第3話

穏やかな日々はあっという間に過ぎ、一週間が経過した。

「白沢さんおはようございます」

俺の一日は柚木さんに挨拶をすることから始まる。

「おはようございます」

今日も朝食を片手にやって来た柚木さんに挨拶を返しながら俺はふと考える。

果たしてこの幸せな日常はいつまで続くのかと。

俺の怪我が治れば終わってしまうこの幸せに残された猶予は短い。

もうすぐ地獄の時間に逆戻りなのかと思うだけで胸が痛い。

そんなことを考えていたせいか温かくおいしい食事もこのときばかりは味がしなかった。


そんな日の昼下がり、いつもと変わらず外を眺めたり読書にいそしんだりしているときであった。

部屋の中に突然響き渡ったノックの音に嫌な予感を覚える。

そんな時の予感ほど的中するもので―

秋斗あきと……、その、久しぶりね」

部屋の中に入ってきたのは髪を茶色く染め、ブランド物に身を包んだ身綺麗な女性であった。

彼女を見た瞬間、髪の奥で俺の瞳が揺れる。

「お母、さん」

緊張で強張り震えた俺の声には気が付かないのか、彼女はにこにことしている。

挙げ句の果てに彼女は衝撃の一言を放った。

「ここまで案内してくれてありがとう、もう下がってくれてかまわないわよ」

そう言われてしまえば看護師である柚木さんがここに残るわけにはいかなくなる。

柚木さんは俺の反応に気が付いていたのか、少し躊躇ったのち一礼をしてドアに足を向ける。

お願い、出ていかないで…!

そう言いたかったけど口の中はカラカラで喋れそうにもなかった。

そのまま彼女が出ていくと、お母さんは改めて俺に笑顔を向けた。

「元気にしてたみたいね」

どんな心変わりなのか笑顔で話しかけてくる母さんに嫌気が差す。

どうせ本心ではそんなこと思ってもいないって知っている。

「なにしに、来た…の」

僅かに震える声で、でもはっきりと言葉を紡ぐ。 

少しばかり棘のあるその言葉。

でも俺は彼女がどんなに傷付こうと気にしない。

それほどのことを今まで俺にやってきたんだ。

これくらいいいだろう。

「私ね今すごく幸せなの。 秋斗がいなくなって、私の人生を滅茶苦茶にしてきたお前がいなくなったおかげで毎日楽しいのよ」

満面の笑みで両手を広げて、本当に楽しそうにくるりと回って見せた。

ふわりと広がるワンピースの裾も、彼女の笑顔も、なにもかもが幸せを物語っていた。

だがその一言で俺はすべてを察してしまった。

母さんがここになにをしに来たのか、そしてこれからなにが起こるのかを。

「だからね、私の為に死んでちょうだい! もう家に帰って来ないで!!」

母さんの言葉とほぼ同時に鞄から出てきた鈍く光る包丁。

やっぱりか、そう思いつつも俺は目を固く瞑って斜め下を向いた。

怖い、刺される…!

そう思って身構えたのに、一向に痛みはやってこない。

不思議に思いつつも恐る恐る目を開けるとそこには予想外の光景が広がっていた。


***


白沢さんのお母さんに部屋から出るように告げられて戻ってきたけれど、どこか心がざわつく。

それに最後に見た白沢さんの様子も気になる。

やっぱりニ人きりにさせちゃいけない!

そう思うと同時に身体が勝手に動き出す。

気が付けば早足になっていた。


慌てて部屋のドアを開けると同時に白沢さんのお母さんの鞄から包丁が取り出される。

なにを考えるでもなく咄嗟に手を伸ばすと、無礼も承知で彼女を羽交い締めにする。

まさかお母さんが子供に手をかけるなんて。

信じられなくて、でも実際に目の前で起こっている状況に思考が停止しかける。

すると、目の前で俯いていた白沢さんが顔をあげた。

部屋の中に吹き込んだ風によって白沢さんの前髪が揺れ動いた。

その奥から覗いた瞳は血のように真っ赤で、それでいて宝石のような輝きを持っていた。

どこからどう見ても人間のようには見えないその瞳は不安で揺れていた。

「あっ、柚木、さん…」

本当に小さくて独り言のような声。

それでも確かに僅かな期待が込められていた。

その瞬間、私は看護師としてではなくとして彼を助けたいという思いが湧く。


「おかぁさん、落ち着いて、下さい」

さすがに刃物を持った相手には声が震えてしまう。

でもここは私が守らないといけない。

今、この状態で動けるのは私だけだ…!

無理してでも自分を鼓舞して震える身体に力を入れる。

「なにするのよ! 離してっ! 私にはやることがあるのっ!!」

なんとか私の拘束から抜け出そうとする彼の母親。

しかしこちらとて看護師だ。

ある程度の肉体労働だってあるわけだし負けるわけがない。

でも動けないようにするだけではどうにもならない。

そう思っていたら白沢さんが口を開いた。

そこから紡がれるのはとてもか細い声である。

「お母さんのやることって、俺を殺すこと?」

「そうよ、他になにがあるっていうの!?」

そんな分かりきったことを聞くなとでも言わんばかりに彼女は叫んだ。

そう、と悲しそうに呟きながら彼はしっかりと言葉を紡ぐ。


「なら俺はもう家には帰らないしお母さんの前には二度と現れないと誓う。 だから今日は見逃して欲しい」

「良いわよ、なら今日は見逃すわ。 だから離してちょうだい」

彼女の言葉に安堵すると、私は手を離した。

「っ! 手を離しちゃだめっ!」

白沢さんがそう言った時にはもう遅く、私は手を離した後だった。

「柚木さん逃げて!」

彼が叫ぶと同時に、彼の身体すれすれに包丁が突き刺さった。

「あっぶな…。 っ!柚木さんなにしてるの!? はやく逃げて、俺は大丈夫だから」

なんとか私を逃がそうとしてくれる。

でもここで逃げたら彼が殺られる。

なにが正解なのだろう…。


彼の母親が包丁を抜き取ると同時に、彼はナースコールを押した。

それでもふたたび振り下ろされようとする包丁。

もう無理だ…、そう思って私は固く目を瞑った。


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