母さんを運んで行った。
少し離れたところに、颯人と共に救急車を見送る影があった。
少年は、颯人の家の屋根の上に立っている。
「くそ…!!なんでだよ…!!」
少年はそう呟き、苛立って首筋を掻きむしる。ガリガリと皮膚が抉られる音が宵闇に沈む。
「君?こんな時間に何してるの?まぁ、僕が言えたことじゃないんだけどね」
もう一人の少年が、顔を覗き込んで言う。語尾が少し伸びるような、気の抜けた話し方が特徴的な少年だ。チャックを開けて羽織っているパーカーが、夜風に靡いていて、「飄々」という言葉がよく似合っている。
少年は、飄々とした少年を首筋を掻きむしりながら、睨みつける。
そして、小さく舌打ちをすると、闇に消えていった。
残された少年はため息をついた後、ポケットから果実の刻まれた光る板を取り出して、とある番号にかける。
「もしもーし、一位エークだよ」
電話の相手にそう名乗ると、微笑んで言った。
「面白いことになりそう」
そして、彼もまた、去っていった。
止血したとはいえ、あくまで応急処置だ。叔母さんは緊急手術を受けた後、入院することになった。
僕の方では、警察が事情聴取に来た。嘘偽りなく、と言ったら嘘になる。アマテラスに言われた通り、トイレに行くために起きた時、ふらっとリビングに寄ったら、あの有様だった。と証言した。特に疑われるまでもなかった。なぜなら、犯人はあっさりと逮捕されたからだ。これもまた、アマテラスの言う通りで、包丁にはっきりと指紋が残っていたからだ。
警察の話によると、犯人は叔母さんの新しい交際相手だそうだ。子供、すなわち僕がいる事を叔母さんに打ち明けられた際、口論になって刺してしまったと考えるのが有力らしい。
またしても、僕の存在が叔母さんの迷惑になったと考えると気が滅入るばかりだ。
そんな僕は、叔母さんが入院している部屋の扉の前にいる。
もう顔を合わせない方がいいかと思ったけど、この決断に至ったことには訳がある。
少し前の時間、叔母さんを乗せた救急車を見送った後に遡る。
「はぁ…はぁ…」
僕はその場に崩れ落ちるように座り込む。
緊張の糸がプツンと切れて、一気に疲れが押し寄せてきた。
「お疲れさん」
アマテラスは僕に微笑みかける。
僕はこれからどうしようか。
ぼんやりと虚を眺めてそんな事を考える。
もし、叔母さんと仲直りができたら…。
それは我儘だ。叔母さんが失ったものは二度と帰ってくることはない。
「俺の考察が正しければ」
アマテラスは急に深刻な顔をしていった。
「お前の叔母は、三人でやり直そうと思ったんじゃないか?」
三人でやり直そうとした?僕の頭は疑問符で埋め尽くされる。
「俺の驚くべき天才的な推理を全聴覚を酷使して拝聴するがいい」
アマテラスは恥ずかしげもなく、そんな事を言う。
その発言が既に天才的とは程遠いと言いたくなる。これで事実天才なのだから驚きだ。
結果から言うと、アマテラスの推理は、警察の推理とは異なっていた。厳密に言うと、犯人が新しい交際相手だと言う部分以外が異なっていた。推理なんて犯人さえ当たっていれば、そんなものなのかも知れない。
だけど、僕はアマテラスの推理を信じたいと思った。
「もし、自分だけ幸せになろうとしたなら、お前を切り捨てりゃいいだけの話だろ?」
残酷な事をいとも簡単に言ってくれるものだ。反論の余地もない事実なのだが。
「なぜそれをしなかったのか。叔母のスマホを見てみろ」
床に落ちている、救急車を呼ぶときに使った叔母さんのスマホを拾い上げる。ロックはかかっておらず、上にスライドするだけで開いた。
アマテラスに促され、申し訳ないと思いつつもメールのアプリを開く。
そこには、十数人にも及ぶマッチングアプリで知り合ったであろう、男の人とのやりとりがあった。そのどれもが、僕の存在を打ち明けた時点で、男の人の返信が途絶えている。
「お前の存在がよっぽど鬱陶しくなった原因だろうな」
一番古いやり取りをみると、叔母さんが急に冷たくなった日と、一致している。
僕は唖然としつつも、最新のやり取りを確認する。
「大事な話があるから、私の家で話したい」
緑の吹き出しに、そんな事が書いてある。男の人は了承をして、そのやりとりは終わっている。
やり取りを遡ってみると、一番長続きしている男性だと言う事が分かった。
「お前の存在を隠して交際する事を覚えたんだな」
アマテラスは感心したかのように言う。
大事な話というのは、家には僕がいるという事で間違いないだろう。しかし、それを聞いた男の人は激昂し、殺害に至った。という事だろうか。
僕は、断片的に情報を繋ぎ合わせ、推理というものをしてみる。
「中々賢いじゃねぇか。確かにそれもあると思う。だが、もっとポジティブに考えてみようぜ」
殺人事件もとい、殺人未遂事件においてポジティブも何もないと思うが。
「少し話が逸れたが、自分だけ幸せになりたいなら、お前を切り捨てればいい。つまり、お前がいなくなればいいんだ」
「だって男がお前の存在を受け入れないなら、叔母だってお前の存在を受け入れる必要はないんだろ?つまり口論になんて起こり得ないんだ」
アマテラスの言う通りなのかも知れない。つまり、口論が起きたと言う事は…。僕はハッとした。
「そう。口論が起きたと言う事は、叔母は、お前を切り捨てると言う意見に反論したということになる」
口論が起きた経緯は分かったけど、それが分かったところで、その口論の末に刺したという事は変わらないのではないだろうか。
「そこが分岐点だ」
アマテラスは僕の思考を遮断するように言う。
「俺は神だから、人間の考えなんて共感はせずとも、想像する事くらいは余裕なんだ」
何が言いたいの?
「んじゃ、もったいぶらずにいうとするか」
そして、アマテラスは名探偵もびっくりの答え合わせを始めた。
「ポジティブに考えるとしたら、一度愛した人間をそんな理由で殺そうとしたりはしないだろうな」
「つまり、殺そうとした人間は他にいるとしたら…。誰だと思う?」
アマテラスは、不意に問いかけてきた。
他に殺そうとした人間。
答えは分かりきっているけど、それを口にするのは憚られた。僕は、重い口を動かして呟く。
―僕?
「そういうこと」
内心、外れていて欲しかったかなって思ってたけど、見事的中していた。
「ところがびっくり、刺されたのは叔母さんだった。それは、お前を庇おうとしたからなんじゃないか?」
「叔母さんはお前のことをまだ大切に思ってたんだ」
その一言を聞いて、不意に水中に投げ出されたような視界になる。
僕の思いの結晶は、頬を伝って流れ落ちる。
「おいおい、ここ喜ぶ所だぞ?」
アマテラスは、わざと大袈裟に戯けたように言う。
嬉しい。すごく嬉しい。
喜んでるよ。だけど、涙が止まらないんだ。
「そうか。いっぱい泣いていいぞ」
アマテラスはそこにいないけど、なんだか側に居てくれる気がして温かった。
「お前は、どうしたい?」
「叔母さんと、仲直りしたい…!!」
本当は、ずっと前から、そう思ってたよ。
やっと言えた。
「自分が我慢することで、分かり合うことから逃げなくてもいいんだ」
気がついたら、その場で眠りについていた。
しかし、目が覚めると屋根裏部屋の布団の上にいた。
いつの間に寝てたんだと、困惑する頭で考える。
「本当はこんな事に使いたくなかったんだけどな」
アマテラスは、ため息をついてそう言う。アマテラスが僕の体を借りてここまで運んでくれたのだと分かった。僕は、シャワーを浴びたり、歯磨きしたりした。すっごく疲れていたようで、清々しい気分になった。
そして、今に至る。
僕は、扉に手をかける。心臓がバクンバクンと脈打っている。次第に、ペースが速くなっているのも感じる。
僕は、深呼吸をして扉を開けた。
叔母さんの区画に向かうと、叔母さんは寝息を立てて、心地良さそうに眠っていた。
僕は椅子に座ってその様子を眺める。
起きるまで待っていようと思った。
「…颯人?」
完全に眠っていると思ってたので、ことの外速く声をかけられ、僕は慌ててしまった。
叔母さんは身体を起こし、驚いたような表情で僕を見る。だけど、目を合わせようとはしない。
二人の間には、沈黙が流れる。他の部屋からは、楽しそうに雑談している声が聞こえてくる。
そんな沈黙を破ったのは、叔母さんだった
「…ごめんね。…じゃ済まないよね。私取り返しのつかない事を…」
叔母さんは、目に涙を浮かべている。流さないようにと堪えていて、声が震えている。叔母さんはきっと泣きたいのは僕の方だって痛いほど思ってくれてるんだ。
「…」
僕は、黙って叔母さんを見つめる。
気がついたら、僕の目にも涙が浮かんでいる。だけど、にっこり笑って見せる。
アンサーは、決まってる。
あの時と、同じように。
僕は叔母さんを抱きしめた。
叔母さんは、驚いた顔をしたけど、抱きしめて返ってきた。
「僕もごめんなさい…!!ごめんなさい!!」
「謝らないで。颯人は少しも悪くない。私が悪いの」
そう言ってもらえて救われた。
だけど、叔母さんも悪くないんだよ。
「もう一度やり直させて」
叔母さんと全部ぶつけ合った。
そして、再び家族になった。
僕は晴れやかな気持ちで、病室を後にした。
叔母さんはもう少し入院しなきゃいけないらしい。
僕は軽やかな足取りで家路についた。
モノクロだった世界に色がついたみたいだ。
「よかったじゃねぇか」
アマテラスの声だ。
「アマテラスのお陰だよ」
「俺は何もしてねぇよ」
アマテラスは少し照れくさそうに言う。
「俺のおかげだぜぇ。感謝しろ」とでも言うと思ってたから、少し意外である。
「こうなるって分かってて、わざと厳しい事を言ってたんだったりして?」
「知らねぇな。偶然だ偶然」
本当かな?
「偶然と言えばよ」
アマテラスは話を逸らすように言う。
「お前の周りに降りかかった不幸、本当に偶然だと思うか?」
それって、やっぱり僕のせいだと言う事だろうか。
「そうじゃねぇ。俺の推理が正しければ―」
「何者かが糸を引いてるんじゃないか?」
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