第20話 『県大会』

「ただいま」


「おかえり。随分遅かったな。腹下してるのか?」


「ウンコしてた」


「俺が包んだんだからお前も包めよ」


 オブラートに包んだ煌大の配慮も虚しく、優は東雲太陽のストレート並に、直球に表現した。


 夢花の試合が始まるまで、あと十五分。煌大も、段々と緊張してきた。


 夢花は最初の方のグループであるため、たとえ一位でゴールインしたとしても、後の選手たちが六人以上夢花のタイムを上回れば、夢花の県大会敗退が決まる。


 夢花のインターハイにかける思いは、煌大も知っている。

 否、昨日知ったばかりだ。


 去年の夏、叶わなかった夢へ、舞台を変えて挑む。

 環境も変わり、色々やりづらい部分もあったはずなのに、いつも気丈に振る舞い、辛抱強く練習を続けていた夢花ならば、きっと大丈夫。

 そう信じて、誰もいないトラックを見る。


「ーーーあら、君が煌大君?」


「えっと……はい?」


「直接会うのは、初めてになるわね。

 初めまして、夢花の母、成海です」


 煌大に声をかけたのは、夢花の母、成海であった。

 煌大と優の座る席の隣に腰掛け、水を口にする。


「まだ五月なのに、すっかり暑いわねー」


「ですねー。夏はどうなることやら……」


 煌大は、好きな女性の実の母の前であるためか、夢花の試合前の緊張とは別の意味で緊張してきた。

 会話デッキゼロの煌大は、最近やっと夢花と気兼ねなく話ができるようになったばかりである。

 いきなり夢花の母と喋るなんて、かなり難易度が高い。


 煌大は優に助けを求めるが、親指を立てられただけで、助け舟など出してくれなかった。


「煌大くんの話、夢花からよく聞くわよ」


「そうなんですか?」


 煌大は嬉しくなった。

 夢花の中で、煌大はかなり仲のいい部類の人間であることが実感できる。


「『凄くいい後輩ができた』とか、『今日も煌大くんがね』とか、学校から帰ってくるなり、デイリークエストみたいな感覚で、煌大くんのことを話すの」


「デイリークエストってっ!」


 成海のジョークに、煌大は思わず吹き出す。

 これは愛想笑いなどではなく、少し面白かった。


 (毎日、俺の事を話してくれてるんだ……ちょっと嬉しいな)


 煌大はそう思いながら、下を向いた。意に反して、口角が上に向いたからだ。


「煌大くんが、夢花に激励の言葉をかけてくれたのよね?」


「激励になったかは分かりませんが、背中が少しでも押せるならと」


「あの子、すごく嬉しそうにしてたのよ。

 『煌大の言葉で、全部吹っ切れた』って」


「俺の、言葉で……」


 夢花がどれだけ救われたか、煌大は成海に言われて初めて知った。

 プレッシャーも、不安も、期待も、全てが吹っ切れたきっかけとなった言葉。


「『俺がついてる』って、言ったらしいじゃない?」


「わあああああああ!」


 夢花は詳細を全部、母に話していた。

 煌大は爆発して消えてしまいたくなる。


「高校一年生なのに、男らしいこと言うじゃない!

 ありがとうね、煌大くん」


「……恥ずかしいですけど、救いになったなら、幸いですーーー」


「ーーー煌大。華山先輩が出てきたぞ」


「ーーー!」


 ついに。

 ついに、夢花はトラックに姿を現した。


 ーーー


「ふぅ……」


 夢花は深く息を吸い、吐いた。

 まずは、この八人の中の頂点に立つこと。それが、最低条件である。


 負けたら、終わりだと思った方がいいだろう。


 夢花は三番レーン。何とも言えない位置だ。


 スターティングブロックにいる選手たちが、順番に呼ばれていく。


「ーーー三レーン。星華高校、華山夢花」


 観客席にぺこりとお辞儀をする夢花。


「ーーー先輩!頑張れ!」


 煌大がそう叫ぶも、夢花は反応を示さない。


 単純に聞こえていないのか、集中しているのか。

 煌大は「無視された……」と優の顔を見る。


「手、振ってるぞ」


 優に言われて夢花を見るが、夢花は既に前を向いてしまっていた。タイミングが悪かった。


「夢花さん、去年はあと一歩届かなかったんですよね」


「そうよ。本当に、あと一歩だった。

 今年こそは、頑張って欲しいわ」


 成海は両腕を膝につき、祈るような姿勢で、トラックにいる夢花をじっと見つめている。

 煌大もそれを見て、胸の前で手を組み、目を閉じる。


 (先輩なら大丈夫。あんなに走ってたんだから)


 煌大は胸の中で何度も『大丈夫』と唱える。

 自分にそう言い聞かせながら、夢花にもそう言い聞かせるつもりで。



「ーーー On your marks」


 『位置について』という意味のアナウンスが、競技場に響き渡る。

 選手たちは続々と、スターティングブロックに足をかけ、スタートの体勢を取り始める。


 煌大は、自分が出ているわけではないのに、心臓の鼓動が速くなる。


 これは、煌大が夢花と『一緒に戦っている』証拠であろう。


 クラウチングスタートの構えを全員が取り終えた。


「ーーー Set」


 その合図で、八人が一斉に尻を上げた。


 煌大は目を開け、夢花を見る。


 夢花だけを、目に捉える。


 そしてーーー、


「ーーーっ!」


 スターターピストルの音が鳴り響いた瞬間、八人が一斉にスターティングブロックを蹴り、前へ出た。


「夢花先輩ー!」


「頑張れー!」


 周りを見渡すと、結構な人数の星華高校の生徒たちがいた。

 どれも陸上部ではない。となると、星華のアイドルである夢花のファンだろうか。


 どちらにせよ、そんなことを考えている余裕はない。

 百メートルなんてあっという間に終わる。


 夢花は、二十メートルほど走った地点でまだ中団だ。

 まだ、完全に抜け出している選手はいない。


 ここから加速すれば、まだ一位は狙える。


「夢花!頑張って!」


「差せー!」


 陸上部だと思われる生徒たちも、夢花を必死に応援する。

 煌大は、レースに夢中でそれどころではない。


 残り五十メートル。夢花は二番手だ。

 夢花は苦しそうな表情を浮かべながら、必死に腕を振り、足を回す。


 煌大は、思い出した。


『応援する時、叫びまくりますね』


 そう言ったのに、煌大はまだ、試合が始まってから一言も発していなかった。


 煌大は手すりから身を乗り出してーーー、


「ーーー負けるなぁぁぁ!夢花先ぱぁぁぁい!」


 野球部所属の煌大の持ち味である、声を張って大声を出すという能力を、思わぬ所で使うこととなった。


 煌大が叫んだ瞬間、夢花は一気に加速した。

 驚くべきスピードで加速し、一気に先頭へ躍り出た。


 夢花のファン、陸上部がドッと沸いた。


 煌大は気付けば、ずっと叫んでいた。


 そして、夢花は見事、先頭のままゴールを駆け抜けた。


「よっしゃぁぁぁぁぁぁ!」


 煌大は、我がことのように気持ちが昂り、大きくガッツポーズをした。

 それを見て優は、頬を緩めた。


 (本当、一途だな、こいつ)


 煌大は、全身で喜びを表現する人間。

 もはや狂喜乱舞しているまである煌大の様子を、周りにいた陸上部、夢花のファンは、全員見ている。


 そんなことも知らずに、煌大は満面の笑みで、成海と何度もハイタッチを交わした。

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