第2話 春とおとーと
小学校に入るまえ、一度だけ旅行に行ったことがあった。
海岸に近いところで、泊まったホテルの窓からは青い海が見えた。
そのホテルで母親と寝た、柔らかいのベットを、僕は思いだした。
「いてて……」
柔らかい感触、甘い香り。
目の前の、青い空。
「ごめんタイヨウ、ちょっと起きて?」
女の声に、はっと目が覚める。
急いで立ち上がり、状況を確認するために振り返ると、そこに制服姿の女が僕を見て微笑んでいた。
「ありがと」
目を細める女が立ち上がると、彼女はスカートをパンパンと叩いた。
そして僕に近づくと、今度は正面から抱きすくめられた。
甘い香り。
柔らかい感触。
身長は僕の方がやや低かったが、大差はなく、僕の肩に女の顔があった。
「タイヨウ……ずっと会いたかった」
腰に回された腕の力が強く、僕はのけぞる形になりながら、言う。
「……あの。なんか、申し訳ないんですけど。ぼく、タイヨウじゃないです」
この異様な状況には、とっくについていけていなかったが、女が人違いをしていることだけは分かっていた。いつからいたのかとか、タイヨウと呼ばれる人は誰なのかとか。聞きたいことはいっぱいあった。だけど、まずはこの拘束をといてもらうことが先決だった。
「そうやって嘘ついて、また逃げるんでしょ?」
僕は身体をよじる。
耳元で言われると、こしょぐったい。
ていうか全然力を弱めてくれない。まあ、力で勝てない僕も僕なんだけど。
「噓ついてませんよっ。ぼくはタイヨウじゃないし、あなたのこと、知りませんからっ」
「ほんとに?」
「ほんとです」
いいかげん限界だった。
胸のあたりに感じる柔らかな感触も、耳元でささやかれる声も。
「じゃあなんで、死のうとしてたの?」
「え?」
僕は一瞬返答につまった。
「それは、死にたかったからですよ」
女はその回答に納得したのか、腕を回す力を弱めた。
そして軽く抱いたまま、僕を正面から見た。
顔が、近い。
女は近距離で僕の顔を検査するように見た。あまりにも近いため、僕は目を逸らすことができず、彼女の顔を見ることになった。心臓の音が早くなる。
新雪のように白い肌、
長いまつげに縁どられた大きな瞳、
きっちりと結ばれた薄ピンク色の唇。
顔に血がのぼっていくのを感じる。赤くなっていないか、心配で余計に顔が熱くなった。
「うん」
女は微笑んだ。
「わかんないや」
なんだよそれ。
僕はそう言いたくなるのを抑え、とりあえず完全に拘束をとくようにいった。これ以上は耐えられそうになかった。
「なんで手は繋いだままなんですか?」
「だって、目を離したら死んじゃうかもでしょ?」
結局僕は女と手を繋いだまま、会話をすることになった。
「へえ、ソウスケくんっていうんだ」
「なんで名前知ってんですか?」
「靴にかいてあるから」
彼女の視線の先には、きれいにそろえられた僕の靴があった。
「靴、はいたら?」
「うん」
それから、なんとなく自己紹介する流れになった。
女は自分のことをハルカと名乗った。春に香ると書くらしい。
「今年の春はもう終わっちゃったけどね」
ハルカは18歳で、市内の高校に通っているらしかった。
確かにハルカの制服は町でも何度か見かけたことがあった。
「それで、自称ソウスケくんは?」
「いや、ほんとうにソウスケだから」
敬語を使うのも、なんだか馬鹿らしくなった。
ハルカは本当に、まだ僕をタイヨウだと疑っているらしい。繋いだ手を握る力が強かった。
「ふーん、中学生なんだ。やっぱりタイヨウと同じ」
「そのタイヨウって人は誰なの?」
「ん、おとーと」
やけに甘ったるい言い方だった。
さっきからの言動といい、かなり親密な関係だったのだろうか。
ブラコン。という言葉が思い浮かんだ。
「弟とはぐれてるんだったら早く別のところ探したほうがいいですよ。ぼくはタイヨウじゃないし、姉もいませんから」
電話は? ときくと、弟は持ってないという返答が返ってきた。
今どきの中学生にしては珍しい。
「じゃあ家に帰って待ってみたら? いつかは帰ってくるでしょ?」
「帰ってこないよ。もう何年も待ってるのに……」
そう言ってハルカは、上目遣いで僕を見た。
大きな瞳が、微かに潤んでいた。
どういうことなんだ。
僕はハルカのいうことが理解ができなかった。
そもそも、そこまで仲の良い弟だったら顔を見て分かるんじゃないのか。
どうして名前を書かれた靴を見てもまだ僕をタイヨウだと思うのか。
もう何年も帰ってきていないとはどういうことか。
繋いだ手の平に汗を感じる。僕のものか、ハルカのものかはよく分からない。でもその感触で死ぬときには意識していなかった暑さの感覚が、正常に動きだした。春が終わり、初夏の太陽は少し熱い。このままでは熱中症になりかねない。
「とりあえず涼しいとこ行きませんか」
死ぬはずだったのに、どうしてこうなったんだろう。
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