第11話 春は青に沈んでいく
世界は青く、澄んでいる。
目の前の空は、まるで子どもが同じ色で描いた絵みたいに、青だけが広がっている。その下には空色を映した鮮やかな色の海が、水平線まで伸びていた。
青い。
視界いっぱいに広がるその色を見ながら、僕は彼女の着ていた服を思い出す。
——だから、空色のワンピースを選んだのか
四年前には分からなかったことも、高校生になった今では分かるようになった。たとえば彼女が言っていた神の死は、フリードリヒ・ニーチェという哲学者によって提唱された思想であること。たとえば楽しそうに生きていると思っていたクラスメイトは、それぞれ少なからず悩みを抱えていたということ。たとえば、18歳の夏というのは意外に忙しいということ。
ねえ、受験勉強って大変なんだよ。ほんとうに。
別に死にたいという思いが消えたわけではない。常にその選択肢は頭の中にあるし、それが悪いことだとも思わない。産まれたら全員生きなきゃいけないなんてルールは、教科書のどこにものっていない。ルールが定められたとしても、すべてを失くしてしまう僕たちに、それを守る義理はない。
それでも僕は、今のところ、生きてる。人生が楽しいわけでも、ここにいていいと思えるようになったわけでもないけれど。
風が正面から吹きつける。僕は目を細めながら、落ちないように崖下をのぞく。数十メートル下方で、岸壁に打ち付ける波が白く崩れていく。この高さから落ちれば、十分死ねるだろう。たとえ落ちた衝撃で死ねなくても、そこから生存する確率はきわめて低い。これから生きていく労力を考えれば、あと一歩、前に足を踏みだす方がずいぶん楽なことなのかもしれない。そう、頭のすみで思う。
ねえ。
僕はポケットに入れてきた、彼女の文字で書かれた紙を取り出す。
何度も読んだその紙は、くしゃくしゃになって、文字の色も少しずつ色あせていた。どれだけ大切にしても、薄くなっていく記憶みたいに。
まだ、僕は覚えてるよ。
まだ。
ハルカさん——
* * *
目が覚めたとき、横にいたのはハルカではなく、心配そうに僕を見つめる警官だった。
彼の背後には、丸い穴から差し込む太陽の光が見えた。少し眩しい。
「大丈夫かい?」
若い声の警官は、僕の背中を支えて起き上がらせた。服はまだ湿っていて、肌と触れる部分が気持ち悪い。固い壁を背に眠っていたせいか、背中と首が痛かった。頭は重く、思考が雨につかってしまったみたいに働かない。
「きみは——ソウスケくんだね」
本名を言われ、僕は頷く。
「はい」
どういう状況?
なんで警察が?
浮かんだ疑問を一つずつ、頭で整理する。整理しようと意識する。ここは逃げ込んだ公園の遊具の中で、警察は逃げてきた僕たちを見つけた。僕と——
「ところで、もう一人女の子はいないかな? きみより少し年上の」
とっさに横を見た。警官がいる方とは反対の。
そこには、誰もいなかった。リュックサックも消えている。
「分かりません」
そう答えるほかなかった。
* * *
簡単な質問に答えたあと、僕はパトカーにのせられた。
後部座席には、がたいの良い中年の警官が乗っていた。なにかきつく怒られるのかと思ったが、彼は何も言わず流れていく景色だけを見ていた。つられて僕も外の景色を見ていると、だんだんと元の町に戻っていることが分かった。見慣れない風景が、見慣れた風景へと変わっていく。
「ほんとに知らないのか?」
一日目で入った漫画喫茶を過ぎたころ、中年の警官がいった。
「ふたりでいるところを見たって情報が入ってるんだ」
何を聞かれているのかは分かった。でもどう答えるべきか分からなかった。
ハルカに何が起きたのかを、僕自身まだ理解できていない。
「——ハルカっていう少女だ、知ってるだろ?」
僕はそこで初めて、彼女の苗字を知った。どうしてそんな、初歩的な個人情報を僕は聞かなかったんだろう。
「知ってます」
知っている。けれど、分からない。可能性だけが頭の中に浮かぶ。
1 不審者に連れ去られた。
2 警官を察知して僕をおいて逃げた。
3 もとから僕を置いていくつもりだった。
どれも嫌な可能性だった。
でもこれくらいしか、思い当たらない。僕はやっと覚めてきた頭で考えを巡らせる。
1の可能性はあるにはあるが、確率は低い。雨のなか遊具を覗くことはないだろうし、僕が横にいる中で連れ去るのはリスクが高い。2の場合もありえなくはないが、ハルカが自分を優先して僕を残していくとは考えにくかった。
そうなると「もとから僕を置いていくつもりだった」という可能性が一番高くなる。でもどうして、そんなことをする必要があったのだろう。僕を置いていくことになにかメリットがあるだろうか。
「そいつは、どこに行ったんだ?」
中年の警官が、鋭い目を僕に向けた。
僕は答えられなかった。
「聞き方を変えよう」
彼は僕から一切目を離さなずに言った。
「きみたちはどこに向かっていたんだ?」
どこに向かっていた?
それは。
「う——」
言いかけて、僕は止める。頭の中で、何が弾けるような音がした。
海。僕たちは海に向かっていた。どうして? ハルカが言ったから。夏だから海だって。でも違う。もしそれが、違う目的だったとしたら? たとえば、海で死んだ弟に会うためだとしたら。
いや、そんなわけ、ない。彼女が死ぬわけない。話が飛びすぎている。
僕は冷静なって、ゆっくりと息を吸った。
でも思考は止まってくれなかった。
彼女の記憶が小間切れになって現れる。
雨に濡れた彼女の顔。
『ありがとう』
『ソウスケくんはソウスケくんだった』
『きみはどうして死のうと思ったの?』
花火に照らされた彼女の顔。
『ねえ。ソウスケくんは、わたしのこと好き?』
『これ、卒業式に歌ったよね』
『わたしは神が生きてる時代に生きたいなあ』
試着室で笑う彼女の顔。
『んふふ、ならよかった!』
『ソウスケくん……どう、かな…………?』
『それはつまり人間だったことも忘れちゃうってこと』
水切りをする彼女の顔。
『海で死ぬってことだけが書かれてて』
『それがタイヨウの遺書だった』
『優しい子だったの』
カフェで幸福そうにサンドイッチを食べる顔。
『それとも、まだ生きるつもりだった?』
『四年前にね、自殺したの』
『まあ、こういう時くらい使わないとね』
屋上で初めて見た彼女の顔。
『だって、目を離したら死んじゃうかもでしょ?』
『わかんないや』
『タイヨウ、ここにいたんだ』
彼女との記憶はそこで止まる。
たった五日の記憶。それでも何もかもが色鮮やかに見えた。
そのなかで一つ、疑問がうかぶ。
なぜ出会ったとき、彼女はなぜ屋上にいたのか。
もし、はじめから、死ぬつもりだったなら——
「ないです」
はあ? と警官が僕を睨む。
「目的なんてなくて、ただ家から出たくて逃げてました」
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