第4話
男は、街の郊外にある女の家まで女を送り届けてから、市街地にある自分の安アパートの部屋までもどった。
よほど疲れていたのだろう。
すぐにからだを横たえようと思ったが、三畳間の部屋はさまざまな本が散らばっていて空きがないほどである。
男はそれらをそそくさとかたづけると、ごろりと横になった。
しかし、神経が高ぶっていて、すぐには眠ることができない。
電気ごたつのテーブルの上にゆうべのビール缶があったのを思いだし、ごくりとひと口飲んだ。
男は夢をみた。
「ミヤマクワガタさん。元気なくなりました。とってもだいじな友だちなんです。つのをつんつんしても、ちょっと動くだけで……、前みたく、ちゃんと立ち上がってザリガニさんみたく、つの立ててほしい。幼稚園に行ってるけど、みんなと遊べなくて、ひとり草むしりやって……。まあ、ゆうちゃんってえらいわって、女のせんせ、ほめてくれるけど、ちっともうれしくないです。だからおねがいします」
大きな街の中のちいさなお堂。
白っぽいつばのある帽子をかぶり、半そで半ズボン、目のくりくりした小さな男の子がつぶやくようにそういうと、真っ赤な毛糸の帽子をかぶったいちばん大きいお地蔵さまの足もとでさな手を合わせた。
しばらく経っても、地蔵さまからの返事がない。
まわりは背の高いビルばかりで、陽の光りがとどかず、昼間でもうす暗い。
「ぼく、そんなとこで、なに拝んでるの?」
たまたま自転車で通りがかったおばさんに、そう声をかけられ、男の子はこれっといい、右手をあげて立ち上がった。
親指と人さし指でつままれていたのは、なにやら黒いもの。
「なあに、それって?」
「くわがた、みやまなんだ。元気がなくなって……」
「ふうん、山の奥で暮らしてる生き物なんだもの。こんな都会じゃね、ちょっとかわいそうだったね」
「うううん、まだ死んでないよ。ちょっとは生きてる」
男の子は口をとがらしていってから、四角な空を見あげた。
ぎらぎら輝くお日さまが、ちょうど、男の子の頭の上にきているところだった。
「そうか。なにか足りないんだね。きっと……」
男の子はもう一度、お堂の前にしゃがみこんだ。
ズボンの左ポケットから、五円玉を一枚とりだし、地蔵像の足もとにおくと目をつむった。
(ほんと、おねがいです。お地蔵さま。クワガタさん、元気にしてください)
今度はだまったまま、こころの中でいった。
聞こえるのはやはり、お堂わきを流れる堀の水音とアブラゼミの声ばかり。
男の子はじれったくなったのか、
「五円しかあげられなくて、ごめんなさい。大きくなったら、もっとあげられるようなおとなになります」
と声を張り上げた。
ビルの谷間で木霊となって響いた。
「しょうがないや。だっておじぞうさまったら、お口がないんだもん」
堀っこで泳ぐ鯉でもみようと、男の子は、大きな岩を支えにして、コンクリートの階段をおりていく。
誰かがさきに岸辺で鯉とたわむれていた。
髪の毛の長い見かけない女の人で、首のところから靴の上まで、薄あおいひとつらなりのカーテンのようなものを身にまとっている。
(知らない人だよね。だから……)
彼女から少し離れたところで、男の子は遊ぶことにした。
右ポケットに、給食のパンくずがいくらかあった。
ほらほらといいながら、男の子はたちまにして泳ぎよってく鯉たちの近くにそれらをほうった。
ふいに、誰かが男の子の右肩にそっと触れた。
男の子は一瞬、びくりとからだを震わせた。
「おねえさんにちょっと見せて」
お母さんの声に似てると、男の子は思った。
男の子のさびしい胸にとどくのか、しだいに気持ちが良くなってくる。
ふんわりして、まるで雲の上にのってるみたいだった。
男の子は、さっき食べたばかりのチョコパンのかけらがくっついたままの顔で、口をぎゅっとつぐんだ。
そして、指でつまんだままのミヤマクワガタを、女にさしだした。
眠っていた男が、ふいに寝返りをうった。
「あおいあおい……ワンピース……おねえさん……ありがとう」
と、小さな声をだした。
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