第40話 青い世界

 屋上は今時珍しく、落下防止の金網はなかった。ただ腰ぐらいの高さにヘリがあるだけだった。だから、街の景色が良く見渡せた。


 ──特に、することはなかった。


 屋上に一人、ヘリに近づいて景色を眺めた。心境とは裏腹に天気は快晴で、人が動いている様子を見ることができた。繁華街からは白い煙が上がり、住宅の間の公園で子どもが元気よく遊んでいる。


 この世界は小説ではない。心境に都合よく、環境が合わせてくれるはずがなかった。

 僕はヘリに手を置いて、屋上の真下を覗き込む。

 校舎は四階建てで、十分な高さがあった。地上ではおじいさんに引かれた犬が、なにかを叫んでいた。

 しばらくして、見るのに飽きて、戻ろうと思った。


 ──そのとき。

 ふいに後ろから、聞きなじみのある、だけど聞いたことのない声音を聞いた。


「智也くん!」


 振り返る。

 屋上の扉の前には、呼吸を乱した杉崎がいた。


「死んじゃ、だめだよ」

「なにいって……」

「死なないでよ!」


 大きな声が屋上に響く。あまりの剣幕に、僕はなにも言えなくなる。

 杉崎は僕が飛び降りるとでも思っているのか、扉の前で動かず、ただ真剣な表情で僕を見つめている。


「まだ高校生だよ? 死ぬことないじゃん」

「死なないよ」


 誤解を解くための言葉を発声しようとすると、大分かすれた、か細い声が出た。杉崎は聞きとれたのか、聞き取れていないのか、複雑な表情をしていた。


「死なないよ」 


 今度は意識的に大きく声を出した。すると杉崎は、数秒遅れて理解したのか、ほっとしたように駆け寄ってきた。


「驚かせないでよ」

「こっちのセリフだよ」

「いや私のセリフ。最近すぐ帰っちゃうし、メールの返信もくれないじゃん。遠くで見かけても暗い顔だったし……。そんな君が、昼休みに屋上に向かってるとこ見たら、勘違いしちゃうでしょ」


 杉崎はなぜか怒っているように、そう言った。

 ごめん、と僕は謝る。

 屋上のヘリに背中を預けて僕たちは座り、話を続ける。青い空に浮かぶ薄い雲が、ゆっくりと流れていく。


「そういえば聞いたよ、文化祭のこと」

「誰に?」

「浅野くんに。作った看板が割られてて、しかもその犯人が智也くんにされてるんだってね」


 僕はただ、うん、とだけ言葉を返した。


「智也くんじゃないんでしょ? 完成したの、私見てるし。私言うよ、智也くんは犯人じゃないって」


 あの日、確かに杉崎は完成した看板を見た。でもだからといって、その証言だけで僕の身の潔白が晴れるとは思えなかった。むかついてやったんだろ、と言われればそれまでだ。


「いいよ、言わなくて。信じてくれるか分からないし、杉崎にまで迷惑かけることになる」

「じゃあ真犯人、見つけようよ」


 空から杉崎に視線を戻すと、同じように杉崎も僕を見ていた。どうやら、本気みたいだ。


「分かったよ」

「よし、じゃあ今から聞きこみに行こうよ。アリバイとか、不審な人物とか……」

「でも、もう関わらないでほしい」


 僕は杉崎の目を見て、言った。同じように本気だと伝わるように。これ以上、彼女を巻き込まないで済むように。


「犯人を探すから、僕と関わらないでほしい。杉崎には杉崎の生活があるから。僕よりも大事にすべき人がいるから、もう一緒にいるのはやめよう」

「ほんとに言ってるの?」


 杉崎は動揺したような、そして悲しい表情をしていた。


「本気だよ」

「……そっか」


 寂しそうに、彼女は言った。

 僕から視線を外して、空を見た。

 そのまま、沈黙が続き、また一つ雲が流れた。


「文化祭の演劇、見にきてほしかったな」 


 ふいに彼女がぽつりと言葉を零す。


「見にきて欲しくなかったんじゃないの?」

「あれだけ頑張ったら見にきて欲しいよ」

「ごめん。看板のことなんか放っておいて、見に行けばよかった」


 杉崎は立ち上がり「そろそろ昼休み終わるから」といって屋上の扉に歩いていった。

 そして去り際に振り向いて、僕を見た。


「さよなら、智也くん」


 僕は何も言えず、彼女の後ろ姿が消えていくのを、ただ眺めていることしかできなかった。その言葉がどうしても、声にならなかった。

 昼の屋上。

 僕は一人になった。

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