第2話
「どうしたの。急に立ちどまったりして。まきさん」
男がいぶかしむ。
「よく見てよ、あれ」
焦点をしぼった女の目には、意外なものを見たという驚きの感情が、ありありと現れている。
男は女が見つめる方向を見ないで、
「あれって……、それじゃわかんないんだよね」
女はチチッと舌打ちしてから、
「なによ。その言い方。誠実みがないわね。いくら恋人未満で友だち以上だとしても、もう少しましな対応ができそうなものじゃない。あなたはそんなふうだから……」
「だから、なに?」
「もういいわよ。これだけ言ってわかんないんだったら。もうなにも言うことはございません。話にのってこないんじゃこれまでよ。それじゃね。あたしだって超多忙なのにあなたのために……」
最後まで言わず、女は急に足早になった。
「ごめん。そんなふうにして帰られたら困るよ。わるかったよ。すなおになる。すなおになるから」
男は女の目前で、何度もかぶりを振った。
「そおう、わかったみたいね」
女はふふっと鼻で笑い、
「いつだってあなたは、そう。今までだってわかってたけどね。黙ってた。いつかわかってくれるって信じてた。理屈っぽくってわがままなとこさえ直せばいい男なんだわ」
「うん、わかった。まきおねえさん」
「こいつめ、おねえさんだけ余計よ。あなたは調子がいいんだから。とにかくさっさとあっちへ行って来てよ。さっきの噴水のところ。なんか変だから?」
「噴水……?あっ、わかった。ええっと、なんだろな。あの人。おかしなことやってるみたいだ」
「ゆうじさん。あなた、ちょっと、観て来てくれる?」
「……」
「こわいの?いやなのね」
「いや、だいじょうぶ」
「じゃあ、行って来て」
男はそろりそろりと噴水池に近づいて行く。
噴水池の中で、うす青いワンピースを身に付けた女が、子どもが遊びまわるように、歩き回っている。
素足のまま噴水池に入り込んでいるらしく、ワンピースの長い裾が、大して深くもない池の水面に触れている。
うす汚れた水がワンピースの繊維をつたい、一個の生き物のようにするすると浸透していく。
彼女は裾が重くなるのも気にしないで、さも大切なものをあつかうように、鳩のからだを彼女の左手のひらの上にのせた。右手の人差し指でいじったり、やさしく息をふきかけたりしている。
(鳩がとんでもない病だったらどうするんだ。ほんとばかなことを……。とても見てらんない……)
「あっ、あ、あなたね。びっくりさせてごめんなさい。でもね。そ、その鳩って、ひょっとして病気、死んでるんじゃありませんか?」
男が言葉を吐き出すようにいった。
しかし、彼女は応じない。
ちらりと男に強い視線を投げかけると、一気に池から上がった。
コンクリートの堤わきにむぞうさに脱ぎ捨てられた一足のサンダルに、片足ずつ自分の足をつっこんでいく。左手に持った鳩のせいで、からだのバランスがとりにくかったらしい。
彼女がわっと叫ぶと同時にほっそりしたからだがぐるりとひと回転してしまい、いやというほど小石ででこぼこしている床にからだを打ちつけた。
よほど痛かったのだろう。
彼女はしばらくうずくまっていたが、やっとのことで起き上がった。
一羽の小鳥が彼女のもとから飛び立って行く。
「まさか、さっきの鳩だなんてことないだろな」
男がつぶやく。
彼女はしばらくの間、夕陽を受け茜色に染まりだした空を仰いでいたが、ほっと安堵のため息をつくと、両の手をしなやかに打った。パンパンという音があたりに響いた。
両脚にまといつくスカートの重い裾が気になるのか、彼女はずるずるとそれを膝のあたりまであげ、足ばやに歩き出したが、途中でまきの存在に気づくと、ちらりとまきを見やった。
「どうだった?あの人、まきさんこと見たでしょ」
「まあね。でも、あの人って……いったいなんだろね。女の口から言うのも気が引けるけど、ひょっとしてスケスケのワンピース着てなかった?」
「そこまでじっと見つめることなんてできなかったよ。鳩のほうばかり見てて」
「それで良かったのよ。あんな大胆な女、あたし今までに見たことない。なんだかどこかのお寺の仏さまみたいな顔よ。切れ長の目をしていて鼻筋がとおって……」
「それってどういうこと?」
「そういわれても説明のしようがないわ。女のようでもあり、男のようでもあり……。ああ、わたし、もうわけがわかんない。あの瞳に見つめられると、背筋がぞくぞくっとして、たまらずごめんなさいって言いそうになったわ」
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