第10話 第九章 別離
塔の最上階まで上がると、突き当りに大きな扉があり、オズマは鍵を開けて菊花たちを招き入れた。
部屋の中は広く、床に高級そうな絨毯が敷き詰められている。置いてある調度もそれなりのもののようだ。菊花が辺りを見回していると、オズマが「こっちだ」と手招きをした。どうやら奥にも部屋があるようだった。
奥の部屋に入ると、豪奢な寝台と寝具に誰かが横たわっているのが見えた。顔は土気色で、顔や腕の肉が削げて、ずいぶんと痩せてしまっている。菊花はせり上がってくるものをぐっと堪え、そっと近づいた。周りの者たちが菊花を止めようとしたが、オズマがそれを制止した。
「ばばさま……?」
菊花が呼びかけると、ぴくり、と桔梗の瞼が動き、ゆっくりと目が開いた。それに気づいた周囲が、ざわりと揺れた。
菊花と同じ深い青色の目は、まぎれもなく菊花が探し求めていたものだった。
「ばばさま……!」
寝台にいるのは、菊花の記憶の中よりはるかに老けて生気も乏しくなっていたが、まぎれもなく桔梗だった。
菊花は寝台の側に跪き、桔梗の手を取った。
「ばばさま……わたしよ、わかる?菊花よ」
横たわる桔梗は、青白い顔のまましばらくはぼんやりと菊花の顔を眺めていたが、やがてその目に焦点が合い、奥に光のようなものが灯った。
「菊花……」
「そうよ、ばばさま。菊花よ」
菊花は枯れ枝のようになった桔梗の手をぐっと握りしめた。菊花の深く青い目から、涙がぱたぱたと落ちていく。桔梗の目からも涙がこぼれて、寝具へと静かに染みていった。
「菊花、無事でよかった……」
桔梗の声はずいぶんとしわがれていた。隔てられた十年という歳月の何が桔梗をここまで変えてしまったのかと、菊花は悲しくなった。
「ばばさま、助けに来たの。一緒に帰ろう」
菊花はオズマに聞こえないように、桔梗の耳元でそうささやいた。
「もっと早く来られればよかったんだけど、でもこれで一緒に帰れるから」
すると、桔梗がおもむろに口を開いた。
「菊花、よくお聞き。私はもう、じきに死ぬ」
桔梗の言葉に、菊花の表情が凍りついた。
「……視たの?」
「いや」
「なら……」
「視なくても、わかる」
桔梗は落ち着き払っていた。菊花はこわばった顔で笑みを作った。
「……やめてよ、ばばさま。せっかく会えたばかりなのに」
「菊花、すまない。ずっと一緒にいてやれなくて……あのとき、お前を無理やり閉じ込めてすまなかった。お前を守るには、ああするしかなかった」
「いいの、そんなの別にいいの」
菊花は桔梗の手を強く握り、首をぶんぶんと横に振った。
「あの男は、良くしてくれてるかい?」
「ノリのこと?……うん、やさしいよ。ダメなところもあるけど、ちゃんと頼りになるところもあるし、わたしのこと大事にしてくれてるみたい」
「そうか。それなら、よかった」
桔梗は安堵したように深く息をついた。それがそのまま息を引き取ってしまいそうに見えて、菊花は思わず怖くなり、強く手を握った。
「ばばさま……」
「菊花、お前はここにいちゃいけない。一緒に来た人と
「……わかった。でも、ばばさまも一緒に帰ろう?」
「私はもう無理だ。身体の中に悪いものが溜まってね、もうここからは動けない」
「嫌!嫌だ、ばばさま。ずっと探してたんだから……ずっと待ってたんだから……」
菊花は桔梗の寝台にうつぶせるようにして、いやいやと首を振った。すると、桔梗が菊花の頭にそっと手をのせると、その震える腕で菊花の頭を自分に寄せた。桔梗のか細い、掠れた声が菊花の耳元で響く。
「菊花、聞き分けのない子どもみたいなことをお言いでないよ。もう私たちの生きる道は、あの十年前のときに分かれてしまったんだ。人にはそれぞれ、生きるべき道がある」
「……」
「このままここにいては、私が死んだあと、お前が巫女に据えられるだろう……もう逃げなさい」
「そんな……ねぇ、村の他の人たちは?あのとき捕まったのは、ばばさま以外にもいたじゃない?」
「皆死んだよ……あのとき一緒に捕まったのは、年寄りか病持ちばかりだったしね。私が最後の一人だ」
「そんな……」
菊花が愕然としていると、桔梗は苦し気に咳をした。近くにいた女性がすぐさま口元に器を当てると、桔梗はその中に口から何かを吐き出した。見れば、大量の血だった。
「ばばさま、それ……」
「言ったろう?私はもう長くないんだ。お前がここに向かっているのを知ったときはどうしようかと思ったが、最後にこうやって会えて本当に嬉しいよ」
「最後なんて言わないで、ばばさま!」
「菊花……」
桔梗の、乾燥して骨と皮ばかりになったような手が、菊花の涙で濡れた瑞々しい頬をゆっくりと撫でた。
「
「かあさまと……?」
「撫子のことは、お前にはあまり話していなかったね。撫子は……明るい子だった。いつも笑っていた。村中の人たちから好かれ、可愛がられていたよ。先を視る力はあまりなかったけどね……その代わり、あの子は舞が上手かった。あの子が舞うと、不思議と自分がどこか違う世界にいるような気がしたものだよ……なんとも不思議な気分でね……」
「……ばばさま、わたしも舞を舞ったのよ。上手だって言われたわ」
菊花がそう言うと、桔梗は心から嬉しそうな顔を見せた。
「そうかい、それはよかった。もしかしたら、お前は撫子の才を継いでいるかもしれないね」
「だから、一緒に帰ろう。わたしの舞も見せるから」
「あぁ、それは見たいねぇ」
だが桔梗は、一緒に行くとは決して言わなかった。桔梗は大きくひとつ息を吸って吐くと、精一杯の力をふりしぼるようにして持ち上げた腕を、菊花の頭にそっと置いた。
「菊花、強く生きなさい。お前なら、大丈夫だ。力に振り回されないように、人に利用されないように、自分のために、自分が使いたいと思った人のためにその力を使って生きなさい」
それだけ言うと、桔梗の腕はするりと力を失って、寝台の上にぱたりと落ち、失った目の光を覆い隠すように瞼が降りていった。そしてまもなく、桔梗の胸の動きが止まった。
「――!」
「ああああっ!」
そこかしこで女性たちが泣き崩れていた。医師らしき男性が桔梗の腕を取ると、その腕に手を当て、そして深く頭を下げた。
「わたし……わたし、間に合わなかった……わたしがもっと早く……もっと早くに……」
菊花は両手で顔を覆った。後悔で胸が押し潰されそうだった。
もっと早くにこの国に辿りついていれば。
もっと早くに王都まで来られていれば。
もっと早くに……。
「……巫女様はここしばらく、ほとんど眠ったままでおいでだったが、数日前、急に目を覚まして君を助けるよう言ったんだ……まるで君が来るのを待っていたかのようだったな」
オズマがぽつりと漏らしたその言葉に、菊花は堰を切ったように嗚咽を上げはじめた。
(ばばさま……!ばばさま!)
そのときだった。オズマががしっと菊花の腕をつかむと、何やら大きな声を張り上げた。菊花が驚いていると、部屋の中にいた者たちが一斉に両肩に手を交差して置きながら腰を折り、菊花に向かって深く頭を下げた。
「な、何……?」
「君が次の新しい巫女だと言ったのだ。君は今日からここで暮らすのだ」
「……ばばさまはどうするの?」
「巫女様は勿論、国を挙げて丁重に弔う。心配しなくていい」
そう言うと、オズマは菊花の前で膝をつき、皆と同じように両の手を双肩に交差して置くと、深く腰を折った。
「新しい巫女様にハクバ神の御加護があらんことを」
「やめて!」
菊花は立ち上がると、跪いている人たちに向かって怒鳴った。
「わたしは次の巫女様じゃない!そんなものにはならない!」
「だが、君はなると言ったではないか。だからここに連れて来たのではないか」
「ばばさまは、わたしに逃げろって言ったわ。ばばさまをあんなボロボロにして……許せない!」
菊花は怒り立つ青い目でオズマを睨みつけた。その迫力と美しさに、オズマは少したじろぐ。
「だが、巫女様は病だったのだ。仕方ないではないか……」
「病?本当に?じゃあ、この部屋に漂っている匂いは何?この匂い、前にも嗅いだことがあるわ。鳳鳴国で、薬漬けになっている人から同じ匂いがしたわ」
部屋に入ったときから、菊花は甘ったるい匂いに気がついていた。そして桔梗の姿を見て確信を持った。
「あなたが巫女様の管理を任されてるって言ったわね?つまり、あなたがあの薬をばばさまに飲ませて、ここから逃げられなくした……あなたがばばさまを殺したのね!」
すると無表情になったオズマが何事か呟いた。オズマの後ろにいた兵士たちが動き始めた……と思いきや、それらはバタバタと倒れていった。残ったのは、一人の兵士と游泉だけだった。游泉はいつの間にか、その手に血の付いた短剣を持っている。
「な……?」
「ノリ!」
菊花がその名を呼ぶと、紀直が被っていた兜を脱ぎ捨てた。髪はぼさぼさで、浅黒く無精ひげを生やした、いつもの紀直の顔だった。
「菊花、帰るぞ!」
「まっ……」
紀直に話しかけようとした菊花は、目の前に鋭い銀色のものが突き付けられたのに気づき、息を呑んだ。見れば、オズマが細く長い剣を菊花に向けていた。
「菊花!」
「何者かは知らんが、お引き取り頂こう。この娘は次の巫女様になるのだ」
「……ふざけんな!」
紀直が顔を真っ赤にしている。ここまで怒りを露にする紀直を菊花は見たことがないような気がした。
「何者か、だと?オレはそいつの父親だ!人の娘に何勝手なことをしてやがる!」
「娘?ふん、随分と似ていないではないか。どうせ嘘に……」
「嘘じゃねえ!そいつは正真正銘、血のつながったオレの娘だ!」
菊花と游泉は「え?」と、思わず離れたところから顔を見合わせていると、紀直が目にも留まらぬ速さでオズマの顎を蹴り上げた。
「ぐあっ……」
「人の大事な娘に剣なんか向けてんじゃねえええええ!」
怒りに任せてオズマをボコボコに殴る紀直を、菊花と游泉も、部屋に残っていた侍女や医者も、慄きながら見守っていた。
「紀参、そろそろやめろ!死んでしまうぞ!」
游泉が無理やり引き離したが、オズマはすでに殴られ過ぎて気を失っていた。
「やりすぎだ……この男、この国の高官なんだぞ?」
「ふん。菊花に刃を向ける方が悪い。それに」
紀直は寝台の方に目を向けた。
「これぐらいやらなきゃ、死者への餞になんねえだろ」
「ノリ……」
菊花は紀直の袖を掴んだ。
「帰ろう」
「ああ、そうだな」
「ばばさまも、一緒でいい?」
紀直は寝台に目を向けると、「そうだな」と呟いた。
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