第2話 雨上がり、メデューサに襲われる
ドアを開けた瞬間、暗い廊下が見えた。
ヒヤッ、と冷たい空気が体をつつむ。
蛍光灯やLEDの様な照明はなく、所々に小さなランプが置かれていたが、その明るさは足りなく、廊下は暗かった。
スマホを見る。ダメだ、ここでも圏外だ。
ライトをつけて、恐る恐る廊下を進んでいく。床は妙にざらざらしていて、ところどころに隙間があった。
これ石畳だ。廊下に石畳を使う建物ってなに?
私は今、どこにいるんだろう。本当に異世界に来ちゃったのかしら? 頭がおかしくなりそうだ。
しばらく歩くと、廊下の奥から、誰かが歩いてくるのが見えた。
細い体型と、長く伸びた髪から、ライムさんかと思った私は、声をかけた。
「ライムさん、すみません。家に帰りたいんですけど」
スマホのライトを向けた瞬間、私はその人が、ライムさんではない事に気づいた。
やせこけた頬。くぼんだ目。
そして何より、私の心臓を凍らせたのは。
その人の髪の毛はウネウネと動く、数十匹のヘビだったのだ。
頭のヘビがいっせいに私の方に伸び、それぞれの目が光った。
逃げようとしたけれど、足が動かない。思わず両足を見た私は驚いた。
くるぶしからヒザ、ヒザからふとももへと、どんどん白く固まっていく。
白いかたまりが、足から腰、腰からお腹へと上がってきて、気分が悪くなり、もうダメだ、と思った時。
「やめろ」
私の背中から、男の子の声がした。
「お前、地獄に知り合いはいるか?」
それを聞き、ヘビ女が、うう、とか、ああ、とか声をあげて、後ろに下がる。
「いるなら俺が、会わせてやるぜ」
そう言って私の後ろから現れたのは、あの、雨の中に倒れていた男の子だ。
男の子は、自分を恐れているヘビ女に向かって言った。
「魔界の王子イリヤの名のもとに命ずる。この呪いをとけ」
白く固まっていた私の下半身が、みるみる元に戻っていく。
だが足に力は入らず、倒れそうになる私を、男の子が両手で受け止めて、抱き上げてくれた。
「大丈夫だ」
目の前のヘビ女をにらみつけたまま、男の子は私に言った。
「呪いはとけた。すぐ動く様になる」
ヘビ女は、そのまま通路の奥に消えていく。
男の子は、私を抱きかかえたまま、元の部屋へと戻っていく。
背中と膝を、男の子に支えられながら、こんな時だけど、私はドキドキしていた。
これって、お姫様だっこ!
改めて見ると、白い肌の男の子は、綺麗な顔をしていた。
こんなに男の子の顔を、近くで見た事ないから、緊張しちゃうよ……。
部屋に戻ると、ライムさんとエルくんも戻っていた。私を運んできた男の子を見て、同時に言う。
「殿下!」
「若旦那!」
私をベッドまで運んで寝かせると、男の子は二人に言った。
「ゴーゴン三姉妹の誰かに襲われていたぞ。あやうく石にされる所だった」
「多分、末っ子のメデューサですね。おくびょうな子で、人間を見た事がないから驚いたのでしょう」
「長女のゴーゴンから、叱ってもらってくれ。私の命の恩人を、死なせる所だった」
私は男の子とライムさんの話を、チンプンカンプンになりながら聞いていた。
「若旦那、メデューサもやけど、ダンジョンの連中が、不安がって暴れてまっせ」
エル君にそう言われて、男の子は両手を広げると、芝居がかった感じで言った。
「祈りの間で体力を回復させていたんだ。私は無事だと皆に伝えろ。そう、魔界のプリンス、イリヤ・ムローメス様が復活したと!」
そう言うと男の子は、ベッドの上に上半身を起こしている私を見下ろし、偉そうに言った。
「光栄に思え人間。お前は、この魔界プリンスの役に立った」
「はぁ?」
私は思わず、変な声を出した。
さっきまで、色白でカッコいいイケメンだと思ってたのに……。
こいつの態度、なんか上から目線だ。
「人間なんて呼ばないで下さい。私には山野辺響という名前があります」
イリヤという男の子は、ずい、と顔を私に寄せる。
うわ、近くで見ると、やっぱりこの子、整った顔立ちしてるな……。
「人間は人間だろう。人間と言って何が悪い」
なんだか、あたまの中で「人間」という単語がグルグル回る。
その時、後ろでエルくんがライムさんにハリセンを渡すのが見えた。テレビのお笑い番組で、よく突っ込む時につかわれるアレだ。
そしてライムさんは、そのハリセンで、イリヤ君の頭をスパァン、と引っぱたいた。
「さっきから、命の恩人に失礼な事ばかり言って。響ちゃんに謝って下さい、殿下!」
叩かれた頭をさすりながら、イリヤくんはライムさんに言う。
「お、俺は全ての世界を征服する魔界プリンスだぞ! こんな人間ごときに謝るものか」
「それは予定というか、希望でしょ。まだ、どこの世界も征服してません。とにかく、響ちゃんに謝ってください」
イリヤくんは、しぶしぶ、私の方に向き直った。「魔界プリンス」とか言ってたけど、ライムさんには頭が上がらないみたいだ。
「助けてくれて、ありがとうございました。失礼な事を言って、ごめんなさい。これでいいか?」
変なところで素直だ。
後半はライムさんに言ってるみたいだったけど。
言い終わると、イリヤくんは、また態度が大きくなった。
「まぁ、お前はどうせ、すぐ俺たちの事を忘れるからな」
「へ? どういう事?」
イリヤくんは当たり前の様な口調で、とんでもない事を言った。
「お前は、我々とは出会ってはいけなかったのだ。今日の記憶を消させてもらう」
私はビックリした。
そんな、何がなんだか、わからないうちに、今、起こっている事を忘れちゃうの?
それに記憶を消すと言ってもどうやって?
まさかハンマーで頭を殴る訳じゃないよね。
イリヤくんは横にいるエルくんに言った。
「さぁエル、この人間の記憶を消してくれ」
「それがな、若旦那。この子の記憶、消されへん」
その一言に、イリヤくんとライムさんは、あわてた様だった。
「記憶が消せない? なぜだ? お前は記憶改変の魔法を使えるだろう?」
「若旦那は、もうすぐ死ぬ所を、この響さんの生命を吸い取って、助かったやん」
それを聞いて、私は思い出した。
雨の中、倒れているイリヤくんに手を握られた私は、急に意識を失ったっけ。
「えっ、あの時、私、生命を取られたの?」
「いわゆる仮死状態になったんや。その代わりに生き返った若旦那は、響さんをこのダンジョンに運んだ。ここでは、若旦那は生命エネルギーを回復できる。回復した若旦那は、響さんに、少しづつ生命を戻して、生き返らせたんや」
私はビックリした。いつのまにか、そんな大変な事をされたんだ!
「つまり若旦那と響さんは、ひとつの生命を、ふたつに分け合った。それにより、二人の間には、特別な絆ができあがってしもたんや」
特別な絆! 男の子と!
なんだか恥ずかしくって、私は顔が熱くなる。
イリヤくんは、あわてた様子で、エル君にたずねた。
「それが、記憶を消せない事と関係あるのか」
「二人の生命は繋がってしもた。響さんの今日の記憶を消すと、若旦那の記憶も消えてまう」
「それはまずいな。今日の記憶は、敵と戦うために重要だ」
考えこむイリヤくんの前で、私は手を上げた。
「あのー、今までの話をまとめますと」
私は、イリヤくんを指さして言った。
人を指さすのは失礼だが、失礼な事なら、こいつの方がたくさん、やっている。
「私、このイリヤって人の、命の恩人ですよね。なのにこの人、なんでこんなに失礼なんですか?」
私の言葉を聞いて、エルくんがズッこけた。
「いろいろと大事な事を説明したのに、ツッこむの、そこかい!」
イリヤくんも、慌てた様に言う。
「き、貴様! 魔界プリンスをバカにするのか!」
そんなイリヤくんを押しのけ、ライムさんが、私にズイ、と顔を近づけて言った。
「ごめんねぇ、響ちゃん。とりあえず私たちの事を、ナイショにしてくれないかしら?」
ライムさんの勢いに押されて、私はうなずいた。えらそうなイリヤくんにはムカつくが、ライムさんの丁寧な態度は嫌いではなかった。
「良かった。詳しい事は今夜、説明するわ。とりあえず寝る時までは、私たちの事は秘密にしてね」
今夜って、いったい……。そう思う私の前で、イリヤくんが言う。
「おい、我々を見た人間の記憶を、消さずに帰すのか。それは危険じゃないか」
「今日は響ちゃんを信じて、おうちに帰しましょう。明日からは、私たちの仲間になってもらわないと」
横から、エルくんも口をはさむ。
「せやで、若旦那。早く家に帰さないと、この子の家で騒ぎになりまっせ」
「ふん、勝手にしろ」
そう言うとイリヤくんは、プイ、と私に背中を向けて、部屋を出て行った。
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