第5話
男のはるか昔の記憶。
ものごころがはっきりついたのは、五歳だった。
借家の小さな小さな庭先。
ありんこやダンゴムシ、それにたまに生垣の樫の木々に、甘い汁を求めてやって来る虫たちが、幼かったゆうじの友だちだった。
「どうしてぼくに父ちゃんがいないの」
幼稚園の迎えの車に乗り込む際、いつも、暗いまなざしでそう言っては、すぐにも勤め口にでかけようとする母よし子のこころを乱した。
「あのね。アメリカにいるの。がんばって、ゆうちゃんのために働いていらっしゃるのよ。たいへんなお仕事でね、なかなか帰って来れないの。あなたがもっと大きくなったら、ゆうちゃんに会いたいって、きっと帰ってこられるわ」
息子の顔を観ていられず、母はわが子の両肩に自分の両手をそっと置き、小さなからだを抱き寄せた。
「くるしいよ。やめて……。だったらぼく、その前にアメリカ、行く」
「うんそうね。お母さんだって。いっぱい働いて、お金をためて……」
母は涙ぐみそうになったが、歯をくいしばった。
「お母さん、どうしたの。泣かないで」
「泣いてなんていない。あなたがやさしい子で良かった」
ゆうじが青いワンピースの女性を見たのは、その時だった。
ほんのちょっとの間、視界をよこぎった。
ゆうじは、あれっとつぶやきに似た声でいい、小首を傾げた。
「ほらほら、ゆうちゃん、バスの運転手さんが手招きしていらっしゃるわよ」
「うん、でもね……」
「いいからいいから。ゆうちゃん、みんなが園で待ってるわ」
バスの付き添いをしている保育所の若い女先生が、ゆうじの手を引いた。そして、ゆうじがバスのステップを上がるのを手伝った。
ゆうじの席は一番うしろ。見送ってくれる母、見たさだった。
細い首をめいっぱいまわして、自転車のハンドルをにぎる、母の姿が見えなくなるまでそのままでいた。
「ゆうちゃん、ちゃんと前を向いててね。バスが揺れるとあぶないわ」
「うん、わかった……。ねえ、先生……」
「なあに……」
「あのおんなのひとってだれ?」
「どの人、先生には……?」
小さな右手の人さし指が指し示すほうを見るのだが、ゆうじの母のほかには誰もいない。
「ぼくのお母さんのすぐそば。頭の毛をひもでしばって、つぎはぎみたいな古い服着たちっちゃな女の子が、青い長いスカートの女の人にまとわりついてるよ」
語気が強くなった。
「ああ、ああ、そうね。誰なんでしょうね、いったい?先生、知らないわ」
付き添いの若い女性は賢明だった。
見えないけれど、見えたように振るまうほうが良いと思った。
くすし。 菜美史郎 @kmxyzco
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