第4話

柚木さんが目を覆ったのを確認すると俺は母さんのことを力いっぱい押した。

咄嗟に対応出来なかった母さんがよろめくと同時に俺はベッドから飛び降りる。

そして柚木さんの手を取ると、急いで病室から逃げ出した。

「走って、柚木さん!」

そんなに時間が稼げないのはわかっている。

でも今は人目につくところにさえ行ければ母さんが俺に危害を加えることはできないはずだ。

うまく動かない足を無理にでも動かして前へと進む。

「白沢さん!? 今伺おうと思ってたのですが」

「たっ、助けて! お母さんが…!」

廊下で鉢合わせた先生に俺は助けを乞う。

先生は理由のわからないまま俺を庇うように背中に隠してくれた。


それと同時に廊下の曲がり角から母さんが飛び出してきた。

「待ちなさい秋斗!」

何かを悟ったのか、先生はそのまま俺のことを隠しながら母さんに声をかけた。

「白沢さんのお母さんですか? 彼はこっちに来ていませんよ」

「嘘よ! こっちに来るのを見たもの!」

俺は高校生にしては小柄なのもあるせいか、先生の体ですっぽりと隠れている。

そのせいで見えていないのか、母さんは目を血走らせて探していた。

そんな肩で息をする母さんをできるだけ興奮させないようにしながら先生はたしなめる。

「それよりも病院に刃物を持ち込まないでもらえますか? 危険ですので」

「それよりも? 私は今あいつを探し出してやらなきゃいけないことがあるの! お前なんかに指図される筋合いはないわ!」

母さんは先生を刺そうと包丁を振り上げた。

さすがにこれ以上は見ていられない。

そう思って飛び出そうとしたら、先生に止められた。

そしてそのまま母さんの包丁を持つ手を掴むと、流れるように投げ倒した。

え〜、嘘でしょ…、先生って強かったの?

そんなことを思わなくもないが今は呑気に考えてる場合ではない。

倒れたまま痛そうにしている母さんの手から包丁を抜き取ると俺は横に立った。

「お母さん、もうやめない? こんなことを続けてても誰も幸せにならないよ。 だからさ…」

「うるさい!」

被せるように叫んできた母さんの言葉に肩が跳ねる。

「だいたいお前がこんなところにいるから…」

それと同時に思い出したのは忘れもしない昔の記憶。

まだ幼い俺を傷付けた呪いの言葉。


『生まれてこなければよかったのに』


過去と現実、どっちの母さんが言ったのかわからない。

いや、きっと両方だったのだろう。

頭を強く打たれたような衝撃が全身を駆け巡った。

「ははっ、そうだよね、俺がいるから母さんは辛かったんだもんね」

もとから少なかった感情がすべて消え失せ、わずかな輝きさえも失った瞳はもうなにも映さない。

「白沢さん…?」

柚木さんが不安そうに声をかけてくる。

「大丈夫だよ」

そういった声はあまりにも震えていて、全然大丈夫じゃなかった。

それでもそう言うのは、言い続けるのは自分の心を守るため。

今日も嘘を重ね続けていくんだ。


そんな俺からの母さんへの最後の言葉。

「母さんはもう、俺と、関わらないほうがいい。  母さんに愛情を注いでもらったことも、俺が母さんを好きだった記憶もない。 でも、それでも感謝はしてる。 こんな醜い俺なんかでごめんね。 それでも今まで育ててくれて、産んでくれてありがとう。 十六年間、本当にありがとうございました。 さよなら、母さん…っこれからも、元気でね」

俺は言い終わると同時に母さんに背を向ける。

そして取り上げた包丁を床に置くと確かな足取りで自分の病室へと踏み出した。 


「秋斗…。 待ちなさい、秋斗!」

背後から叫ぶ母さんの声に一瞬振り返る。

すぐさま駆け寄ってこようとする母さんを先生は止めようとする。

だがそれを振り切って母さんは俺の前に立った。

そして俺を優しく抱きしめると涙をこぼした。

「ごめんなさいっ、今まで、さんざん酷いことをしてきたわ。 本当にごめんなさい」

謝罪の意を述べる母さんからは嘘の色は見えなかった。

「本当に、そう思ってるの…?」

それは心の中だけで留めておこうと思った小さな疑問。

「ええ、本当よ。 もちろん謝っても許されないってことはわかってる。 それでもこんな私に気遣ってくれてありがとう」

何度もごめんねと言いながら抱きしめてくれる母さんは温かかった。

「うん」

俺は母さんのことを受け入れると静かに抱きしめ返した。


「ずっと、ずっとあんな態度だったけど、今さら遅いかもだけど…。 でもあなたを、秋斗を愛してるわ。 私のところに生まれてきてくれてありがとう。 そしてさようなら、またどこかで会うことがあったら、今度こそ仲良くできると嬉しいわ」

初めて俺に向けられた愛情は優しく、温かかった。

「うん、うんっ…。 っあぁぁ〜!」

それを実感すると同時に今までの感情が溢れ出す。

辛かった、嫌だった。

その思いが消えることはない。

それでも子供は親の愛が欲しい。

どんなに嫌われようと、無視されようと子供は親の期待に答えようとする。

ほんの僅かな、小さな小さないっときの愛情。

そんなちっぽけなものだろうと、この渇いた心には染み渡った。

「あぁぁ〜、うぁぁ〜!」

子供のように泣きじゃくる俺を母さんは静かに抱きしめ続けてくれた。


泣き過ぎて思考がぽわぽわとしながら睡魔に襲われていく。

ぼんやりとした頭で俺は母さんを抱きしめた。

すると抱きしめ返してくれた母さんに俺は安心する。

「さようなら、秋斗。 元気でね」

どこか遠くでそんな言葉を聞きながら俺はそのまま夢の中へと落ちていった。

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