第6章 虹渡海岸と夢をわたる男 後編
4
リンゴの言葉は当たった。分厚い雲はみるみる黒さを増し、やがて大粒の雨がガラスを叩き出す。
「春の嵐がきたようじゃ。例年より随分早い……孫め、どこで油を売っとるのかの」
一同は少し重い気分になりながら各自の持ち合わせを分け合ってささやかな夕食をとった。ずっと歩き詰めだったこと、最近はテントでの寝泊まりだったこともあり、屋内でゆっくりと休めるのはありがたい。気がつけばみっこはノドがつけてくれたストーブの前で丸くなってウトウトとし始めていた。
その時、ガタンという大きな音がして猛烈な雨と風が室内に飛び込んできた。
玄関が開いている。そしてそこから、ずるりという音とともに全身を皮のコートで
包んだ人物が入り込んできた。大きなリュックサックを背負っており、入りきらないスコップやら木材やらがつきだしてまるで甲羅にトゲのある亀のような印象だ。
「……ただいま」
異様な姿とうってかわって、しっとりとした落ち着いた女性の声が響く。彼女はバタンと扉を閉めると、雨水で重くなった荷物とコートを玄関付近にどちゃりと脱ぎ捨てた。
「……おじいちゃんの、お友達?」
年の頃は20歳くらいだろうか。赤茶けた髪を大きくサイドで一つにまとめている。そばかす混じりでよく日焼けした顔の印象とは裏腹に、伏し目がちなその視線はどこか病的な危うさを感じさせる。
「さっき友達になった。お客さんじゃ。自己紹介せい」
彼女は明らかに祖父の紹介に納得をしていない様子だが、仕方なく一言口を開いた。
「……孫の、リヤノ」
リヤノはなるべく一同と目を合わせないようにそそくさと荷物を片づけだす。ノドはやれやれと首をふりながら問いかけた。
「北西の崖崩れはどうなっておった?」
「……だめ。しばらく、あそこは歩けない。この雨でもっとひどくなるかもしれな
い。……とりあえず水が流れやすいように排水路を繋げておいた。でも、それも土砂
で埋まるかもしれない」
リヤノはそう言いながらエプロンを羽織るとキッチンに向かい、ぬるりと振り返った。
「……夕食、その人達のも作るの?」
視線は相変わらず床に向けられている。
「いやいや、お嬢さん。実はな……」
リンゴが焦って夕食はもうとったことを伝える。と。そのときみっこのお腹が、グウウっとなった。育ち盛りの11歳の胃袋は、木の実や干し肉では満たされなかったらしい。赤面するみっこにリヤノが言う。
「多めに作っとく。大したものは作れないけど」
彼女の料理の手際は非常によく、みっこは内心驚いた。しばらくして、テーブルの上にミルクとチーズがたっぷり入ったスープパスタのような料理が並ぶ。
一口食べたとき、みっこな懐かしさを覚えた。なんだろう。この料理を昔どこかで食べたことがあるような。
「すごくおいしいです。それにこの香り、とても素敵……」
みっこが首を傾げる横で、カッコが目を輝かせながら感激を伝えた。リヤノはこくんと頷くと、空いた自分の皿を持って逃げるようにキッチンに向かってしまう。代わりにノドが口を開いた。
「すまんの。ありゃ恥ずかしがってるだけじゃ。この香りはユーズという果物じゃよ。この虹渡り海岸の奥にしか生えていない」
「ゆず?」
みっことカッコが同時に口を開く。
「ゆずって、あの黄色くて丸いやつですか」
「知ってるかの?このくらいの」
間違いない。みっことカッコの世界にある、あの柚子と同じものっだ。
「どういうことなのでしょう。私達の世界にあった果物がクリオの国にもあるというのは」
カッコが首をかしげる。それに対し、リョキスンがふふと小さく笑う。
「どうもこうもない。それこそそこに門が開くという大きな証拠なのではないか?リヤノさん。すまないが、私たちにそのユーズがあるという場所を案内して貰えないだろうか」
皿を洗っていたリヤノはいきなり話題を振られびくんと身体を震わせたが、小さくこちらを振り返りゆっくりと頷いた。
「どうやら手がかりがあったようで何よりじゃ。だが運が悪かったな。この雨は季節の変わり目にふる長雨のようじゃ。まだしばらくあがることはないじゃろ」
ノドの言葉にリンゴがくいつく。
「だが、わしらもタイムリミットがあるのじゃ。多少の雨で時間を失うわけにはいかん。なんとかならんかのう」
「気持ちはわかるがの。ユーズの自生地は海岸から少し行った渓谷地帯にある。この雨が止むまではあそこは泥の川じゃ。はっきり言って、命に関わる」
「……いつもなら、この時期の雨は7日程度で止む。おじいちゃんの言うことは本当。濁流は海まで一気に大岩を押し流す。命がほしくないなら、止めはしないけれ
ど」
食器を洗い終わったリヤノが、自分のベッドに戻りながらつぶやいた。一同は顔を見合わせ、ふうとため息をつく。
「まあ何事も命あってこそ、じゃ。もしかしたら例年より早く雨があがることもあるかもしれん。狭い部屋じゃが、雨があがるまでは使ってもらってかまわん。動けないときは天が与えた休息ととらえ、期を待つ。それも旅人の理というもの」
ノドの言葉をうけ、方針は定まった。長い雨やどりが、はじまった。
5
けして広いとは言えないノドの家に滞在する上で、自然とそれぞれの居場所が出来ていった。みっことカッコはリヤノのベッド付近へ。リョキスンとリオネルはノドのベッド付近へ。リンゴはその時の気分次第だが、ノドとは話があうらしく、もっぱら昔話をして楽しんでいた。
「まったく気楽なものだな」
リョキスンはそんなリンゴに向けて悪態をつきながら、ほつれたテントや衣服の修繕に時間を割いていた。
「焦っても仕方ないのよ。リオネルは素直に英気を養うのよ」
そういってストーブの前を占拠して丸まったリオネルはただの大きな猫にしか見えない。その様子に苦笑いをしながら、みっことカッコはお互いが出会う前の旅についての話をしていた。
思えば、こうしてゆっくり二人が向き合い話をする機会は今までなかった。
(その日その日で焦ってたからかな。いや、私が無意識に避けてたのかもしれないけ
ど)
みっこはここ数日の自分を思いだし、恥じた。カッコは、いい子なのである。そんな彼女をなんとなく避けてしまったのは、とってもいけないことだったような気がした。
みっこにはもう一つ気になっていることがある。それは、リヤノのことだった。
彼女は朝早く起きると、大雨の中コートを着込んで出かけていく。虹渡り海岸付近の岸壁は風雨によって崩れやすいようで、そうした危険をいち早く確認するための見回りをしているとのことである。
だが、みっこが気にかかっているのはその後のことだ。
彼女は仕事を終え帰ってくると、夕食の支度と簡単な行水の他はずっと部屋の隅でキャンバスに向かうのである。そして山高帽をかぶった男性の絵を書き続ける。何枚も。何枚も。
見ていて気付いたが、リヤノは決して器量が悪いわけではない。服装や化粧に無頓着なだけで、きれいな顔立ちをしている。そんな彼女だ。もしかしたら恋人がいるのかもしれない。
(仕事柄会えないことが多いから絵に描いて寂しさを紛らわせてるのかも)
一度そう考えると、そうに違いないと思うようになってくる。と、なれば、事実はどうなのかを知りたくなるのが人情というもの。みっこは絵に描かれた男が何者なのか、リヤノに聞いてみたくて仕方なくなっていた。
そして、チャンスは3日目の夕食時に現れた。
「そういえば、リヤノさん。いつも同じ男性の絵を描かれているようですが、あの方はどなたかモデルなどがいらっしゃったりするのでしょうか」
マッシュポテトをつつきながら、カッコが唐突に放った言葉に、リヤノはみるみる顔を赤らめた。
「いや、モデルは、いる。けど、いない。その」
慌てふためくリヤノに、思い切ってみっこも声をかけてみる。
「もしかして、あの男の人はリヤノさんの恋人とか?」
「!ち、ちがう、あの人とはそんなんじゃ……」
そういうとリヤノはどたばたと顔を隠しながら奥のキッチンへ駆け込んでしまった。
「少しデリカシーが足りなかったようだな、みっこ」
リョキスンがお茶をひとすすり。
「だ、だって絶対そうだと思ったし、気になっちゃって……リョキスンだって気になってたんじゃないの?」
声をひそめて言うみっこにリョキスンは鼻で笑う。
「ふん。気にはなったとしても他人の色恋沙汰をとやかく言うものではないからな。特にリヤノさんのように控えめな女性であれば尚更だ」
二人の会話をうけてノドが口を開く。
「嬢ちゃん、気にせんどいてくれ。あの男は実際にいる人間じゃない。ありゃ孫の頭の中にしかいない幻の男なんじゃ」
(それは、どういう……)
言い返すよりも早く、怒声が室内をつんざいた。
「違う!あの人は実際にいるの!ただ、捕らわれているだけ……」
リヤノは言い切らぬ間にむせび鳴き始めてしまう。
一行をなんともいえない空気が包んだ。唯一リオネルだけは他の人が手をださなくなったマッシュポテトをこのすきにと大きなさじですくいあげていた。
「むう。なにやら訳ありの様子。よければ話を聞かせてくれんか?こう見えてもわしは引き潮の夢の導者。なにか力になれることもあるかもしれん」
リンゴの言葉にリョキスンがまた余計なことをと言いたげなまなざしを送っていたが、みっこは無視しておく。
しばらくして落ち着きを取り戻したリヤノが語ったのは、なんだか不思議な話であった。
「ちょうど一年ほど前……配給の方が来たときに大嵐がきたの。配給の方はその日は帰ることができずにこの家に泊まっていった。そのとき、彼は不思議な話をしてくれたの。——最近夢に同じ男がずっと現れるんだって。山高帽をかぶった、黒いコート
の男。悪い奴ではないから別に気にしていないけれど、なんだか気味が悪くてね……って彼は笑ってた。そして、その夜のことよ。その山高帽の男は、私の夢に現れた。彼は言ったわ。『君は私の声が聞こえるのか』って。私は答えた。『ええ、聞こえる。あなたは誰?』と。すると彼はこういった。『私はカヌエ。夢の世界の迷い人だ』って」
途中ノドがふんと鼻をならす。
「昔から孫は空想の世界が好きでの。わしゃ最初聞いたときにはついに見えてはならんものが見え始めたのかと肝を冷やしたわい。今だって全部信じたわけではないがの」
どこかつんけんしているのは、単純に孫がその男性に特別な感情を抱いていることがわかっているからなのかもしれない。そう考えるとノドの悪態も少しかわいく思えてくる。
「彼は誰の夢にでも入ってこれるわけでは、ないの。人によって相性のようなものがあるらしいの。話ができる内容も人によって違う。私は何度も彼に夢の世界を出ることはできないのかを聞いたわ。でもそのたび彼の言葉は聞こえなくなってしまうの……」
リヤノは壁のすみに立てかけられたキャンパスを見て続ける。
「……だから私は、怖いの。今は彼が見えている。話が出来ている。けれど何かの
拍子にふっと、消えてしまうのではないかって。そうなったら、私はきっと耐えられない。だから私は、絵に彼の姿を残している。何があっても、いいように」
みっこはリンゴに目配せをする。が、リンゴは両手をあげて首をふった。
「すまんのう。お嬢さん。わしは色んな世界からクリオの国に迷い込んできたお客さんを対応してきた。今回もそうしたケースならばと思ったのだが――夢の中の男とな
ると聞いたことがない」
「別に、いいの。自分でもどうしようもないことだって思ってる。……だから、もう放っておいて。あの人に会える内に——なるべく沢山の姿を残しておきたいから」
そういって彼女はそそくさと夕食の片づけをすますと、キャンバスに向かいだした。もう、誰も声をかけることは、出来なかった。
6
その夜は、窓をうつ雨音がいつもより強く感じられ、時折吹き荒れる強風が小屋全体を揺らしているような様子でみっこはなかなか眠ることが出来なかった。
思えば、大分長い間旅をしている。元の世界に帰れたとして、その間受けなかった授業はどうなるのだろうか。
(自分だけ、6年生になれなかったりするのかな……)
でも一方で、それならそれでかまわないと思う自分もいる。クリオの国での経験は何事にも変えられないものばかりだ。
(もし、このままこのクリオの国で生きていくことになったら私は何をして生きていくのかな。引き潮の夢のお手伝いとかをさせて貰えるのかな)
ふと、横を向くとカッコのきれいな横顔が見える。カッコは、いい子だ。それにしっかり者だ。きっとクリオの国でも出来ることが沢山ある。でも、私はどうなのだろう?
そんなことを考えている内に、雨音は次第に彼女の意識から消え、気づいたらみっこは虹渡り海岸を歩いていた。海からの風が心地よい。風車が奏でる乾いた音、足下でふみしめられる砂の音。
夢——にしてはずいぶんはっきりとしている。
みっこは誰かいないかと周囲を見回した。一面の草原。遠くまで続く海原。数多の虹の橋。それだけだ。人の気配は、ない。
「こんにちは」
いきなり。後ろから男の声がした。
知らない声だ。みっこの背筋の毛穴が総毛立つ。反射的に体が動き、声のした方向から距離をとり、反転する。
「すまない、驚かせてしまったね」
みっこは目を見開いた。目の前に、山高帽の男がいる。リヤノが描いていた絵とまったく同じ姿だ。いや、すこし鼻が高く描かれていたかもしれない。
「あなたは……」
「私はカヌエ。夢の世界の迷い人だ。どうやら君は私のことを、知っているのだね」
優しい声だ。顔立ちも整っているし、リョキスンにはない落ち着いた雰囲気が安心感を与えてくれる。
(リヤノさん、こんな人と1対1で話していたのなら恋に落ちるのは仕方ないかも)
そう思いながら、みっこは慎重に言葉を選ぶ。
「え、と。リヤノさんからある程度の話はきいてます。でも、なんで私の夢に?」
カヌエが砂の中に手をいれる。ずずっと何かを引き出したと思ったら、そこにはふかふかのソファが現れた。
「少し長い話になる。座って話そうか」
そう言ってカヌエは自分用に小さないすを砂から引き出して座り込む。
「まず、私がなぜ君の夢にいるのか、ということなんだがね。私は人の夢から夢へと
渡りながら世界を旅することしかできない。そこでリヤノさんの夢から君の夢へと移らせてもらったんだ。ええと、名前はたしかみっこさんだったかな」
頷きながら、みっこは不思議に思う。なぜ私の名前を、知っているんだろう?
「君達のことはリヤノさんから聞いたんだ。彼女は、とても嬉しそうだった。とくにみっこさんについては、妹ができたようで嬉しいと……そう言っていたよ」
そんなことみじんも感じなかった。みっこはなんだか少し恥ずかしくなる。だが、同時に一つの疑問がよぎる。
「カヌエさんが、私の夢にいるということは——カヌエさんはこれからはリヤノさんには会わないということですか?」
少し、不満がわく。リヤノさんの好意は相当だ。夢の中でも伝わっていないはずはない。それをどうしてカヌエはみっこの夢へ移ってきたというのか。
「君はまっすぐだね。そう、私もその理由をしっかり伝えなくてはと思ってここに来た。幸い、君と私は心の波がよく似ている。リヤノさんに伝えたくて伝えられなかったことも……君を通じてなら伝えられるだろう」
そういって、カヌエは自身の過去を語り始めた。
「まず、最初に言っておきたいのは何も私は実在しない人間というわけじゃないということだ。私はもともと、2年前までそちらの世界にいたんだよ」
そういって彼は山高帽をとった。普段は見えにくかったが、右目の上から頭頂部にかけて大きな傷跡があるのが見える。
「2年前。私は虹の橋のふもとを見てみたいと、一人ボートで沖へこぎ出した。海に詳しいわけでもなかったのにね。結果、天候の変化に対応できず、私の船は砕け散って、破片が頭を切り裂いた」
カヌエは傷跡をさすりながら続ける。
「幸い、大きめの破片にすがりつくことが出来てね。もうろうとした意識の中、私は
一晩海をさまよった。ふと気がつくとだ。嵐は去って、あたりから虹の橋が浮かび上がった。正直体はもうぼろぼろだったがね。私はその橋に飛び乗ったのだよ。そして、夢の中を歩いているような気持ちで橋を渡りはじめた。最初は激しい痛みがおそったがね。橋を進むうちに痛みを感じなくなっていくんだ。やがて、私は橋を渡りきった」
いつの間にか彼の右手にコーヒーの入ったカップが握られている。夢の中だからそのあたりは自由なのだろうか。
「そうしてたどり着いたのがこのもう一つの虹渡り海岸だ。もうわかったと思うが、虹が繋いでいたのは現実と夢の世界だったのだよ。ところが、困ったことが起きた」
ふうというため息。
「帰り方がね。わからないのだ。たしかにここは虹渡り海岸。あの虹の橋にもう一度乗ることで元の場所に戻ることができるのかもしれない。だが、そのためには船も必要だし、現実世界に戻れたとしても海に投げ出されたら生きてはいられない。今ここで出来ることは、限られている」
みっこは考える。さきほどソファを引き出したように船を引き出すことはできないのか、と。カヌエはそれに気づいたようで、力なく首をふった。
「このソファも、いすも、コーヒーも、全て私が夢の中で手に入れたものなんだ。夢の中で出会った人々から譲ってもらった。一度自分のものになったという感覚さえあればこうしてどこからでも引き出せるのだが……さすがに船を譲ってくれる人には出会っていない」
「夢の世界は、虹渡り海岸だけなんですか?歩いていけばエルビザへ通じていると
か――」
「私も最初はそれを期待した。でもだめなんだ。どうも今夢を見ている人の側が夢の世界になるようでね。最初に私がとりついたのは行商人だった。彼について色々な場所に行ったが……やはり戻るためにはもう一度虹渡り海岸に行ってみるしかないと思ってね。人から人へ渡り歩き、リヤノさんの夢へたどり着いたというわけなんだ」
事情はわかった。でも、みっこが一番聞きたい部分がまだ聞けていない。
「……カヌエさんは、リヤノさんの夢を離れることになにも思わないんですか」
カヌエの顔が、苦い笑いに変わる。
「手痛いな。何も思わないはずはない。なぜなら——」
私は彼女を愛している。
カヌエは恥ずかしげもなく言い切った。みっこの知る好き嫌いとは別の次元の何かを見ているようだ。カヌエの目は、真剣だ。
「愛しているからこそ、私は何が何でも現実に戻らねばと思った。たしかに、ここで
彼女の夢に居続けることはできる。でも、それで何になるというのだろう?彼女の家族は年老いた祖父だけだ。母は早くに亡くなり、父はエルビザで一旗あげるといって旅だって帰ってこなかった。これでもしあの祖父に何かがあれば……彼女は一人きりになってしまう。この広い海岸に一人で。私は彼女を支えたい。力になりたい。だから、この虹渡り海岸を一度離れ、元の世界に帰る準備をしなくてはならない」
みっこは目をそらせなかった。本音をいえばそらしたい。そのくらいの熱がこもった視線だった。でも、ここで目をそらしてしまえば。彼に失礼だ——と。心のどこかで声がして。せめて全てを受けきろうと前を向き続けた。
「君達はこの海岸を離れるのだろう?一緒に連れて行ってほしいんだ。そう長居するつもりはない。人気のある所にいけばとりつける人も増える。それまでの間でかまわないんだ」
それはかまわない。けど。みっこは口を開く。
「……リヤノさんに、このことは伝えてあるんですか?」
「伝えていない。なぜなら、彼女のもとに本当に生きて戻ることが出来るかはわから
ないから。もし根拠のない約束をしてしまえば、彼女はその約束に捕らわれてきっといつまでもこの虹渡り海岸にとどまり続けるだろう。一人になっても。年老いても。きっと。そうさせるわけには、いかないから」
みっこは、子どもだ。大人の恋や愛やらは興味はあるけど正直あこがれの中の産物である。でも、カヌエの言葉には、男女とかそういうものを抜きにした、人としてリヤノを大切にしたいという思いが感じられた。
「わかりました。でも、わたしリヤノさんにどう伝えればいいんだろう」
「——君に何かを伝えてもらうのは、私の甘えというものだろうね。いいんだ。さっきも言ったように下手に伝えればそれは彼女を縛ることになるだろう。でも、君が秘密を抱えているのが辛いならば、どうか無理せず楽にしてほしい。正直、私も自分の判断が正しいのかはわからないのだから、ね」
そこまで話して、急に世界の輪郭がぼやけ始めた。夢の現実感が薄れたというか、いわゆる夢になってきているのを感じる。
「朝がくる。君には難しい問題を投げかけてしまってすまない。恩は、いつか返すつもりだ……」
カヌエの声が薄れていく。そして、まぶしい光に目をこするとそこはもうノドの小屋だった。
(あれ、まぶしい?)
みっこはカーテンの端からもれた光が自分の顔を照らしているのに気がつくと、すぐさまカーテンを大きく開いた。
「雨が、止んでる……!」
そこには雨露に朝日をうけて光輝く草原と、海からたちのぼる虹の橋がおりなす光景が広がっていた。嵐が、すぎたのだ。
いつも以上に青い空にみずみずしい空気が、新しい季節の始まりを感じさせる。
見回すと、起きているのはみっこ一人のようだ。思わずみっこは皆をたたき起こしてこの景色を一緒に眺めたいと思った。
でも、止めた。皆を心地よい眠りからさますのが忍びなかったこともある。だが、それ以上に、この言葉にならない感覚を少しゆっくりと味わってみたかった。
やがて半刻としない内に、のそのそと皆が起きてきた。
「おどろいた。まだ数日は嵐は止まないとばかり思っていたが……これもお客さん
の持っている運というやつなのかの」
ノドが差し込んでくる光に手をかざし、外気の臭いをかぎながらつぶやく。
「これなら今日の昼過ぎには件の渓谷の様子を見に行けるじゃろう。リヤノ、頼めるか」
「——人助け、だからね。当然、案内は、する」
彼女の表情が暗かった理由は、みっこだけがおそらく知っていた。思わず、カヌエのことを伝えたくなる。
でも、みっこは一度思いとどまった。カヌエはカヌエで、大きな決意をもって今回の行動を決めたのだろう。それをたまたま関わった第三者が、そのときの気分で不意にしてしまっていいのだろうか?そんな思いがふと脳裏によぎったのである。
「何か気がかりなことがありそうな顔だな、みっこよ」
相変わらずリョキスンはめざとい。
「リョキスンには何でもお見通しなんだね。でも大丈夫。自分でなんとかできるから」
リョキスンはほう、と面白そうに頷いて言った。
「それでこそ、君だ。いや、君になっていっているというべきか」
それはどういう――
みっこが振り向いたときにはリョキスンは既にその場を離れ荷造りに励んでいた。
「リオネル、いい加減起きたまえ。雨が止んだ!出発だ」
そんなみっこの様子を、カッコがじっと見ていた。そのことにみっこは、気付いていなかった。
こうして、虹渡り海岸に入って4日目。いよいよ一同は門を目指して出発することになったのである。
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