最終話 ゴーストライト

 震える手で、扉を開ける。

 外まで漏れていたざわざわとした教室の空気が、一瞬、世界が止まったように、静まり返る。まるで、全てが凍り付いてしまったかのように、誰も動かない。


 しかし、それはごく僅かな時間で解氷し、各々がそれぞれの世界に戻っていく。友達と談笑する者、机に向かっている勉強をする者、僕の方を見てささやき合う者。


 僕は震えそうになる足を、なんとか踏み出して、自分の席まで歩いていく。途中、中身の入った炭酸飲料の缶を投げつけられ、制服にしみができる。笑い声がその輪の中から聞こえる。輪の中の、ぎこちなく笑うクラスメイトを見て、彼も僕と同じだったのかもしれないと思う。

 チャイムが鳴って、今日も、この小さな世界で、いつも通りの一日が始まる。


 * * *


「魔法が解けてきてるんだと思う」


 小説の中、夕暮れの教室で、志穂は言う。


「前に返事できない時があったでしょ? その時から、意識がなくなることがあるんだ。ここ最近も一日に数時間しか意識を保てない。君も気付いてるでしょ?」


 気付いていた。最近になって、志穂に言葉が届かないことが増えていた。

 でも僕は、見て見ぬふりをしていた。志穂との生活がずっと続いてほしいと思っていた。

 彼女は開いた窓から、夕暮れに染まった町を見渡して、言った。


「だから」


 僕は、どうすることもできなかった。そこから先の言葉を、聞きたくなかった。でも、聞かなければいけないことだと、頭のどこかで分かっていた。


「君の手で終わらせてよ」


 ゆっくりと、彼女が振り返る。


「この、物語を」


 人生は、物語は、いつか、終わる。

 頭では分かっていた。それが自然で、受け入れるべきものであることを。

 でも、どうしても、心が追い付かなかった。


「わざわざ終わらせなくてもいいじゃないか。もしかしたら、またいつもみたいに戻るかもしれないし……」


 夕焼けを背にした彼女は、優しく首を振った。


「病人みたいだけど、自分のことは自分が一番分かるよ。もうすぐ、私の意識は途絶えて、君と会話することもできなくなる。なんとなく、そう感じるの。この世界は本当は物語だから、私に意識がある方がおかしいの。消えていく方が自然だよ」


 そこで一度言葉を切って、改めて僕を見た。


「でもこれは神様からのプレゼントだと思うんだ。怖がりな私が、命を救ったことの、ご褒美。物語の中だけど、また君に会えて、本当に良かった」


 志穂はそう言って、穏やかな笑みを浮かべた。

 それから、いつもの調子で話を続けた。

 他愛のない、ただ僕たちだけに意味がある話。


「もう学校には行ってるんでしょ?」

「ああ」

「友だちは大事にするんだよ?」

「分かってるよ」


 お母さんかよ、と僕は苦笑する。

 あの後、僕は志穂に杉崎のことを話した。僕が杉崎にしたひどいことも、それから仲直りしたことも。志穂は「よかった」と言って、いろいろと相談に乗ってくれた。学校生活や人との関わり方について、自分では解決できないことがたくさんあった。でも志穂と話していると、自然となんとかなるんじゃないかと思えた。僕は、現実の学校に登校するようになった。


 現実で、全てが上手く行っているわけではない。嫌になることもたくさんある。でも、これでいいんだと、そう思っている。


 しばらく話した後、窓の外に目をやると、夕暮れの赤と、夜の青で、空が二つに分かれていた。深海のように深く青い空の方には、星が見えた。

 まだまだ、話したいことはあった。彼女の家族の話とか、志穂が助けた少女に会いに行ったこととか、その子がもうすぐ中学生になることとか。そしてできるなら、このままずっと、話し続けたかった。話すことがなくなっても、このまま志穂と一緒にいたかった。


 でもいつか、それも終わってしまう。

 物語は、終わりを迎える。


「夢と物語は似てるって、私思うんだ」


 そう言って志穂は、窓の桟にもたれて、天井を見た。


「ほら、夢は人の願望を満たすためにあるって言われてるでしょ? フロイトだったか忘れたけど、叶えられない願望を夢の中で満たすことによって精神を安定させるって話。物語もそういう役割があるんじゃないかって思うんだ」


 志穂は、窓際の本棚にあった小説を取り出し、ペラペラと読むわけでもなく、めくっていく。


「人の願いを虚構の中で叶えて、精神を安定させる。主人公の行動や、キャラクターたちの言葉から、また生きていくための勇気をもらう。夢と同じように、物語からもいつかは離れて、目を覚まさなきゃいけない。現実を見なきゃいけない。それはとても寂しいことだけど、でも全てがなくなるわけじゃない。夢や物語で見たものは、記憶の中に残り続ける。思い出せなくなっても、なくなったわけじゃない」


 最後のページまでめくり終えたところで、本をパタンと閉じる。

 空はいつの間にか深海に沈み、青い光が教室に差し込んでいた。僅かな光の中、志穂の姿はどんどん見えづらくなっていく。


「だから私は小説が好き。……でも」


 そう言って、志穂は笑った。


「それよりも、君が好き」


 嬉しさと悲しさが、同時に僕の中で生まれる。

 この感情を大切にしようと、僕は思って、口を開く。


「僕も志穂が好きだよ」


 震えないように、僕は言った。

 志穂は笑った。

 僕は悲しくて、しょうがなかった。


「最後にお願いがあるんだ」


 今度は星空を背景にした志穂が、最後に僕を見つめる。


「なに?」

「智也くんに、私たちの物語を書いてほしい。もしこの世界で、私が死ななかった世界で、起こるはずだった幸福なことを書いてほしい。最後に私に幸福な夢を、君と生きられた世界を見せてよ」

「わかった」


 僕は強く頷いた。

 志穂は暗闇の向こうで嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


 僅かな月明かりのなか、彼女の涙が光り、そして落ちていく——


『さよなら』


 * * *


 大学に入る前の、高校生でも大学生でもない春休み、僕は杉崎を花見に誘った。


「智也くんから誘うなんて、珍しいね」


 当日、現れた杉崎はすでに大学生になる準備をしているのか、おしゃれな服装だった。

 桜並木を僕たちは歩きながら、近況を報告したり、残りの春休みに何をするかを話す。

 この春、杉崎は吹奏楽で推薦をもらい有名大学に、僕は必至に勉強して地方の大学に入学する。二つの大学の距離は遠く、お互いに一人暮らしを始める。


「離れても今日みたいに誘ってよ。いつでもいくから」


 杉崎はそう言って立ち止まり、桜を見上げる。桜並木の終着点であるそこには、周りの樹より一回りも大きな桜が、花を咲かしている。その周りをたくさんの人が囲い、頭上を見上げ何かを話している。


「桜の樹の下には、死体が埋まっている」


 杉崎がぽつりとそう言って、静かに笑った。

 彼女と出会った日の会話を、僕は思い出した。


「死体の上には、桜が咲いている」

「なにそれ、智也くんのポエム?」

「そうだよ。僕は中二病だから」


 自虐気味に言うと、彼女は楽しそうに笑った。つられて僕も笑う。

 笑い合ったそのとき、ふいに、強い風が吹いた。

 激しく舞い落ちる桜の花びらが、僕たちの世界を覆う。

 空気を切るような風の音にまぎれて、どこからともなく、声が聞こえた。


 ——ねぇ、知ってる?


 ずっと好きだった、彼女の声が。


 ——桜の樹の下にはね、死体が埋まってるんだよ


 風が止み、枝から離れた大量の桜の花びらが、ゆっくりと地上に舞い落ちる。

 この綺麗な世界の中を、僕たちは生きていく。

 いつか、この人生が、この物語が、終わるその時まで。

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ゴーストライト 綿貫 ソウ @shibakin

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