第2章 不思議の国の通過儀礼 後編


「いやあ、すごい!あっぱれだ!あんな方法で鏡に対処するなんて、今まで聞いたこともない!みっこ、君の閃きは誇りに思っていいぞい!」

 鏡王の都を出ると、リンゴは興奮した様子でみっこに語りかけた。

「ありがとう、リンゴ。でも、それよりこのフルーツ、どうやって食べればいいかを教えてくれない?」

 みっこは急いで服を着ながら、リンゴに果実を差し出した。洋梨のように見えるが、ともかく皮が堅いのである。手でむこうとしても全く爪がたたないばかりか、かじりついても果汁一滴すら滲みでない。焦るみっこを尻目に、リンゴは上機嫌で賛辞を繰り返していた。

「わしのガイド人生の中でも、これは偉業じゃな。仲間に自慢してやろう。いや、新聞屋に頼んで……」

「リンゴ!!早く教えて!私消えちゃう!」

思わず叫んだみっこに、リンゴもはっと我に帰った。

「す、すまん。みっこ。その実はな。食べようとする気持ちを察すると身を守るために堅くなるんじゃ。なるべく意識の外においておく。すると、油断した実は次第に柔らかくなっていく。そこを狙って一気にかじるんじゃ」

 リンゴの言葉を聞いて、みっこは気が遠くなりそうだった。一難去ってまた一難。何という無理難題!食べなくては自分が消えてしまう果物を、どうやって食べたくないと思えというのか。おそらくタイムリミットはあとわずか。

 みっこは一生懸命果物を食べたくない!と思おうとした。でも、これを食べなくては消えてしまうと思うと、どうしても意識の外になんておくことはできない。

 そうこうする内に、右目が見えにくくなってきた。おそらく、右目の周辺が透明になりつつあるのだろう。昔、湯河原先生が「透明人間は目が見えないはずなんですよ」と授業で教えてくれたのを思い出す。ほんの半日前に別れたばかりなのに、なんだか妙に懐かしい。

 どうしよう。私はこのまま消えてしまうのだろうか。せっかく一生に一度しかないという閃きでピンチを乗り越えたと思ったのに。無事に帰った時には自慢してやろうと思ったのに。

 ふとリンゴを見ると、一生懸命果物から意識をそらそうと目を瞑ったり、踊ってみたりしていた。当然、それでなんとかなるはずはないのだけれど、自分のためにガムシャラに動いてくれているリンゴの姿を見て、みっこは少し嬉しかった。

「ごめんなさい、お母さん。お父さん。私、煙になっちゃうかも……」

そうつぶやいた時。誰かが横から果物に手を伸ばした。

はっと振り返ると、そこにいたのは大きな帽子を被った男の人だった。

 一体いつ近付いてきたのだろう。ボロボロのマントに大きなリュック。旅人なのだろうか。そのわりに肌は白く日に焼けていない。全体的に色素が薄く、琥珀のような大きな瞳がみっこをじっと見据えている。口元には、コバルトブルーの石で出来たパイプがくわえられていた。

 彼はむんずと果物をつかむと、みっこに向ける。

「口を開けたまえ」

 男に言われるまま、みっこは口を開いた。ぶっきらぼうに、果物が口に押し込まれる。

「そのまま噛むんだ」

 おそるおそる噛んでみると、驚くほど柔らかい果実から甘い果汁が溢れだした。みっこが今まで食べたどのフルーツよりも甘い。マンゴーとバナナとパイナップル……色んなフルーツのいいとこどりをしたような味だった。

 みっこの喉を果汁が通り抜けた瞬間。ぼやけはじめていた視界が一気に鮮明になり、続いて見えなくなっていた体が首から足に向けて色づいていった。間に合ったのだ。

「ありがとう。助かりました!それにしても、なんで……」

「私は甘いものが苦手でね。この果物が死ぬほど嫌いなのだよ。まあ、そのお陰で君は助かったんだ。私の偏食に感謝するんだな。それにしても、だ」

 男はキッとリンゴを睨む。

「君は仮にも導者だろう。仕事はきちんとこなしたまえ。あの高慢ちきな猫王にでも知れたら、大変な目にあうぞ」

 しゅんとするリンゴの様子を見ると、男は「まあ、私には関係ないことなのだがな」と言って周囲を見渡した。

「さて、すっかり夜になってしまった。私はここで野営を行うが、君たちはどうするんだ?クリオの国は気のいい奴らばかりだが、善人しかいないというわけでもないぞ」

 そう言うと、男は周囲の枯れ枝を集めだした。野宿をするつもりなのだろう。

そうは言っても。みっこは着のみ着のままこの世界にやってきた。ちゃんとした野宿の準備なんてしてきていない。頼みの綱はリンゴだが……彼が特別な道具を持っているようには思えない。

 おろおろとしているみっこの様子を見て、男はやれやれとでも言いたげに大きく肩をすくめた。

「出来の悪い導者を持つとお客さんも苦労するな」

 そう言って男は荷物の中からむんずと毛布を取り出した。

「使いたまえ。多少ぼろいが、贅沢は言わんでくれよ」

 みっこは毛布を受けとった。たしかにかなり使い込まれているし、正直少しほこりっぽい。だが、その暖かさは、今のみっこには心底ありがたかった。

「ありがとう。凍えそうだったの」

「光栄の至りだ。お陰で私はいつもより寒い夜を迎えるがね」

 みっこはドキリとする。責められているのだろうか?いや、でも仕方ないじゃあないか。自分でも何が何やらわからない状況なのに。

「おいおい、何か返してくれないと冗談にもならんだろう」

 男はそう言ってマッチを取り出した。冗談?なんと判りにくい冗談なのか!

 うまく返せず「ごめんなさい」と返すみっこに見向きもせず、男はマッチを擦った。緑色の鮮やかな炎がわっと広がったかと思うと、今度は小さくなって消え入りそうな様子である。

「くそ、最近使ってなかったから拗ねてるな。おい、私に腹を立てるのはいいがな。お前が頑張らんと、そこの女の子まで凍えて明日の朝には霜だらけだ。それでもいいのか?いたいけな少女の命はお前にかかっているんだぞ」

 まるで強迫である。やがてマッチに灯った炎は次第に大きく、力強くなっていった。

 男はふうと息をつくと、紙屑を丸めた火種にマッチを放り込む。緑の炎は火種を飲み込み、やがて枯れ枝の燃えるパチパチという心地よい音が周囲を包みだしていく。はじめは緑色だった炎は強くなるに従いだんだんと赤みを帯びて、すっかり普通のたき火となった。

「ここまでくればそうそう炎の機嫌を損ねることもないだろう。……さて、ところで。君の名前はなんという?どこからやって来た?」

 いきなり話かけられて少し驚いたが、みっこは自分の名前を伝えた。男はみっこのいた世界については興味があるらしく、どんな国なんだ、とか、何を食べているんだ、とか、しばらく質問責めにあってしまった。

「やい、さっきから質問ばかりじゃあないか。みっこが戸惑っておる。だいたい、人に聞きたいことがあるのなら自分から話すのが筋というものじゃろう」

 先ほど注意を受けたことと、話の輪に入れなかったことが腹ただしかったのだろう。リンゴが男に細い腕を突きつける。男は、なるほど、一理あるとつぶやいた。

「私は見ての通りの放浪者だ。周りには宿無しリョキスンと呼ばれている」

 男……リョキスンはそういうと大きな帽子をとって軽く会釈をした。ちぢれた髪は伸びきっているし、汗や皮脂でまみれているに違いないのだけれど、線の細い中性的な顔立ちも相まってか不思議と不潔な印象は受けなかった。それどころか、帽子をとった途端漂ったハッカのような臭いは疲れた頭を元気にしてくれるような気さえした。

「この臭いは?」

「いい香りだろう?だが、君たちお客さんはみんなこいつの正体を聞くとイヤな顔をする」

君はどうかなと言って、彼はボサボサの頭髪の中から何かをとりだした。

「……これは、虫?」

みっこは差し出されたものをまじまじと見つめる。小豆大の薄い水色の体に白い足。丸い体につぶらな瞳をしており、デザインとしてはなかなかかわいらしい。

「アブラカジリ虫だ。人の垢などを食べて、代わりにすっきりとした臭いの糞(ふん)をする。この糞が良くできていてね。皮膚に潤いを与えるとともに、漂う臭いには人の心を落ち着かせる効果もある。なかなか体を洗うことのできない長旅には必須のお供だ」

 なるほど。糞(ふん)というのは少しいただけないが、これは便利だ。タオルで体は拭けても頭まで綺麗にとはいかない。こんな虫がみっこの世界にいたら、きっととても便利だろうに。

「おい、色々感じることがあるのかもしれんがな。無言で考え込まんでくれ。私はどうすればいいんだ」

 リョキスンの言葉に我に返ったみっこは「ごめんなさい」と答えるので精一杯だった。

 リョキスンは虫を頭に戻しながら、口元だけでにやりと笑う。

「こういう物がこっちの世界には多い。君くらいの年頃の女の子には大変かもしれんな」

 なんと意地悪な顔だろう。中性的でお人形のような顔立ちだというのに、いちいち一言多い男である。

「しかしまあ、綺麗な物も沢山ある。このクリオの国にはな」

 それは少し楽しみである。しかし、今のみっこには素直にそれを楽しむ余裕があるかというと不安なところだ。

「……ねえ、リョキスンさん。あなたはクリオの国をずっと旅しているの?だったら教えて下さい。私、自分の世界へ帰れるの?」

「唐突だな。でもまあ事情が事情だし仕方ないか」

リョキスンはふーっと大きく息を吐いて続ける。

「帰る方法はある。この国は色んな時間、色んな世界を結ぶ巨大な駅のような所だ。ただ、どこに君の世界へ繋がる門があるのかは……情報を集めないと分からないな。それにしてもリンゴとやら。君はこのお嬢さんにちゃんとこの国の理(ことわり)を説明したのか?」

 リンゴは気まずそうに視線を地に向ける。

「落ち着いてからしようと思ったんじゃ。今から説明するわい」

「ほう、ではご高説賜(たまわ)ろうか」

「まず、みっこ。わしが君に話した内容は覚えとるな?」

「ええと、ここがクリオの国って呼ばれていて、沢山秘密と不思議があるってことかしら」

「ほかには?」

「私みたいな人はお客さんと呼ばれていて、クリオの国の物を食べないと消えてしまうことになる……とか」

「うむ。素晴らしい記憶力だ、みっこ。だがな、大切なことを忘れとるぞ。クリオの国に来たお客さんは、滞在百日目をもって正式にクリオの国の住人と認定される、という点じゃ」

 そんなこと聞いてない……と言おうとしたが、それ以上にみっこには気になる点があった。

「ええと、リンゴ。ごめんなさい。私の理解が正しければだけど。正式に住人になるってことは、その、もしかして」

「うむ。もう元の世界には戻れん。一生この世界で生活するのじゃ」

「――さっきも言ったように、クリオの国はいわば沢山の世界を繋ぐ巨大な駅のような場所だ。中には様々な露店や施設があるかもしれないが……他に居場所があったり、目的地のある人間にっとてあくまで通過点に過ぎない。そんな所に百日もいるというのであれば、それは最早住人だ。……とまあ、そんな風な理由だと言われているが正直理由はよくわかっていない」

 みっこはしばし声を発せずにいた。先ほどまでの消えてしまう恐怖とは違い、漠然とした不安が胸を包んでいる。猶予がある分、焦りや恐れにはならないものの、なにかしこりのように胸につかえる、異物のような感触。

「いや、でもなみっこ。クリオの国はすてきな所じゃ。もし万が一帰れなかったときの支援も導者の努め。安心するがよい」

「だそうだ。良かったな、お嬢さん。ただ私の知る限りでも沢山の人が自分の世界に戻っていっている。中には何回もこちらを訪ねてきている者もいるくらいだ。楽観視はできんが、絶望するほどのことではない」

 リンゴはともかくとして、リョキスンの今の言葉は自分を慰めてくれたのだろうか?みっこはなんだかその様子がおかしくて……少し笑った。すると、一気に気がゆるんだみっこのお腹が、とてもとても大きな音をたてて空腹を訴える。

「おい、リンゴ君。お姫様が夕げをご所望だぞ……と、そうか。食い物を持っているならわざわざあんな木の実に命運をかけはしていないか」

 リョキスンは懐から取り出した懐中時計を見るとおもむろに立ち上がった。

「仕方ない。今日のところは少し恵んでやる。幸い、食材が調達できる時間になった。見てみるがいい」

 リョキスンが指を指した先には、一筋の流れ星。その筋は見る見る内に大きな輝きに変わり……。

「あれ、こっちに近付いてきてるんじゃ……」

「その通り。当たらないから大丈夫だ」

 そうこう言っている内に光は直視できないほどになってきた。

 ――ぶつかるっ!

 みっこはぎゅっと目を閉じて身を屈める。しばらくして、薄い氷がバラバラに砕けたような(ガラスではなく氷のような気がした)音がしたかと思うと、まぶたの裏に感じていた光がふっと消えていった。

「当たらないと言ったろうに。もう去った。顔を上げてみるといい」

 おそるおそる周囲を伺うと、少し行った所にある大きな岩を中心に小さな光る破片が飛び散っていた。みっこの足下にもあるそれはさながら金平糖のようだ。手にとってみると、ぼうっと発光しているのがわかる。

「なんだか、甘い匂いがする。私の世界にあるお菓子に似てるわ」

「そうか。では話が早い」

 そう言うとリョキスンは落ちていた破片をつまんで、ひょいっと口の中に放り込んでしまう。

「お察しのとおり、こいつは食べられるのだ。そら、いくらでも落ちている。好きなだけ食べるがいい」

 いちいち毒を感じる物言いに、みっこはむっとしながら破片を口に入れてみる。

――甘い。ソーダのような味がする。それでいて、食感はふつうの金平糖とは違い、さくさくしている。

「おいしい。けど、これってさっきの流れ星じゃあ……」

「正確には、違う。が、説明するのが面倒だな。リンゴ君、頼んだ」

「みっこ。それは、流れ星の涙と言われておる。さっき近付いてきた流れ星のまわりにくっついていたものじゃよ」

「どういうことなの?」

「昔、大きな流れ星があったのじゃ。ところが、あるとき別の流れ星とぶつかってしまってな。その大きな流れ星は砕けて数百の小さな流れ星になってしまった。そしてその内の一つが、ここに落ちてきた。ほれ、あそこにある大きな岩がそれじゃよ」

リンゴは星の涙が散らばる、その中心になっていた岩を指さす。

「それ以来、他の破片達は近くを通るたびに自分の片割れに挨拶をしていくのじゃよ。寂しくないようにな。その際に、流れ星の周りについていたソーダ水の結晶だけが地上に落とされて、地上にあたって砕け散る。それが、流れ星の涙じゃ」

 そういえば、みっこがこの国に来たとき着水した空の水を、リンゴはソーダ水の空と呼んでいた。流れ星がここに来る際ソーダ水の空を通過して、甘い成分を集めてくる……ということなのだろうか。

「あの水って、飲めるの?」

「普通は飲めない。水の形をしていないからな。ただ、流れ星が通るときあんまり早くひっかきまわされるもんだから、いつもよりぎゅうっと固められてしまうのさ。そうして出来たこの流れ星の涙は、ここでしか手に入らない鏡王の都の名産品だったのだ。今日はこいつを潰して火にかけて、スープにでもしてみようかと思う」

 それを聞いて、みっこのお腹が再びぎゅううとなる。

「やれやれ、食いしん坊め。焦らずともすぐ出来る」

 リョキスンが呆れ顔で作ったスープは干し肉とキャベツのような野菜が入っていてとても美味しかった。お腹が膨れるとともに、急激な眠気が襲ってくる。一日、色んなことがありすぎた。重くなっていくまぶたをこらえきれず、みっこは器を抱えたまま眠ってしまった。

「……さて、リンゴ君。ここからは大人の話といこうじゃないか。是非正直に話して欲しいのだが」

 リョキスンは懐から鋭いナイフを取り出してリンゴに突きつける。

「君は、どっち側だ?」

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