第10話 君はずっと君だった
雨はなかなかやまなかった。
僕たちは強くなっていく雨音を聞きながら、お互いに話をした。その会話は、以前より親密さがあった。死にたい理由を話したことで、なんとなくハルカとの仲が深まったような気がした。僕たちはじゃれあう二匹の猫みたいに、バス停という狭い世界で、お互いを知ろうとしていた。
僕たちの前に車が止まったのは、お互いに肩を寄せ合って眠ろうとしていたときだった。緊張して眠れなかった僕の視界に、眩しい光が滑り込んできた。通り過ぎていく車とは違って、その車はその場にとどまり続けた。
おかしい。
ようやく僕は、幸福な夢から目覚め、視線をあげる。街頭に照らされた白い車が、バス停の前に止まっていた。運転席と助手席に座る大人が、窓ガラスごしに僕たちを見ていた。
助手席の窓ガラスが、ゆっくりと開く。
「君たち——」
男が声を発した瞬間、僕の身体は雨に濡れていた。
え——
状況が吞み込めず、目に入った雨を引っ張られていない方の手でぬぐう。目を開けた視界には、雨の中を走るハルカの背中があった。
「おい!」
背後から声とともに扉の開く音が聞こえた。
振り返ると、男二人が僕たちを追ってきていた。彼らが乗っていた車の上には、丸いランプのかげが微かにみえた。
警察だ——
胃の辺りに冷たい感触を感じる。それは警察から逃げていることへの恐怖からかもしれないし、単純に雨に濡れた身体の冷たさだったかもしれない。冷たい感触は全身に広がり、走っているのに寒気がした。暖かいのは、繋がれた手のひらだけ。
夜の雨の中を、僕たちは走った。走って、走って、追ってくる警察がいなくなっても走り続けた。僕たちは恐怖から逃げていた。いつ僕たちを捕え、この手を引き離すか分からない彼らは、僕にとって死よりも恐ろしいものだった。ずぶ濡れになっても、足が悲鳴をあげても、僕たちは人がいない場所へ、海の方へ、走った。
口に血の味がした。どれだけ走っても、恐怖は消えなかった。
結局僕たちは、朝になるまで、逃げ続けた。
* * *
生きるのが苦しい。
どうしてこんなにも、人生は上手くいかないのだろう。
どうしてこんなにも、胸が苦しいのだろう。
生きても結局死ぬのに。
死んだら全部忘れてしまうのに、
どうしてみんな、そんなに頑張って生きられるんだろう。
笑顔で、幸福そうに、生きるのが当たり前みたいな顔をして。
苦しい。
辛い。
なのに、なんで。
僕はこんなにも必死に、走っているんだろう。
なんで、この手を離さないように握っているんだろう。
* * *
雨は一向にやまなかった。
道路には小さな川が流れ、隙間から出た泥やゴミが浮かんでいた。雲の向こうの太陽はわずかに世界を明るくするのみで、光は幽閉されたまま灰色の空が頭上に広がっていた。日の出が見れないのも、ハルカと過ごしてきたなかで初めてのことだった。
濡れねずみよりも濡れていた僕たちは、足を引きずりながら、町の公園に入った。僕たちはどこかに身を隠す場所が必要だった。これ以上は歩けないし、ずぶ濡れの格好は目立つ。
公園の真ん中、丘になったところに、かまくらに似た半球の遊具があった。ピンク色の壁面にはところどころ穴が開いていていて、晴れていれば光が綺麗に射し込むようになっている。僕たちは中に入り、泥のついた壁に背中をあずけて座った。丘の上にあるためか、地面に水は溜まっていなかった。
「つかれたね」
力のない笑みを浮かべて、ハルカは言った。
「でも巻いちゃったよ、警察」
「ほんとに、なんで逃げ切れたんですかね」
住宅街を縫うようにして逃げたのがよかったのか、それとも暗闇で人を追うことがそもそも難しかったのか。無我夢中で走っていたから、なにが勝因なのかは分からない。
「それにしても、よく気付きましたね。警察だって」
「まあね。すごいでしょ、わたし」
「すごいです。ほんとに尊敬しましたよ」
「でしょ? わたしはできる女だから。もっとほめて」
ハルカはおどけたようにそう言うが、声に張りはなかった。僕にもそんな元気はなく、僕たち秘密を教え合うみたいに小声で話していた。
正直なことを言うと、いますぐにでも眠ってしまいたかった。そのくらい身体は疲れ果て、精神的にもぎりぎりの状態だった。それでもこうして会話を交わすのは、もしかしたらこれが最後になるかもしれないと、そう思ったからだ。次に警察に見つかったら、もう逃げる手立ても体力もない。その瞬間に、僕たちの日々は終わってしまう。
ハルカもそう感じていたのかもしれない。彼女は僕の手を握ったまま、小さな声でいった。
「ねえ、ソウスケくん」
遊具の穴から灰色の空が見える。
そこから細かい雨が、僕たちの足元を濡らす。
「すこしさむい」
彼女の前髪から、水滴が寂しく落ちる。
濡れた瞳は切実な、なにかを宿して、僕を見ていた。
彼女の空色のワンピースは、雨に濡れ、跳ねた泥がスカートの部分を汚している。それでも彼女は美しかった。むしろ綺麗だと思った。
僕たちはそれ以上はなにも言わずに、お互いの背中に手を回した。
濡れた、冷たい服の感触。それからしばらくすると、彼女の体温が伝わってくる。心地よくて安心できる暖かさ。彼女の柔らかい身体の感触と、甘い匂い。思えばこうして抱き合うのは、初めてではなかった。
「はじめて会ったときはびっくりしましたよ、ほんとに」
「タイヨウだって、本気でそう思ったからね」
ごめんね、と彼女の声が耳元で聞こえる。
身体は静かに震えていて、僕は強く彼女の身体を抱きしめた。
「ソウスケくんは、ソウスケくんだった」
しばらくの間、僕たちはそうしていた。
なにか大事なものを守るみたいに。何者からも互いを奪われないように。僕は決して、彼女から離れなかった。死んだら消えてしまう記憶だとしても、僕は今ハルカに触れていたかった。少しでも多く、彼女と言葉を交わしたかった。こんなにも切実な思いは、初めてだった。
「ねえ、ソウスケくん」
ハルカが口を開く。
それは今にも消えてなくなりそうな、か細い声だった。
「覚えてる? 水切りのとき、勝った方の言うことをきくって約束」
「覚えてますよ」
色々あって、結局、ハルカのお願いはきいていなかった。
「いまさらだけど、お願い、きいてくれる?」
「いいですけど」
そう言っておきながら、僕は不安になった。
今の僕に、なにかできることはあるだろうか。ハルカのために、なにができるだろうか。
そんなことを考えながら待つ僕に、ハルカは沈黙していた。眠ってしまったかと思ったが、背中に回された腕の力は強いままだった。小さな雨音が、数秒、沈黙を埋めた。
「キスして、ほしいの」
急な言葉に、僕は少し驚いた。
「もし、きみがよければ、だけど」
ハルカの声は、少し震えていた。
どうしてそんなに、申し訳なさそうな言い方をするのだろうと僕は思った。いつもなら、おどけた感じで笑って言いそうなのに。様子が、少しおかしい。
「いいんですか? そんなことにお願いつかって」
僕はもう一度、彼女を強く抱いて、願った。
どうかこれ以上、彼女の身体が震えないように。
「え——」
どうかこれ以上、彼女の人生に辛いことが起こらないように。
「僕はハルカさんのこと、好きなんですよ?」
きっと、彼女に出会わなければ、誰かを好きだと思うことも、誰かに好きだと言うこともなかったと僕は思う。
人はいつか死に、死ねば記憶は消える。
たとえ、いつかハルカが死に、ハルカから僕の記憶が消えるとしても、今生きているこの瞬間、ハルカには幸福でいてほしかった。どうしてそう思うのか、僕自身よく分からなかった。
「そうだった」
彼女はくすくすと笑った。彼女のその声を聞いて、僕は心底ほっとした。
「好きな人とキスするんだから、お願いなんて、なくてもいいんだ」
僕たちはゆっくりとお互いの拘束を解く。
近すぎて見えなかった彼女の顔が、久しぶりに視界に入る。
濡れて艶をおびた前髪、少し困ったみたいなハの字の眉、潤いを含んだ瞳。
「ごめん、変な顔になってるかも」
そう言ってハルカは少し笑った。確かに、いつもより表情は固くみえた。
「わたし、はじめてだから」
その言葉に、僕の鼓動は強く、速くなる。
きっと、いま、僕の方が変な顔をしている。
「全然、変じゃないです」
「かわいい?」
「はい。とても」
「きみもかっこいいよ」
「変な顔じゃないですか」
「普段と比べたら、変かな? ふふ、でもかわいい」
あと数センチで鼻先が当たってしまいそうなほどの距離。ハルカが声を発するたびに熱をおびた空気を感じた。
彼女の手が、僕の頬に触れた。
「うん、タイヨウじゃない。この綺麗な目も、柔らかいほっぺたも、全部ソウスケくんだ」
「やっと分かったの?」
「そう、やっとわかったの。似てるけど、やっぱり違う。きみはずっときみだった」
僕たちは顔を近づけて、ぎこちなく目をつぶったり開いたりした。同時に目を開けたとき、僕たちはその奇妙さに笑ってしまった。
「難しいですね」
「ふふ、そうだね。初めてはなんでも難しいからしょうがないよ。んー、じゃあソウスケくんは先に目つぶってて。私がするから」
男として、それはどうなんだと思ったが、僕は素直に目を閉じた。
何も見えなくなると、余計に彼女の存在を感じる。彼女の呼吸する音や、雨と汗の匂いが混じった彼女の匂いや、彼女が起こす空気の揺れを、僕は敏感に感じる。目が見えない人は、その分ほかの感覚が優れているという話を思い出す。
いずれ僕はこの記憶を失くす。
いつか死んだとき、僕はどうしようもなく全てを忘れる。でも、それでもいいと、僕は思った。ここに、僕とハルカいたという事実は消えない。誰も知らなくても、僕たち二人が忘れてしまったとしても、それは世界に存在し続ける。
「ソウスケくん」
彼女の声がする。
「ありがとう」
そうして、僕たちはキスをした。
それが、彼女との最後の記憶になった。
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