第2話 ゆめものがたり
「智也くん、こっちこっち!」
志穂が僕の手を引っ張って、どこかに走り出す。
「どこに行くつもりなの?」
そう言いながら僕は必死に志穂についていく。
小学六年生の卒業旅行。キャンプに訪れていた『野奥山』は、なだらかな山道だった。標高二百メートル地点にキャンプ場があり、そこで僕たちはテントを張った。まだ昼過ぎだったから互いの両親に遊んでくる旨を伝え、二人で山を探索していた。
「ねぇ、聞いてる!? あんまり離れちゃうと、怒られるよ!?」
「いいから、早く!」
僕の手は強く握られていて、ほどけそうになかった。だから全力で走った。土や木の匂いが、鼻を掠めた。
途中、転けそうになりながらも、斜面を登ったり降りたりすると、視界一面に淡い色の景色が広がった。僕たちはそこで、呼吸を忘れたみたいに口を開けて立ち尽くした。
満開の桜が、僕たちを覆っていた。まるで世界が桜色しかないみたいだった。桜だけの森みたいだ、と思った。
頭上には満開の桜。地面には桜の絨毯。その間には桜の花弁が降っている。
木々の隙間から漏れる陽光は優しく、桜色に世界を淡く光らせていた。
「ほら、すごいでしょ!?」
花弁がひらひらと舞い、それが僕たちの顔や肩に乗った。興奮している志穂はそれに気づいておらず、頭から肩に掛けて桜に覆われていた。
「こんなにたくさんの桜、見たことない」
「でしょでしょ? ここは桜の森なんだよ」
同じ感想を抱いていたのか、志穂もそういった。桜の森。緑ではなく、桜色の森。
僕たちは幼く旺盛な好奇心に身を任せ、桜の森を駆け回った。花弁を集めてお互いにかけ合ったり、どこまで続いているのか走って確かめてみたり、疲れて桜の絨毯に寝そべったりした。
「ねぇ、知ってる?」
遊び疲れた息を整えてから、志穂がいった。
僕は寝たまま彼女の方を見た。けれど、彼女は仰向けで、正面の桜を向いたままだった。
「桜の樹の下にはね、死体が埋まってるんだよ」
そんなわけないよ、口にでかかった言葉を僕は飲み込んだ。桜の樹の下の死体、その非現実的な光景を、どこかで見たことがある気がしたからだ。
「そうかもね」
「そんなんだよ、きっと」
この時は、まだ梶井基次郎という小説家も、『桜の樹の下には』という小説も知らなかった。読書が好きな志穂だけが、その素っ頓狂で正しい空想を知っていた。
桜に視界が奪われたところで、僕たちは両親が待つ拠点に戻ることにした。日はすでに傾いており、桜の色もそれによって変化していた。志穂の髪や靴の間には、花弁が入り込んでいるのか見えた。きっと僕もたくさん持ち帰っているだろうなと考えながら、ふっと志穂の手を握った。
*
そこで、目が覚めた。
僕はなるべくその夢を反芻しないように気をつけながら、小さくため息をついた。ぼんやりとした頭を、カーテンの隙間から漏れる光が、覚醒へと運んでいった。
──思い出して、跳ねるようにベットから降りる
昨日のことを、早く確認したかった。それは今朝見た夢の一部かもしれないと思った。いや、その可能性が一番妥当だった。だって、彼女が現れることなんて、あるはずのないことだから。
ころころの足がついた椅子に座り、パソコンを開く。小説のページを開き、そこに文字を打ち込む。
『志穂?』
するとすぐ、返信はかえってきた。
『智也くん、どうしたの?』
夢では、なかった。
小説の中に、志穂がいた。
僕は昨日のことを、思い返す。
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