第6章 虹渡り海岸と夢をわたる男 前編
1
エルビザを出て、琥珀水晶の塔がある大砂丘を右手に北上する。すると、次第に海が狭まり、やがて対岸との距離がゼロへと近づいていく。そこにあるのが、『虹渡り海岸』である。
「不思議な光景なのだ。エメラルド色に輝く海に、何本もの虹の橋が架かる。普通、虹というのは遠くに出来るものだろう?虹渡り海岸のは違う。目の前からにゅうっと虹の橋が架かる。あれは一体なんなのか。よくわかっていないそうだ」
リョキスンはそう言いながら、目の前の炎に焚き木を放り込んだ。わずかに灰が舞い上がり、最も火に近い所でごろごろしていたリオネルの方へ流れていく。「すまんすまん」と笑いながらリョキスンは先ほどよりやや丁寧に次の焚き木をくべた。
エルビザから乗り合い自転車を乗り継ぎ、足を棒にして歩いて数日。一行はいよいよ「虹渡海岸」に翌朝到着するという地点までやってきていた。今のところ幸い銀腹旅団にも出会うことなく平穏無事な旅路を歩むことが出来ている。大泥棒ショーリの情報も全く掴めずじまいなのは不安要素なのだが、今は信じて先に進むしかない。
「リョキスン、その虹の橋は渡れるのか?オイラ、歩いてみたいのよ」
この旅路の中で大きな変化があったといえばリオネルだろう。旅の中でリョキスンの語る旅の話に興味が沸いたらしく、二人は急速に仲良くなっていた。最近ではみっこがゆっくりリョキスンと話す時間はあまりない。
――みっこは少しそれが気に入らない。
また、カッコについても大きな変化があった。彼女は年齢以上に大人な対応が出来るため、リンゴは喜んでクリオの国の蘊蓄を語った。
他にも彼女は炊事洗濯、日常生活で必要なことはすべて出来るのである。みっこはこちらの世界に来てから見様見真似でやり始めたばかりでてんてこまいだというのに、カッコときたら料理も洗濯もテントの手入れも、ちょちょいのちょいでやってのけてしまうのだ。みっこはそんなカッコに尊敬の念を抱きつつも、やっぱり何かが気に入らない。
そんなわけで、みっこはここ最近少し無口なのであった。
「その橋は対岸まで続いているんだが、普通の人間には渡ることは出来ない。昔は渡る手段があったらしいのだがな」
楽しそうに語り合うリョキスンとリオネルが少し疎ましく、うらやましい。
ダメだ。また思考がぐるぐる回り出してしまった。
みっこはクリオの国に来てから、自分が大分しっかりしてきたと自覚していた。鏡王の都や琥珀水晶の塔では自画自賛を恐れず言うならば素晴らしい閃きで状況を打破したとも思う。
それだけに、こうした些細なことが気になる自分がみっともなく思ったし、なんでもこなせるカッコに対しの複雑な感情(仲は良いのである)に頭がついてこれず悶々としてしまったりするのである。そして、そういうときみっこはとりあえず横になってしまうことにしていた。
(泣いても笑っても寝てしまえば朝が来る。朝が来れば動くしかなくなる……)
みっこは今まさに思春期の扉を叩こうとしていた。
2
翌朝、目に揺れる光を感じてみっこは目をさました。太陽の光?いや、少し違う。この揺らぎは……
みっこはガバッと毛布をはいで起き上がる。テントの入り口にまるでイルミネーションのような光の波。
いてもたってもいられずテントを出ると、昨晩はただの丘と思っていたその先に、
目も覚めるようなエメラルド色の海が広がっていた。朝の陽光が波間に反射して丘の上を柔らかく包んでいる。
「きれい…!」
みっこは思わず駆け出した。視界がどんどん開けていく。まだ一部しか見えていなかった大海は、次第にその全貌を表しつつあった。
「おーい、みっこ。こっちじゃ!」
どこからかリンゴの声がする。周囲を見回すと、木陰にリョキスンやカッコ、リンゴがいた。
「やあ、お寝坊さん。どうやら間に合ったようだな」
リョキスンはにやにやとした笑みを浮かべながら言う。
「すまんのう。一応声はかけたのじゃが。起きたそうではなかったので我々だけで見に来てしまったのじゃ」
申し訳なさそうなリンゴとカッコ。どうにも状況がつかめないが、みっこが寝坊して仲間はずれにされそうだったという事実はつかめた。
なんだか悔しい。いつも一生懸命にやっているつもりだったけど、この寝坊一回がそうした頑張りをすべて無にしてしまうような……自分が正当に評価されていないような感覚。
「まあ、そうふてくされるな。これから始まるぞ。海を見ているがいい」
リョキスンはこうしたみっこの心の動きにもきっと気付いているのではなかろうか。だとしたら、知ったうえで平然とこちらを馬鹿にするのだから、ひどいものだと思う。
みっこは、むすっとふさぎ込みつつも、何が起きるのかと海を眺めた。
はじめは、太陽が海に反射したのだと思った。海面がぼわっと光はじめた……ような気がしたのだ。そしてそれは錯覚ではなかった。ぼわっとした光は次第に色とりどりの粒子となって上空へ立ちのぼり、次第にその像をなしていく。あっという間にみっこの眼前には巨大な虹が出現していた。
ただの虹ではない。普通の虹は綺麗な半円を描くが、この虹は手前から海の先へと伸びている。まさに光の橋だ。
呆気にとられていると、そこかしこから同様の粒子が立ち昇りはじめた。
橋は1つではなかった。数多の虹の橋が目の前の景色を塗りつぶしていく。大人の背丈ほどの小さな橋から、海の向こうへ続くかのような巨大な橋まで、幾多の虹が視界を埋め尽くす様子はエメラルド色の海と相まってなんともいえない荘厳さを感じさせた。 あの虹の橋は一体どこに繋がっているというのだろう?きっとそこはこの世界ではないどこか別の世界に違いない。
「さて、それではそろそろ出発するかの。この丘を下れば虹渡り海岸じゃ。門とショーリが見つかればよいのじゃが……」
感慨にふけるみっこをリンゴの一言が現実へと引き戻した。そうだった。目的地には到着したけれど、目的を達成したわけではない。みっこ達は何とかして大泥棒ショ ーリからカッコの目印を奪い返し、門から帰還しなくてはならないのだ。
先ほど感じたしこりのような何かは未だみっこの胸に絡みついているのだけれど、今はなすべきことをしなくてはならない。みっこはぎゅうっと手のひらを握って、歩き始めた。
3
虹渡り海岸は、その幻想的な光景とは裏腹に人っ子一人見あたらない、まさに秘境であった。
右手には幾多の虹の橋がかかるエメラルドの海。左をみればどこまでも続く草原の丘に柔らかな海風が波をたてている。
「あれはなに?」
海岸に、何かが沢山刺さっている。色とりどりの布で作られたこいのぼりについて
いる吹き流しのような……それが海から運ばれる風になでられている。
先端には鈴やら金属やらがつけられているようで、そのたびに方々から軽やかな金属音が響き、僅かな余韻を残して青い海に吸い込まれていった。
静かな光景だ。波音と、風、鈴の音が混じり合い、一つの空気になっている。
「この地域では、死後人の魂はあの虹を渡って別の世界へと運ばれるといわれている。だから、あの虹から……海から渡ってくる風は死者の声なのだ。それを自分達に
代わり受け止める物として、人々はああした風受けをたてていく。誰でも自分の声がけに何の反応も無いのは嫌なものだろう?」
リョキスンの言葉はいつもより静かで穏やかだった。
「そうだね。私も、そう思う」
みっこは祖母のことを思いながら、つぶやいた。
「……わたしの両親はな。あの海の向こうで沈んだのだ」
不意打ちのような告白に、みっこははっとリョキスンを見上げる。彼の視線はまっすぐに海を見据えている。
「私の両親はそれぞれ別の世界からやってきたお客さんでね。旅の中で知り合い、恋
におち、そして結ばれた」
「じゃ、じゃあリョキスンは別の世界から来た人同士の子ども?」
「そういうことになる。だから私には他の者のように自分の世界がないのだ。本来別の世界から来た者同士が子を成すことはできないようなのだがな。まあ、運が良かったのか悪かったのか――私は父の世界にも母の世界にも馴染まない、かといってクリオの国の匂いをもっているわけでもない男、【宿無し】となったのだよ」
「あの向こうに沈んだっていうのは……本当?」
「さすがの私も冗談で親の死に目の話はせんさ。ひどい嵐に巻き込まれてしまってね。覚えているのは空きダルの中に私をいれて蓋をする両親の顔くらいだが――船は沈み、生還したのは私だけだった。まあ両親は元の世界よりもこのクリオの国を選んだような人間だ。旅のさなかに海の一部となったことはある意味本望だったかもしれないが……」
―――—それでも、もう少し長く生きてくれてもよかったな。と、呟く姿は、どこか儚いガラスのような印象だった。
「まあ、そんなこんなでここにはあまり来ていなかったのだが……たまには墓参りも悪くない。人の旅に付き合うのも、悪いことばかりじゃあないな」
振り返ったリョキスンは、いつもの唇の端で笑うような表情を浮かべていたが、みっこにはなぜか泣き笑いに見えた。
虹渡り海岸は、ただ静かに波の音を響かせる。
「それにしても、見事になにもない場所なのよー」
相変わらず空気を読まないリオネルの言葉ではあったが、そのとおりではあった。同じような光景が、見渡すかぎり続いている。おそらく、この海岸の出口まで。
琥珀水晶の塔には現実世界であるという感触があった。足下にからむ砂。照りつける陽光。そして実際に機能している施設としての塔。一方、虹渡り海岸にあるのは現実感の希薄な、死後の世界のような光景だ。あるいは――遠い思い出を振り返るような、暖かな切なさ。
「あら、でもあそこを見て下さい。ほら、緑色だから見えにくいけど、家が
あります」
カッコの指す方をみると、広大な草原の中にぽつりと小さな家が建っていた。昔みた西部劇に出てくる小屋のような板張りの家である。
「むう。どうやら、あそこに行ってみる他は無さそうじゃな」
リンゴはみっこの肩で小さくうなる。
「見たところ他に人が住めるような建物は見あたらん。ということはだ。あそこにショ ーリがいるという可能性も、否定はできんな」
リョキスンの言葉に一行はやや居住まいをただして歩を進めた。目的地が近付くにつれ皆の緊張は否応なく増す。海岸から響く鈴の音がやけに耳につく。
その家は、長い年月の中幾度も壊れ、そのたびに新しい木材で補強をしたらしく、継ぎはぎのような様相を呈していた。古い部分は薄い緑、真新しい部分は深い緑と、ありとあらゆる緑が詰め込まれたかのような色合いだ。そしてその緑の壁にちょこんと、錆びた色をしたドアノブが居心地悪そうに存在していた。
「念のためここは私があける。もしショーリがいた場合、窓から逃げようとする可能性もある。そちらはリオネルが見張ってくれ」
リョキスンは鞘からナイフを取り出すと左手で逆手に握り、ゆっくりと2回扉を叩いた。―—返答はない。
「すみません。旅の者です。どなたかいらっしゃるようならば開けていただけないでしょうか」
やがてゆっくりとドアノブが回り。たてつけの悪い扉がギイギイいいながら開いていった。
「なんじゃね。あんたらは」
そこにいたのは、黒メガネの老人であった。豊かな白髪と髭を海風に揺らしながら、杖を片手にこちらを睨んでいる。
リョキスンは左手のナイフを隠したまま、言葉を続けた。彼はまだこの老人がショーリの変装である可能性も考慮しているのだろう。
「見ての通り、旅の者です。訳あって虹渡り海岸に捜し物にきておりまして、この地に詳しい方を探し求めていたところこちらの家が見え、伺った次第です」
「ふむ。見ての通り……と言ってもな。わしゃこんなじゃから」
老人はそういって黒メガネを上にずらした。眼が、白い。みっこは白内障という病名は知らなかったが、老人の眼がほぼ見えないのであろうことは理解できた。
「とりあえず、立ち話もなんだ。入るがええ」
促されるままに入った室内は教室を横に半分に切ったくらいの広さで、生活に必要な最低限の調度品がしつらえられていた。部屋の両端にはそれぞれ簡素なベッド。その間にはペンキのはげかけた丸テーブルとそれを囲むようにおかれた3つの丸イス。その向こうの壁には小さなキッチンと、奥へと進む扉が1つ。
ふと視線を感じた気がしてみっこは部屋の右端をみた。ベッドの向こう、ちょうど窓からの日差しがあたらない暗がりに、書き途中の男の肖像画がある。山高帽をかぶった、優しそうな男だ。
一体誰なんだろう?おじいさんの若い頃?絵に気をとられていると、部屋の反対側から声がかかった。
「ほれ、そんなところで突っ立ってないでイスにかけなさい。1つイスが足りんが、立つなり奥のベッドに腰掛けるなりうまくやっとくれ」
そう言って老人は自分のベッドに腰掛けた。
「ご老人、大したものですね。目が見えないという話でしたが、我々が何人なのかを把握できていらっしゃる」
リョキスンの声にみっこは息をのんだ。確かにそうだ。イスが1つ足りないということがなぜわかったのか。やはりこの老人は大泥棒の仮の姿なのだろうか。
「ほほ、わしはこんな目になってからかなりたつからの。足音でもいろいろわかるんじゃよ。兄さん以外に子供か小人が二人いるね。あと、猫人が一人」
そこまで聞いて、リョキスンははじめてナイフから手を離した。
「実はもう一人いるのです。彼から我々の紹介をして貰いましょう。——リンゴ、頼んだ」
リンゴはいきなりの指名にあたふたとしていたが、すぐに建て直し一行の紹介と状況について伝えた。老人は興味深そうにうなづきながら話を聞くと、口を開いた。
「わしも名乗っておこう。この海岸の管理人をしている、ノドという。とは言っても
仕事の方はほとんど孫娘がこなしておるがの。……それにしても、なかなか大変な
状況のようじゃ。そこのお兄さんが最初あんなに緊張なすっていたわけがよーくわかったぞい。わしをその泥棒じゃないかと疑っていた。だがわしがリンゴ殿を見逃していたことから本当の盲目と判断した……そうじゃね?」
「申し訳ありません。なにせ相手はクリオの国を出し抜いていた大泥棒。変装もお手のものかと思った者ですから。それに――」
「それもそうじゃな。このあたりには人が身を隠せる場所はないからの。いや、気にしちゃおらんよ。クリオの国は気のいいやつが多いが善人しかいないわけではない。わしも若い頃はよく旅をしたからそのくらいは肌で感じているさ。用心深いのは悪いことじゃあない」
そう言って老人は微笑んだ。ただでさえしわくちゃの顔がさらにしわくちゃになる。みっこはこの老人が好きになってきた。
「おじいさん。虹渡り海岸にはショーリが身を隠したり、門が表れたりしそうな場所ってないの?」
みっこは思い切って聞いてみる。
「こんな目になってからは状況がわからんからの。さっき言ったように仕事の方は孫が代行しておる。彼女に聞けば何か知っているかもしれんな。じき帰ってくるはずじゃ。少しお待ちになるとよろしかろう。さてところで……」
ノドは孫が帰ってくるまでと言って、しきりに旅の話を聞きたがった。みっこはしどろもどろになりながら今までの旅を説明した。琥珀水晶の塔に入ったあたりからはカッコも話に参加しはじめ、最終的には「そういうのは当事者に任せる」といった顔をしていたリョキスンや「おなかがすいたのよ」とのたまっていたリオネルも巻き込んでの大座談会となっていった。
久しぶりの客人の大冒険譚に、ノドは手をたたいて喜ぶ。あまりに屈託無く笑うものだから、ついつい話す方も楽しくなってしまう。
――私もああいう風に楽しくおしゃべりを聞ければ、もっとうまく話ができるんだろうか。
ふとみっこが窓に視線を移すと既に窓の外は薄暗く、夕闇が迫っていた。いつのまにこんなに時間がたったのだろう。さっきまで晴れ渡っていた空はまるで厚いマシュマロのような雲に閉ざされ、強い風が窓枠をガタガタと揺らしだしている。
「嫌な雲行きじゃの。これは一雨くるかもしれんぞ」
リンゴがぼそっとつぶやいた。
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