第4話 桜の樹の下には
志穂が死んだのは、中学二年の夏休みだった。
その日、部活から僕が家に帰ると、母が狼狽した様子で電話に出ていた。
心配だったけれど、後で何があったか聞けばいいと思い、僕は汗まみれのユニフォームを脱いで、シャワーを浴びた。
仕事で何かあったのかな。
そう推測して、体を洗い流し浴室から出ると、居間で母が泣きながら僕を見ていた。
「なんだよ」
僕はそう言った。
「智也……」
母はゆっくりと口を開いた。
その後のことは、あまり覚えていない。
ただ、志穂の葬式に行くために黒い服をクローゼットから探して、結局無くて、どうでもいいから白いパーカーを着て、僕は両親の車に乗った。
その途中で、僕は吐きそうになって、車から降ろしてもらった。
葬儀場はもう目の前だったから、先に行くように両親に促し、一人で道を歩いた。葬儀場の脇の道路に着いて、それでも吐き気は収まらなかったから、そのまま道を真っ直ぐ歩いた。
ずっと。どこまでも歩いた。
足が痛むことに気づいた頃には、もう火葬の時間は過ぎて、橙色の光が僕の影を、前に細長く伸ばしていた。涼しい風が、甘い匂いを運んで、通り過ぎた。
ふと、前を見る。
そこに、淡い色の花があった。
──桜の樹の下にはね、死体が埋まってるんだよ。
ふいに志穂の声がリフレインした。
この下に志穂は埋まっているんだろうか。
そう、僕は思った。
探しにきていた両親が僕の名前を呼ぶまで、僕はそこで、ずっと泣いていた。
* * *
志穂がいなくなってから僕の生活は大きく変わった。
毎日の学校をときどき休むようになり、部活はほぼ幽霊になった。同級生と顔を合わせたくなかった。志穂の話をしたくなかった。
墓参りには行かなかった。
ただ、彼女が死んだとされる駅前の大通りには行った。道路の脇に、花束とサイダーがあった。僕はそれを他人事のように眺めた。実際に他人事だったし、すでに血痕も残っていなかったから、実感が湧くはずもなかった。
母からの話によると、志穂はこの駅前の大通りで、飼い犬を追いかけて飛び出した少女を助けようとしたらしい。そこにトラックが突っ込み、志穂は死んだ。犬と少女は軽傷だけを負った。
僕は花束もサイダーも置かなかった。
* * *
日に日に引きこもりに近づく僕を、母はどうしていいか分からないようだった。僕は受験生になっても勉強はほとんどしておらず、志望校も空欄のままだった。母は叱るでもなく、呆れるでもなくて、ただ僕が行けそうな高校をリストアップして、僕の自室に置いた。
僕はその中から適当に高校を選び、高校生になった。
高校は中学から少し遠い場所にあったため、志穂を知っている生徒はいなかった。ここだったら『まとも』にやっていけるかもしれない、と僕も思っていた。
それでも、どうしてか、僕は同級生と会うと吐き気がした。目を合わせることすら出来ず、日に日に学校に行かなくなった。進級に必要な出席日数だけを守り、あとは休んだ。
高校で引きこもってからは、志穂が読んでいた本(志穂が死んだとき彼女の両親がくれた)を読みあさった。そこに書かれていたのは、実に正確な世界のあり方だった。僕たちが生きている世界を精緻に描写していた。高校一年が終わる頃には、志穂の本を全て読み終えていた。
僕はその本たちを、クソだと思った。
こんなもの何の役にもたたない。そう、思った。
志穂は死んだ。
桜の樹の下の死体も、Kの自殺も、人間を失格した男も、志穂を救わなかった。彼女の脳が潰れたその瞬間、それらは無になった。
何の意味もない。
僕はそう思い、ライトノベルを読みあさった。あれだけ好きだったミステリーも読まなくなった。必要なものは快楽と安心だった。それが健全だと思った。僕にとって現実は痛い。息をするだけで、痛みでショック死しそうになる。
だから、僕は虚構の世界で、生きようと思った。幾ら知的ぶって現実を向いても、いつか人は死ぬ。それなら虚構の中にいてもいいじゃないかと、僕は思う。
そのまま、僕は高校三年生になった。
学校に行っても、誰も僕に触れようとしない。
それでいいと、僕は本を見つめる。
内心の虚しさを、見ないようにして──
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