第三話

 体に染みついた早起きの習慣が抜けていないせいなのか、夕刻過ぎに早々に就寝してしまったせいなのか、目覚めたのは日も出ていないような時刻だった。


 取り止めになる前の献饌の時間にもだいぶ早い時間だったが、陽雨はベッドから身を起こした。

 ベッドサイドに婚姻届が置かれていた。筒泉老から回収したのだろう。

『誕生日まで陽雨に預けておく。』と見覚えのある筆致で書かれた付箋付きだ。


 昨夜の記憶が脳裏を駆け巡って、にわかにそわそわと浮き足立つ。

 昨晩のことははっきりと覚えている。朔臣が散々病人扱いしてきたのも分かるくらい情緒不安定な言動だった自覚がある。

 そのいたたまれなさを補って余るほど幸せな記憶も次々に溢れてきて、夢ではなかったのだと何度も何度も脳内で反芻する。


 今日は暦の上では日曜日だが、朔臣は日曜日も本家に通ってくる。

 昨日の今日でいったいどういう顔をすればいいのだろうか。

 否、どういうも何も、これまで通り、普段通りにしなければならない。

 昨晩の朔臣が特別仕様だっただけで、今からやって来る通常仕様の朔臣は陽雨に甘くも優しくもない、陽雨に義務的に付き従うだけの冷たい婚約者だ。

 陽雨もそれを淡々と受け入れてみせなければならない。


 ……本当にそんなことができるだろうかと、悩ましげにため息をつきながら、陽雨は身支度を整えて自室を出た。

 拝殿で結界の調整でもしていれば気が紛れるかもしれない。

 婚姻届はいっそ肌身離さず持ち歩いてしまいたいほどだったが、浮かれた恋愛脳よりも理性のほうがわずかに勝って、クリアファイルに入れてベッドサイドに戻しておいた。


 浄めの滝での禊はしばらく禁止されていた。

 病み上がりの陽雨を冷水に浸からせるわけにはいかないからと、月臣が控えの巫女に厳重に命じていて、せいぜい柄杓で掬った霊水で手を洗うくらいしか許されていない。

 不寝番の巫女に頭を下げられながら石段を上っていった。


 境内に足を踏み入れて、あれ、と陽雨は目を瞬いた。

 拝殿の観音扉が開いている。

 板の間に先客がいた。月臣だ。


 月臣は陽雨には気づいていないらしく、陽雨に背を向けてじっと板の間に座していた。

 定例本会の場でもないのに珍しく袴姿だ。

 月臣の背中は普段見るものよりずっと静謐で、なんだか声をかけるのを躊躇う。


 忍んでいたわけではないが、足元で砂利が音を立てた。

「誰だ!」と月臣が鋭く振り返る。

 立ち尽くしていた陽雨を見つけるなり目を見開いて、表情から険しさをほどきながら、驚いた様子で拝殿を下りてくる。


「陽雨、こんな時間にどうしたんだい」

「目が覚めたから、結界の調整でもしようかと思って……伯父様こそ」


 陽雨は特別なことをせずとも拝殿に上がれるが、月臣は龍の宝珠と繋がるための神事を行わなければ扉すら開かないはずだ。

 また儀式を行ったのだろうか。本来受け入れられていない者が儀式によって無理やり龍の宝珠との繋がりを作り上げると、その間はずっと術師に負荷がかかり続けるそうなので、よもや昨日から繋がりっぱなしだったということはないと思うけれど。


「もしかして、私が寝ている間に結界に何かあったの?」

「いや、そうではないよ」


 月臣は首を振って否定して、ようやく安心させるように微笑んだ。陽雨の手を取って拝殿へと促す。


「おまえに断りもなく勝手に入り込んですまなかった。結界の術式は変えていないから心配しないでおいで。少し気になることがあってね」


 何が気になったのだろう。首を傾げる陽雨を連れて拝殿の中心に進み出て、月臣は腰を下ろした。

 月臣に倣って陽雨も正座する。

 向かい合うふたりのちょうど真ん中の辺りを、月臣の指先が指し示した。


「――ここに、龍神を封じている術式の核がある」


 陽雨は目を瞠った。

 月臣は陽雨が驚愕から抜け出すのを待って、床の板目に視線を伏せた。


「明陽の封印の術式は独創的で私には解析しきれないが、術式の状態だけでもまめに確認するようにしていてね。陽雨の誕生日より先に封印が解けるようなら、当主継承の儀を早めなければならないから」

「……そう、だったの。でも、どうしてこんな時間に?」

「陽雨が眠っている間のほうが、龍神の力の勢いが増すからだ。封印の術式にかかる負荷も大きくなる」


 まさかおまえがこんなに早起きだったとは思わなかった、と揶揄うように笑われて、陽雨は肩をすくめた。

 普段は陽雨も夜明け前に起き出したりはしない。目が覚めてしまって、じっとしているとそわそわして落ち着かなかったのだ。――昨日とは別の意味で。


「龍神の封印に異常はないから安心しておいで。結界の調整だったね。夜は冷えるから、ふたりで終わらせて早く母屋に戻ろう」


 結界術を習っていたころのように月臣と手を繋いで、退魔結界に霊力を循環させていく。

 いつもひとりでやっていることにふたりでかかればすぐに済んでしまう。

 月臣とともに拝殿を後にして東の棟まで戻ってきても、太陽はまだ昇っていなかった。


 自室まで送ってくれようとした月臣に渋い顔をされながら、執務室に足を踏み入れる。

 文箱には山ほど書類が積み上げられていた。昨日の本会で当主継承の儀に関する大幅な方針転換が決定されたせいで、早くも各部署からの申請書が届き始めているのだ。


 これは今日中、これは資料待ち、これは担当者に話を聞いてから……と振り分けていると、月臣に「陽雨」と窘められる。書類を捌く手を手のひらに包まれた。


「整理するだけだよ」

「そう言って陽雨は集中すると手を止めなくなってしまうだろう。無理をすると昨日のように倒れるから、もう少し眠っておきなさい」


 手から書類を抜き取られる。

 唇を尖らせて「はぁい」と返事をして、書類が置かれた先をなんとなく目で追っていると、見覚えのある写真付きの紙束が見えた。


「伯父様」


 書類の間から目当ての紙束を取り出す。

 月臣が横から覗き込んで、ああ、と目元を和らげた。


「衣装室も結局冬野の振袖を選んだようだね」

「……綺麗な振袖」

「陽雨が気に入ったのなら、きっと冬野も喜ぶ。冬野が生きていれば今ごろはおまえを目に入れても痛くないほど溺愛していただろうから」


 遠い記憶の彼方を回顧するように目を細め、月臣が郷愁を帯びた声で言う。

 憂いを含んだ眼差しが陽雨を映すなり宝物を見つけたように柔らかく緩む。

 似た眼差しを思い出して、陽雨の胸の罪悪感がいや増した。


「……溺愛、したかどうかは、分からないけど。……子想いの人、ではあった、と思う」


 冬野は成長した陽雨に会えてとても嬉しいと言ってくれた。

 それなのに、あのときの陽雨はその喜びに素直に応えることができなかった。

 酷い言葉ばかりを投げつけて、陽雨が傷ついた分だけ目の前の父親も傷ついてしまえと思っていた。


 後悔は先に立たない。今の陽雨にうってつけの言葉だ。

 月臣に泣きついたように、ごめんなさいを伝えることも、きっともう永遠にできないのだ。


「陽雨?」


 自己嫌悪に落ちてしまいそうな陽雨を掬い上げるように、月臣の声が意識の先を引き寄せる。

 顔を上げると月臣は不可解そうな顔をしていた。

 陽雨は「ああ……、」と情けなくはにかんだ。


「封じる前にね、冬野様が少しだけ正気を取り戻されたの。結界の浄化密度を最大にしたあとだったから、一時的に冬野様の霊魂が一部祓われただけだろうけど」


 月臣が鋭く目を瞠った。


「冬野が?」

「うん。会話もできたよ。また暴れ出す前に自分を封じてくれって」

「話したことはそれだけか」


 月臣の手が陽雨の両肩を掴む。

 切迫した顔で見つめられて、陽雨は伏せ目がちに自嘲の笑みを浮かべた。


「……あとは、くだらないこと。大丈夫、言霊には引きずられてないと思う。冬野様は一線を引いてそれ以上私には近づかないでくださっていたし、すぐに浄めの滝にも浸かったし」


 そうか、と呟く月臣はそれでもまだどこか表情を強張らせている。

 陽雨が彼岸に引き寄せられると、陽雨の中にいるという龍神まで影響が及びかねないからだろうか。

 いつも月臣は過保護で心配性だ。


 ……月臣に言うべきだろうか、と思う。

 陽雨が冬野に喚き立てた言葉の数々を秘めたまま、何食わぬ顔で冬野の振袖をこのまま身にまとうことは、何か消えない影を陽雨の心に残していきそうだった。

 けれど、月臣は陽雨にとても甘いから、陽雨の悔恨を聞いたら陽雨の味方をしてしまうかもしれない。

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日向雨の巫女 稲石いろ @iro_inaishi

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